二十歳のこと
これは明日二十歳を迎える私の、おおよそ思春期に済ませておくべき堂々巡りの葛藤を、想定しうる最低の方法「押しのマロに送る」を持って解消を試みるマロです。恥ずかしむべき行為である事は自覚しておりますが、これしか思いつかなかったのです。
宮沢賢治の雨ニモマケズってあるでしょう。あれは彼の目標の話をしている事は自明の理なはずです。しかしあれは、夢の話をしているのでしょうか、それとも欲の話でしょうか。これもきっと分かりきった事でしょう。私の夢は、偉大な芸術家になって私の名を世界に轟かせることです。私の欲は、今のこのぬるま湯のような怠惰な生活を死ぬまで続けることです。欲と夢が重なればなぁって、いつも思うんですよ。宮沢賢治も少しは重なっていたんでしょうか。
あなたは、この笑ってしまうようなちゃんちゃらおかしい若造の戯言をどう受け止めるでしょうか。受け流して気にもとめない事が望ましいですね。嘘です。上の段落のような考えを続けると、「私は努力しない理由を何時も探しているだけではないか?」というもうどうしようもない気持ちに押しつぶされそうになるのです。そしてまた、「押しつぶされることで逃げようとしていないか?」と続くのです。この埒のあかない堂々巡りこそ、私をマロを送るように掻き立てたのです。
私は人よりも幸せを見つける事が得意だと自負しております。しかしそれは同時にあらたな物や事柄への渇望を失わせる事にもなっています。「今これだけ幸せなのに、これ以上に何を望むか」と。諦めることは、癖になりました。腹の立つ事は減りましたが、喜ぶ機会も減りました。
きっと、間違いなのでしょう。私の選んだ考えは。私は夢の方に意思の選択を任せるべきだったのです。しかし私は慣れてしまった。惰性で暮らし、世界に流されるままになることに。
どちらの道もきっと幸せでしょう。意味は少し違いますがね。鋼の意思でもって自らを奮い立たせ、強固な決意の力で夢を実現することを、魂が望んでいるのです。日々の暮らしに満足して、それ以上を求めず、静かに過ごすことを、体は望んでいるのです。この真っ向からぶつかる2つの考えを、私の脳は非現実的な解決方法しか、しめしてはくれないのです。「日々を惰性ですごしつつ、偉大な芸術家になれ」と言ってくるのです。
どれかを選ぶと言うことは、どれかを選ばない事と同義です。
私は




