合併 ②
林松もその話になるだろうと思っていた。「な、俺も驚いたよ」と一言だけ答え、それから信号が青に変わり再び車が走り出してから「なあ、まさか引退なんてな」と口にした。増永は一体誰の事を言っているのかすぐに聞きたかったが、そのまま前を向いて運転に集中していた。この人はなかなか大したもんだと、香純は胸の内で密かに思った。
それから少し経って話の全貌が明らかになる頃、到着地点だとナビが示す声が車内に響いた。すると林松が「ああ、ここだ、ここを曲がってくれ」と増永に指示を出した。すると車はゆっくりその軌道を描き、狭路を抜けた先に見えてきたのは、林松邸と同じくらいの広さの敷地にある一軒の平屋だった。その前には鉄製の門があり、それはまるでトクの自宅で見たものとよく似ていた。増永が車内から脇にあるインターホンを押すと声が聞こえたので、林松が「着いたよ」と声を上げると同時に、上へ巻きあげてゲートが開いた。
その中に入ると通り道の脇には綺麗な花が咲いていて、隣は畑が連なっていた。平屋の近くまで来ると周辺はアスファルトで舗装してあり、左側にカーポートがあった。林松は増永にそこへ置くようにと再び指示を出し、停まってから二人は外へと降りた。それから林松は運転席の方に歩いて回り「お前、まだ飯食ってないんだろ、これで何か食ってこい、それで大体一時間したらまたここに来てくれ」と言って、増永に二千円を手渡した。「釣りは今日の早出分だ、とっておけ」と言い、それから「香純、こっちだ」と声を掛けた。それから二人は玄関口を目指して歩き出した。増永は嬉しそうに礼を言ってそれを受け取ると、再びエンジンをかけてゆっくりと車を走らせながら敷地を抜けて行った。
二人が駐車場から歩いていると、一人の女性が玄関先に見えた。「よく来たね、いらっしゃい」そう言って出迎えた姉のけいこは、香純の姿を見るやいなや「懐かしいねえ、元気だったかい」と声を掛けた。「ご無沙汰してすみません」香純は丁重に挨拶し、それからけいこの促しで中へと入った。総重グループの会長を引退したけいこは、今はこの邸宅に一人で住んでいた。敷地内は随所にセンサーがあり、管理は委託しているため、一人でも安全に暮らしていると林松が車内で話していた。外観は平屋だが、確かにとても頑丈な造りだった。ただ意外にも室内はシンプルだった。まず玄関から左手に客間があり、その先には居間とその奥には台所が見える。また玄関の右側は寝室で、以前OIDEYASUで見たような高級そうな物はどこにも見当たらなかった。そして室内には塵一つ落ちていない程、とても掃除が行き届いていている綺麗な邸宅だった。
「何だい、きょとんとして」香純の表情を見てけいこがそう尋ね、「綺麗なご自宅ですね」と香純はそのまま答えた。続けて「いや、豪華な物とか飾ってあるのかなと思っていたんですよ」と、ついうっかり口にした。するとけいこは両手で腹を抱えて笑い、林松が「おいおい、来て早々に」と言いつつ、その表情は最近には見たことがない程の笑顔だった。香純はかなり戸惑ったが思う事を言ったので、その後はあっけらかんとしていた。するとけいこが「あなたって面白いのね、随分たくましくなって」と言い、香純は「いやいや、お邪魔します」と言って靴を揃え、家に上がり客間へ入った。そして目の前にある木製の椅子に腰かけようとしたところ、林松が奥の方から「いやいや、そこじゃねえよ、こっちだ」と香純を呼んだ。あれと思いながらその後を追い、やがて二人がいる居間へ入った。
中に入ると、香純の自宅にもあるような古いテーブル一つ、それを囲むように青い座布団が敷いてあった。台所に一番近い北側にけいこが座り、その角の西側に林松。そして向かいに香純が座った。けいこはお茶汲みながら「で、昨日はどうだったの」と林松に尋ねた。出来事を全て話した後、けいこは無言で何度か頷いて「そうなのね」と言った。それから香純の方をちらりと見て「大変だったね」と一声かけた。香純はその意味がとても重い上に大きく感じたので、咄嗟に「いや、自分も出過ぎたことをしたかな、と思う時もありました」と思わず本音をそう口にした。するとけいこは「いいえ、そんなことありませんよ、本当によくやってくれました」としみじみ語った。
けいこは続けて「あなたは、あなたの感じるままで良いのよ」と言い、その後ゆっくり立ち上がると、古い戸棚の奥から封筒を取り出した。そして「はい、これ受け取って」と香純にその封筒を手渡して言った。香純は何だろうと思いながら手に取るとそれなりの重量があるので、まさかと思いながら淵から中を覗き込んだ。するとそこには一万円札紙幣が数十枚あるのが見えた。それで香純は驚いて「何ですか、これは」と言った後にあまりの驚きから、咄嗟にそれを林松の胸元へと軽く投げつけた。けいこはそれを見て「私からのお礼よ、明人から全部聞いた、あなたの苦労や家族のことも含めてね、でもあなたは自分がどんなに辛くても、常に私たちのことも考えてくれていたのよね」続けて「それはもちろん、これから野菜を出荷するとなれば一番の得意先になるのが私たちでしょうけど、でもあなたはそれに拘らず、お互い良くなりたいと思ってそうしたのよね、だからこれはそのお礼の一部、だから受け取って」と言って林松から受け取った後、再びそれを香純の方へと差し向けた。
