302-トラルテクトリ
シルクハットを押さえているキングは、ステッキを掲げると頭上に巨大な火の玉を作り出す。空に浮かんでいる本物には及ばないが、それでも泥を乾かすには十分だ。
湿ってぬかるんでいる地面からは少しずつ湯気が立ち昇り、表面は既に固まり始めていた。
だが、彼は炎の神秘ではない。あくまでも猫の神秘で、何かに特化していない代わりに幅広い力が使えるケット・シーである。
炎を操ることはできるものの、炎への耐性など持っていないので、その毛はチリチリと燃えていく。
クリフもライアンも何も言わないが、乾いた沼地が揺れ始めても沼地を乾かす代償を受け続けていた。
「ふふ、ワニも地上の異変に気がついたようだね。
近接戦闘になったらキミたちの出番だ。頼むよ?」
「おう、任せとけって〜。暑いけど頑張るわ〜」
「ま、俺の頼んだことだしな。暑さがネックだがよ」
「ちょっと、ボクに頼んだのキミたちだよね!?」
キングが下にいる仲間に呼びかけると、2人は槍を片手に汗を拭いながら軽口を叩く。
頼んでおいてこの反応とは何たることか。
自分は暑いどころか燃えている彼なので、2人の言葉を聞くと堪らず声を荒げた。
とはいえ、どちらもじゃれ合いの範疇だ。
暑いというのはもちろん本心だろうが、それで戦闘に支障をきたすことはない。
彼らはケタケタ笑うと真剣な表情で沼地に近寄り、空で炎球を維持しているキングは鼻を鳴らして顔を背けてしまう。
射手であるソンは、少し離れた位置で汗を流しながらも気にせず静観していた。
「さてさて、神獣様のお見えだ。気ぃ抜くなよ、ライアン」
"野生解放-グリフォン"
隣に立つ相棒に笑いかけると、クリフは槍を地面に打ち鳴らして獣人の能力を完全に解放する。
獣人である以上、見た目が人型であることに変わりはない。
しかし、その白髪はさらに伸びて逆立ち、口には尖った嘴が。背中には雄々しい翼が生えてきて、手足には鋭い爪。
全身は逞しい体毛の鎧で包み込まれ、頑強なものになっていく。
わずか数秒後、そこにいたのは真の意味で獣人の長。
人が獣の力を得たものを、神秘の影響を受けやすいながらも不完全な形でしか成れなかった異形を、正に体現した姿だ。
「はっはっは、任せとけって〜。
相手がデケェなら俺もデカくなるまでよ〜」
"獣化-スリュム"
屈強な大自然の本性を表した相棒に呼びかけられ、ライアンもサイズを調整した茨の槍を地面に打ち鳴らす。
彼は紛れもなく人間であるが、成った神秘によって後天的に獣の力を授かれる、獣人に近いものだ。
同じように体を膨れ上がらせ、氷のような透明感のある鎧を身にまとう。頭部にはやはり氷のような王冠を被っており、つららのように白いひげの上で、青い眼を輝かせていた。
それは、以前北の雪国――ガルズェンスで力を得ていた魔獣。
彼の国に巣食う巨人の王、強奪のスリュムの能力と形を得た姿である。
おまけに、彼らの準備が整ったのと時を同じくして、乾いた沼はビキビキと裂けていく。地下から現れたのは、泥や土を弾き飛ばしながら威容を見せる怪物だ。
一つの街を丸ごと飲み込んでしまいそうなくらいの巨体で、背中には骸骨のような模様が浮かんでいる。
その全身は地面のように広大で平たく、紛うことなきワニそのもの。だが、目の辺りには仮面のような物がついていて、ひたすらに不気味だった。
「……おおう。これは思ったよりもデカいな〜……」
「……はは、俺も見るのは久しぶりだ。正直、恐ろしいぜ」
アストランの長老と同格であるという怪物――トラルテクトリは姿を現した。沼地が固まったことで様子を見に来ただけなのか、まだ敵意などは見られない。
しかし、その巨人になったライアンとはまた違った巨大さに、彼らは思わず顔をひきつらせていた。
仮面をつけたワニの視線はわからないが、顔はそんな彼らの方を向いているため、おそらく凝視しているのだろう。
状況は動かない。ライアン達は槍を構えたまま静止し、空にいたキングもそそくさと空を飛んで去っていく。
「……さて、ボクはこれで帰ろうかなー」
「待て。私も戦うのだから、君も残れ」
「うげぇ、面倒だなぁ」
「ゴォォ……」
「……!!」
風に乗って逃げようとしたキングが糸で捕まった瞬間、ワニは静かに鳴き声を響かせる。決してけたたましくはないが、腹に響くような低音。
それをより近い場所で聞いていたライアン達は、反射的に槍で防御態勢を取って、数歩後退していた。
「なぁ、コイツをやるってことでいいんだよな〜?」
「あ、あぁ……コイツが最大の危険分子だ。他はともかくとして、これだけは放置して国を出られはしない。
会話に応じてくれりゃ、それで解決してもいいんだがな……」
「ん、強い神獣なら普通に話せるもんな〜。
けど、コイツは呼びかけても応じないってか〜?」
「あぁ、常に黙り込んで沼地の底にいた。ほんとに頭が痛い問題だぜ。下手すると大人でも丸呑みだからなぁ」
