黒死蝶
私は、ずっと信じていたかったんだと思う。
この世界を、人々を、幸せを……そして、自分を。
でも、信じ続けることは言うほど簡単じゃなくて、沢山の理不尽に阻まれて、拒まれて……
ねぇ神様……
「信じるって何ですか?」
・・・
うるさい蝉たちの声が聞こえ始めた季節。私たちは、目前まで迫っていた夏休みに心を躍らせていた。
「ねぇねぇ!澪は夏休みの予定何か決まってるの?」
「う~ん、私は特にないかな。お盆にお母さんの実家に帰るくらい。深夏は?」
「何にも無いよ!じゃあさじゃあさ!いつ遊ぶか今から予定立てない?」
「いいよ!来年には受験のせいで遊べなくなっちゃうし、今年は遊び明かそう!」
夏休み前で授業が午前中で終わるから、私と深夏は教室に残って昼食を摂りながらそんな話に花を咲かせていた。
「それにしてもさぁ~」
「どうしたの?」
「澪は何でそんなに成績良いの?魔法かなんか使ってる?」
「ううん。特別なことはやってないけど、強いて挙げるなら高校受験の時の癖が抜けてない感じかな。なんか、勉強してないと落ち着かないことが多くって」
「うっわ~、真面目ちゃんだね~」
「そ、そうかな。でも、夏休みは全力で遊ぶつもり!」
「頼もしいこと言ってくれるじゃん!それじゃ、早速予定決めていこう!」
「うん!」
弁当箱を片付けながら、前の机をひっくり返してくっつけてある二つの机の上に謎の紙が広げられた。
「深夏……それってもしかして」
「ふっふっふ。これは特製の予定表だよ!幸い、今年の宿題は少ないからいっぱい遊べるよ!」
「去年も同じようなこと言って終盤に焦って写していたのはどこの誰だろうね~?」
「うっ……今年も写させてくださいお願いします」
「もう確定事項なんだね。いいよ。深夏と一緒に勉強できるの楽しいし」
「ありがとう!それじゃ、決めてこう!」
私と深夏はのぞき込むように予定表書き込みながら予定を決めていた。そうこうしているうちに下校時間になり、私と深夏は校門を出てすぐに分かれた。私の家と深夏の家は学校を真ん中に逆方向にある。といっても、めちゃくちゃ遠いってわけじゃないけどね。
「さ、今日も帰ってご飯作らなきゃ」
携帯のロック画面に表示された時間を確認して私は軽く溜息をついた。
・・・
私は高校に入るために1人暮らしをしている。理由は主に二つあって、その一つは実家から高校まで公共交通機関を使って通うには遠すぎるからである。そしてもう一つが……
「あれ?電話かかってきてる。誰からだろう?」
夕飯を食べ終わり、ベットの上でゆっくりしようとスマホを見ると、着信履歴が一つあった。確認してみるとお母さんからで、L○NEで「今年はいつ帰ってくるの?」というメッセージがあった。
「えっと……予定表は~っと……あ、13日とかちょうど良いかも」
私は「13日あたりに帰る」とだけ返信してそっとL○NEを閉じた。今年の夏で3回目の帰省になるけど、正直不思議な疎外感に襲われるから苦手だ。少しずつの変化も、時間が開けば開くほど大きくなるように、1人暮らしの期間が長くなればなるほど自分がその家の部外者であるという感覚が強くなる。
最初はこんな感覚になるなんて思いもしなかったけど、時間はいたずらに実感させてくる。
「よし!お風呂にでも入って気分転換でもしよう!」
私は、こうやってだらだらしていても仕方ないと思ってお風呂に入る準備を始めた。お風呂に入って体を洗い、腰の少し上まで伸びている髪の毛を洗ってからゆっくりと狭い湯船につかった。
「夏休み、楽しみだな……」
現実から目を背けたくて、私はそんなことをつぶやいていた。事実楽しみではあるんだけど、今の言葉は「空が青い」って言葉と同じようなことだ。
「だめだな~私……まだあの時の記憶を引きずっちゃってるのかな」
私はそっと、未だに大きな傷跡として残っている小さな胸の真ん中にある傷跡をなぞった。肉体的な痛みはほとんど無いけど、心が痛い。
「……出よう」
今日は何も考えない方が良い。私はお風呂から出てパジャマに着替えると、すぐに布団の中に入った。でも、一度覚醒した脳はなかなか言うことを聞いてくれない。
「もう……どうしてよりにもよって……」
それでも眠気に完全に打ち勝つことは出来なかったようで、1時間くらい目を閉じているだけで少しずつ意識は夢の世界に落ちていった。
・・・
私は中学の時、自殺しようとしたことがあります。
