378-VSベヒモス
再び勢いを落とした暴禍の獣を見下ろしながら、クロウはやはり自覚なく左目からだけ涙を流す。
八咫での時と同じように、青い光を迸らせている右の碧眼は乾いたまま。左の琥珀色の目からの涙も、手で触れたりするまでは気がつけない異常なものである。
隣に浮かぶヘズも、無表情ながら気遣わしげな雰囲気だ。
とはいえ、彼が何か言うことはないし、その異常がこの戦いに影響を及ぼすこともない。
さっきまでは記憶に障害があり、ローズに抱かれていたが、今のクロウはいつも通りだった。
いや、むしろいつもよりも感情を消して、凍てついた冷徹な視線を眼下に向けている。
ソフィアと海音がまだ耐えているので、冷静に。
ソン、テオドーラ、ラーク、シャーロット、ヘンリーと残りの円卓の騎士達が集っているので、焦らずに。
リューから継承したことで、新たに風の呪いを得ていることもあって、落ち着いて力を確認していた。
「……行けそうか?」
「うん。まだ全力で出せるかはわかんねぇけど、使える。
シャーロットやヘンリー達は?」
「降りたな。ソフィアさんに指示を仰ぐつもりらしい」
「なるほど、妥当だな。じゃあ、俺らも行くか」
「あぁ」
しばらく手を開いて閉じたり、周りで風を操ってみたりしていたクロウは、ヘズに促されるように降下していく。
コロシアムの上から飛び込んでいった円卓勢と同じように、真上の空から触手などを避けつつソフィアの隣に立つ。
「おっす、ソフィアさん。まさか本当に味方になってくれるとは思わなかったよ。マジでありがとう」
彼女の隣に降り立ったクロウは、既に触手や捕食空間に立ち向かっている円卓の騎士達を見つめながら、お礼を言う。
目の前で戦っている騎士達の戦況は、ベヒモスがリューの風によってもう何度目かの抵抗を受けたことで、そう悪いものでもない。
ソンは糸を縦横無尽に張り巡らせて、罠にかかった触手などを切り裂きまくり、回避も余裕で行っている。
テオドーラは自身も触手のように霊の手を伸ばし、これまでの誰よりも容易く攻撃も防御もしている。
痩せこけたラークは、幽霊のような軽い動作で避けつつも、相変わらず血や土を被って汚れているが……
クルーズ姉弟に至っては、覚悟を決めたような光を瞳に宿して輝かしい槍を振るいながらも、笑いながらチャリオットを乗り回していた。
総じて言えるのは、暴走状態でないベヒモスの食事であれば、彼らは余裕で捌けるということだ。
同胞が加勢に来たことで、一旦立ち止まって呼吸を落ち着けていたソフィアは、澄まし顔で彼に目を向ける。
「言ったでしょう? あの獣を殺したいと言うのであれば、同意します。この森にいた場合、私は貴方に手を貸す……と。
たとえ円卓から離反することになろうとも、これは正義であり果たされるべき誓い。騎士は約束を守るものです」
「うん、本当にありがとう。リューやセタンタ、円卓の何人かはもうやられちゃったけど……こっからは俺も戦えるぜ!」
「では、お互いに誓いを果たすとしましょう。
我々は暴禍の獣を討つ!! あれは既に、数千年もの間蓄えてきた力によって、傷をほとんど治している。遥か昔から続く、この世に存在してはいけない大厄災だ。
背中は任せます、夢を託された幸薄き少年よ」
「あぁ、幸運はあんたと共にあるぜ、最優の騎士!!」
暴禍の獣が現れたら、共にその脅威に立ち向かう。
ただの食事で災いを振りまくあの獣を、絶対に殺す。
そんな誓いを守るため、笑い合う2人は同時に駆け出した。
延々と最前線を駆け回り、触手や敵をとりあえず斬り続けている海音に続くように。それぞれが双剣と長剣を振るって、ベヒモスの食事を強行突破しながら。
彼らは戦場を駆けているので、もちろん常に背中合わせとはいかない。
だが、ソフィアに迫る捕食空間などを運良く察知し、的確に処理・指示していたり、クロウに迫る触手などを事前に読み切り、舞うように双剣で処理したりと、間違いなくお互いがお互いを支えていた。
ソンの糸、テオドーラの霊の手、ラークの毒剣、ヘンリーのチャリオットとシャーロットの聖槍。
敵の食事と味方の攻撃が入り乱れる、地獄のような戦場で、ソフィアは今までよりも真っ直ぐ接近していく。
「距離があると運良く突破もできましたが、流石に近づくと守りが厚いですね。こういう時こそ、司書殿でしょうか?」
「ふむ、私のことも把握済みか。
では、まだ薄いが図書館の記憶を開放するとしよう」
「彼らに指示も届けたいただけると幸いです」
「いいだろう、任せておけ。クロウくん、間を」
「ほんと、お前が迷い込んできたのも運良かったぜ」
段々と、運を踏まえても捌くのが大変になってきた頃。
ソフィアの指示を受けたヘズは立ち止まり、継承したことを思い出してからこれまでの記憶を思い起こしていく。
すると周囲に現れたのは、オリギーのような人型の羊、今は亡き太陽の騎士、花冠の少年などなど。
自覚して覚醒した以降に記憶された、決して色褪せないこの星の記録達だ。
"メモリーバース"
もちろん、それらは生者ではない。
仮初の質量こそあり、音をベースとした体は生前に近い姿を持っているが、あくまでも記録を元に再現された幻想だ。
人格の類も持ち合わせておらず、同じ見た目の使い魔が複数存在している。何人もの、騎士、羊、人の姿の獅子、黒犬、鯨、小猿、蝶、スライム達が、軍隊のように並んでいた。
