176-それが人である証③
――彼が異形に成った時、周りには誰もいなかった。
――正常な人も、異形に成った人も。
――それは、もとより家族を失っていたため。
――それは、もとより温もりを失っていたため。
――彼は、自らを異形と気づかぬまま、自身に襲い来る人間を返り討ちにし続けた。
やはり人間とは脆いものですね。
このような過酷な世界になってしまえば、すぐに心が壊れてしまう。まさか、同じ人間が敵に見えるとは。
――彼は自身の状態を気にしない。
――もう、大切な人は誰もいないのだから。
――もう、生きる意味などないのだから。
――異常なほどに丈夫でも。
――異常なほどに殺意を向けられても。
――しかし、長く人の襲撃を受け続けた彼は、やがて死ねないのならば……と体を休める。
――変化してから始めて、水に映る自分を見た。
は……? これが、私……?
私は本当に化け物になっていたのか……?
――自身の現状に気がついた彼は、背後を振り返る。
――そこには、数多の死骸。自らが殺した人の山。
人に殺される。人を殺してしまった。
ここが、地球? 私が、人間?
誰が、正しい? 誰が、人間?
私は、一体どこへ向かうのだ……?
――彼は絶望の世界を見る。
――たしかに狂気に飲まれてしまう。
――しかし、決して目をそらすことはなかった。
――同胞に合流してからも、ただ、その絶望を見続けた。
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兵の配置を終え、他を気にすることのない全力の戦闘を開始した影綱、茨木の2人だったが、それでもなお、道真を倒すには至らなかった。
茨木童子はより本能を解放して硬質化を強めているし、影綱はもはや周りを気にせず影を操っている。
それでも、変わらず澄ました表情で神仏を操る道真に、軽くいなされてしまっていたのだ。
「本当にそれが全力なのか、影!?」
道真の背後に形作られている神仏――大日如来。
それが操っている四方の神仏の中の1つ、東方にいる阿閦如来が地面から生み出す金剛の柱に、霧ごと吹き飛ばされていた茨木童子は、硬質化を貫通した衝撃を受けながら叫ぶ。
彼の全身はくまなく硬質化しているが、やはり近接戦闘をしない術者の道真には通用していない。
霧も大剣も、あらゆる方向から押し寄せる金剛の柱によって叩き潰されていた。
それを見た影綱は、西方の阿弥陀如来に影ごと光で焼かれながら叫び返す。
「ッ……!! 奥の手を出す、死を覚悟してください……!!」
爛れた体を庇いながら影に潜った影綱は、光、金剛、そして北方の不空成就如来が放つ、すべてを穿つ空気の弾を避けながら距離を取る。
光は影をかき消してくるし、金剛はあまりの質量に、影になっていない部分にまで攻撃を届かせてくる。
その上空気の弾など、影になろうとも関係なく穿ってくるため、距離を取るだけでも全力だ。
だが、どうにか一息吐ける場所まで離れると、距離をとっても関係なく狙ってくる光と空気を、影で無理やり防ぎながら神経を研ぎ澄ます。
「我らには、海音のようにこれを力任せで突破する程の力はない。ならば、術には術だ……!!」
"月読命"
拡散する影の中に立つ影綱を、闇が包む。
獅童のように燃える訳ではなく、海音のように優雅に煌めく訳でもなく、雷閃のように光輪を作る訳でもない。
しかし彼らと同じように影が身を包み、だがやはり彼らとは違って、体に纏うのではなく影となる。
皆を導くように纏うのではなく、仲間を支えるために影になった。
1人道真の目前に残されていた茨木童子は、空気の弾に左腕を吹き飛ばされながらも、霧でくっつけて問いかける。
「それを使うことに、死ぬ覚悟だと……?」
「私、程度には……制御などできないのですよッ……!!
これはッ……魔人と同じような、暴走、ですッ……!!」
"影業輪廻・隠遁死滅ノ帳"
月のように輝く右目以外、完全に不定形となった影綱は、自身の意思を離れて荒れている体をどうにか押さえつけると、手だけ人の体を取り戻し印を結ぶ。
すると、彼を中心にして影が迸り、茨木童子も道真も飲み込んでいった。その範囲は、戦場となっていた場所の尽く。
茨木童子の霧や夜空、道真の化身までもが影に飲まれていた。
「うっ、これは……!!」
避けることを考える暇もなく影に飲み込まれた茨木童子は、さっきまで影綱がいた方向を見た体勢のまま、苦悶の表情を浮かべる。
彼はさっきまで神仏の攻撃を避けていたため、体の一部は霧になっており普通の攻撃はあまり効果がない。
しかし現在は、霧でも装甲でも関係なくおかしな方向に重力がかけられ体は曲がり、足は影の牢で固定され、全身は影の剣で刺され、周囲を影でできた人型に囲まれていた。
霧になっても思うように動かせない上に、そもそもここは影の中だ。どうにか牢から抜け剣を抜いても、すぐにまたあらゆる影に体を縫われてしまう。
「ぐ……!! 某は、味方のはず、だが……まさかそれすら、考慮できないような暴走、なのか……!!
