父
日が落ちて窓から覗く空が暗くなってきた頃、いつものように書斎で私は父さんの書物を読み漁っていた。もうこれは父さんが仕事から帰るまでの日課になっている。知識を得ることができるし、暇つぶしにもなるので一石二鳥ってやつだ。
階段を上がってくる音が近づいてきた。帰って来たみたいだ。今日は少し早いな。
ガチャリとドアノブを回す音が聞こえる。
「ただいま。…やっばり今日もここに居たんだね」
私とその横に積み重なった本の山を交互にみて苦笑いになる父さん。
「おかえりなさい。…だって、父さんが帰ってくるまで暇なんだもの」
日が落ちると外にも出歩けないから夜遅い父さんを待つのはとても退屈になる。
「いつも遅くなってすまない」
「いいの、仕事だもの。仕方ないわ」
「ありがとう」
「……アイリーン。急なんだけど」
急に父さんは気まずそうに目を泳がせはじめた。
「どうしたの?」
「…実は暫くの間父さんの実家に住む事になったんだ」
それは思いもよらなかった事だった。
「父さんの?」
実家?今まで何処にあるのかも聞いたことがないけど…。ていうか、実家あったんだね。
「ああ、カルトアっていうカルタール領の中央の町なんだ。父さんと一緒に来てくれないかい?」
カルトア…本で読んだ事がある。西の都と呼ばれるとても豊かな街…
「父さんといっしょに行くよ」
「っ!…ありがとう、アイリーン」
だって、拒否したって行かないといけないでしょ。
幼い私を此処に一人置いておくわけにはならないし。
「それで、いつ行くの?」
今から少しづつ荷物をまとめておかなきゃね。
「明日だよ」
…は?なんと言いました今。
「え?」
おいおい、父よ…。それはないだろう……。明日って、幾ら何でも急過ぎるでしょ。
「いやぁ、ごめんよアイリーン。何時切り出そうか悩んでいたら忘れてしまっていてね…」
私の非難めいた視線を察してか、罰の悪そうに苦笑する父さん。
「分かった。荷物はどうするの?わたし何も用意できていないけど…」
父さんも準備などしていなかった筈だ。今から取り掛かっても明日に出発なんか到底不可能だ。いったいどうするんだろう。
「それは心配いらないよ。必要な物は殆どあっちに揃っているだろうから、アイリーンが持っていきたいものだけでいい」
「そうなの?分かった」
なんだか父さんにしては準備周到だけど、どうしたんだろ。
「…ごめんよ。俺はアイリーンに何もしてあげられていないね…」
「父さん?」
「セシリアが居てくれたらって思ってしまうんだ…。俺がしっかり出来ていないから、アイリーンがどんどんしっかりしていくのが情け無いんだ。…今回の事だってそうだ。俺の勝手でセシリアと過ごしたこの家から離れなくちゃいけない…。俺はアイリーンに父親らしい事が何一つしてやれてない…」
父さん…そんな事を思っていたの?
突然暗くなった父さんの様子にシルキー達もオロオロし始めた。好奇心旺盛なゴブリンやコボルト達は興味津々に此方を伺っている。
「それは違うよ、父さん」
そう、違う。
「…アイリーン?」
「父さんは他のどんな父親よりも素敵な父親よ?…だって父さんは色んなお話を聞かせてくれるでしょう?それにわたしが眠るまで側にいてくれるわ。お誕生日はお仕事を休んでまでお祝いしてくれるもの。…そして何より私を愛してくれてる。こんな優しい父親他にはいないわ」
母さんがいなくなってからも、忙しい仕事を休んで、母さんがいた時のように生まれてきてくれてありがとうと言って抱きしめてくれる。
「わたしの父さんが父さんじゃなかったら…とっくに気味悪がってすてられていたわ」
本当に、見えないものが見えて子供らしくない幼児は他人からしたらとても気持ちの悪いものだろう。だから、そんな私を愛して育ててくれる父さんには感謝してもしきれない。だからそんなこと言わないで?そう言って父さんに笑いかけると、父さんは一瞬驚いた顔をしてから床に膝をついて私を抱き締めた。
「ありがとう…アイリーン」
嗚呼、いつもの優しい父さんの声だ。