シルの呪いを継承しているヘズは、後天的に絶対記憶能力も持っているため、再現度は完璧だ。しかし、何かを生み出す以上、隙が生まれることは避けられない。
触手や捕食空間、地面を破壊して迫る苛立ちの炎など、彼には無数の食事が押し寄せていたのだが……
"風天牙"
"アラウンドレイク・アロンダイト"
彼に頼まれたクロウとソフィアが、危なげなくそれらを打ち払っていた。少年が手を振るえば風の牙が前方に伸び、騎士が双剣を振るえばいきなり水の連撃が繰り出される。
運良く触手同士がぶつかったり、捕食空間を潰していたり、はたまた勝手に技の軌道に巻き込まれていたりもするため、彼の周りはこれ以上ないくらい安全だ。
また、ヘズの音によって『最優の命令、我らを守れ』と短く指示も出されていたので、糸、霊の手、聖槍などによる援護も行われていた。それら守れながら、記憶の軍勢は速やかにこの世界へと紡がれ現れていく。
『進軍!』
『――!!』
声なき亡者は、ヘズの指揮の元歩き出す。
彼の音にはソフィアの命令も含まれるため、周りで戦っている仲間達も、脳筋の海音を除いて援護に動いていた。
絶えず張り巡らされ、切り裂きまくる糸の罠。
空から降り注ぐ雨のような、聖者を天に召す神の手。
掠っただけでも倒れる、防御不能の毒撃。
白銀の輝きを放つチャリオットと、黄金の輝きを放つ聖なる槍の軌跡。ついでに、さっきからちょくちょく迸っていた、赤黒い血のような閃光――一言でいうとビーム。
一度は離反した者も、普通に反逆していた者も。
円卓は最優の元に束ねられ、着実にベヒモスを追い詰めていた。
とはいえ、狂っていても……狂っているからこそ大厄災。
何度も傷を再生し、暴走していたように、これだけの力なら大丈夫だと気を抜くことなどはできない。
記憶の軍勢を壁に、円卓の援護を受けながら進むソフィアは、確実に大厄災を滅ぼすべく頭を回す。
「ベヒモスは我々とは比べ物にならないくらい力を……言うなれば魔力や神力のようなものを蓄えています。
地球にあるあらゆるものを万物を我が糧にや万物を溶かす胃で喰らっているのですから、当然ですね。
あれが秘めたエネルギーは、星を代行できる程でしょう」
「だから、傷もあっという間に治るのか……?」
「えぇ。女王様も森を統べているため、我らよりはあの獣に近い存在ですが……あの方は日々森の再生に力を使っておられる。ここ最近の治療も響いて、やはり太刀打ちはできない」
「その上で滅ぼすには……」
「殺しまくる。以上です」
「ふむ、脳筋だな」
「神秘であれど、殺せば死ぬ。その常識は覆りませんから。
ただ、首や心臓などへの警戒は流石に高い。ですから、私が殺す場合は斬り続けることしかできません。しかし……」
「俺なら運ですり抜けられる……か?」
「はい。ですので、とりあえず一度はあなたに試してもらいます。援護はこの通り。司書殿に円卓がついていますよ」
「頼もしいね、ほんとに……!!」
序盤からずっと戦い続けていた最優の騎士は、ようやく記憶の異常を振り切り落ち着いたクロウに、すべてを託す。
ヘズと一緒に彼の周囲を固めながら、触手や捕食空間などを荒れさせる獣に迫っていった。
「アァ、ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!! 腹ァ、減ったァァァッ!!」
「さぁ、行きますよ……!!」
記憶の軍勢を突破してくる触手を、防御など関係なしに突然現れる捕食空間を、聖槍や霊の手の輝きが制圧する。
赤黒い血の閃光と共に迸り、根こそぎ吹き飛ばすことで道を開く。糸や毒の影響もあって、少しずつ動きも鈍っていた。
その隙を見逃さず、双剣を構えたソフィアは踏み込んだ。
彼女は人型ではあるが、獣としての本性は白鳥。
いつものように、前後左右から脈絡なく連撃を放ちながら、舞うように先攻していく。
「音で弾く! 飛べ、クロウくんも!!」
「助かるっ……!!」
風で体を浮かせたクロウには、まだのたうち回る触手を避けながら高速飛行は難しい。だが、音波の衝撃で弾かれたことで加速し、ソフィアを追うことができていた。
舞うように、回転しながら道を開く双剣に続き、暴禍の獣は眼前に。最後まで邪魔をする触手を双剣が弾けば、もう標的は目と鼻の先だ。
"天羽々斬-神逐"
ずっと怠惰に留まりながらも、空腹の憤怒から逃れられず。
強欲に伸ばした食指で、傲慢にもすべてを喰らう暴食だった獣は、何を思ったか顔を上げる。
しかし、直後にそれの背中を打つのは天を斬る斬撃だ。
捕食空間などによって守られた上、そもそもベヒモスが硬いせいで真っ二つとはいかないが……
少なくとも、それの退避は防いで膝をつかせていた。
「故郷のことなんか、覚えてねぇけど……お前は新しくできた家族まで殺した!! ここで、終わらせるッ……!!」
風で体勢を整え、音の衝撃も殺してベヒモスの前に着地したクロウは、今まで抑えていた感情を昂らせる。
衝撃は殺しても勢いはそのまま。水も纏わない、ただ幸運を引き寄せる必然の剣を……
「何で……お前、何で泣いてるんだ……?」
凄まじい運命力を秘めた剣を振るおうとした少年だったが、彼はベヒモスが泣いているのを見ると、動きを止める。
剣は獣には届かず、体も極自然にその背後に。
その、わずか数秒後。クロウが耐え切れず叫ぶのと同時に、暴禍の獣は暴発して再び災いを振りまいた。