『吸血鬼』出版を巡るすったもんだ
Wikisourceで読める単行本とNew Monthly Magazineとの異同など。参考文献は、(ランキングタグ用)欄外にリンク付きで表示する事とした。
翻訳の底本としたのは、Wikisource にある単行本から文字起こしされた文章。句読点抜けが見受けられた為、Internet Archive にあった初出を含む雑誌 The New Manthly Magazine の影印版と見較べたところ、本文は改行以外、誤植箇所を含めて同じだった。
[Entered at Stationers' Hall, March 27, 1819.]とは、往年の著作権表示である。1403年以来、今に続くイギリス出版業の同業者組合である文房座 Stationers' Company
が1557年に勅許を受け印刷業独占権を持っていたため、文房登記簿 Stationers' Register への登記は、出版物と認められた事を意味した。その日付がおかしい点については作者ポリドリが問い質すも、回答は無かったようだ。
なお Stationer とは元来、納入用の集積所 station を大学などに持つ書籍商を指した。同時に文具も扱ったため、後に文房具店一般を言うようになった。
参照 Edward L. Carter“Entered at Stationers’ Hall” The British Copyright Registrations for the Book of Mormon in 1841 and the Doctrine and Covenants in 1845. Article in Brigham Young University studies. Brigham Young University · January 2011
ただし後発の単行本にないのは、by Lord Bylon の文字ばかりではなく、気になる事が書いてある。
これは翻訳を入れなかったのだが、バイロン卿の動静を伝える『ジュネーブからの手紙抜粋』に前書きが付いて
昨秋の間、大陸旅行中の友人から私共に、私信少々が御座いました。以下、お目にかけますのは、それに入っていた、ごく些細な事でも気になってしまうさる御方の秘話の類。その精神の目立たない点までも認めようとする、不安定ながら桁外れな天才を知る方々には、重要で価値あるものと言わざるを得ないでありましょう。手紙に入っていた物語を皆様に提供出来ます事を喜びとするものであります。(編)
[We received several private letters in the course of last autumn from a friend traveling on the Continent, and among others the following, which we give to the public on account of its containing anecdotes of an Individual, concerning whom the most trifling circumstances, if they tend to mark even the minor features of his mind, cannot fail of being considered important and valuable by those who know how to appreciate his erratic but transcendent genius, The tale which accompanied the letter we have also much pleasure in presenting to our readers. ─Ed.]
というから、1818年秋には原稿が編集部に届いた。この「手紙」末尾には、B卿・医師・女性の1人が成した各々とあり、ご丁寧にも編集部が補足して
*私共は、Dr.… の物語と、ミス・ゴドウィンの概要を所有しております。後者は「フランケンシュタイン、または現代のプロメテウス」と題して既刊ですが、前者は著者と折衝中で、近いうちに提供出来るでありましょう。(編)
We have in our possession the Tale of Dr.—— , as well as the outline of that of Miss Godwin. The latter has already appeared under the title of "Frankenstein, or the Modern Prometheus", the former, however, upon consulting with its author, we may, probably, hereafter give to our readers.—— Ed.
とあり、3人分の原稿(概要)が送付されたのは間違いなく、但しゴドウィン嬢(後のメアリ・シェリー)の名は出しながら、ポリドリの名は削られた上、交渉中とか書いている。
ところがポリドリは、掲載誌を読んで早速抗議している。そのごく一部は、 New Manthly Magazine 5月号の片隅に掲載された。
MR. EDITOR,
As the person referred to in the Letter from Geneva, prefixed to the Tale of the Vampyre, in your last Number, I beg leave to state, that your correspondent has been mistaken in attributing that tale, in its present form, to Lord Byron.
The fact is, that though the ground-work is certainly Lord Byron's, its developement is mine, produced at the request of a lady, who denied the possibility of any thing being drawn from the materials which Lord Byron had said he intended to have employed in the formation of his Ghost story.
I am, &c. JOHN W. POLIDORI.
と、これだけで引用を終わり、コメントも何もない。
全文は日記に転載されている。
さて、抗議の手紙は
John Polidori to Henry Colburn.
[London], April 2 (1819).
