表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひたむき  作者: ナトラ
4/154

あれから ③

「そうなんだってよ。ある日、何でも良いからとにかくうちで仕事がしたいと言って会社に電話をしてきたんだと。それで面接するからと伝えて本人が来た当日、ここに来たのは誰の紹介でもなくお前のファンだから来たと言っている人物がいる、と人事から連絡があってよ。俺はたまたま予定が空いていたから、面白いなと思って実際に会ってみたんだ。これはもちろんお前が辞めた後の話な。そして本人に香純は既に辞めたと伝えると、なんとそれは既に知っていると言うから驚いたよ。で、その前になぜ香純のファンなのかと本人に聞いてみたんだ」


「いつだったか、うちの会社が雑誌に載ったことあったろ」その問いに香純は一言だけ「はい」と答え、「その編集社でアシスタントをしていたんだと。それで打ち合わせで森上と何度か会う内、次第とお互いに話すようになったある時、森上がOKAMI創業時の集合写真を見せたことでお前の存在を知った。それから興味があって色々質問したきたんだと。そしていつか自分もOKAMIで働きたいと思うようになったというのが就職動機だったんだ」林松は一口酒を飲んだ後もさらに続けて「俺はてっきり森上がスカウトしたから今日ここに来たんだろと思っていたんだ。だからそれを直接聞いてみたら全くそうじゃなく、完全に自分の意思でここへ来たと言うから笑ったよ。それでその面接後に早速、森上に連絡を入れて聞いてみたんだ。そしたら確かに彼は前からそう言っていたけど半ば冗談だろうと思っていて、まさか本当に来るとは思わなかったと言って驚いてたわ。前職が一段落してようやく応募したんだな。そうして話していると確かにお前が言うように何だか人柄が良いんだよ。しかも若いし、何でもやると言っているからな。それで先月に採用したんだよ」


 香純はその話を林松から聞いた時、それならなぜこれまで黙っていたのだろうかと不思議に思った。しかし既に退職しているので、在職時と同様に考えるのは良くないと思い直した。それから「そんなこともあるのですね、驚きましたよ」とだけ言い、それについての感想を口にするのは留めた。また森上の知り合いだということは全く思いもしなかったので、現時点ではそう受け止めつつも実際には本人と会って話をしてみなければ何もわからない事だと付け加えた。


 香純がそのように考えを巡らせていると、ここで林松が「まあその話はそれくらいにして、本題に移ろうか」と言いながら自身の腕時計をちらりと覗き込んだ。そして「もうこんな時間か、じゃあそろそろ帰るわ。あとは来週うちに来た時にしようや」と言ってその場を立ち上がると、それをたまたま遠くから見ていたトクがすぐさま足早に駆け寄ってきて「林松さん、せっかく作ったので食べて行ってください」と言って再び台所に戻り、それから今度は大きな鍋を両手にして戻ってきた。そして「外にいらっしゃる皆さんの分もあるので、良かったらこちらでどうぞ」と言い、テーブルを用意するようにと香純へ目で合図した。林松は終始その様子を目の当たりにして「あの大人しかったトクちゃんが」と密かに驚いていた。時が経てば人は変わるもんだな。そう思いながらその場へ再び腰をゆっくり下ろすと連絡を入れ始めた。それから程なく背広を着ている四名がすらりと姿勢を正して土間に並んだ。


 その姿を見たトクは「どうぞどうぞ、こちらへ」と促しながら、それまで持っていた鍋をテーブルの上に置いた。また真純やリンも互いに顔を覗せて「いらっしゃい」と彼らに声をかけた。お客が大勢来たことが嬉しいのか二人は再びはしゃぎだした。それに対して四人は当初より何となく申し訳なさそうにしていたが、香純が追加のテーブルを拡げていたのでそれを手伝うと、後はそれぞれ軽く会釈をして静かに席に着いた。するとさっきまで兄とじゃれ合っていたリンが急に泣き出し、香純は仕方ないなと思いながらその体をひょいと抱き上げた。ちょうどトクが鍋の蓋を開け、皆の分の盛り付けや配膳をしているところだった。「熱いですよ」と言いながら湯気を立てたお椀と箸、それから麦茶が入ったガラス製のコップを皆の前に並べた。


「暑い中、こうして熱いものを食べるのは嫌いじゃねえよ。けんちん汁か、美味しそうだな。それじゃ早速、頂こうか」林松はそれを手に取り周囲にそう呼び掛けると、他の四人も「いただきます」と言ってそれぞれ食べ始めた。