「でもね、アイリーン。君はちっとも気味悪くなんかない。とっても、世界一可愛い俺の愛娘だよ」
そんな父さんに私もぎゅーっと抱き締め返した。普段ならそんな事はしないのだが、今日だけはベッタリと父さんに甘えよう。父さんには見えないけれど、シルキーもゴブリンやコボルトも皆んな嬉しそうに私達の周りを飛び回っている。
「ねぇ父さん、今日は一緒に寝てもいい?」
「勿論だよ」
翌朝。必要最低限の荷物をまとめて、既に準備を終え てリビングで待っている父さんの所へいくとシルキーの淹れた紅茶を飲みながら新聞を読んでいた。
「アイリーン、もう準備はできたのかい?」
「うん、大丈夫よ。でも行く前に皆んなにお別れしてきていい?」
暫く此処へは戻れないようなので、皆んなにはきちんとお別れをしておきたい。
「勿論だよ。留守をお願いしますって伝えといてくれ。それにまだ迎えの馬車が来るまで時間はあるからゆっくりしておいで」
自分には見えないのに当然のように送り出してくれる父さん。
「分かった。ありがとう父さん」
「行っておいで」
「うん!」
「みんな出てきて?」
庭に出てみんなを集めた。シルキーにゴブリン、コボルト、ブラウニーといった家妖精が集合した。みんな集まると結構な集団だ。
「私ね、暫く此処を離れなきゃいけなくなったの…」
途端に妖精たちはざわざわと落ち着きがなくなる。無理もない。この家の住人が居なくなれば、この妖精たちが此処に留まる意味はなくなる。
「私が戻って来るまでこの家のこと頼める?父さんからもお願いって言われたわ」
すると、当然だとばかりに力強く頷いてくれる。
「ありがとう!沢山お土産持って戻ってくるから」
お土産という言葉にゴブリンやコボルトは飛び跳ねて喜んでいる。この子達には食べ物の方が良いかな?
シルキー達は心配そうに私の頬を撫でてくれる。
この町の生活でいつも寄り添ってくれたのはこの子達妖精だ。近所の子供から仲間はずれにされてもこの子たちがいたから寂しくなかった。…離れるのは凄く寂しい…。そんな私の雰囲気を感じ取ったのか、先程まで飛び跳ねていたゴブリンもしゅんと静かになった。するとコボルト達がまるで行くなというように、私のスカートの裾を引っ張りだした。
「皆んなと離れるのは寂しいわ…」
コボルトの頭を撫でる。この子達の言葉は分からないけれど生まれた時からずっと近くにいたから大体は伝わってくる。
「おや、アイリーン嬢。何処かに行くのかい?」
聞き慣れた低い声が降ってきたかと思い、見上げればブルーノが塀の上からこちらを見ていた。
「あら、ブルーノ。なんだか久しぶりね」
「少し遠出をしていた。それで、何かあったのかい?」
「それが、暫く父さんの実家のあるカルトアに行くの」
「カルトア…あの騒がしい町かい」
ブルーノは毛虫でも見たような苦い顔になった。
「ブルーノはカルトアに行ったことがあるの?」
「ああ、随分と昔の話だが、その時から人間が沢山いる騒々しい町だった。今はどうかは知らんが」
ブルーノが随分と昔と言うくらいだからもう本当にかなり昔だったんだろう。
「そうなのね…そんな所でやっていけるかしら…」
「なぁアイリーン嬢、私もカルトアに一緒に連れて行ってくれないか?」
「ブルーノも?…でも貴方はこの町のケットシーの長じゃない。大丈夫なの?」
「ああ、猫ってのは放っておいても気儘にやるものだ。私が居なくなってもそれ程問題はない。それに、アイリーン嬢の側は退屈しない」
ニヤリと口元を緩めた。
「そうなのね。退屈しないかは分からないけども、ブルーノが一緒に行ってくれるのは心強いわ」
思えば、母さんが逝ってしまった時も自然と側にいてくれたブルーノ。近過ぎず遠過ぎず、静かに私達を見守っていてくれているような妖精。そんな彼がまだ側に居てくれるというのはとても嬉しい。
しかし、冬になったらまた来ると言ってくれたジャックはこの地に来て私が居なかったらどう思うのだろうか。薄情だと失望するのだろうか。それとも優しい彼の事だから心配して探してくれるのだろうか。どちらにせよ、彼には申し訳ない。