Sir,
I received a copy of the magazine of last April (the present month),
と書き出された以上、確かに掲載誌を受け取ったのだ。この抗議は発売日翌日の日付があり、つまり早過ぎるほど早かったのだが、それは掲載誌を送られたからだった。なお郵便という制度は1840年に始まったので、このときはまだ存在しない。従者を遣わすかメッセンジャー・ボーイに託したのであろう。つまり編集部はポリドリの存在を把握し、作者として遇した事になる。でありながら尽くその名を削られたのは、出版者コルバーンの意志であろう。
だらだらと続く抗議は宣言して
the tale of The Vampyre—which is not Lord Byron's, but was written entirely by me at the request of a lady,
バイロン卿ではなく自分が書いたと主張した上、「ある淑女の求めに応じて」という。これはメアリ・ゴドウィンかと思っていたら、上記によりゴドウィンの名を隠す理由がなく、どうやら「ジュネーブからの手紙」にいうブリュース伯爵夫人のようだ。「手紙」の言い分が正しいならば、ブリュース伯爵夫人のサロンに通っていたポリドリは、バイロン卿の動静をネタにしていた。明白には書かれていないが、デュオダティ荘での事件もポリドリが喋ったのを、夫人が覚えていて記者(?)に伝えたのであろう。それなら、原稿の持ち主も夫人だった筈。
who saying that she thought it impossible to work up such materials, desired I would write it for her, which I did in two idle mornings by her side.
「貴方にそんなもの出来っこないのではなくて?」と焚き付けられたポリドリが意地になって見事書き上げた、その時間が午前中2日分、実質1日というのは訳者には真似出来ない速筆。by her side.と記すからには多大な支援を受けた筈で、だからこそ彼女に献じられたのであろう。
せっかく書いてはみたものの作者には出版の当てもなく、でも出版への狂おしい気持ちを知る彼女から、取材に訪れた出版関係者に託された。「手紙」がいう幸運とは、こういう事だったのではないか。だったら、この名前しか出てこないブリュース伯爵夫人こそ、小説『吸血鬼』の母のような存在ではないか。ファンの一人として感謝を捧げずには居れない。日記の引用はグーテンベルク・プロジェクトに拠る。
憶測になるけれど、この時ポリドリはもう一言、作品の根幹に関わる事を言われたに違いない。「貴方とバイロン卿の事を書けば良いんじゃない?」と。
これは訳してみて解った。オーブリーとラッセン卿の組み合わせこそは、ポリドリ自身とバイロン卿の戯画に他ならない。お陰で本は売れたのに、作者は名声でなく悪罵を受けてしまった。バイロン卿の怒りとは、未熟な作者に向かうよりは、そんな若さ故の過ちも許さない周囲の状況に対してだったような気がしてならない。詩人という傲慢な人種は、誰もが自分こそ世界一と堅く信じて止まない癖に、不遇な作家を見かけると「コイツは俺が面倒見てやらねば」と、奇妙な義務感に駆られるものなのだ。もちろん隣人愛などではなく、少しでもより面白い作品を見たい我儘から来るものではあるが。
Franklin Charles Bishop が "Polidori carelessly left his original manuscript and apparently forgot all about it" 等と憶測しているのは、考慮に値しない。いやしくも作家たるものが、それもデビュー作を置き忘れるなど有り得ない。しかし旅上にあって作家デビューを果たしてもいないポリドリに、何をどうしろというのか。同様に使い道に困り預かったバイロン卿とメアリ・ゴドウィンの原稿共々、夫人に託したのであろう。
そもそもバイロン卿とポリドリ医師の消息を夫人から聞けたのは、それなりの見返りが有ったはずで、それが出版の約束ではなかったか。これは「手紙」筆者及び編集部にとっても、作者側にとっても、その時には「幸運」と思われて、夫人は作者に喜ばしい報せを伝え、作者は天にも昇る心地で発売日を指折り数えて待った事であろう。しかし出版者にとって貴族ですらない無名の医師など物の数ではなく、欲しかったのはバイロン卿の令名だけであった。そういう顛末ではあるまいか。
抗議を受けてか、コルバーンの発行した単行本は後に、Related by Load Byron to Dr. Polidori. と訂正されたものの。19世紀いっぱいはほぼ、by Load Byron として知られていたという。




