77-ヤタの夜・中編
霧の夜に、狐達は空を舞う。
彼らの足ならば、天坂と戦っていた場所から御所まではあっという間だ。
もう邪魔者もいないので、彼らはほんの一息で辿り着く。
さぁ、幕府を滅ぼそう。
そう息巻く彼らの目の前にいたのは……
「……」
「あなたが吹き飛んだのってこの方向じゃないですよね?」
赤い荒波の着物をまとった侍、天坂海音だった。
彼女は目を閉じ、刀を右手に門の目の前で仁王立ちしている。
呼吸は落ち着いているし、骨の数本折れていそうな体もまるで揺らいでいない。
全身から血が溢れ出しているのに、まるで無傷のようだった。
「まぁそうですね。歩いてきました」
致命傷を物ともしない天坂は、目を開くとしれっとそんな言葉を返す。
この場を誰かが見ていたならば、彼女の方をこそ化け物と呼ぶだろう。それほどの衝撃が、この場を支配していた。
それこそ、玉藻前ですらあ然として、左足を一歩後ろに下げてしまっていた程だ。
仮面の怪人ももちろん呆然としており、思考を放棄したかのように無防備なままポツリとつぶやく。
「はい……? あなた本当に人間ですか……?」
「どうでなんしょう? 小さい頃はかなり暴れていて、鬼の子なんて呼ばれてましたし……」
「はぁ……今度はちゃんと息の根が止まるのを確認します。
あなたに2対1でも、卑怯だなんて言わないでくださいね?」
「もちろん。むしろ……」
どうにか気を取り直した怪人だったが、天坂の返答はさらに彼の思考を飛び越える。
薄く笑った天坂は、懐から札のようなものを取り出すと、それを前に付き出した。
それが淡く光を放ったかと思うと……
"水神の相-出雲"
四方八方から輝く水が湧き上がり、彼らを水壁で閉じ込めた。
水は数十メートルにわたって出現しており、天坂の背後など神殿のように形造られている。
だがもちろん、飾りにしか見えない壁や神殿だけではない。
水壁以外からも泡や水柱が生まれていて、それが家屋や愛宕御所を守っているし、玉藻前の炎も消してしまう。
天坂の状態を踏まえた上でも、もう優位は無くなっていた。
良くて五分、何なら玉藻前側が不利まである。
事実、既に玉藻前と怪人にはまったく余裕がない。
あ然や呆然を通り越して、逃げ腰だ。
「こ、これは……」
しかも、さらに天坂は追い打ちをかける。
"天后招来"
先程の札を顔の前に持ってくると、再び淡く光りだす。
そして足元に札を投げ、水が集まったかと思うと……
「あらあらまあまあ。海音ちゃんボロボロじゃないの」
「ん、ごめんなさい」
羽衣のようなものをまとった女性が現れた。
彼女は血塗れの天坂を見ると、すぐに水の塊を手のひらに生み出す。
そして、それを天坂に当てると見る見る間に傷が治ってしまった。
表情は見えないが、怪人も玉藻前もおそらく涙目だ。
今って冬だったのか、と思ってしまう程体を震わせている。
『あなた……あなた……』
「申し訳ありません、玉藻前様。将軍殿や他の四天王達が遊び歩いている以上、私がここを守らないと行けないのです。
影綱さんの邪魔をされては、私の仕事も増えてしまいますから」
「っ……!!」
正眼に刀を構える天坂を見て、怪人は思わず後退る。
明らかに戦意喪失してしまっている様子だ。
だが、玉藻前は違った。
顔に九字切りの紋様が浮かんだかと思うと、一本だった尻尾がいきなり九本に増える。
そして、先程と違った無機質な声で言葉を発した。
「制限が限定解除されました。
これより先は、私があなたの殲滅を開始します」
「了解いたしました。貴方様の御心のままに」
玉藻前の言葉を聞くと、怪人はすぐさまこの場からの離脱を始めた。
天坂も、得体のしれない怪人を優先して追うつもりはないようだ。
緊張感を高めて、目の前のより大きな脅威に刀を向ける。
玉藻前であって、玉藻前とは思えないそれへと……
「あなた……何者ですか?」
「玉藻の残り火」
「……私は雷閃四天王、天坂海音。
この水明の暴君の支配下で、私に勝てると思わないでくださいね」
愛宕御所前という、国のほぼ中枢にて。
両者は今度こそ、全力でお互いを滅ぼしにかかった。
~~~~~~~~~~
霧が月を覆う夜。百鬼夜行が訪れる夜。恐ろしき妖怪の夜。
彼らは変わらずそこにいた。
愛宕の街で、一番高い神社の屋根の上。
そこに足を組み、腕を枕に寝っ転がってくつろいでいる。
もちろん常にいられる訳でもないが、彼らは侍に見つからなかった場合は大抵そこにいた。
今晩も彼らは、妖怪達が暴れまわる都を眺めながらのんびりと会話を始める。
今見ているのは、玉藻の前と天坂海音の一騎打ちだ。
「今日は運がいいねぇ」
「そうかぁ? 天坂が当番だったせいで、今日の昼とか無駄に追い回されたじゃないか」
「でも、団子はばっちり食えた」
「あたしは気が気じゃなかったけどね!!」
「へへっ、わりーわりー」
軽く誤りながらも、男は視線を戦いに向けたままだ。
ここからでは水に囲まれているのでよく見えないが、どうやら両者の実力は拮抗しているらしい。
火もなかなか消えないし、水も蒸発しないので、火が水に映ってキラキラと輝いて見える。
しばらくは男を睨んでいた女だったが、やがてその水壁に視線を向けると感嘆の言葉をもらす。
「でも、これがここから見れたのは運が良かったかもねぇ。
たまに空に上げられる花火みたいだよ」
「だよなぁ。
あの戦いを再現できるなんて、人間ってすげーよ」
「待ちな。人間は別にあれを再現してるんじゃないよ」
「え、そうなのか? あっはっは、びっくりだ!!