これは私が高校に入る時、校長先生に初めて言った言葉だった。元々、高校生での1人暮らしはあまり推奨されていなくて、その理由を説明するために校長先生と2人で話をしたことがあった。
私はその時、まだ誰も信じられてない頃だったし、どんな質問をされても答えるつもりはなかった。どうせ常識なんていう腐った偏見に捕らわれた質問しかされないって思ってたし、誰とも話したくなかった。
「初めまして。私はこの学校の校長を務めさせていただいております、進木 翔と申します」
「ご丁寧にありがとうございます。私は薩実 澪の母親の薩実 沙苗です。こちらが娘の澪です」
お母さんにお辞儀するように促されたけど、私は何も答える気が無かったから無視した。その様子を見た校長は、お母さんに耳打ちするように何かを告げた。内容まではわからなかったけど、お母さんが心配そうな表情で私を見ながら、校長室から出て行った。
「改めまして……私はこの学校の校長ですが、今はそんな肩書きなんて取り除きましょう。今この部屋にはあなたと私の2人だけです」
部屋の中央に置かれた4つのソファの内の1つに私を座らせた後、その対面に校長と名乗る男が座った。
「私はあなたから無理に話を聞き出すつもりも、何かを強要するつもりもない。それに、今回判断するのは『家から通うことが難しいために学校付近で1人暮らしをすることを許可するかどうか』だけだ。それ以上は求めない」
彼は優しい口調で私に話しかけてきた。その声からはさっきの堅苦しさが無くなっていて、これまで聞いたことのない声の質だって感じた。
「そうだね……こちらから一方的に聞くのは対等じゃないね。それじゃあ、私……って一人称も硬いね。俺、ぐらいがいいかな。俺は、今35歳だから君とは20歳差ってことになるのかな」
私が何もしゃべらずにうつむいていると、彼は自分のことについて少しずつ語り始めた。
「俺が君と同じくらいの時、母親が自殺したんだ。遺書までしっかりと残してね。あ、別に辛い話とかじゃないから身構えなくても良いよ」
私の心の揺れを感じたのか、それともそういう反応に慣れていて先に警告のような感じで伝えたのか分からないけど、私は自分の心を読まれたような気がして思わず顔を上げてしまった。話の内容も含めて。
「やっと顔を上げてくれたね。大丈夫?」
その言葉を聞いた私は思わず、震える口で誰にも言ってこなかったことを言ってしまった。
「……わ、私……」
うつむいていたから表情までは見えなかったけど、私がゆっくりと声を出している間、彼はずっと待ってくれていた。
「……私は、中学の時、自殺しようとしたことがあります」
私の声は震えていた。背筋に悪寒が走り、本能が何かを拒絶するように体の震えが止まらなくなった。心臓の鼓動が速くなり、それに呼応するように呼吸の周期も短くなっていった。
「……ありがとう。それで十分だから」
「は……い」
彼は私の頭をそっと撫でてくれた。私は初めて認めてもらえたような気がして、不思議な温かさに包まれた。加速していた鼓動や呼吸が元に戻っていく。そうなるにつれて目から何かがしたたり落ちていった。
・・・
「……懐かしいな」
朝、やけにうるさい蝉の声を聞きながら、夢の内容について少し考えていた。
1人だけの部屋で、私はゆっくりと体を起こす。スマホに表示されている時間を見ながら、朝の準備を進めていく。いつもと全く変わらない、そんな日常。
「いってきます」
いつも通りの時間。私は家の扉を閉めて鍵をかけた。その瞬間、顔をのすぐ横を真っ白な蝶が飛んでいった。
「あれ……?」
あまりに突然だったから少し気になって目で追ってみたけど、その蝶は、確かにさっきまでいたはずなのに、どこかに消えていた。
「ま、いっか。さて……」
私は気のせいか少し重くなった足を学校に向けた。
学校までの道のりはいつもの5倍の長さに感じた。それでも、学校に着いた後はいつも通りの時間が進んでいった。夏休み前の授業とも言えない授業と、その合間合間での深夏との他愛もない会話。そこまでは何も変わらなかった。ただ1つ、放課後に偶然すれ違った校長先生に言われた一言以外。
「あ、校長先生こんにちは」
「こんにちは。学校は楽しいかい?」
「はい!おかげさまで」
「それはよかった。あ、そうそう」
校長先生は何か思い出したように手を軽くパンと鳴らすと、私に耳打ちするように耳の近くに口を近づけた。
「昨日は、よく眠れたかい?」
「……!?」
