榛名辿の穏やかな日常
彼の名前は榛名辿。芸名みたいだけどれっきとした本名だ。
榛名辿はわりと無気力な人間だけど類稀なる音楽の才能があり、それで生計を立てている。
彼には苦手な事が多く、電話に出たり、保険の解約をしたり、複雑な計算をしたり、みんなで協力をしたり、地図を読んでその場所に辿り着く事ができない。
彼が得意なのはギターと絵と詞を書く事で、若い頃の彼が自暴自棄になって2時間かけて海に行き、ざぶざぶと海水に浸かったけどあまりに冷たさに目的を達成できなかった。すごすご家に帰った時に目の前にあったのがたまたまギターだったのでひょんな事から今の仕事につくことになった。
彼は何もしたくない、見たくない、聞きたくない、生きるのが辛くて嫌だという気持ちを込めて曲を作り、歌詞を書いた。彼の曲は大ヒットとは言わないがその音楽性により熱狂的なファンがいる。そのため、曲を出せばそこそこの生活が送れる程度には稼げるのでそれでここまで生きてきた。
ファンたちは彼を辿様と呼び、CDやグッズを買うことをお布施と言い、自分たちのことを信者と自称した。彼が生きていてくれるだけでありがたいとファンたちは常々思っている。
3ヶ月に1度公式SNSで近況がアップされるといつもよりちょっと良いものを買ってお祝いする。#辿様生存確認というハッシュタグが使われ、信者たちによる生存確認ホームページが更新される。公式SNSの運営はもちろんマネージャーであるZ先輩が行なっている。
本人はSNSをやっていないしそもそもをスマートフォンというものを持っていなかった。あまり使わないので12年前に0円で手に入れた蛍光ピンクのガラケーを使っている。そのうち使えなくなると聞いてどうしたものかなと考えて、家に電話を引くのも良いかもしれないと考えた。彼は完全に時代に逆行していた。
前にSNSの写真にそのガラケーが写り込んでいたのを見た信者たちは機種名を特定してこぞってオークションで探したがあまりに古い物のために見つからず幻の辿様グッズとして今も皆が探している。
信者からは霞を食べて生きていそうとか、物を食べるための口の形をしていないとか言われているがむしろ逆で彼は食べることはすごく好きなのだ。でも、燃費が悪いので子どもの頃からずっと平均を大幅に下回る低体重である。
Z先輩からの又聞きではあるが自分が思っている5倍くらい苛烈に応援されていることを彼は怖いなと思っている。街中で信者とかお布施とか教祖とかそういう単語を聞く度にびくりと反応してしまう。
榛名辿は1年の殆どをルーチン通りに過ごす。朝起きて、天気が良いと洗濯がよく乾きそうで嬉しくなる。きちんと洗剤を量って洗濯機を回してからドリップコーヒーを淹れてトースターで焼いた厚切りパンにカルピスバターをひとかけ載せて食べる。食後は忘れずに服薬する。医師に出された抗精神薬をもう10年以上飲み続けている。
洗濯を干して掃除機をかけて風呂掃除をする。糠床を混ぜて昆布と柚子とかぶを足す。ベランダの家庭菜園に水をやっているとジョウロから出る水で虹ができて嬉しくなる。光の屈折はこんなに綺麗なものを生み出してすごいなあと感心する。いつか元気になったら白虹も見てみたいなと考える。
午後になると買い物に出る。旬の野菜や肉、お気に入りの焼きたてパン。そういったもので心が躍る。彼は幼い頃から幻視や幻聴が聞こえるためたまに蹲って止まったりする。急いでペットボトルのお茶で頓服を服んでから目に入った公園のベンチに座る。
人と違うものが見える彼は昔からずっと異質だった。今も公園にいる親子連れに不審な目で見られている。真昼間に公園のベンチで休む見るからに働いていなさそうな男はやはり異質なのだろう。
彼は幻聴から逃れるようにギターを弾き、歌を歌う。季節の変わり目などの調子が悪い時ほどたくさん良い曲がかけた。最初の頃は彼の才能に惚れ込んだZ先輩がその曲を売るためにあちこち奔走した。
今は売り込まずとも熱心かつ熱狂的な信者が買ってくれるため年に何曲か発表してグッズの為の字や絵を描く。ライブはファンが怖いのでやらない。必要最低限しか人には会わない。家族にももう何年も会っていない。今起きている災禍も彼の行動にあまり影響を与えなかった。
今日のお昼ご飯は4ヶ月前に自分で漬けたアンチョビを使ってキャベツのペペロンチーノを作った。とても美味しく出来たので彼は幸せを感じた。手塩にかけるというのはこういう事だなと思う。
榛名辿は決して音楽が1番好きなわけでは無いのだがそれ以外に生計を立てる方法を知らない。職歴も無く積極性もなく苦手な事だらけの自分が普通の仕事につけるとは思えないのだ。もし、毎日美味しいものをお腹いっぱい食べる仕事があればそれに就きたいなと考えている。
彼は放っておくと1ヶ月くらい誰とも会話をしないし、人付き合いでも「はい」「いいえ」「いります」「いらないです」「だめです」「すみません」以外の言葉をあまり使わない。彼は他者の存在を必要としていない。もちろん、きちんと納税はしているし身の回りの製品を作っている人や会社には感謝をしている。それでも彼の世界は小さく静かだ。
信者の人たち曰く、彼が生きている事がファンサービスらしい。だから今日も彼は穏やかに自分の好きな家事をして、散歩をする。たまに怖いものも見えるけど、10年近く住んでいるこの街は好きだ。最近、河原でとても綺麗な顔をした男の子を良く見かける。見習いの手品師のようで口から花や石を出していて、それがとてもリアルなのですごいなあと思う。
榛名辿は焼き芋の移動販売車を見つけて早足で近づいて行って大きいやつを指差してひとつ買った。今日のおやつはこれにしよう。割った時に蜜が入っていたら嬉しいな。ふふふと口元が緩む。
彼は今、とても幸せだった。空を見上げると白いまんまるの月がこちらを見ていた。
ほぼセリフなしの小説は初めて書きました。感想や評価をいただけるととても嬉しいです。