389-時計の針は動き出す
「やぁ、こんにちは。大厄災を討ち果たした英雄諸君」
恐る恐る振り返った俺の目の前には、姉から受け継いだ聖槍ロンギヌスを落とし、上半身がまるまる無くなって絶命しているヘンリー。
そして、その隣で作り物の笑顔を浮かべている、ベヒモスと同じ大厄災――エリスの姿があった。
彼は……彼女は……? 黒いカラスみたいだったいつもとは全然違って、真っ白い聖女のような服装をしている。
だが、今までと同じように、散歩中にたまたま会ったから挨拶をしているだけ、という雰囲気はそのままだ。
今回は、現れた瞬間に人を殺しているというのに……仮面のような不気味な笑顔は変わらない。
ベヒモスの強さを……殺そうとした時の大厄災の恐ろしさを散々思い知った後だから、余計に思う。
この相手が、今すぐに逃げ出したいくらいに恐ろしい。
だけど……これはダメだ。彼は姉の死を無駄にしないように、善性を証明するように決意を固めていたのに……!!
「……あれ? 聞こえなかった? こんにちは」
「よくもヘンリーを、エリスッ……!!」
「挨拶は大事だって教えたよね? してよ、挨拶」
「ッ……!?」
エリザベスに借りた剣をそのまま振り上げ、敵に向かっていたはずが、俺はいつの間にか遠くの大樹に埋まっていた。
遅れでやってきた痛みに視線を下ろすと、俺の左腕は完全に消し飛び、腹もポコポコと穴が空いている。
うん、確認するまでもなく重傷だ。
俺は海音ほど丈夫じゃないし、治癒能力もない。
腕の再生だから、ロロやセタンタでも無理だろう。
この国で治すならば、エリザベス辺りに頼まないと。
ひとまず、この場での俺の脱落が確定した。
右目の青いオーラも強まってるし、血も抜けてるし、だいぶ冷静になった……というか、冷静にならざるを得ないんだけど……
くそ、こいつに挨拶は必要不可欠だってのに、言い忘れるとはしくじったな。でも、まさかここまでキレるとは。
エリスはいつもよりも気が立っているようだけど……生きているのは運が良かった、のか?
ここで暴れられたら全滅しかねない。どの口がって感じではあるが、連戦なんて無謀にもほどがある。挨拶しないと。
立ち上がるのを諦めた俺は、海音と雷閃に道を阻まれながらも、殺そうと歩み寄ってくるエリスに挨拶をする。
「挨拶を忘れて申し訳ない。こんにちは」
「そう、挨拶は大切だ。欠かしちゃいけない。絶対に……!!」
俺の挨拶を聞いたエリスは、邪魔をしてきたばかりか、まだ挨拶もしていない海音を睨みながらひとまず下がる。
さっきの挨拶は全員に対してのはずだけど、近くにいたのは俺達とアーハンカール辺り。
多分、遠くにいた彼女はギリギリ対象外でもいいと判断されたんだろう。改めてした時には、ちゃんと挨拶しないと殺されると思うけど。
ともかく、エリスは俺への殺意を収め、少しだけ退いた。
やはり気が立っているようで、仮面は崩れかけだ。
こっちが怖くなるくらいフラフラとしながら、時折水や風を吹き荒らし、地面を砕いている。
前から思ってたけど、こいつの呪いって泥だけじゃないのか……? 雷閃や今の俺みたいに、いくつか持っているみたいだ。戦うなら、ちゃんと知っておかないと。
「ぐ、ぁ……そう、英雄。英雄だ。君達は……英雄。
あのリーモスが死んだ。初めて契約は崩された。
もう後が無い。後が無いんだ……!!
私は圧倒的に不利な立場になった。戦ってはならないルールはあれど、俺の生死はもはやあれの手のひらの上だ。
元々不利ではあったけれど……う、ぐ、ぁ……!!
3人のうち誰かが気まぐれに敵対すれば、僕は死ぬ」
俺がローズに起こされながら聞いていると、エリスは本気で苦しみながらそんな言葉を漏らす。
後が無い、不利、エリスの生死は誰かの手のひらの上、誰かはわからないが3人動かせば殺せる……
聞き流しているだけでも、明らかに俺達には有利な内容だとわかることばかりだ。
ベヒモスの討伐は、思っていた以上にこの世界にとって重要なことで、またエリスを苦しめることだったらしい。
まだ戦える面子……海音、雷閃、ライアン、ヌアザ、ダグザ、ルー、ヴィヴィアンなどが身構えている中、大厄災はうめき続けていた。
もちろん、今の状態で手を出しても全滅の可能性が高い。
下手したら国ごと消えかねないので、誰も手を出せないでいるのだが。これ、本当にどうすれば……?
