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ひたむき  作者: ナトラ
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これから ⑥

 美穂は会議には出席せず、隣の和室で初めて会った子ども達と遊びながら話を聞いていた。幼い二人は最初こそ警戒したものの、互いに打ち解け合うまでにさほど時間はかからなかった。隣で行われている会議が一段落したのか、林松が外に向かって誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。


 それまで車のおもちゃを畳の上に走らせていた真純が、急に「お姉ちゃん」と美穂を呼んだ。それに「なあに」と美穂が答えると、真純は「ぼく幼稚園に行ってないんだよ」と言い、それまで掴んでいたおもちゃをそっと手離した。美穂はかなり前に綾子から聞いたかもしれないと思いつつ「そうなんだ、でもなんで行かなかったの」と真純に尋ねた。すると真純は「皆と一緒にいたいと思ったから行かなかったんだよ」と答えた。美穂はその答えにとても共感して「凄いよ、とても良いと思うよ」と言い、そっと優しく真純の頭を撫でた。すると真純は照れながら「でも、普通は皆行くんでしょ」と再び美穂にそう尋ねた。その言葉を聞いた美穂は天井を見上げて「普通か」と口にし、少しだけ考えてから「まあそうなんだよねえ、でもその普通って、一体何だろうね」と、まるで独り言のように言った。真純はそれに「わかんない」とすぐに答えて首を傾けていた。すると廊下からトクの声が聞こえてきて、


「ごめんね美穂ちゃん、ありがとう」そう言いながら襖を開けて中に入ってきたトクは、それまで面倒を見てくれていた美穂にまず礼を言った。美穂は「全然大丈夫ですよ、楽しいから」と答えた後、続けて「今、真純君が普通って何って聞いてきたんです、凄いなあと思って」と感心しながら伝えると、それを聞いたトクは「へえ」と言って真純をじっと見ていた。美穂が続けて「トクさん、普通って何でしょうね、皆と比べた事を言うのかなあ、難しいわ」と言って右手を握り締め、自身の顎の下に当てながらそう言った。真純が初対面の人に自分の話をしたという事にトクはただ驚いていたが、同時にリンの様子も見てみた。すると今も嬉しそうに美穂の背中に抱きついている。トクはその姿を見ると、改めてその凄さを実感していた。


 トクは美穂について、以前から人を引き付ける何らかの魅力がある人だなと思っていた。しかし今こうして実際に見ていると、外国へ行く前よりも今はその魅力に溢れていると感じた。そう思いながら美穂の問いに「ね、難しいね」と言うだけに留めると、美穂は続けて「私、思うんですけど、自分に正直に生きるというのは、とっても大切な事だと思うんですよ、あ、でもこれは過去に学んだことですけどね」と言い、舌をちょこんと出して笑った。トクは自分もそうだったなあと思いつつ、その話を聞いていた。それからも二人の話は続く。「でも普通っていうのは、そうするのが多数って意味もあるよね」「だから普通は普通はと言うんでしょう」「でも自分と他人のそれって違うよね」「確かに、当たり前という意味もあるでしょうし、本当難しいですね」そうして話をしていると、スリッパが床を打ち鳴らす音がだんだん近づいてきた。そして襖の先から綾子が声を張り上げて「ほら美穂、遅く帰ってきたんだから、普通はすぐ手伝うでしょう、全くもう」と言った後、その場を離れようとしたので、そこでトクが慌てて襖を開けて事情を説明すると「あらそうだったの」と言い、ちらりと美穂を見た後に「まあ良いわ、もうすぐお料理が出来るから運ぶの手伝ってちょうだい」と言って再び台所へ戻って行った。美穂はその後ろ姿を見ながら「あらら、怒られちゃったよお」と言っておどけた後、その傍でじっと俯いている真純に「普通っていうのは、今みたいな時に使うんだよ」と言った。そして自身の背中に向かい「ねえ、リンちゃん」と、張り付いているリンにそう呼びかけた。


 真純はそう聞いて「ふうん、じゃあ普通って皆違うんだね」と静かに言ったので、トクは咄嗟に「そうよ、だから皆が言う普通じゃなくて良いのよ」と言い、その目をじっと見た。すると真純の表情は一変し、それまでの想いを口にした。「ぼくはひょっとして、普通じゃないのかもしれないと思ってたんだ」それまで誰にも言わず考えていた事だった。母親のその一言がとても大きくて真純は喜び、再びおもちゃを手に取った。その一方で、今も美穂の背中できゃっきゃっとはしゃぐリンは、それから「おんぶ」と言い出した。そのためトクが「お姉ちゃんはこれから用事があるから、おかあちゃんと交代ね」と言い、その小さな体を抱き上げると、途端にびゃあと泣き出して手足をばたつかせて騒ぎ始めた。トクはその間に美穂へ軽く目配せして「こっちは大丈夫よ」と伝えると、それを見た美穂は「じゃ、ちょっと着替えてきます」と言ってすぐ部屋を出て廊下を走った。そして階段に辿り着き、一段づつ上り始めた後にふと立ち止まった。「凄いなあ、やっぱり凄いや」と小声で呟いた。トクが言った一言を自分は言えなかった。でもそこまで言える強さを今ひしひしと感じながら、そこから勢い良く再び階段を駆け上がった。