全身に悪寒が走った。思わず後ずさりすると、不気味な笑みを浮かべた悪魔がそこに立っていた。私はその場から逃げるように走って教室に向かった。教室では深夏が帰る準備をしていて、いきなり教室に逃げ込んできた私を驚いた表情で迎えてくれた。
「ど、どうしたの……?」
「はぁ……はぁ……」
「って、顔真っ青じゃない!大丈夫?!今から保健室行こう。汗もすごいし」
「ううん……」
私は、乱れきった息を整えながら首を横に振った。
「私は……大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ!まだ先生いると思うから行こう」
そう言って深夏は私の腕を引っ張って無理矢理にでも保健室に連れて行こうとした。
「やめて!!」
「……え?」
「あ……ぁ……」
頭で理解したときにはもう遅かった。私の腕は、無意識のうちに深夏の腕を振り払っていた。
「っ……!」
「あっ……!澪!」
私は逃げるように荷物を持って家に帰った。教室を出るとき、かすかに視界にうつった深夏の表情は、泣いていた。
・・・
あれからどれだけの時間が経っただろう。学校も、家族も、自分自身も、深夏さえも……この世界に存在しているもの全てが怖くなってしまった日から。
「私……どうしてあんなこと……」
何かをしようとするたび、頭の裏にあの時の深夏の表情がまるで焼き付けられているかのように思い浮かぶ。腕をつかまれた瞬間、いつかのいじめられていた時の記憶が津波のように押し寄せてきた。
怖い……あんなことしておいて、これまでと同じように深夏と会うのが……怖い。絶対傷つけた。絶対嫌われた。二度と会いたくないって思われてる。
「それならいっそ……」
死んでしまおうか。何度目かのその思いは、弱り切っている私の心には猛毒だった。
1日中ベットの上で天井を眺めながら、外から微かに聞こえてくる音にも恐怖して、それさえに恐怖している自分が嫌になって……自分が疑心暗鬼に陥ってて自暴自棄になってるって頭では分かっていても、心では理解できない。それすらも、怖い。
「助け……て……」
その声が誰にも届かないと知っていても、口からこぼれ出てくる。
「もう……何も信じられないよ……」
限界だった。後悔に耐え続けることも、ただ前にだけ進んでいく時間に翻弄されるのも、生きているのも……
「そうだ……」
私は、ふらふらとベットから起き上がり、何回かこけそうになりながら玄関にたどり着いた。玄関のドアを開けると、薄暗い空が広がっていた。
「……雨」
そういえばあの日も、こんな薄暗い日だったっけ。あれ?学校はもう終わったのかな。正直わかんないし、今となってはどうでも良い。
「……何……これ」
歩き出そうとしたとき、足下に何かあることに気付いた。
「紙袋……?誰が……?」
私はそれを思わず手に取った。袋には何も書いてなかった。中を覗いてみると、見慣れた弁当箱と1枚の紙が入っていた。
「これ……ううん、違う……」
私は、紙袋の中身を見ることをやめた。頭では分かっていても、心が、記憶が、意識が、その中を見ることを拒絶してる。中を見ることですら、恐怖が全ての先を行くせいで叶わない。
「でも……あれ……?」
紙袋を置こうとしたとき、袋の中に大きな水滴が落ちた。中に入っていた真っ白な紙に広がっていく水滴は、内側に書かれていた文字を浮かび上がらせた。
「み……な、つ……?」
わかってた。わかっていたことだった。ずっと目をそらしてしまっていた人。信じたくても信じられなかった人……涙が紙を濡らしていくにつれて、私の心が締め付けられていく。
「ごめん……深夏……本当に……本当に……」
地面にうずくまって、私は紙袋の中に入っていた紙をゆっくりと持ち上げた。涙でぐちゃぐちゃになってしまった紙は、文字がかろうじて読める程度だった。
『澪は元気?私は元気だよ。澪に何があったか私には分からないけど、私は待ってるから。また、一緒に話そうね。深夏』
手紙に書かれていた文字は、どこまでも深夏で、どこまでも優しかった。
「私も……会いたいよ……」
私は、紙袋をぎゅっと抱きしめた。私の小さな願いは、少しずつ大きくなる雨音にかき消されていく。それでも私は、何度も何度も繰り返した。
「……あ、れ……?」
視界が傾く。自分の耳に自分が地面に落ちたであろう音が聞こえる。小さくなっていく視界で、真っ黒な蝶が止まった。その蝶は雨の中を飛んでいたとは思えないくらい綺麗で、どこか不思議な雰囲気を纏っていた。
「み……なつ……」
意識が崩れ落ちる瞬間、私の声が私の耳に大切な人の名前を届けた。
雨の音はもう、聞こえない。