情熱 ⑤
黒野辺の隣に座っている直中が、林松へ軽く頭を下げてこう言った。
「社長、先日は突然の訪問の上、私の説明が至らず申し訳ありませんでした」
そう言った後、額に噴き出した汗を何度もハンカチで拭っていた。
「暑いですか、冷房は入れてありますが」
その様子を見て、部屋の後方に控えた湖層が声を掛けた。
「いえ、大丈夫です」
「俺もちょうど良いが、黒野辺さんはどうですか」
「ちょっと暑いな、体が大きいもんで」
「では、少し温度を下げますね」
「して、こちらの方は」
「申し送れました、副社長の湖層里香と申します、よろしくお願いします」
「これはこれは、お若い副社長さんですな、こちらこそよろしく」
その後、互いに名刺交換を済ませて席に着いた。すると隣の林松がこう言った。
「いや、あなたの説明は特には問題なかったですよ、ただね、もし加盟しなければ、これからの業績に関わるかもしれないと言ったことには多少引っかかりましたけど、今は何とも思ってませんから」
「本当に申し訳ありませんでした」
「それよりもですね、うちの社員や店舗の方もそうですが、あれからはそちらへの加盟を希望しているところがありましてね、私共も突然のことなので、その対応で今も忙しいんですよ、そこで黒野辺さん、改めてご用件をお尋ねします」
「そうですか、直中が言ったこともそうですが、私からも一つお伝えしておきたいことがありましてね」
「何でしょうか」
「ANO社は御存じですか」
「もちろんです、私たちが前にいた会社ですからね」
「ええ、実はその会社代表とは付き合いがありましてね、今では多く支援してくれているんですよ」
「そうですか」
「で、確か林松社長はANO社をお辞めになり、その後にこちらを立ち上げたと聞きましたが」
「ええ、現在は姉の会社と合併した後ですので、その前のOKAMIを立ち上げた時のことですね」
「何でも多くの方に慕われていたようで、ANO社から多くの社員が協力のために退職したとか」
「それは確かに、当時は慕ってくれた人が多数でした、しかし私の失敗が原因で、その後に大半は辞めていきました」
「なるほど、では残った人たちが幹部というわけですね」
「いや全員ではありませんが、残ってくれた皆は、今も頑張ってくれてますよ」
林松は立ち上げ当初から、いつかこうなるという予感があった。ANO社を離れた後、多くが半年以内に辞めたのは知っているが引き抜いたわけではなかった。しかし多くの人が来てくれた一方で、そうして離れたことも事実だと受け止めていた。当時からそう思っていたが、まさかこの場面でそうなるとはと、林松は少し首をかしげながら話を聞いていた。すると、黒野辺が続けてこう言った。
「そこで林松社長、ANO社の代表がこう言っているんですよ、昔、うちの社員教育係だった人が、今では会社代表となっているらしい、是非とも協力を頼んでみたらどうかと」
それを聞いたとたん、林松は大笑いし始めた。他の人は皆、ぽかんと口を開けてその様子を見ていた。そして一頻り笑い、その後にこう述べた。
「全く面白いですねえ、まさか私が在籍していた会社が、そうですか、それは光栄なことです」
「面白いですかねえ、林松さん、そこで今日こちらへ来た目的はその一点です、どうですか、協力していただけますか」
「光栄なお話ですが申し訳ありません、お断りします」
「そうですか」
黒野辺は額の汗を同じように拭いそう言った。そして隣に小声で何かを指示し、直中は部屋を失礼と言い出て行った後にこう続けた。
「いやね、もしご協力が得られたら、これからANO社から担当を呼ぶ手はずをしていたものですからね、今、その必要はないと伝えたところですよ」
「申し訳ありませんね、既に私たちは決めていますので」
「それでいいんですね、偉そうにいう訳ではありませんが、我々を甘く見ない方がよろしいかと思いますよ」
「それでも致し方ありませんね、私たちは自分達で望む道をこれからも決めて行きたいので」
「わかりました、では、そろそろ帰ります」
「そうですか、お送りします」
すぐ戻ってきた直中へ首を振り、黒野辺はゆっくりと腰を上げた。そして迎えにきた警備が見守る中、出口へ着けた車の中に乗り込んだ。直中がドアを閉め、こちらへ向かい頭を深く下げた後は助手席に座った。
走り去る高級車の背を見ながら林松と湖層、それから他の数名の社員が大きく手を振った。車からは何も反応がないまま、やがて敷地を抜けて行った。
湖層の顔をいつになく綻び、その瞳にはうっすらと涙が溜まっていた。表情を見た林松がこう言った。
「何だい、里香ちゃん、泣いているのかい」
すると湖層はとたんに笑みを浮かべ、
「ありがとうございます、社長、これからもよろしくお願いします」
深々と丁寧にお辞儀してそう言った。林松は満足そうに片手を挙げ、自室へと戻って行った。その背中の広さはこれまでに感じたことがない程強く見え、そしてまたさらに大きく見えた。この局面において相手に全く怯むことなくそう主張した林松の凄さを、湖層はただただ見つめずにはいられなかった。
いずれこうなる時もあるだろうと、林松は常々そう思ってきた。そのため今さらどうにか出来ることもなく、それと同時に覚悟もしていた。どうやらこれで本格的に始まるようだ。しかし自分たちには既に多くの仲間がいる。何より大事なのは、自分が楽しいと思える仕事じゃなければつまらない。それは当時、美穂がそう言っていた言葉を今、深く思い出していた。それを貫き通すことで、きっと多くの事態が起きるだろう。しかしそれも既に承知の上でのこと。これから進む道は本当に新たな一歩となる。昔、感じた情熱を思い起こしながら、さらに高みを目指して突き進むのみ。そう胸の内で強く感じながら、自室前のドアを大きく開け放った。
自室へ戻ると、テーブルの上には残した弁当が置いてあった。それを豪快に食べ始め、やがて完食した。しかしまだ物足りなかったので、事務所へ連絡するとまだ余っているという。すぐ取りに行くと伝え、階下へ降りた。そして事務所の中に入ると、姿を見た数名の社員が歓声を上げて拍手で迎えた。林松は照れながら社員から弁当を受け取り、その後は再び片手を挙げて応えながらエレベーターで自室へと戻った。