けどまぁいいじゃねぇか。
俺達が妖鬼族を止めるのに変わりはねぇしよ!!」
男は豪快に言い放つと、いきなり立ち上がり思いっきり屋根を蹴る。
彼は、弾丸が打ち出されるかの如くスピードで空に舞い上がると、そのままある一点に向けて落ちていった。
女も、それを見届けてから立ち上がる。
だが彼女は飛んでいくつもりはないようだ。
普通に屋根から駆け降りると、そのまま歩いて神社を後にした。
~~~~~~~~~~
驚く程のジャンプ力を見せた男が降り立たったのは、2人の戦士の前だ。
1人は青毛の巨体で、額には立派な2本の角が生えている。
3メートル程の背丈があり、胴体も四肢も恐ろしく太い。
そしてもう1人は人型ですらなかった。
蜘蛛のような気持ちの悪い四肢に、鬼のような恐ろしい頭が乗っかっている。
爪が鋭く、見た目も相まって相方よりも凶悪に見える存在だ。
男は、そんな化け物達の前でも変わらずにこやかに話しかける。
「おっす、熊童子に牛鬼。
死にたくなかったら、さっさと妖鬼の里に引き返せや」
「ああん? てめぇみてぇな裏切りモンに言われる筋合いはねぇよ。てめぇこそさっさと失せな」
「それによぉ、おめー儂らを殺せねぇんだろぉ?
聞く意味もねぇなぁ」
「あっはっは……あー‥残念だ。
俺も随分と甘く見られちまってるらしいな!!」
一瞬、笑みが不気味になったかと思うと、彼はいきなり熊童子の目の前に現れる。
わずかに紫電をまとった彼は、そのたくましい拳を熊童子の
顔面に叩きつけた。
「ぶへぇっ!!」
熊童子は無様な悲鳴を上げると、体格差があるにも関わらず近くの家屋にまで吹き飛ばされてしまった。
熊童子の顔の高さに合わせて空中だったというのに、恐ろしいパワーだ。
「てめ‥ぐがぁ!!」
当然無防備になっていた男だが、視線を向けてきた牛鬼に左腕をかざすと、紫電の衝撃だけでねじ伏せる。
男と鬼達の間には、それだけ圧倒的な実力差があったようだ。
男は、すっかり大人しくなった鬼達を眺めながら、悠々と着地して笑う。
その様子は眼中にないどころの話ではなかった。
男からしたら、鬼達はまるで赤子だ。
「あっはっは!! どーよ。帰る気になったか?」
「何で……てめーなんかが金鬼に……」
「そりゃあ自分の名を持ったからだろうなぁ。
鬼人は人ならず、鬼人は獣なり……ふん、バカバカしい」
「それを言えるのは……てめぇだけだ、クソ野郎!!」
「ハッ、誰にだって選択肢は用意されてんだ。それなのに、てめぇらは差別を受け入れ、復讐を選んだんだろうがよ」
男は荒々しく吐き捨てると、牛鬼を左手一本で持ち上げて熊童子の元へと運んでいく。
そして、熊童子を右手で持ち上げると思いっきり体を反らして、力を溜めながら投擲の体勢に。
「名を叫べ!! それこそ人である証だ!!
平等を願え!! それが1つの幸福の形だ!!
俺は人ともちゃんと分かり合いてぇ。
だからてめぇら、さっさと帰りやがれ!!」
「離せクソがぁぁ……!!」
男が紫電をまといながら一気に力を開放すると、2人の鬼は為す術もなく東の空へと放り投げられていった。
その軌道は当然紫電をまとっており、霧に反射していてとても綺麗だ。
鬼達が消えたのを見届けると、男はすぐに脱力した。
肩や首、腕をぐるぐると回しながら、戦闘後とは思えない程に陽気な笑い声を上げる。
「あっはっはー!! いーい運動になったぜー!!
こりゃあ明日の団子は格別だなぁ、参っちまうぜー!!」
「じゃあ行かなきゃいいじゃないか」
「おっとぅ。何だよいたのかよ」
「そりゃま1人であんなとこいても仕方がないしね」
彼女は、本当に仕方がなく、といった風に言いながら歩み寄っていく。全身から滲み出ているのは、諦めや疲れだ。
しかし、この男と行動を共にしているのならそれも当然だろう。
今も男は、それを聞きさらに嬉しそうに笑い声を上げている。
おそらく、彼がなぜ笑っているのかなど誰にも分からない。
そんな男を見て、女は重ねてため息をつくが、そんなことで気分を害する男ではない。
さらに笑みを深めていく。
「もう帰るよ。雑魚妖怪なら下っ端共でも十分だ」
「分かってらぁ。あいつらだって遊びてぇだろうしな」
「待ちな。人間は命がけの戦いを遊びだなんて思わないよ」
「え、そうなのか? あっはっは、びっくりだ!!」
それを聞くと、女は再び深いため息をつく。
男は相変わらず笑い続けているが、だからこそ女は、これで人と分かり合えるのかねぇ? と思い悩むのであった。