 それからしばらくトクと林松は、食事をしながら野菜の味や現在の収穫量などについて話をしていた。香純はその後もしばらくはそうしてリンを抱えていたが、その顔をちらりと見るといつの間にか腕の中で眠っていた。それなので奥の座敷に連れて行き、布団の上に寝かせた後に再び座敷へと戻ってきた。それから自席に座って先程トクが用意したお椀を手に持つと、それまでは林松と話をしていたトクはそれを横目で見るとさっとその手から取り、鍋の蓋を開けて中身をよそった。それから香純に手渡しながら一言だけ「リンは寝たの」と香純に尋ね、それを黙って受け取った香純も「ああ」と返事をした。


 それからの話題は彼に集まった。「ところでお名前は」香純がそう彼に尋ねると「ご挨拶遅くなってすみません、初めまして。増永ますなが英二えいじと申します。今日はお会いできてうれしいです。よろしくお願いします」と、丁寧に挨拶をした。「増永さんですね、初めまして。こちらこそよろしく」と香純も答えた。増永は三十歳前後に見えて背丈は小柄でも肩幅が広く、胸板はかなり厚くて全体的にがっちりとした体形だった。また顔立ちは大きいな眼が印象的だった。香純が過去にスポーツか何かをしていたのかと尋ねると柔道経験者だと言い、さらに増永は警護は初めての経験だけどこれから頑張りたいとも言った。一段落して「ところで森上さんとは、最近どうなの」と香純は一応尋ねてみたところ「ええ、今も良くして頂いてます。時々飲みに連れて行って下さったりして、これまで何度もご馳走になりました」と増永は笑顔で答えた。しかしここで香純はそれを不思議に思っていた。確かに森上は面倒見が良い面もあるが、しかし好みが異なればそこまでのことはしないのも知っていた。まして食事に連れて行ったという話はこれまでに聞いたことがなかったので、余程この男を気に入ったんだろうと思いつつ、うどんを一口啜った。


「農業は大変ですか」増永からそう質問があり、香純は「そりゃ大変だけど好きなことをしているから楽しいよ」と答えた。するとそれに深く相槌を打ちながら増永は何度もうんうんと頷き、そして「やっぱりそうですよね。好きなことじゃないと続きませんよ」と、何だか妙に納得した表情を浮かべながら香純が食べている様子をちらりと見てそう言った。そこで「この仕事は続きそうかい」と今度は香純が尋ねると、増永は微笑んで「今はまだわからない事だらけですけど、でも続けてみたいですね」と答えた後にそれまで自身が持っていたお椀と箸を置いた。そして「こうして輝来さんと今後もさらにお会いする機会が増えたら良いなと思っています」と言い、姿勢を正して香純の方へ向き直り、座ったまま両手を膝につけ深々とその場で頭を下げた。香純はその様子を見て、なるほどこの人の魅力はこのように出来る正直さなのだろうと思い、自身も同じように相対して「そうなると良いですね」と同じようにして頭を下げた。


 トクが作ったけんちんうどんは高評だった。皆が夢中で食べ始めると続けておかわりをしている内に、いつの間にか鍋は全て空となった。「おいしかったです。いつも食べてる野菜と全く違う味でした」「店に出せますよこれは」などと言いながらそれぞれ感想を口にしていた。トクはただ嬉しそうに微笑み、いつも朝早くから仕事を手伝ってきて良かったなと思っていた。香純もようやくここ最近になり自分達で育てた野菜を、そろそろ出荷できるかもしれないという感触を得ていた。そして全員が食べ終えた頃には、真純も座敷の上で寝転がり始めていた。それでトクはそうしている真純に、風邪をひくからと言って声を掛けて体を起こしてから、その手を引いてリンが寝ている部屋へと二人で歩いて行った。


「さて帰るか、ご馳走になったな」林松がそう言って立ち上がると、他の四人も上着を着こんで身支度を整えて母屋を後にした。林松が車に乗り込むと後部座席のガラスが開き「それじゃ来週な」と、香純達へ自身の右手を挙げて言った。香純達もそれに答えて二人で手を振った。それから二台の高級車が縦に並んで自宅の門を抜けて通りに出ると、砂利をのける音がした後はさらに加速して走り去った。ひぐらしの声がより一層、辺り一帯を包んでいる。そうして林松達を見送った後、香純は「さあて風呂でも入るか」と背伸びをしてトクにそう言うと「そうね」と答えた。それなので香純は再び「二人も寝ていることだし、たまには一緒に入るか」と誘ってみたのだが、トクの返事は「だめ」の一言だった。そう言ったトクの横顔はまさに母親そのものだった。香純は一言「へえ」と言い、すぐに続けて「へえへえ」と言いながら風呂場へと向かった。その背を見ていたトクは微笑みつつ、まずは子ども達の様子を見に行こうと足早に母屋へ戻って行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