独立 ④
その電話が美穂からとわかった林松は、それを口に咥えたまま話を進めた。「少し落ち着いたか、随分忙しそうだな、なるほど、俺は香純の家だ、で、手短に聞くがよ、俺はあの時、何も聞かないまま銀ちゃんに話をしたんだけどよ、ところでお前、何で管理者になりたいんだっけか」しばしの沈黙後「やってみたいのはわかってるよ、だから何でそう思ったんだか」「ほほう、そりゃそうだ、この間、家で言ってたことだな、わかった、話はそれだけだ、ま、程々に頑張れよ、銀ちゃんによろしく言っといてくれ」そこで話を終えて煙草に火を着けた。すると再び携帯が鳴り、今度は清竹からだった。「すみません社長、忙しくて電話するのを忘れてました」「いいんだよ、で、どうした」「今、彼女から話を聞いたのですが、私からも一言お伝えしておこうと思いまして」「いや、心配しなくて大丈夫だ、面倒をかけたな、ま、よろしく頼むわ」そう言うと、林松はいつものようにすぐ電話を切った。「で、どうでしたか」そう尋ねた後、香純も再び一服し始めた。「そのためになりたいんだと」「はあ、そのためって何でしょうか」「こないだうちで言ったことを実現するため、だとよ」二人は美穂が言っていたことを思い出していた。「仕事は楽しくないと続かない、ひたむきに頑張るだけ、後は何だっけか、そうだ、グループ復活のために働くわけじゃないとか、いろいろ言ってたっけな」香純もそれに頷きながら「そうでしたね、いや、でもこれではっきりしましたね」「ああ、あいつも一度言い出したら止まらねえ口だからな」「でもこれって、今の自分に当てはまりますよ」「確かにな、楽しくなけりゃ誰しも続かねえか、今さっき言ったばっかりだもんな」それからしばらく二人で笑い合った。
席に戻った二人は、会社の話をさらにまとめようと語り出した。その間、外から聞こえてくる会話のほとんどを知った増永は、改めて質問はせず黙っていた。しばらく話した後、林松はさらなる方針を固めた。それから増永をここへ招いたのにはもう一つ理由があり、一つは先に言ったように秘書を目指していること、もう一つは梅川や他の誰かにこの話をどのように伝えるのかということだった。それを前もって確認しておくためでもあり、それは口に出さずとも香純は林松の振る舞いから何となく感づいていた。「さあて、そろそろ帰るかな、トクちゃんと子ども達、まだ帰ってこないんだな」林松がそう言った頃は既に日が傾き始めていた。「もう帰ってくると思うんですが、まだ向こうの両親と話込んでいるのかもしれません」「迎えに行ってやったらどうだ」「帰りは送るから大丈夫と言ってくれたのですが、でもそうですね、ちょっと電話してきます」香純はそう言って席を離れ、携帯電話で話を始めた。
その後、再び席に戻った香純はこう言った。「やはり電話して正解でした、今もまだ盛り上がっているようでして」それを聞いた林松は笑って「まあな、でもトクちゃんは心配なんだろうよ、お前もそこはがっちりとわかってやらないとな」「もちろんですよ」「そろそろ行くわ、ところで昨日届いた野菜の話、その後誰かに聞いたかい」「いえ、まだ何も連絡来ていませんので」「じゃ、ちょっと早いか、まあいいか」「実は今朝、俺は外出してたから知らなかったが、相次いで好評だったらしいぞ、それで午前中の会議で一部店舗に絞り実際に使うと決めたようだ、ここに来る途中、里香ちゃんからそう聞いた、だからすぐにでも連絡が来るだろうよ」「本当ですか、うわあ、良かったあ」香純はそう言うとしばらく呆然として、天井を見上げていた。林松は微笑み、続けて「トクちゃんにも早く伝えてやれよ、心配しすぎて寝込んじまったらシャレにならねえからよ、じゃ、また来月な」「お気遣いありがとうございます、お待ちしてます」それから増永とも挨拶を交し、敷地から出ていく車を見届けた。香純も戸締りした後、すぐに車へ乗り込み走り出した。自宅の門を抜けるとアクセルを噴かした。その直後、あまりの嬉しさから自然と頬に涙が伝った。やっとだ、待ちに待った出荷が決まる。そう思うと胸が躍り、ハンドルを握るその手に力が漲った。
