序章
「ねえ、こっちの芋の葉もひっくり返すんだっけ」強い日差しの中、トクは川沿いにある畑の一部を指差し大声を上げた。それまでかがめていた腰をゆっくりと起こすと、香純はいつもの低い声で「ああ、そうだよ」と答えて額にかかる汗をタオルで拭いた。そしてそばで大声ではしゃいでいる二人には「いいからあっちで遊んでなさい」と声をかけると、けたけたと笑っている丸坊主の男の子と小さな女の子は互いに手を引き合いながら「はあい」と答え、飛び跳ねるように母屋の方へ向かって行った。「やれやれ」と、その小さな後ろ姿を見届け、再び種を植え始めようと腰をゆっくりかがめた。
辺りはまだ蝉とひぐらしの声が響き渡っている。トクは本日の作業を終えると香純の元へ来て「私はそろそろ夕飯の準備を始めるね」と言って、持っていたペットボトルを香純へ手渡した。ようやく冬野菜の種を蒔き終え、香純はそれを受け取ると大きく一息ついた。そしてすぐに蓋を開けると、たちまち音を立てながら全てを飲み干した。それからは周囲の畑を見渡して「やっと終わったな」と一言そう呟くと、トクはただ黙って微笑み返した。トクは再び空を見上げていた。「あれからもう五年経つのね」しばらくそうして眼を輝かせて遠くを見つめていた。「意外と早かったよな」そう答えた香純を、トクはちらりと横目で見て「そうね」と答えた。それからは浮かぶ雲を二人で見上げた。
「そろそろ風呂の準備でもしようか」香純がそう言うと、数台の車が母屋の近くに入ってくるのが見えた。「林松さんか」香純はすぐそのそばへ駆け寄りドアが開くのを待っていた。すると一人の背広姿の男が近づいてきた。「香純さん、お疲れ様です」と声をかけてきたのは、背広姿で比較的若い男性だった。しかし香純はその顔には全く見覚えがないので不思議に思いながら、ただ「はあ」とだけ声を漏らした。すると、車から一人の男が目の前に降りてきた。そしていつものように「よお、元気にしとるようだね」と言って林松が降りてきた。随分歳をとったなと思いながらも香純は握手し、それからその数名と共に中へ入るようにと促した。
「林松さん」トクは嬉しそうに台所から駆け寄ると、すぐさまそう言って深々と頭を下げた。そして囲炉裏の上座へと案内すると、林松はゆっくりとそこへ座った。周囲にいる背広を着ている数名には「もういいから」と言うと、たちまち彼らは軽く会釈した後に再び車へ戻って行った。香純はその様子を見て「どこかの会長さんみたいですね」と笑いながら言うと林松は大笑いした。「な、今ではそんな冗談を言える相手はお前さんくらいだよ」と言って、トクが手元に届けた好みの日本酒の栓を開けた。「度々悪いな、急で」トクから受け取った杯を手にして林松はそう言い、また香純はその酒を受け取ろうと手を伸ばした。林松がそこへ注いだ後は二人で静かに乾杯した。「また何かあったのだろうな」香純は咄嗟にそう思ったが、まずは再会を嬉しく思いながらしばらくの間は酒を酌み交わした。
香純が辞めた翌年、林松グループは解散した。その最後の説明会では、「働きに来てくれた社員のためにも、一度解散することにした。現状の態勢を見直す必要がある」と、声を強めて訴えた。その話はもちろん香純の耳元に届いており、そのことはある程度は予測していたことだった。「湖層副社長に一任したことが林松引退の引き金になった」というのが社員間での一般論だった。こうして林松が会長職引退を公にすると、香純の自宅へわざわざ駆けつけてくる人も多かった。香純はその帰り際に決まって一言だけ呟いてきた。「まあでも、そもそも林松さんですからね」そう言うと、もちろん相手の怒りを買うこともあった。しかし、それとは逆に何も言わずに黙ったり、また妙に納得したかのように頷いて素直に帰宅する人も同時に見てきた。「これは一つの目安になるな」香純はそう思い、冷静に日々の様子を確認していた。
こうして引退の直接の引き金となったのは、湖層に「管理職を撤廃する方向で進めてくれ」と林松自身がサインをした事が端を発したことによるのだが、当時はその可能性について湖層へ伝えた方が良いかもしれないと思うこともあった。しかし既に退職を決めたので、もうこれ以上余計な口出しをしない方が良いだろうと結局は何も伝えなかった。ただ、もし仮に自身が感じたことを湖層へ伝えていたらば、引退を未然に防げた可能性が多い。そう主張する林松と今、互いに頭を抱えているその最中にあった。
「なんでそれをリカちゃんに一言でも伝えてやらなかったんだ」林松はそう言って腕を捲り上げ、それと同時に身を乗り出してきた。しかし香純はそれを一切構わずに「確かにそれを言えば防げたかもしれません。でもね、林松さん。当時の状態をこうして自身の眼で自然に確認することが出来たのは、今回かなり大きかったと思いますよ」と言って笑みを浮かべた。林松はそうを聞いた途端、急に力が抜けた。「何だそれは、意味がよくわからないから説明してみい」と言った後、手元にある杯を一息に飲み干した。香純も一口だけ飲み、静かに続きを話し始めた。