285-控えめな三つ巴
「流石にそろそろ食べていいかな? 例えばそう、きみを」
「……!?」
一瞬で近くまで接近し、俺の目の前で拳を振りかぶっていたアーハンカールは、ギザギザとした歯を光らせながら笑う。
彼からは殺意も悪意も害意も感じない。
それなのに、どうしょうもなく自分に訪れる死を実感してしまうかのような果てしない重圧だ。恐怖なども感じていない俺の中には、落ち着いて死を受け入れている何かがあった。
驚きはしたけど、暴禍の獣を殺さないといけないというぼんやりとした強迫観念のようなものは残り続けているけど。
気持ち悪いくらい自然な流れで、今死ぬことが当然のような感覚に……
"インパクトボイス"
「うわっ、足場悪っ……」
俺が抵抗する気すら起きずに立ち尽くしていると、眼前まで来ていた彼は脆くなった地面に足を取られ、セタンタからの追撃を避けるために後退していった。
どうやら、ミディールからレーテーを守るために発されていたヘズの音は、俺達の周りの地面も脆くしていたようだ。
正直、まだ死の実感とかそれを受け入れている気持ちはあるんだけど……まぁ、運が良かったな。
違う、俺は暴禍の獣を殺さないといけない。
運が良かったのは認めるけど、死の実感や受け入れる態勢になっていることは認めちゃダメだ。
「……!!」
「うおっ!? いきなり頬を叩いてどうした!?」
気を引き締めろ、俺!! ここに来てから強まってるんだろ!?
俺は暴禍の獣を殺さないといけない……!!
そうしないと、俺は……
「クロー、ちょっとごめんねー?」
「ロロ……? どうし‥」
いきなりロロに声をかけられた俺は、夢か幻のように曖昧で強い思いに囚われ遅れながらも、声のした方を向く。
すると、目の前にはぼんやりと体の輪郭がぼやけた、巨大な口がパックリ開けられていて……
えぇ!? 何だこのデケェ口!? 声、ロロ……!?
「あむ」
「何だ何だ? クロウてめぇ、いきなり頬を叩いたと思ったら、今度はぼんやりし始めてどうした?」
アーハンカールを警戒して向き合っていた様子のセタンタに呼ばれたことで、俺はハッと我に返る。
どうやら、気を失っていたのか寝ていたのか、とにかく意識を失っていたみたいだ?
傲慢の間に来ているというのに、ここ数分間くらいの記憶が曖昧になっている。それ以外でも、ミョル=ヴィドに入ってからの記憶もところどころ曖昧なような……?
とはいえ、他には特に異常はない。
ぼんやりとしていただけだし、余計な事を言う必要はないだろう。
「……いや、何でもない。というか、俺頬を叩いてた?」
「叩いてたぜ。他のにも聞いてみろよ」
「と言われても……ヘズはミディール、雷閃はアーハンカールを警戒してこっち見てねぇし」
再び前を向いたセタンタに言われて、俺は周囲にいる仲間達に目を向ける。しかし、彼らはそれぞれの相手を警戒するために俺とは違う方向を見ていた。
ロロはガノの足元でアーハンカールの方を見ているし、ガノはガノで足元のロロに目を向けているし……
「音は聞こえたよ。たしかに君は、頬を叩いたんだろう」
「ふーん……」
どうやら本当に俺は頬を叩いたらしい。といっても、だから何だとしか思わないし、それよりはまたアーハンカールが何もせずにこっちを見てることの方が気にかかった。
俺は若干違和感を覚えながらも、気を取り直して前に進んで雷閃達の隣に立つ。
「とりあえず、またお前が止まってるのは何だ?」
「いやぁ、奇襲失敗したせいで警戒が高まってるし、単純に面白い出来事もあったし、まぁいっか。じゃあ今度こそ」
アーハンカールのスタンスはある程度わかったけど、それはそれとして居心地の悪さは変わらない。
俺がつい不思議な行動を指摘すると、すぐに彼は姿をくらませた。
"不知火流-雷火"
次の瞬間、彼は俺の背後に姿を現し、脆くなった地面で滑りながらも俺に拳を振り上げていた。
だが、手元からまばゆい光を迸らせた雷閃が素早く居合い切りで切り払ったことで、彼はすぐに後退していく。
「……!? 速すぎんだろこいつ……」
「あっは、そりゃおれらは身体能力のみの神秘だからねぇ。
こちらとしては、隣の侍くんがウザい」
自ら後方に吹き飛んでいた彼は、唯一反応できていた雷閃に面倒くさそうな目を向けながら飛び上がる。
身体能力のみの神秘って言うけど、あいつ個人には他に厄介な能力があるだろうに……
「クロウくん、君達は僕から離れない方がいいんじゃないかな。あれが見えるならいいけど」
「大丈夫だ、お前にだけ負担かけさせやしねぇよ」
「おいおい、それって俺様にも言ってんのかぁ!?
