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ひたむき  作者: ナトラ
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道 ⑥

 ピアノの伴奏に合わせ郷大が歌い始めると、周囲も聞いているうちに自然と口ずさんだ。「それでは皆さんご一緒に」一通り歌い終えた郷大がマイクでそう促したので、皆もその場を立ち上がり歌い始めた。森上は時々目元を抑えながら一緒に口ずさんだが、林松は静かにグラスを傾けて耳を澄ませていた。二周したところで郷大がさっと手を挙げると、伴奏が曲を締めくくった。その直後に盛大な歓声と拍手がフロアに鳴り響き、店員たちも笑顔で手を打っていた。


「凄いじゃない、何、郷大さんが作曲したの」「ええ、ギターで作ったんですが、今日はプロのピアニストにお願いしました」「ところでこのナトラという方は」「作者もぜひにということで」「そうなのね、しかし面白い歌詞ね、なかなか良かったわ、私、思い出して泣いちゃったじゃない、皆、どうもありがとう」評判は上々でその後は皆で乾杯し、本格的に二次会が始まった。


 林松は香純を近くへ呼び、明日の打ち合わせをしていた。そこへ湖層が来て「これ、ありがとう」と言い、例のノートを入れた紙袋を香純に手渡した。「お役に立ちましたか」「もちろん、本当に助かったわ、ありがとう」香純はそれを受け取ると、大事にバッグの奥に入れた。「ところで香純くん」「はい、何でしょう」「来年の結婚式、必ず来てよね」「ああ、やっぱりそうなんですね、おめでとうございます、必ず行きます」「なに、そのやっぱりって」「あ、いや、何でもないんです、そうなんだなって、ははは」「まあ、いいわ」そこに郷大も話に加わった。「実は俺達もなんですよ」「副社長と梅川、そして俺と和香ちゃん、後は美穂ちゃんと優かな」「あいつらはまだ早いよ」その話を聞いていた林松がそう言い、森上と互いの顔を覗かせた。「もし二人が結婚したら、俺達親戚同士になるんだな」「確かにそうですね、でもまあそれはそれで面白そうですね」


香純は先程行った酒と共に生きるという店ついて、早速郷大へ尋ねてみた。


「実はそれ企業秘密ということでして」そう言ったものの、本人からの問いなので郷大は一瞬考えてから口を開いた。その話によると、香純が生産した野菜が本当に通用するものなのかを実際に確かめるため、周囲には敢えてそれを告知しないことにしたという。そしてそれを勧めたのは湖層だと知った。「しかし湖層さん、一言でも私に教えてくれたら良かったのに」その問いにもっともだと思いながら、郷大は「その方が良いと副社長が仰るので」とだけ伝えた。香純は一瞬、ふと肩の力を抜いて「そうですか、でも私としては突然知るより、その方が良かったかもしれません」と伝え、二人のやり取りは続く。「でもインパクトが全く違いますよ」「確かにそうでしょうね、でも」「いや、とにかくインパクトですよ」「そうでしょうか」「そうですよ、まだ誰も見知らぬ農家さんを皆がどう評価するのかを、副社長はしっかりと見たかった、だからそれなんです」「はあ」


その後の話によると宣伝に左右するのでは大した意味がないので、野菜本来の味や質を知っている常連がいる店舗でこれらを実際に使ってみないことには、その評価を下せないということだった。香純は湖層がそこまで考えてくれていたのかと思い、次第に胸が詰まった。


「ということは今回、うちの野菜の味を本当に試す機会を設けて頂いたということなのでしょうか」すると郷大の隣にいた梅川が「そうですよ、湖層副社長が新たに加盟する店に、これからうちの主力になるかもしれない野菜をなぜ提供しないのかと、当時から一人で声を強めながら皆にそう話をしていましたからね」香純はその話を聞くとたまらず、一旦その場を外した。トイレで用を足していると、目元から涙が自然にこぼれて仕方なかった。手を洗うついでに両手を拭い、そして鏡の前に立ってハンカチで目元を丹念に拭いた。そしてドアを開けると、目の前に湖層が立っていた。


「泣いてるの」その表情を見た湖層は一言、香純にそう尋ねた。それに無言で軽く頷いた香純に湖層は続けて「どうしたの」と声を掛けた。すると香純は「嬉しくて仕方がなくて、さっき詳しく話を聞きました、湖層さんが推薦して下さったんですね、ありがとうございました」それに湖層は「いいのよ、ノートのお礼もあるし、もちろん私としても当然、自信を持って勧められるものだと思ったから、もう泣かないでよ、びっくりしたじゃない」と言ったものの、その目元も潤んでいた。香純は何も言わずに再び中に入ると、顔をばしゃばしゃと洗い始めた。湖層は少しの間だけ扉の前で佇んでいた。しかしその後は女性トイレへ静かに入った。


 しっとりとしたピアノの音とバーテンダーによるシェイク音が響く中、香純は再び林松の隣の席に着きグラスに一口つけてこう言った。「ところで森上さん、もう本当に仕事はしないんですか」森上はその問いに笑って「本当にというのは、どういう意味ですか」「お辞めになっても何か新しいことを始められるのかと思ったので」「そうね、今しばらくは何も考えないでゆっくりするつもりよ、もう既に十分やった満足感もあるからね、ただ」「ただ、なんですか」「悔いは全くないんだけど、実は少し考えていることがあるのよ」「へえ、それは何ですか」「内緒よ」「ええ、そんな」「あなたもこの歳になればきっとわかるでしょう」「はあ、そうですか」「そうですよ、ねえ、林松さん」


 森上の問いに一つ咳ばらいをした林松は「そうだな、しかし俺としてはまだまだ頑張ってくれるだろうと思ってたけど、何か商売でもやるのかい」「やりませんよ、ひみつ」「何だい、俺にも内緒なのか」「ええ、でもちょっとだけなら」と言って森上は話を続けた。「実はある準備を進めようと思っているんですの」「何の」「広い土地を手に入れようと、それで総重建設の社長さんともお話をしている最中で」「あ、そのことね、少しだけ聞いたが本格的に進めるのかい」「ええ、そのつもりで今、少しづつ準備を進めているんです」その話には全くピンとこなかった香純は「それって何の準備ですか」と尋ねてみた。すると森上は「だから内緒って言ってるでしょう、おかわりっ、同じのよっ」と、急に声を挙げた。


「出ました、本家のおかわりっ」それを聞いた梅川は咄嗟にそう言うと、すぐにバーテンダーへ注文した。香純は首を捻りながらぶつぶつ一人で口にしていると、それを見ていた森上が「まあ、いいじゃない、あなたもそのうちわかるわ、大変だろうけど頑張ってね」と言うと静かに席を立った。林松はその間、一人でにやついていた。しかし香純は引き続き眉間に皺を寄せつつ、グラスを傾けていた。



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