やがてトクの実家に着き、香純は玄関へ迎えに来た真純を抱き寄せ、その後義母のフクと挨拶を交わした。香純が「あれ、リンは」と尋ね「まだ寝てるよ」と答えた真純は、その方角を指差して答えた。またフクからは今も父親の善市と話をしている最中だと聞き、その案内で廊下を歩き居間に入ろうとしていた。その時、真純がスラックスの横からつまんで引っ張りながら「お母ちゃん、さっき泣いちゃったんだよ、僕が学校行かないって言ったからだよね」と小声で言った。その目には涙をうっすらと浮かべていたので、香純は「お母ちゃんはね、真純のことが好きだから心配しているんだよ」と答えた。しかし真純は続けて話は続く。「でもさ、僕が学校に行くって言えば、お母ちゃんはもう泣かないよね」「そうかもな、でもそれで良いのかい、お前は行きたくないんだろう」真純はその問いに少し黙った後、静かに「うん」と答え頷いた。「なら、それがお前の正直な答えだ、それで良いんだぞ」香純はそう言うと小さな頭をしっかりと撫で、そして「後はお父ちゃんに任せとけ」と言い、二人がいる居間の扉をそっと広げた。
中へ入ると、椅子にどっぷりと腰掛けた善市が苦笑いをしており、その脇には今にも泣きそうな表情でトクが佇んでいた。善市は入ってきた香純を見るやいなや「よお、いらっしゃい」と気さくに声を掛けた。そこで香純も「突然、すみません」まずはそう一言だけ伝えた。トクは目を赤く染めながら「私がいくら言っても聞かないんだもん、どうすれば良いのよ」と訴え、今もまだ興奮しているようだった。香純はすぐにその傍へ行き、トクの背中に触れて「わかったよ、後はうちに帰ってから話そう」と優しく声を掛けた。するとフクが「ねえ、香純さん、ちょっと」と、台所の方を指差しながら声を掛けた。香純は「何でしょうか」と答えてその後に続いた。そして台所の奥まで来ると「トクね、何だか相当疲れちゃってるみたいよ」フクが声を絞りながらそう言った。香純はそれに頷き「ここのところ手伝ってもらうことが多くて、ご迷惑おかけしてすみません」と素直に謝罪した。続けて「ただようやく落ち着きましたので、これからはゆっくり出来る時間が増えますので」と付け加えた。するとフクは「そうなのね、それならいいんだけど、でも私はちょっと心配よ」と声を震わせた。すると二人の後ろから善市が「フク、それは余計だよ」と近くで言ったので、フクは驚いて「ひゃっ」と声をあげた。香純が事情を説明した後、善市は「余計なことを言うんじゃないよ、これは家族の問題だ」と一喝した。そして香純に「もう連れて帰りなさい、トクはまだ全然わかってない」と言い放った。意図してそれがトクに聞こえるようそう言ったのかは、この時定かではなかったものの、そう言った瞬間に微笑んだ表情を見た香純は、反論せず静かに頭を下げた。そしてトクと真純がいる居間へ戻り、その後トクに手を差し出した。それを横目でちらりと見たトクは、その手を握ると立ち上がり、そして隣の部屋ですやすやと寝ているリンを起こして背負った後は、両親へ何も言わないまま実家を後にした。
その帰り道の車内で「ごめんね、今日はちょっと言い過ぎたかも」トクは真純にそう言って、その背を優しく触れた。運転席の香純は、その様子をバックミラー越しに見ていた。すると真純が「ううん、僕は大丈夫だよ、だってお母ちゃん、僕のことが大好きで心配してくれているんでしょ」と尋ねた。するとトクは今まで我慢していた涙がいよいよ溢れ出し、啜り泣いた。香純は息子の成長を深く感じ取っていた。先程聞いたことをすぐに理解し、今そう言える素直な心をこれからも大事にしたい。この時、改めて己の心に強く刻んだ。その後、場を吹き飛ばすかのように「トク、出荷が決まったぞ」と香純がトクに声を掛けて話は続く。「え、本当なの」「ああ、さっき林松さんから聞いたんだ」「やっとだね」「やっとだよ」「良かったあ、本当なの、うわあ、良かったあ」それまでとは一転した表情と声に、香純は先程フクが言っていたことを素直に受け止めた。それがトクにとってどれ程のプレッシャーだったのか。香純はそう考えると自然に溢れ出す涙を拭いつつ、家路を急いだ。




