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ひたむき  作者: ナトラ
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情熱 ⑨

 香純の問いに、林松はすぐさまこう答えた。


「そりゃ無理だ、既に治療の予定を組んだらしい、それだけ状態が良くないんだろう、最近は特にな」


「やはり深刻なようですね、お会いしている時には微塵も感じませんでしたが」


「それが凄いところなんだよ、まさにプロだ、俺ならそうはいかねえわ」

 

 林松はそう言って笑ったが、香純と増永は真剣な表情を崩さなかった。そこで香純がこう尋ねた。


「ところで増永さんは、梅川専務の秘書になられたのですか」


「ああ、正式に決まったよ、送迎も引き続きこうしてやってくれるから、本当に助かっているよ」


「いえいえ、おかげ様で今のところは何とか」


「そうですか、そこで一つだけお聞きしたいことがあるのですが」


「私が知っていることでしたら」


「話を聞いてどう思いますか」


 質問はないだろうと思っていた増永は、身体にぐっと力が入るのを一瞬覚えながらも次のように答えた。


「とても難しいお話なので、私が勝手に思ったことでもよろしいですか」


 そう尋ねると、香純と林松は互いに頷いた。それを見て増永は話を続けた。


「全てはご本人次第かと思います、本当にお考えになられたことを今、この瞬間に行おうとされているのかどうか、詳しく存じ上げないまま、こうして口にして申し訳ありません、しかし私はそう思います」


「なるほど、つまり統括としてではなく、美穂ちゃん個人としてどうなのかということですね」


「はい、しかしそう申し上げましても、私はそのような経験が全くありませんので、そう前置き致しました」


「ありがとうございます、林松さん、私も増永さんに賛成です、今や美穂ちゃんは統括という立場です、増永さんが仰るように、もし仮に個人として異なる意見があるとすれば、そこをさらに掘り下げてみるというのはいかがでしょうか」


 林松にはその言葉が強く胸に響いていた。きっとそれだろう。まさに腑に落ちたと改めて言う必要もない程、強烈に感じていた。そして視線を天井へ向け大きく一息つき、ゆっくりと噛み締めて答えた。


「だよなあ、やっぱりそこだな、あいつは俺や銀ちゃんよりも経験がないし、まだまだ日が浅いのは当然のことだ、そのことも考慮してやらんとなあ、よし、明日にでも聞いてみるわ、やれやれ、何だか喉元につっかえていたもんが、ぽろっととれたようだわ、二人ともあんがとよ」


 香純もまたこの時、増永を強く感心していた。例え自ら経験がなくても、現にこのように相手の立場になり考え、かつ想像しながら発言するというのは、とても一朝一夕に出来ることではない。そう思いながら増永の横顔を見ては何度か頷いた。増永は少し照れたのか、にこりと微笑みを返した後は静かにお茶を啜っていた。


 やがてトクが夕食を並べ始めると香純も席を立ち上がり、冷蔵庫から瓶ビールと冷えたコップを二つ取り出した。それを持ってくるとテーブルの上に置き、再び腰を下した。そしてちらりと見てみると、思いの外、林松は首を傾げてこう言った。


「せっかくだが、やっぱりやめとくわ」


「え、そうですか、ではお食事だけでも」


「そうだな、少し貰うわ、相変わらず旨そうだ、トクちゃん、あんがとよ」


「はあい、そう仰らずたくさん食べてくださいね、増永さんも」


「ありがとうございます、いただきます」


 そうして皆で夕食を済ませた後、一服のため林松と外へ出た。時刻は既に七時を回っており、腕時計を二度見て驚いた林松がこう言った。


「あれま、もうこんな時間か、そろそろ帰ってみるわ」


「今日は送っていただき、ありがとうございました、また再来週ですね」


 この時は既に一足早く車へ戻り、増永はエンジンをかけて外で待っていた。


「そうだな、次に来る頃には美穂の件も進んでいるだろうよ、じゃあな、ごちそうさん、真純とリン、またな」


 林松がそう声を掛けると、すぐに車の方へと歩き出した。それまで居間の隅で静かに遊んでいた二人は、その声を聞くと網戸に近づいてきて


「おいちゃん、また来てね」


「ばいばい」


と言い、それぞれ大きく手を振った。すると林松はすぐに振り向き、片手を挙げてながらにこりと微笑んだ。それから皆も見送るため、その後を追った。やがて林松が乗り込むと、車はゆっくりと動き始めた。梅川も運転席で軽くお辞儀して敷地を抜けた後、次第に加速しながら走り出す音が聞こえてきた。この時間もまだ少し蒸し暑さが残る中、香純たちは再び母屋に戻った。


 家の中へ最後に入った真純が網戸を閉め忘れたので、既に蛍光灯の周りには小さな虫たちが円を描くようにして何匹も飛び回っていた。それを見てトクは騒ぎ始め、すぐに閉めてと真純に伝えた。しかし真純は何もしようとはせず、ただ笑っていた。仕方なくトクが部屋から少しでも追い出そうと、うちわを片手に左右に扇ぎ始めたが、それでも次々と入ってくる。そのため再び声を強めてそう伝えると、真純は笑いながらもそっと窓を閉め寄せた。



 香純はそれを横目で見て、ここでようやく一息入れた。こうした何とはない光景が、今やとてもありがたく思える。こうした日常を過ごせることに、感謝の念が湧いてきて止まらなかった。ふと我に返ると、その頬には一滴の涙が自然に零れ落ちていた。これからやらなければならないことがある。それはまるで美穂の想いが直に伝わるようで、香純の心を強く揺さぶり始めていた。


 その晩、すぐに書斎のパソコンへ向かった。時刻は二十一時を過ぎ、寝る時間だが構わずひたすら文字を打ち込んでいた。かたかたと音を立て作業していると、その背中を不思議そうに見つめながら、トクが何かを感じ取ったのかこう言った。


「あれ、どうしたの、私はもう寝るよ」


「ああ、先に休んでて、俺はもう少しやってから寝る」


「明日も早いから、お先にね」


「ああ、おやすみ」


 香純はそう言ってからもしばらく続け、打ち込んだ文章を印刷するとじっと読み返した。とにかく今、動く必要がある。本社からの応援が期待できない中、美穂はきっと莫大なプレッシャーを日々感じていることだろう。それはかつて自分が経験した以上のもので、とても比較にならない程だと思っていた。そして優と連絡を取ろうかとも一瞬は思ったが、それよりもまずはこの手紙を送ることが先だと思い直して止めた。やがてそれらを読み終えた後、いくつか訂正して再び印刷した。そして二通を封筒の中にしまい込んだ。今、自分が出来ることは限られている。しかし、このまま何もしないでいるのは何かが違う。美穂は確かに、今は竹清が支えになっているだろう。自分にも何か出来ることがあるはずだ。俺も応援したい。胸の内で固くそう思いながら封をした後、寝室へ行って床に着いた。


 先に寝室へ向かったトクは不思議と寝付けず、香純が布団に潜るまでは静かに目を閉じていた。香純が部屋へ入ってきたので薄目を開け、それから結婚する前の姿を思い出していた。先程、書斎で見たあの表情は、まさに会社員の頃のようで何とも言えない緊張感が伝わってきた。ただしばらくして香純の寝息が聞こえ始めた。その音を聞いているうちに、いつしかトクも眠りについた。

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