馬車に揺られながら父さんの実家を想像してみる。都会っ子は父さんのイメージじゃなかったんだけどなぁ。
「ねぇ父さん」
「どうしたんだい?」
「カルトアってどんなところ?」
「うーん、そうだなぁ…。とても賑やかな所だよ、コーリンとは間逆な町だ」
「そんなにコーリンと違うの?」
豊かな街といってもこの世界での豊かってのはイマイチ想像がつかない。
「あぁ、カルトアは西の中心部だからね。西では一番発展しているんだ」
「そうなんだ…」
「騒がしい所は苦手だろうけど、無理はしないでくれ」
「分かったわ父さん。ありがとう」
「ああそうだ、アイリーン。これからお祖父さんと住むことになるんだけど、大丈夫かな?」
「え?お祖父さん?」
「そうだよ。父さんのお父さんだ」
うん、それは分かる。というか父さんと母さん以外にも親類がいたのが吃驚だ。そういう話は二人から一度も聞かされた事はないから。自然と私も聞いてはいけないものだと思っていた。
「私は大丈夫。…でも、お祖父さんが私と住むの嫌かもしれない」
だって、こんな厄介な孫は迷惑だろうし。
「そんな事は無いよアイリーン。お祖父さんから一緒に住もうって言っているんだから」
「そうなの?」
「ああ、だから何も気にしなくていいよ」
「そっか」
「あ、一つ言い忘れていたよ」
思い出した思い出したと茶目っ気出してきた父さん。
「なあに?」
「お祖父さんの仕事なんだけどね、実はカルタールの領主をしているんだ」
「え?」
またもや父さんお得意の爆弾発言。
なにそれ、どういうこと?リョウシュって、領主だよね?長?カルタールって西で一番大きな領土じゃなかったっけ?その領主ってことは、つまり…。
唖然として開いた口が塞がらない。ぽかーんと間抜け面で父さんを見つめていると、そんな私に構わず父さんは続ける。
「アイリーンのお祖父さんはカルタールで一番偉い人なんだ。…だから、今までの生活と変わることもあると思うけど…大丈夫かい?嫌なら父さんとアイリーンだけで住むこともできる」
結果。お祖父さんは偉い人で恐らくとてもお金持ちでした。父さんは二人だけ住むことも出来るというけど、それはあまりしたくない。だって、お祖父さんも息子の父さんと一緒に住みたくて呼び戻したのかもしれないから、私の所為でお祖父さんが寂しい思いをするのは嫌だ。
「心配しないで?私、お祖父さんと住むのちょっと楽しみだもの」
私の肉親は父さんと母さんだけだったので、お祖父さんがいるという新たな事実は家族が増えたようで素直に嬉しいと感じる。
「そうか…少し気難しい所のある人だけどアイリーンなら大丈夫そうだね」
え、怖い人だったらどうしよう。それにお祖父さんは私が変わっているって知っているのかな?父さんに聞いてみたいけど何故かできない。
「領主様なら、お祖父さんは貴族なのよね?」
セイサは貴族が領地を治めていると本で読んだ。
「ああ、一応フロックハート公爵っていう爵位があるよ」
父さんは何でもないように、というかどうでもいいように言う。…あれ?公爵って爵位的にどこらへんだっけな?そこら辺もちゃんと勉強しておけばよかったな。
「ねえ父さん、私ちゃんとした方がいい?」
「アイリーンは十分ちゃんとしているだろう?」
これ以上何をちゃんとするんだい?と全く的外れの親バカな返しをする父さん。
「そうじゃなくって、言葉遣いとか直した方が良いかな?」
流石に父さんに話す風にしたら失礼だよね。
「うーん、社交界に出るならそうした方が良いけど、お祖父さんだけだから大丈夫だよ」
「本当に?」
「ああ、あの人はアイリーンと会いたくて呼び戻したんだからそれくらいでは何も言わないよ。むしろ普通に接してあげた方が喜ぶと思うよ。なんせ可愛い可愛い孫娘だからね」
拝啓 未だ見ぬお祖父さん、ごめんなさい…。貴方の息子さんは大いに勘違いしてしまっています。完全に親バカフィルターを通して解釈しちゃってます。…父さんもお祖父さんの気持ちくらい察してあげようよ。まったく鈍いんだから、父さんは。