 二階で着替えた美穂が一階に戻ると、皆は既に食事をしている最中だった。自身も出来あがった料理を運びつつ、台所の近くにある四人掛けのテーブルの椅子に腰かけて味見をしていた。「うわあ、これもおいしいわ」炭火で焼いたナスに醤油を垂らして口にすると、ほんのりとした甘味と香ばしさがあり、次々と口の中へと運んでいた。「まだまだたくさんあるよ」トクがそう言って、焼き上がった食材を載せた皿をテーブルの上に並べた。美穂はその礼を伝えてから「そうだ、私も飲もっと」と言って冷蔵庫に行き、中から缶ビールを取り出した。トクは真純とリンを呼びに行き、やがて二人を連れて来た。また綾子も「ああ、やっと座れるわ」と言いながら席に着いた後、皆で乾杯した。


 真純とリンはオレンジジュースを飲みながら「あ、これ、僕がとったトマトだよね」「うん、そうよ」「おいしいでしょ」「とってもおいしいわ」などと話をしながら、トクが子ども達の分を取り分けていると「おおい、美穂」と呼ぶ林松の声が聞こえてきた。「なあに」と返事をすると林松が「こっちに来てくれ」と言うので、美穂は仕方なくグラス片手に幹部達が座るソファーの近くに行った。すると向かいにいる梅川が「乾杯しましょうよ」と皆に声を掛け、改めて祝杯を挙げた。


「凄いよ、あの美穂ちゃんが英語で話すなんて」乾杯後に郷大がそう言うので、美穂は「あのって何ですか」と強調して尋ねた。すると郷大は「いやあ」と言って笑ったが、それから真面目な顔つきで「随分前の事だけどさ、英語は話せないと言っていた時の飲み会を思い出してさ、あれはつい最近のように思うけど、もう五年も経つんだよね」としみじみ言うと、その後は遠い目で外を見ていた。美穂も笑いながら「冗談ですよ、確かにそうですね、懐かしい」と伝え、自身も同じように外へと目をやった。窓の外では煙が勢い良く噴き上がる中、時々想っていた背中がすぐそこに見える。美穂はこの数年を、今瞬時に振り返っていた。


 海外の生活にも少し慣れてきた頃、ふと香純は今頃どうしているだろうと思い出す時もあった。二人の結婚式当日、出席はしたものの渡航の準備があるからと言って早々に引き上げてきたこと。また仕事が忙しくもう後には引かないと心に決め、それからがむしゃらに突き進んできたこと。そして今こうして好きな仕事をしてお金を稼ぎ、好きな物を購入したり休日に海外の友人と出かけたこと。しかし思い出していたのは、いつもその姿だった。今は可愛い子どもが二人いる。「トクがお嫁さんじゃなければ」何度そう思ったことか。今こうして眺めていると、当時の想いを次々に思い出す。そしてある時、もうそれ以上の感情は既にないと受け止めることが出来たきっかけが、いつもそばにいた優の存在だった。美穂は今、それが次第に大きくなってきているのかもしれないと、何となくそう思い始めていた。


 美穂が一人そう思っていると、そこへボトルを片手に優が来て「お疲れ様、ワインでもどうぞ」と言ってにこりと微笑んだ。美穂はちらりとその横顔を見た後、いつものように黙ってグラスを差し出した。すると優はそれに両手で注ぎ入れながら「さっき香純さんにもあの話を相談したんだ」と小声で言った。美穂はその名を聞いて一瞬どきりとしたが、その後一度大きく息を吸い込んでふうと吐いた後「あの話ってなんだっけ」と聞き返した。すると優は先程の話を簡単に説明した。それで美穂は思い出して「あ、野菜の事ね、で、どうだったの」と尋ねると優は「聞いてみて良かったよ」と答えた。続けて「海外に戻ったらやりたい事があるんだ、その時は手伝ってほしいんだ」と頼んだ。


 一体、何をしたいのかと美穂が尋ねると、優は「俺もやってみようと思うんだ、畑仕事」それを聞くと美穂は驚き「何、急にどうしたの」と再び尋ねた時、こんなに清々しい優の表情を見るのは初めてかもしれないとも同時に思っていた。すると右隣りから林松が「なあ美穂、お前の仕事ぶりは大体知っとるが、少し話を聞かせてくれえ」と声を掛けてきた。その語尾は酔いが回ったのか、普段よりも伸び始めていた。それより今は優の話が引っかかるので美穂は林松に「ちょっと待ってて」と言った後、もう一度左隣にいる優を見て「何だか急で良くわからないけど、後で詳しく教えてよ」とだけ手短に伝えた。すると優はこくりと頷き微笑み、ゆっくりと席を立つと再び外へ出て行った。美穂はこれほどまで短期間に変化した事に驚いたものの、おおよそ見当がついていた。きっと香純から何かを得たのだろう。美穂はそう思いながらも、その後ろ姿をしばらく追っていた。

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