第四章 開拓 ①
林松邸へ向かう日の朝も、香純はいつもと同じように畑を眺めていた。直播した所は既にちらほらと芽が出始め、また周囲にも少しずつ緑色が増えてきた。ようやく冬を越したと思いつつ、その後も残りの作業を続けた。やがて一区切りついたのでシャワーを浴び、その後には出かける準備を始めた。トクも子どもたちの用意をしているようだ。今日はまずトクの実家へ三人を送り、それから林松邸へと思っていた。そしていざ家を出発しようかという直前となり、トクが「今日はお父さんが迎えに来てくれるから」急にそう言い出した。香純はさすがに憤り「それ、いつ決まったの」と尋ねて話が続く。「今朝よ、お母さん、最近忘れっぽいから覚えてるかなと思って電話しておいたの」「で、どうだった」「覚えてたわ、お父さんがお昼前には迎えに来てくれるって」
これから出掛けるのに口喧嘩なんぞしたくない。香純はそう思い「それ、決まった時点ですぐ教えてよ、俺はまず三人を実家へ送ろうと思ってたんだよ」と伝え、やや声を強めながらもぐっと堪えた。その様子を一瞬ちらりと見たトクが「ごめん、何か最近なんかうまく噛み合わないね」と呟いた。これは時間がかかりそうだと改めて思い、一息ついてから「まあいいよ、じゃあ行って来るから、真純、お母さんとリンを頼んだぞ」と伝えた。その声に真純は無言で右手の親指を挙げたものの笑みはなく、またリンもトクの両足の後ろからただじっと様子を窺うのみだった。香純が手を振ると、二人はその手を静かに少し左右に揺らした。車に乗りエンジンを掛けると、三人はその場を少し離れた。香純が車を少し前へ動かした後に窓を開け「ご両親によろしく」と言ったが、トクは何も答えず一度だけ頷いた。それをちらりと横目で見て、香純はアクセルペダルをぐっと踏み込み加速した。
一頃は以心伝心のように互いを心地良く感じていた。しかしあの日以降、そうした微妙な変化が今日はもろに現れることになった。子どもたちにこれまでは幸いにも伝わってなかったようだが、ただ先程の表情からすれば既に何となく感じ取っただろう。しかしまあ俺にもそんな時はあるさ。そう思いながら「今日は電車で良かったな」と一人愚痴を溢しつつ、その後も走り続けた。
今日は時間にゆとりがある。そのため高速道路は利用せず、一般道で向かうことにした。途中にあるドライブインに立ち寄り、食事を済ませて外に出た。そこへちょうど、一台の大型トラックが駐車場の中に入ってきた。こうして近くで見るのは随分と久しぶりで、その車体の大きさをまじまじと眺めて歩いた。そしていざ車に乗り込もうとドアを開け、右手でハンドルを握りながら左足を車内に入れた時、後ろから「あのう」と声が聞こえてきた。席に着いて振り返ってみると、自分と同年代に見える作業着姿の男性が一人立っていた。「はい、何でしょうか」すぐにそう答えた。すると男が「ここで食事されたんですか」と尋ねたので「ええ」と答えて軽く頷くと、さらに「どうでした、お味は」と聞いてきた。
いったい何の話だろうかと思い話を聞いてみたところ、最近ドライバーに転職したばかりで初めてこの土地へやって来たという。そしてようやく車を停められる場所を見つけたものの初めての店なので、誰かに事前に尋ねてみようと思い声を掛けたとわかった。そのことを知った香純は「とてもおいしかったですよ、私は野菜炒め定食を頼みました、なかなか味付けも良くて、これならご飯大盛でもいけたなと思いながら、さっき店を出たところですよ」と聞かれてないことも付け加え、そう答えて微笑んだ。するとその男性はふと安堵の表情を浮かべ、その後に一言礼を言うとすぐ後ろを振り向いた。慣れなくて大変だろうと思いながら、香純はその背中に向かって一言「頑張ってください」と声を掛けた。すると男は振り向いて、人懐っこそうな笑顔で軽く頭を下げた。こうした出会いは一般道ならではなので、やはり今日は正解だったなと思いつつ敷地を抜け、再び車を走らせた。
それから二時間程走り、ようやく林松邸がある隣の市に入った。ちょうどその時に携帯電話が鳴り、香純は車を一旦停めて耳元に当てた。
「俺だ、今どこだ」その声ですぐ林松からと分かったので、香純は「今、隣の市に入ったところです」と伝えた。「何だい、高速に乗らなかったのか」ここは高速道では通らないのでそう聞いたのだなと思い、先程の理由を伝えて話は続く。「何だい、そうだったのか、そりゃお疲れさんだな、それで悪いんだが、これから元OIDEYASUにちょっと来てくれんか」「え、あ、はい、大丈夫ですけど、何かあったのですか」「何でもないんだ、ただお前なら詳しいだろうと思ってよ、まあこっち来たら詳しく話すわ、後三十分くらいだよな」「そうですね、それくらいです」「じゃ、頼むぞ」
林松からの急な連絡は慣れているが、どこか懐かしい。香純はそう思い出し、少し笑ってその後も走らせた。やがて無事到着して駐車場に車を停めた。それから建物に入り、左手にある事務所の窓口へ声を掛けようと近づいたところ、背後から「香純さん」と男性が呼んでいる。聞いたことがある声だと思いながら振り返ると、増永がこちらへ頭を深く下げていた。「増永さん、久しぶりですね」「お久しぶりです、長時間の運転だったそうでお疲れ様でした、社長から聞いてますので、さ、どうぞこちらへ」香純はその増永の案内でエレベーターに乗り、その後社長室に入った。
「おお、よく来てくれた、悪かったなあ、急で」「慣れてますので問題ありませんよ」「わはは、すまんな、じゃ、ちょっとそこへ座ってくれ」
林松はそう言って香純を出迎えた後、増永に誰かを呼ぶようにと指示した。「ところで何かあるのですか」香純がそう尋ねると林松も自席から移動し、向かいのソファーに座ってこう言った。
「あの話だよ、あの話」「はあ、あ、例の趣味ですか」「そうそう、仕事中だからあんまり大きな声じゃ言えねえけど、でもまあ全く関係なくはないから別に良いんだけどな、それでよ、土地を拡げるために大きいものは重機でやるとしても、井戸とか水田、あと畑とかは手続きが必要らしくてな、お前はそういうの詳しいだろうと思ったんで、だから呼んだんだ」「そういう話は総重建設に詳しい方がいらっしゃるでしょう」「もちろんいるさ、でもさっき言っただろ、趣味ってのが知れるとちょっと面倒なんだよ、な、頼むよ」なるほどそういうことかと腑に落ちた。「では、私が知っている範囲でよろしければ」「ああ、構わねえよ」
それからすぐに不動産会社の担当がやってきた。互いに挨拶を交わした後、それから三人で小一時間かけて話し合った。その終了後、林松は満足そうに「やっぱりお前に来てもらって良かったよ、あんがとさん」と言って見るからに上機嫌だった。時刻は夕方となり林松は仕事を切り上げ、香純を連れて近くの店へ二人して歩いて行った。店の中へ入り席に着くと、林松が同時に飲み物を注文しようとしていたところ「いや、私は今晩いただきますよ」と言って香純は断りを入れた。しかしいつもの展開となったので、少しだけ飲むことにした。「荷物もありますし」「車は会社へ置いて、荷物はタクシーに乗せれば良い」「はあ」「さ、今日はしっかり飲むんだぞ、がはは」香純は苦笑いを浮かべながらも、そう言って笑う林松と久しぶりに乾杯した。