しかし、これならばあの方も……」
何度も影に貫かれ、曲げられ、血を流しながらも、茨木童子は倒れることなく前を見る。
自身が逃れることのできない技ならば、神である道真にも通用しているのではないか……と。
だが……
「オン・アビラウンケン・バザラダトバン……金胎両部」
"梅花無尽蔵-道直"
影の嵐に苛まれている彼が見たのは、この影の世界にあって唯一正常な空間。
太陽があり、草原があり、川があり、木々がある。
夜空があり、昼空があり、星空がある。
道真の背後にいた神仏が消えたかわりに、四方を召喚された神仏で固められた小宇宙とでも言うべき世界だった。
「なんだ、それは……!?」
「無相の法身と無二無別……ここには、あらゆるものが胎蔵されて居るのですよ。こんなふうにね」
半身を重力に潰され、もう半身を逆に上空に引っ張られながらズタズタにされている茨木童子が驚愕していると、道真はどこからか取り出したお茶を飲みながら手を突き出す。
すると、その延長線上にはそそり立つ山が生まれ、半分には青々とした川、もう半分には溶岩の川が流れ始める。
おまけに頂上には積雪があり、真ん中には山を割るように河氷が流れていた。
もちろんすぐに影は重力、剣、棍棒などによって破壊し始めるのだが、道真がいる小宇宙と同じように崩れることはない。
小宇宙のように影響を受けない訳ではないが、水の柱、氷の刃、溶岩の壁などで影を防いでいる。
環境を変えてしまう程の力を行使した道真に、茨木童子は恐怖に顔を歪めていた。
「どうか、している……!!」
「ははは。ですが、これは別にすべてを創造したり、操るようなものではないですよ。これらはこの中にあるのです。
必要に応じて取り出し、その動きを調整しているだけです」
「ただある、だと……!? そんな、この世界そのものみたいなものが……!? そんな、ちっぽけな範囲に……!?」
「神とはそういうもの。生命が決して敵わぬ大自然を具現化したような、より概念に近い存在が神なのですよ。
ですが見なさい……」
傘の下の席でくつろぐ道真が促すと、茨木童子は再び小宇宙から取り出された山に視線を移す。
するとタイミングよく、山はみるみる荒れる影に壊されていくところだった。
山が崩れるのを見届けた道真は、リラックスした表情とは裏腹に、少し残念そうにつぶやく。
「私は大嶽丸のような嵐にはなれない。所詮、この宇宙に神を見た信奉者にすぎません。あれも1つに多くが備えられすぎている力ですが、私はそれ以上に使い勝手が悪い」
「なんの、話をしている……?」
「先日、世界中が凍てついたことがありましたが、大嶽丸が影響を及ぼせるのはこの島くらいの範囲でしょう。
ですが、私個人ではそれすらできない。個々人のスタイルもあるでしょうが、範囲が狭いからこそ、これほど内包できるという話ですよ。私自身は神を定義するだけで、これ以上の成長も見込めませんしね。……いえ、少し試してみますか」
茨木童子の体や霧がズタズタになる中、相変わらずのんびりとお茶を飲んでいる道真は、そんなことを言いながらもどうでも良さそうに笑う。
しかし何かを思いついたのか、パッと傘や椅子、お茶などを消すと、つかつかと小宇宙の際まで歩み寄ってくる。
そして手だけを影の世界に出すと……
「ふむ……」
影の剣が肌を掠め、重力がそれぞれの指をてんでバラバラな方向に曲げてしまう。手だけなので大したダメージにはなっていないが、顔をしかめてそれなりに痛そうだ。
「何をして、いるんだ……?」
「いえね、これは私が耐えられるものなのか、と……
少しならいけそうでした」
「ぐぅ……!!」
道真の奇行に眉をひそめていた茨木童子だったが、彼の返事と共に自身を襲った影に体を砕かれる。
道真は明らかになにかしようとしていたのだが、最初から一貫して彼らの攻撃は通用していない。
今も茨木童子達だけが一方的に苦しんでいたため、既に止めようと考えることすらできていなかった。
痛みをこらえている間に、道真は行動を開始する。
「あなたに見せていないのは、あと1つでしたかね……
どちらにせよ放っておけば死にますし、隠さずに見せてあげましょう。オン・アラハシャノウ」
"梅花無尽蔵-道信"
茨木童子にそう告げて微笑んだ道真は、真言を唱える。