このセタンタ様を見くびってんじゃねぇよ!!」
"モードブレイブバード"
"ウル"
自ら空に吹き飛んでいく彼を見ながら投げかけられた雷閃の言葉に、俺とセタンタはそれぞれの言葉でそれを否定する。
さっきまではたしかに力不足だったが、もちろん口だけではない。
俺は右の碧眼に青い光を宿し、それに付随して全身にも青いオーラをまとわせて身体強化をしていく。
同じように、セタンタもルーン石を砕くことで、おそらくは身体強化のルーン魔術を発動していた。
ヘズは音である程度の予測ができるだろうし、ロロはそもそも戦闘に参加しないので、ほぼ全員の準備が完了だ。
ただ、唯一ガノだけは抜いた剣を肩に担いで暇そうにしているんだけど……
「おいガノ、戦わねぇのか?」
「えぇ〜? 雷閃さんが出るなら私いらなくないですかぁ? 今回はロロさんと一緒にサポートに徹しますよ」
"ディスチャージ・クラレント"
ガノは胡散臭い態度で俺に返事をすると、そのままの流れで剣を背後に振るう。その剣から迸ったのは、当然血のように赤黒い閃光だ。
今までの蓄積を容赦なく解放するビーム状の剣閃は、派手に周囲の地面を崩していく。しかも、その攻撃は無意味に繰り出したものでもなかったらしい。
閃光により巻き上がる地面の中には、いつの間にか接近してきていたのか、薄汚れた鎧の老騎士――ラークの姿があった。
「っ……!! 飼い犬に手を噛まれるとはこのことだな、ガノ卿。まぁ、元より己への信頼など無きに等しいが」
「クククッ、それは願ってもないことですねぇ、陰湿野郎。
それよりほら、いいんですかぁ? あれと共闘できないことなど、貴方よく知っているでしょう?」
体が浮き上がったラークはガノに皮肉を言うが、彼の返事を受けると目にも止まらぬ速さで天井を見上げる。
俺もつられて見上げると、そこにいたのは……
「やーっと姿を見せたと思ったら、人の獲物を横取りすんなよ陰湿男。もろとも食ってやろうか?」
もちろん、馬鹿げた身体能力のみで天井まで跳ね上がっていたアーハンカールだ。ついさっきまで天井に張り付いていた様子の彼は、ガノの一撃によって足を止めたラークを見据えながら、凄まじい勢いで突っ込んでくる。
遅れてそれに気がついたラークは、回避は無理だと判断したらしく無言で剣を構え、弾丸のような拳を受け止める体勢になっていた。
「……!!」
「話す余裕もないかい? じゃーしょうがない。
おれはきみに慈悲をかけて、優しく昏倒させてあげる」
「ここは審判の間内にある試練の1つ――傲慢の間。横取りではなく、手助けだ。己は苦難への対処法を知らぬのか?」
拳を受け止められたアーハンカールは、そのまま追撃を加えてさらにラークの足を地面にめり込ませていく。
まだラークの表情に焦燥感などは見られないが、凄まじい力で明らかに彼の劣勢だ。
しかし、全身に力を込めていることでわずかに強張った表情になっている彼は、特に変わらない淡々とした口調で語りかけていた。
傍から聞いていてもどこか挑発しているようで、ありがたい状況ながらも激怒しないかとハラハラしてしまう。
流石にオリギーみたいなキレ方はしないと思うけど……
「ははっ、苦難? 苦難だって? もしかして、おれの身に危険が迫っているとでも言うのかなぁ? まさかきみがそこまで愚かだったとは。いい? おれにとって危険なんて存在しないの。この世界のどこにもね。いい加減理解して?」
「はて……危険などこの世界にはいくらでもある。
それに気が付けないことこそ、己の愚かさよ」
「あ〜らら……随分と上から目線で言ってれるね、騎士サマ。
おれが傲るにはそれだけの理由がある。
今きみが、叩き潰されようとしているみたいにね……!!」
"クシャナガントレット"
上から殴られ続けていたラークは、それでも無駄に強気で、やたらと挑発的な言葉遣いを直さない。
さっき手助けと言っていたからには味方のつもりなんだろうが、愚かさとまで明言した彼は、すぐに雨のような拳の乱打を受けて地中に消えた。
「はーい、お休みなさい。あーあ、ちゃんと昏倒だけで済ませてあげるなんて、おれって優しすぎるなぁ」
殴り始めてからわずか数秒後。
殴るだけでクレーターを生み出した少年は、これだけのことをしておきながら、殺していないから優しいなどとほざいて清々しい笑顔を見せた。
地中の様子は見えないが、延々と殴られ続けていたことで、そのクレーターからは血が吹き上がっている。
アーハンカールの顔や両拳も、血の海にでも潜ったかのように赤くドロドロだ。
見た感じオリギーみたいにキレた訳じゃなさそうだけど……
言葉選びに問題があったとはいえ、まさか味方にできる人物を邪魔だからって躊躇なく叩き潰すとは。
他と違って人の姿をしているが、オリギーと遜色ないくらいにヤバい奴じゃねぇか。
「今」
「おっしゃ、死ねッッッ!!」
流石に俺が彼にドン引きしていると、どうやらタイミングを見計らっていたらしいヘズ達が動き出す。
ラークが消された瞬間にヘズが合図を出し、既に杖を呼び出しているセタンタがルーン魔術の雨を浴びせかけた。
"音振苦痛"
"R.C,K.H.I.S.T.B.L.M.N."
ヘズの音によって顔をしかめたアーハンカールに向かって、セタンタのルーン魔術は炸裂する。
ルーン石を砕いた杖から迸るのは、嵐の渦中に放り込まれたかと錯覚するほどの、圧倒的な物量の神秘だ。
風、炎、岩、雷、氷、光、金属片、植物、水。
ありとあらゆる神秘の奔流が、まるで敵の居場所を理解しているかのように一直線に向かっていく。
槍やら剣やらといった、形にする工夫など一切ない。
ただ、様々な属性の物質が吹き荒れる神秘の中に、彼は飲み込まれていた。だが………
「あー、無駄無駄。おれめっちゃ硬いんだよ。
シュタリオン自体の特性でー……いや、元より硬くなってるから、シュタリオンの特性と言っていいかは知らないけどさ?
まぁ、とりあえずおれにそれは効かねぇ見たいだぜ?」
すべてのルーンをその身に受けたはずのアーハンカールは、多少燃えたり切れたりしていながらも、ほぼノーダメージのような状態で微動だにせず立っていた。