「くれるもんは貰っとけ」林松はそう言って促したが、香純は下を向いて俯いていた。それから急に顔を挙げて「いや、これ貰っちゃうと今後、何も言えなくなるかもしれないんでご遠慮しときます」と言った。そして「正直、喉から手が出る程受け取りたいのは山々ですが、そうしたお話を聞けただけで嬉しいです」と言ってそれを断った。けいこはその手をテーブルに脇に置き、それからこう尋ねた。「こういうのはね、素直に受け取っても大丈夫よ」と優しく声をかけた。しかし香純はがんとして受け入れず、再び断った。どうしてそんなに頑なになっているのだろうと思いつつ、けいこは「それなら明人、あなたが何とかしなさい」ぴしりとそう一言残し、それから台所へと向かった。林松は珍しくため息をつき「お前、何で受け取らねえんだよ」と香純に迫った。香純は少しムキになり「だから言ったでしょ、これを受け取ったらこうして話をすることなんて出来なくなる、俺はそんなのは嫌なんで、失礼と思いつつもお断り申し上げたんです」と、香純も珍しく言葉を強めてそう答えた。
すると台所から笑い声が聞こえてきた。香純はまだ興奮して林松に詰め寄っている最中だったが、けいこが両手を打って再び中へと入ってきた。「はいはい、もう分かったわよ、まったく頑固ねえ」そう言いながら白いアイスクリームが入った小皿を、二人の手元へそれぞれ置いた。香純はまだぶつぶつと言っている中、林松が「ま、取りあえず食ってからだな」と言い、右手でスプーンを持ってそう言った。すると仕方なく香純も食べ始めた。そして一口食べるとけいこが「お味はどうかしら」と二人に尋ねたので、その濃厚で甘さ控えめな味に懐かしさを感じて、香純は「とてもおいしいです、どこの銘柄ですか」と尋ねた。けいこは「どこにも売ってないよ、自家製だから」と答えた。その後「これはうまい」と林松も口に運んでそう言った。幼い頃に食べていた味を思い出しながら、香純はそれから無言で少しづつ食べた。
「ところで美穂は何だって」林松はけいこに尋ね、二人の話は続く。「なんだい、本人から聞いてないのかい」「忙しくて聞きはぐっちゃったよ」「そう」「で、なんだって」大した話ではないのだろうと思いながらそう言うと、けいこは咳を一つしてから「海外の責任者になりたいんだってさ」と言った。林松はそれを聞いて、思わずぷっと吹き出しそうになった。「なんだって、急にどうしたんだか」「何だかねえ、でも随分、大人っぽくなって変わったのは見た目だけじゃなくて、向こうでかなり揉まれたようね」この時は既に落ち着いていた香純は、その話に共感しながら黙って聞いていた。
林松は少し考えてから「確かになあ、昨日の話も今まで以上に凄みが出ていたからなあ、でも俺には何も言ってこなかったぞ、お父さんは黙ってて、何て言ってさ」と言った。けいこは「きっと照れ臭かったんじゃないの」と言うと「どうだかな、でも結構言いたいことは伝わってきたんだよ、ああ、それで納得だな」「今、海外は竹清さんだっけ」「ああ、OIDEYASU元副社長の竹清銀、ならば彼に少し話してみるか」「そうね、弟子入りじゃないけどさ、どれだけ大変なのかを自分で確かめてみるのも良いんじゃない」「まあな、でもきっと今の仕事の方が良いわって言うだろうけど、じゃあ早速、今日中にでも連絡入れてみるわ、アシスタントで良いからってさ」その人の名は全く身に覚えがなかったものの、香純は敢えて質問はせずに今もスプーンを口に運んでいた。「それで美穂は優と一緒だったのか」「送ってもらったんだって、一人だったよ」
それにふうんと答え、林松は最後の一口を食べ終えた。そして香純に「そろそろあれ、受け取るかい」と言った。それを聞いた時、香純は既に食べ終えていた。首を横に振り「受け取りません」と再度答え、その後「ご馳走様、とてもおいしかったです」とけいこに礼を言った。すると二人ともやれやれという表情を浮かべながら「それじゃ、今回の旅費の分だけなら良いでしょ」とけいこが言った。ここで香純はさすがに「はあ」と少しだけ頷いていると、林松が封筒から現金を抜き出し、それをけいこに返した。そして自分の財布からさっと十枚程取り、その中に入れてから「よし、これで良いだろ」と言い、香純にそれを手渡した。続けて「元々、俺が誘ったんだから、これなら問題ないだろ」と問いかけた。香純は考えた末、受け取ることにした。「林松さんがそこまで仰って下さるなら、ありがたく頂戴します」と言うと正座し、それを両手で受け取り礼を言った。するとけいこは「これからもよろしくね」と笑顔で言い、また林松も清々しく笑いながら「頼んだぞ」と、香純の肩を軽く叩いた。




