それから ③
「自力で行く方法はこれしかないな」ある程度考えがついた香純は、ここで大きく一息いてから「確かにお義父さんの言う通り、甘えてました」と認めた後、それまで預かったキーを片手で握りしめたまま、それを善市の方へと差し出した。それまで黙って様子を見ていた善市は「何、別に遠慮せんでも良いんだぞ」と言って受け取らなかったが、香純は続けて「これではお義父さんにも甘えることになりますから」そう言ってさらに胸元へと近づけた。すると善市は苦笑いをしながらそれを片手でひょいと受け取ると、その場でくるりと背を向けて「トイレ貸してくれ」と言って歩き出した。向かっている途中「トクー、やっぱりタクシーは断ってくれ」と大きな声を上げ、その直後に扉がばたんと閉まった。「え、でもたった今お母さんが頼んだばかりでしょ」トクはすぐにそう尋ねたものの返事がないので、一人ぶつぶつと文句を言っていた。すると隣で見ていたフクが、ぱんぱんと二度手を打ち鳴らし「はいはい、わかりました、電話しておきますね」と言いながら携帯を取り出し、それからボタンを押して耳元に当てた。
「先程お願いした前咲です、予定が変わりキャンセルしたいのですが」少しの沈黙の後「そうでしたか、すみませんがまた今度お願いします、どうかよろしくお伝えください」と言って連絡を済ませた。その後「松園さんが来てくれる予定だったみたい、今度もし行き会ったら一言謝っておいてくれる」それにトクは「わかった」と素直に返事をしたが後ろから妙に視線を感じ、ここでふと振り返った。すると香純が両手をしっかり合わせたまま、深々と頭を下げていた。仕方ないなと思いつつもトクはテラスへ行き、自分で作ったおにぎりが並ぶ皿を持ち再び席に戻った。そこから一つ取り出してそれを二、三度頬張った後に「良かったらこれ食べて」と母に促したものの、フクは「帰ってから食べるから大丈夫よ」と言って断った。
そこへリンがやってきて「ばあちゃん、ばあちゃん」と呼び、フクが着ている水色シャツの裾をその小さな手で引っ張っていた。そうしているリンの顔にフクが近寄り「なんだいリンちゃん、どうしたの」と優しく声を掛けるとリンはその顔をじっと見て、一言「だっこ」と言った。それを聞いたフクは嬉しそうに「はいはい」と言って立ち上がり、「よっこいしょ」という掛け声と同時に小さなその体を両手で抱え上げた。それから「あらあ、また大きくなったねえ」そうして腕の中を覗き込んで言うとリンは「きゃっきゃっ」と声を出して笑っていた。そこへ兄の真純も足元に来て「ばあちゃん、これ」と言いながらグローブを見せに来た。「あら、良いわねえ」「おいちゃんが買ってくれたんだ。良いでしょ、これ」と言って自身の左手にさっと通した。「とっても良い、似合っているわ」フクの感想に、真純は少し照れつつもにんまりと微笑んだ。
「お迎えに上がりました」その声が外から聞こえてきたその瞬間、トクはすぐはっとして咀嚼を止めた。「そうよお迎えに来てくれてたんだ、こうやってお昼を食べている場合じゃない、すっかり忘れてた」そう言うと一人、ばたばたと慌て始めた。するとフクが「ほらね、そうやって忘れちゃうのよ」と言って笑い、ただ自分も片づけを手伝おうかしらとリンを静かに床へ降ろしていた。そこへ香純が来て「俺が迎えてくるからゆっくり食べてな」と言い、そのまま玄関から外に出て行った。そして待っていた増永に手を上げて再会し、まずは来てくれたことの礼を伝えた後に「今日は俺が運転していくから中に入って少し休んで、ところで昼飯は食べたかい」と尋ねた。