「ふ〜む、デカすぎてサークルにも収まんねぇけど……
とりあえずスリュム以外の力で一撃、行ってみるか〜」
大人しいながらも威圧的なトラルテクトリの姿に、ライアン達は緊張を高めながら相談を始める。
だが、会話には応じてもらえない以上、長老達と同格である魔獣を狩ることは確定だ。
そのためライアンは、能力範囲を超えられているスリュムに追加して、別の神獣の力を纏っていく。
"獣の王"
次の瞬間、既に巨人として姿を変えていた彼の体にはさらなる変化派が訪れた。
全身をレグルスの光が包み込み、微光ながらも確かに存在感を高める。ところどころはフェンリルの氷で凍りついているので、より光は拡散されて神秘的だ。
しかし、残る変化は体そのものを変えている。
スレイプニルの蹄、メガロケロスの角、ニーズヘッグの尻尾を備えるそれは、神々しさとは程遠い禍々しさだった。
おまけに、背中には羽のように広がっている土蜘蛛の足まであって、不気味であるとしか言いようがない。
普段から能力をフル活用する時に使う、合成魔獣状態。
悍ましい怪物となったライアンは、未だ微動だにしないワニに向かって氷光を纏った茨槍を叩きつける。
「ゴォォ……!!」
だが、直接的な危害が加えられるとなれば、これまで無言を貫いていたトラルテクトリも流石に反撃してくる。
一瞬でぐるりと頭の向きを変えたそれは、密林を吹き飛ばすような突風と共に尻尾を振り払った。
「ぐあッ……!?」
トラルテクトリの体を裂こうとした槍は、的が大きいはずなのにかすりもしない。真横の地面に突き刺さり、無防備な胴は強く尻尾に打たれてしまう。
おまけに、足元はかなり乾いたとはいえ沼地に近いものだ。
意表を突かれたこともあって、踏ん張りが効かずにそのまま遠くまで弾き飛ばされていく。
「っ……!? ライアン!!」
「おい、前を見ていろ獣人の長。不動なのは最初のみ。
一度敵と認識されてしまえば、それは本性を表す。
獣神と……神と同格なのだろう? であれば、あれはこの星の、大自然の化身と同義。敵は、世界だ」
翼で余波を耐えているクリフは、吹き飛ばされた相棒を目で追って振り返ろうとする。しかし、敵はトラルテクトリ。
アストランの長と同格である、神の如き獣だ。
ライアンが一撃で消えた通り、一瞬たりとも油断することは許されない。すかさずソンが注意を促し、彼は激変した世界を視界に映した。
目の前で巻き起こるのは、まさに天変地異。
怪物の動きで薙ぎ払われた密林が弾け飛び、同時に乾いた土がめくれ上がって沼地に戻る。
余波で生まれた突風が空をかき混ぜ、見る見るうちに湧き上がってきた沼が空を覆ってしまう光景だ。
しかも、瞬時に固まった泥は壁となり、逃げ場を奪う。
どういう訳か、ジャガーや蟻なども花びらのように固まった沼壁の中に集まっており、世界は今にも命の奪い合いが始まりそうな様相を呈していた。
大自然の食物連鎖を体現したような、殺意に満ちた闘技場。
逃げる間もなくその中に入ったキングは、諦めたように肩を落としながらも不敵な笑みを浮かべている。
「……これはボクも本気を出さなきゃだね」
「俺は最初から全力だったんだけどな〜」
「キミ、もう戻ってきてたのかい?」
「スレイプニルの瞬発力を舐めんなよ〜?」
遠くまで飛ばされたライアンも、ちゃんと壁が生まれる前に戻ってきていたようだ。巨人なのにいつの間にか背後にそびえ立っており、キングは目を丸くする。
とはいえ、全員が無事に揃っているのはありがたいことこの上ない。ライアン、キング、クリフ、ソン、デネブという、各集団の代表達は、怪物トラルテクトリの討伐を開始した。
「……ん、キラキラ? おいおいおい、何でここにいるんだよデネブさん!? あなたは捕まえたって報告があったぞ!?」
開始しようとしたのだが、1人、この場には似つかわしくない男がいた。それはもちろん、星屑のようにキラキラしている存在感の塊――綺麗な格好で沼地に立つデネブだ。
彼を逮捕したという報告を受けていたらしいクリフは、目が飛び出る勢いで驚き、問い詰めていく。
周りの面々も、ライアンの巨体に紛れていつの間にか現れていた不審者に驚くが、当の本人はどこ吹く風。
自然と輝いている髪を揺らしながら、この状況が理解できていない様子の能天気さで微笑む。
「うん? あんなところにオレっちが留まるもんかい。
というか、ここはどこよ? そんで、君は誰?」
「いや、族長のクリフだよ……まぁいい。
脱獄は不問にするから手を貸してくれ」
「オレっち目立ちたくない」
「こんなとこに来といて言うことか!?
とりあえずやるぞみんな!!」
脱獄囚でありながら、共闘を迷いなく断るデネブだったが、もう長く話してもいられない。やや緊張感が削がれたものの、彼らはそのままトラルテクトリ討伐のため動き出した。