「あっはは、でももういいや。私は、ようやく救われるのかもしれませんからね。長い……本当に長い旅路でした。
みんな、殺してあげます。こんなに辛く苦しいだけの世界、終わらせてあげます。でも、もしできるのなら、私を……」
ひび割れた笑顔で、もうとっくに壊れているような表情で、その神秘は清々しい空気をまとってこの世界を呪う。
見た目は聖女なのに、表情が恐ろしすぎて破滅的だ。
もし連戦になるのなら、俺達はここで……
「プセウドス、レーテー」
「はい、ここに。母さん」
「レーテー、レーテー……儂の名じゃったかの?
うむ、ここにおりますよ、母上」
絶望に潰れそうにながらも、なんとか覚悟を決めていると、エリスはパァンと手を打ち鳴らす。
直後、彼の左右に現れたのは、どこかで見た覚えのある神父と仙人のような見た目の老人。
プセウドス、レーテー……あの人達は、何だっけ?
「プセウ、ドスッ……!! レー、テーッ……!!」
俺が首を傾げていると、離れた位置から怒りに満ちた怒鳴り声が轟いた。驚いて視線を向けてみれば、そこにいたのは風をまとって襲いかかろうとしているフーだ。
息も絶え絶えなルキウスとクイーンに抑えられ、まだなにも起こってはいないけど……ちょっとマズイかもしれない。
ここの場で戦いになったらこちらが不利なのに、一触即発の雰囲気を感じる。
しかし、相手も今すぐに戦うつもりはないようだ。
老人――レーテーは首を傾げているし、エリスはそもそも興味がなさそうだったが、プセウドスは愉快そうに笑っている。
何もせずに、ただ彼女の反応を楽しんでいるように。
「ふふ、落ち着いてくださいフー。あなたはお兄さんに守られるだけの臆病者でしょう? 彼が死んでしまったのですから、大人しく泣いていればよろしい」
「お前が、あたし達を!! お前達がッ……!!」
「残念ながら、私を恨むのはお門違いです。
我々はたしかにあなた達を弄り、実験体にした。
しかし、そのお陰であなた達兄妹は生き残り、また生きる術を得たのですから。何より、今のあなた達は自由だったはずでしょう? であれば、彼が死んだことも、今あなたが私を恨んでいることも、あなた方の選択の結果でしかない。
他人に責任を押し付けても、いいことはありませんよ」
どうやらフーは、プセウドスの言葉でリューの死を認識したようだ。ピタリと止まると、機械のような動きでカタカタと周囲を見回す。
少しして兄を見つけた彼女は、遠目からでも壊れてしまっているように見えた。震え、痙攣し、ふらつき、涙を流している。俺にはできないような、わかりやすい感情表現。
とても痛々しくて、少し……羨ましいかもしれない姿。
だが、号泣していたはずの彼女は突然止まる。
少し不自然な動きなのは変わらないものの、人が変わったかのように笑ってプセウドスを見やっていた。
「ふふ、もっと直接的な言葉をかけてあげなヨ、プセウドスクン。冷静に機会を伺え。自分が許さないから、絶対に殺してやるくらいは言えばどうだってサ」
「ははは。私としては、彼女の行く末などどうでもいいもので。元より戦争には引っ張り出すつもりでしたが……
わざわざ出てきたのであれば、貴女がどうぞ」
見た目は紛うことなきフー。しかし、中身はまったくの別人のようだ。八咫の戦いで、ドールの分身がおかしかったように。今の彼女の中にも、別の誰かがいる……!
抱きしめていたリューを放り投げた彼女は、そのままそよ風をまとって俺達の真ん中へ。コロコロと感情を変え苦しんでいるエリスや、ここに集まった面々を見下ろしながら、口を開く。フーにリューを投げ捨てさせるとか、コイツ……!!
「はじめまして、モルモット諸君。僕の名はファナ。
ガルズェンスで最も優れた科学者、ファナ・ワイズマンだ」
ファナ・ワイズマン……こいつ、ガルズェンスの科学者なのか!? ニコライと違って、温かみが全然ない。
何度も他人の体を奪うとか、それだけでろくでなしだってわかるな。
「まぁ、僕はあくまでも科学者。表に出ることはないガ……
今回は特別に、君達に教えてあげようと思ってネ」
「……何をだ?」
「戦争を起こすことを、ダヨ。現人神のいるエリュシオン、そして道中のアルステムを滅ぼす戦争サ。面白そうダロウ?
神を殺し、彼ら……クターとタイレンの民は豊かな土地を手に入レル。彼女……エリス達は世界を滅ボス。そういう戦争」
「っ……!!」
「アハハ、嫌なら止めに来たらイイ。僕はそれを観測スル。
君達を壊した僕達を、許さないんダロウ?
来なよ、ヴィンダールの片割レ。僕達の戦争にサ。
大陸の果て、最東端のクター、タイレンが起こした戦争に」
すべてを言い終わった後、彼女はフッと意識を落として落下してくる。慌てて風を操った時には、エリス達も既にこの場にいなかった。