それから ②
増永が迎えに来る予定の朝、香純達は翌日までの作業を一通り終えて早めの昼食をとっていた。するとそこへ一台の黒い高級車が敷地に入ってくるのが見えたので、二人は顔を見合わせながらもうそんな時間になったのか、確か昼過ぎだったはずだが随分早いなと壁掛け時計に目をやると、まだ午前十一時を少し過ぎた辺りだった。もしかしたら増永が来たのではないかもしれないと思いつつ、軒先のベンチからいったい誰が降りてくるのだろうかと様子を伺っていた。しかし車から降りてきた姿を見れば、すぐに誰が来たのか分かった。
「よお、元気かい」トクの父である善市がその場ですぐにそう声を上げると、助手席からは母のフクがゆっくりと降りてきて胸元で手を小刻みに振っていた。それまでおにぎりを口一杯に入れていた真純は、祖父母の姿を見るやいなや「もじいともばあが来た」などと言って大はしゃぎで、その場からすぐさま立ち上がると勢い良く駆け出した。リンは一瞬だけその姿を見ると首を傾げ、それから自身の口周りについた米粒を両手で取ってそれらを口の中へ都度運んでいた。「ところでお義父さん、車買ったのかい」「何も聞いてないけど」香純の質問にトクはそう返事をしたが、天井を見上げて少し考えた後「でも買ったのかもね」と言ってお茶を一口啜った。その後香純達も出迎えるため、一旦食事を止めて玄関前に並んだ。真純の頭を軽く撫でながら歩いてきた両親に挨拶をし、それから香純は早速そのことについて義父へ尋ねてみた。すると善市は嬉しそうに「そうなんだよ、昨日納車したばかりなんだ。本当は昨日見せに来るつもりだったんだが」と興奮気味に言いってすぐにその続きを話そうとしたが、すかさず義母のフクが「今日は連絡もしないで突然に来てしまってごめんなさいね」と言って二人に対し深々と頭を下げた。善市は何かを言いたそうだったが、香純はそんな義母の様子の方に驚いて咄嗟に「いやいや、全然大丈夫ですから止めてくださいよ」と伝えた後、それから二人を囲炉裏のある座敷へと案内した。
「ねえ、それだけなの」事前に連絡がなかったのは、もしかしたら他に用事があるのではないか。そうトクはお茶を入れた湯呑を母に手渡しながら尋ねてみた。しかしそれを受け取ったフクは「それだけってそれだけよ。昨日の夕方に車が届いたらお父さん、これからトク達に見せに行くぞと言うもんだから明日にしなさいと言ったのよ」と言ってお茶を一口啜り、続けて「その時すぐに電話すれば良かったんだけどね。私は夕飯の支度をしてたから、それでいつの間にかすっかり忘れてそのまま寝ちゃったのよ。そして今朝、お父さんに電話したのかと聞かれて思い出してその時に電話しようと思ったんだけど、また朝食の準備している内にまた忘れちゃったの。なんだか面倒になって、そのまま来ちゃったの。ごめんね」そう言って再び申し訳なさそうにしていた。トクはそれを聞いて「ふうん」と言うと、善市の方へとゆっくり振り返った。そこにはいつになく上機嫌で話している父の姿があり、香純もそれを感じているようにも見えた。「歳をとって少し忘れっぽくなったのかな」それを声に出さないものの、心の内で母のことが少し気になった。しかしあまり深く考えないようにしようと考えていると、その傍から香純の声が室内に響いてきた。「それにしても良い車ですね」善市は得意そうに購入までの経緯を話し始めた。
二人で真剣に話をしていると、昼食を食べ終えた真純とリンが「じい、じい」と言いながら二人の元へと近寄ってきた。善市はそこで話を一旦止め、そして嬉しそうに「おお、二人とも」と言って小さな二人の肩を軽く抱きしめた。その様子を見ていたフクが「何だか忘れちゃったのよ」そう再びトクの耳元に近寄って呟いたので、トクは「大丈夫よ」と言いながら軽く微笑んだ後、続けて「それは良いんだけど今日はこれから出かけるのよ」「どこへ行くの」「林松さんのところ」それを耳にした善市も「そうなのか」と香純に尋ねた。「ええ、まもなく迎えが来る予定でして」香純が答えると、「それじゃ、帰るか」善市がフクに言ったちょうどその時、また一台の車が敷地に入ってきた。
「おう、あれか」その音を聞いた善市は席を立ち上がり、窓辺に向かった後にその姿をじっと見ながら「あれも良い車なんだよな」と言って振り返り、近くにいた香純の胸元に向かって持っていた車のキーを軽く投げ渡した。香純は咄嗟のことで驚いたが何とかそれを受け取ったものの意味が分からず、ただ一言だけ「え」と声に出して戸惑った。その後「あの外に出てきた人が迎えに来てくれた人だろう」善市の問いに香純は「そうです」と答えた。「だったら逆にこの車で彼を送ってやると良いわ」と言って頷きながら善市は自身の両腕を組んだ。全く腑に落ちていない香純は再び「え」と尋ねると、「それが香純君の本意なのかい」と今度は静かに一言だけ言った。
義父が言うことには確かに思い当たる節もあり、香純はここで再びそれを思い返すことになった。「そうだった。俺はもうサラリーマンではないんだ」そう思うには十分だった。当初は自力で行くからと断ったものの、結果として林松に甘えることになった。最初に電車で行くと決めた意見こそ自身の本音だったと気づいた。同時に林松の好意を無下に断ることに対して躊躇いがあり、増永へ自ら送迎を依頼すること決めたわけだったが、しかしそれもサラリーマン時代なら良いのかもしれないが、今や自営農家で確かに自身の本音を貫くためだけの転職ではなかったし、自分は既にサラリーマンではないということは明白な事実なのである。本音に従って生きると決めた以上、今回義父からそうした問いがあったことは、改めてより全てを再確認することが出来る問いだった。
その様子を何となく察した善市は「だから逆に送ってやるんだよ」再度そう言った後、続けて「トク、済まないがタクシーを呼んでくれ」と依頼した。するとフクが「いいわよ、それなら私が電話するから」と、紫色の小さな手提げバッグの中から携帯電話を取り出して早速連絡をし始めた。その後「あと三十分だって」会話を終えたフクからそう聞いた善市は落ち着いた様子で、香純達に対し「それでも構わんか」と一言だけ尋ねた。香純は「ええ、それは大丈夫ですが」と答えたものの、自身の胸の内はまだ今もどこかすっきりしていなかった。「自分で林松邸に行きたい。しかし既に迎えは来てくれているが、どうすれば良いのだろうか」