そんな事は全く予想していなかった増永は、ただ驚き「なんですって、昼食は軽く済ませましたが」続けて「予定より早く着いてしまいましたのですみませんが、予定時間までこちらにいてもよろしいでしょうか」と待機したい旨を申し訳なさそうに伝えた。すると香純は「今日は遠いところに迎えに来てくれてありがとう」と再び礼を言った後、それから増永の肩に自身の右手を回しながら「さあ、中に入ろう」と促した。増永は言われるがまま後に続き、そして玄関先で出迎えたトクと会った後、両親とも挨拶をした。すると善市が「帰るぞ」と言うので、その見送りために全員が外に出た。両親が車に静かに乗り込むと助手席の窓が開き「ばいばい、またね」などと互いに交わすと、パアンと大きなクラクションが一回だけ辺りに鳴り響いた。車は門をくぐり抜け、通りに出ると颯爽と走り出した。その音が遠ざかりつつも、かすかに聞こえてきた。
それから急いで片付けを済ませ、準備と戸締りを終えた香純達は増永が乗ってきた車に皆で乗り込んだ。「本当にすみません、早く来てしまって」そうして増永が改めて謝罪すると香純は「遅れるよりよっぽど良いよ、ありがとうね」と言って労った。促されるまま助手席に座った増永だったが「しかしこれで本当に良いのですか」と、ここで念を押してきたので「全然良いんだよ、車を貸してくれるだけで十分さ、そうだあれをつけないとな」と伝えると香純は車をワゴン車の隣へと移動し、中からチャイルドシートを取り外して後部座席に付け、そこにリンが座った。トランクの中は土産の野菜などが入った段ボール箱や荷物を積み込み、こうしてようやく林松邸へ向かう準備が全て整った。再び運転席に座った香純は、そこで後ろを振り返り「トク、ホテルに着いたら先に行ってきちゃうと良いよ」と言うと、トクは笑顔で「うん、ありがとう」とそれに答えた。そうした二人のやり取りを黙って聞いていた増永は、ここで不思議に思いながら「いったいどちらへ行かれるのですか」と尋ねてみた。するとトクは「久しぶりに髪を短くしたくて美容院を予約したんです、伸びちゃったから毎日大変で」と言って、肩まである髪を触りつつも眼を輝かせた。
「さあて行くか、高速道路で行けば二時間ちょいだな」再び運転席に戻った香純は、カーナビの到着予定時刻を見てそう言ったが、ここで増永が「でも、かなり道路は空いてたので実際はもっと早く着けるかもしれませんよ」と言い、自分もナビ通りに来たが随分と早く着いてしまったことを言いたいようだった。それなので香純は「それだったら、他に寄りたいところがあるから大丈夫」と伝え、それからアクセルを軽く踏むと車は静かにゆっくりと動き始めた。自宅の門を抜け、大きな通りに出た後は少しだけ加速してしばらく車を走らせた。すると後部座席にいるトクが「うちのワゴン車とは乗り心地がまるで違うのね」と呟いたので、香純が「静かだろ」と尋ねると「まるでタクシーに乗っているみたい」トクはそう言って外の景色を眺めていた。そこまで黙って聞いていた増永は「先ほどのご両親のお車、この車よりも良いかもしれません」と思わず口にした。それで香純は軽く首をかしげて「それはどうだろうな、実はあの車、昨日納車したばかりだから俺達もよく知らないんだ」と言った後に続けて「まあどちらにせよ、今の俺達には全く手が出ないのは確かだな」と言って笑った。トクはもうそれ以上のことは何も言わず、何やら子ども達と話し始めた。
やがて高速道路に入り途中のパーキングエリアで休憩した後も、車は順調に走り続けた。この五年間というのは家族旅行なんぞとは無縁の日々だった。香純はそれまでの日々を思い出しながら、それと同時にハンドルを持つ手に自然と力が入っていた。それは後ろから眺めていたトクにもそれが良く伝わった。「ありがとう、香純」その背中にそっと呼びかけた。