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ひたむき  作者: ナトラ
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それから ①

 退職する前に和香の紹介でとある一件の農家と知り合いになった香純は、そこで見習いとして働きたいと伝えた。その農家は和香の実家と古くからの付き合いがある南方みなみかたという農園で、そこの主人は香純と同世代だった。主人は初めこそ少し渋った様子だったが、話をしているうちに香純の農業に対する意気込みを感じて採用が決まった。それから栽培方法や農機具の扱い方などを少しづつ二年かけて学び、ようやく自宅の畑で実践するようになり早三年が経つ。毎日やることは本当にたくさんあるが、おいしいの一言を励みにここまで何とかやってきた。風呂場で日焼けした肌をタオルで擦る自身の姿を鏡に見ると一人にんまりとした。それからばしゃんと音を立てて湯船の中に入った。


「リンは風呂前に寝ちまったか。まあいいや、昼間に水浴びたからな」などと考えながら一汗掻いた後に風呂を出て全身をバスタオルで拭き、それを腰に巻きつけながら台所へと向かった。そして冷蔵庫の中から冷えた缶ビールを一本取り出し、蓋を開けるとすぐに口に当てた。そしてぐびぐびと喉を鳴らしながらそのほとんどを一息で飲み、「ぷはあ、やっぱりこれだな風呂の後は」嬉しそうに小声で呟いた。さてつまみはあるかなと思いながら、上機嫌で再び冷蔵庫の中を覗き込んでいると「お探し物は何ですか」と右横から声が聴こえた。その姿勢のまま目線だけゆっくりとその方へやると、いつの間にか入り口の柱に寄りかかっていたトクが何やら嬉しそうな香純の様子を横目で眺めていた。香純はまだ奥の座敷にいるのだろうと思っていたので、何だか軽く不意を突かれたように思いながらも「何だ、いたのか」一言ぼさっと言った。それを聞いたトクは「何だとは何だよ」とすぐに言い返して自身の両頬を大きくぷくりと膨らませたが、その後はすぐに和やかな表情を浮かべ「良かったわ本当に。皆、おいしいと言って食べてくれて」としみじみ言い、その大きな瞳が香純にはとても綺麗に揺らいで見えた。そして次第に自身の胸にじわじわと響き伝わった。


「ああ、ここまで色々あったけどようやくだな」そう答えるとさらに熱くなってくるのを感じ、香純は当時のことを思い出していた。こうして子が生まれて家族が増えるのは嬉しいことだが、それと同時に大きな責任が増す。これから本当にやっていけるのだろうかと心配して、トクと何度か言い合ったこともある。ただ今思えば、まずは何でも経験してみないとわからないことだと知ったし、今はそれらを一つ一つこうして一緒に乗り越えてきたという充実感が次第に込み上げてきていた。懐かしそうに香純が思い当たることをトクに尋ねた。「あれは年間資金が減ると決まった時、一番揉めたかな」トクはそれを聞くとふうと一呼吸ついて「それもそうだったけど、あれもよ」と答えた。「何だあれって」「幼稚園の話」トクがそう答えた瞬間二人はいよいよ堪えられなくなり、ほぼ同時にお互いに吹き出した。


 それからしばらく周囲に響き渡る程の声で二人で笑い、それが少しだけ落ち着いてから「でも、行かせなくて良かったろ」と香純が言い、トクは「ううん」と少しだけ考えてから「そうね」と答えた。しかし「でも、最初は本当に行かせたかったんだよ」と口にした。そしてその後も二人の会話は続き「それはもちろん知ってたさ。真純本人が行きたいって言うなら俺も当然賛成したけど、でも本人が行きたくないって言うのに無理矢理連れて行く訳にもいかないだろう」「うん確かにね、今思えばだけど」「そうだろう」香純自身も幼い頃は、幼稚園に行きたくないと思っていた。しかし両親に言われて仕方なく通った記憶がある。そして物心を突いた頃、もし将来自分が結婚して子が生まれたら無理強いだけはさせたくないとその時既に決めていたので、それがトクと口論になった理由の一つだった。


 そうして最終的にはトクがしぶしぶそれに同意して収まったが、それでもまだ納得が行かなかったので母フクのところへ行き、事情を説明した。母は一瞬だけ驚いたが「香純さんがそう言っているのは、真純の考えを尊重したいってことでしょう。それでそう言っているのにそれでも無理に入園させたいのかい」フクは真剣にそう言い、香純の考えに対して理解を示した。その話を聞いたトクは、確かに嫌がることを無理強いするようなことをしたくないなとこの時から密かに思い始めていた。そしてその夜、昼間不在だった父親の善市がフクからその話を聞くとすぐに電話をしてきて「もう一度だけ、香純君と話をしてみたらどうだい」と言った。しかしトクはもう大丈夫だからと言い、そして一言だけ「ありがとう、お父さん」と礼を伝えるとすぐに電話を切ってこの話は全て終わった。自分の両親に相談したのはこの一回きりなので、トクは今でもそれを鮮明に覚えている。


 そのような事が脳裏に浮かぶ中、二人はその後も話は続けた。「来年は小学校か、早いな」「そうね、もちろん学校には行かせるんでしょ」香純はしばらく間を置いてから「それも本人が行きたいと言うなら、だな」「え、ちょっと本当に言っているの」「ああ、冗談じゃ言わないよ」「ちょっと待ってよ、学校は誰でも行くに決まっているでしょ」「それはどうかな」「何言ってるの、もう酔っ払い」トクはそう言うと呆れ顔でくるりと背を向け、その場から奥の方に向かい早足で歩き出すと、ぱたんぱたんとスリッパが床を打って音を立てた。やがてトクの姿が見えなくなると香純は「そんなの誰が決めたんだ、決めるのは本人と親だ」とここでさらに意気込み、一度大きく「うん」と言い深く頷いた。そして次のビールを一本取り出すと先程と同じようにそれをぐいと流し込み、それから今朝収穫した水菜を流しで洗い始めた。それをまな板の上に置いて食べやすいように切り皿に載せ、そこにトクが洗ったミニトマトも添えた。そこへさらに大根の葉も隣にあったので、何枚かちぎって洗ってそこへ盛り付けた。「まあ、十分幸せだ」そう言って台所で食べ始めた。


 そうして続きの酒を楽しんでいると体が丁度良く冷えてきた。香純は再び浴室へと戻り着替えをし、ついでにトイレで用を済ませた。すると良い感じに酔いが回ったので洗面所で歯を磨き、それから皆がいる座敷へ辿り着いた。襖をさっと横に開け、目の前に敷いてある布団の上へばたりと倒れ込んだ。入り口から少し離れた右側の壁側にリンのベッドがあり、その脇でうとうとしていたトクはその音で一瞬目を開けた。香純の姿を見てからゆっくりと上体を起こし、ゆらゆらと立ち上がると自身がそれまで使っていたタオルケットをそっと後ろから背に掛けた。そしてふうと一息つき「真純が学校に行かないって言ったら、香純はそれでも良いって言うだろうね。でもきっと行くって言うでしょ、きっとね」よく似た二人の寝顔を見ながらトクはそう言い、大きな欠伸を一つしてから風呂場へと向かって行った。

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