すると、さっきまで小宇宙を守っていた四方の神仏は消え去り、小宇宙自体もみるみる影に破壊されていく。
さっき手を出した時、その瞬間ぐちゃぐちゃにされたのだ。
戦闘スタイル的にも、道真はそう長く影の世界に耐えることはできないだろう。
しかし、道真はまったく動じない。
獅子の背の蓮華座に結跏趺坐し、右手に智慧を象徴する宝剣、左手に経典を乗せた青蓮華を持つ神仏を背に、穏やかな表情を保っていた。
「何、を……!?」
「実験です」
"神降ろし-道信"
霧として圧し潰されていた茨木童子が問いかけると、跡形もない小宇宙に立つ道真は、印を結びながら口角を上げる。
すると、道真の背後にいた神仏は彼に吸い込まれ、その特徴は道真に現れた。
そして羽衣は揺蕩い、背中で朧気な光輪を形作る。
「知恵者は見たものをその場で理解し、それを得るだろう。
影の世界は、もはや私の支配下だ」
重力に潰されかけていた道真は、神仏を取り込んだことでその能力を自身で使う。
手にした経典をはらりと開き、目の前に広がる光景――一面の影の世界を見ることでそれをコピーする。
それにより、先程からずっと、光る目と共に『守るッ……守るッ……』と響いていた声は途切れ、制御を奪われた影は道真に襲いかかることを止めてしまった。
「影ッ……お前ッ……!!」
「右目が光っていますね……どうやら影綱さんはそこにいるようだ。しかし、制御を奪われても人には戻らない……と」
「クソッ……!!」
"羅生門-伊吹颪"
それを見た茨木童子は、どうにか大剣を持ち上げて道真に向かっていく。道真への影は止まったが、茨木童子への影は止まっていないため、全身をズタズタにされながらも懸命に。
吹き荒ぶ霧を纏い、その風で影を押しのけ、影綱が戻れないとしてもせめて道真だけは消そうと渾身の力を振り絞った。
だが……
「今の私は、この領域の支配者ですよ?
ほら、手を動かすだけで……」
穏やかに笑いかける道真が腕を動かすと、その動きに合わせて影が荒れ狂う。重影、影牢、影で作られた剣、槍、大剣、人型、反射する影。
この世界を作るすべてが茨木童子に襲いかかった。
「ヴ……ガァ……!!」
「あなたは妖鬼族を……いえ、我々鬼神を裏切った。
鬼人を人の側につけた。涜神者には裁きが必要です。
さようなら……」
霧は影に絡め取られる。どこへも逃げることはできず、彼の体を数えきれない程の影が貫いた。
しかし、道真はそれだけでは終わらせない。
茨木童子の動きが止まり、目から光が失われた後、さらに追加で手をかける。
完全に霧から下に戻った彼を影で押さえつけ、硬質化した部分をすべて剥ぎ取り、頭部や胸を貫き、四肢や首を捻って万が一が起きないよう念入りにとどめを刺した。
さらには……
「貴方の願いは、酒呑童子を助けること……
人と鬼の共存……影綱ら聖人との和解……辺りですか?
ふむ……私は貴方を忘れない。その願いは継承しましょう。
かつての同胞と同じように……」
捩じ切った腕を、引っこ抜いた脚を、抉り取った心臓を。
死んだ茨木童子の血肉を、瞳に悲しげな光を宿して喰らい尽くした。
「……来なさい」
道真が腕を上げながらそう呼ぶと、変わらず辺りを飛び回っていた光がその中に吸い込まれていく。
それは影綱だったもの、もはや影でしかないもの。
唯一残った月読の右目。
「力はあなたが継承するといいでしょう。
あなた方の願いは同じ。かつて助けられた主への忠義だ。
力の方向が同じであるならば、それは自然と生者へと……」
しかし、道真がそうつぶやきながら影をかき集めると、段々とその体は人に戻されていく。
全身が人にはできない動きのせいでネジ曲がっているが、それでも。本来は死んでいたはずの彼は、息を吹き返した。
「カ……ア……ァ……ゥ……」
「……はぁ、私が止めなければ死んでいましたよ、影綱殿」
「ァ……カ……」
「意識はないようですね。……まぁいいです。
茨木童子は死にました。私は彼らほどには人を恨まないですし、制裁は与えたので、そろそろ国を離れるとします。
……いつか、より戦力が必要になることもあるでしょう。
その日まで、また絶望を眺めているとしますよ」
全身がズタズタになり、痙攣している影綱を地面に横たえた道真は、誰に言うでもなく告げるとこの場を去っていった。