愛への返礼
浅い微睡みの中、ブブブッ、ブブブッという不快な音に俺は目を覚ました。
朝は弱いせいでボーっとする頭のまま、それでもケータイが鳴っているのだと気がついて、俺は枕元に置いてあったスマホに手を伸ばす。
一体、こんな朝早くから誰が何の用だろう。まだ七時半だぞ、と俺は不機嫌になりながら、特に相手の名前も確認せずに通話ボタンを押した。
「はい、新田です」
「知ってるわよ、バカ。あんた、寝ぼけてんの?」
「……はっ?」
俺は唐突にかけられた罵倒の言葉に、驚いてガバリと起き上がった。
懐かしくも、聞き覚えのある声に、俺は思わず辺りを見回してしまう。
うん、間違いない。ここは奈良のホテルだ。
あまり高くはないので、質素ではあるが清潔感のある部屋には俺の私物が所々に転がっている。
夏希に付き合うに当たって借りた部屋に違いない。そ
れでも、俺は驚きの余り、一瞬だけ実家に帰ってしまったかのような錯覚に囚われた。そう、この声の主は。
「姉ちゃん?」
「それ以外の誰の声に聞こえる? それとも、新田凛華って同姓同名の女でもいるわけ?」
「いや、いないけど。急にどうしたんだよ、ここ数年全く連絡とってなかったのに」
この口の悪さは紛れもなく我が姉のものだ。
そう、わかっているが、ここ数年は全く連絡を取っていなかったのに、朝から急に連絡をとってきたことが信じられなかった。
姉は実家のある関東の方でバリバリと働いていて、向こうにいた時もライターという仕事柄、滅多に帰ってくることがなかったのだ。
こうして話すのもかれこれ四、五年ぶりになる。
一つ違いの姉は俺とは違って、嫁に行き遅れそうな勢いで働いていた。
姉は戸惑って、もごもごと疑問を投げかける俺に、電話の向こう側で深くため息を吐いた。
何か呆れられているようだが、何かにつけて普段から人を小馬鹿にしてくる姉なので、ムキにはならない。
それよりも、今は疑問の方が大きかった。
少し待っていると、姉は仕方ないといった調子で答えを返してくれた。
「あんたさぁ、仕事サボってんでしょ」
ギクリ、とした。
元々こういうのにはストイックな姉の言葉だけに、他の人に言われる数十倍のダメージが俺に降りかかる。
というか、忙しい姉が知っているということは、両親も知っていると考えてもいいだろう。
俺は途端に焦りを覚えた。
このままでは姉にくどくどと説教されるのは目に見えている。
俺はなんとか言い訳を考えようと、口を開いた。
「あー、なんていうか、その。色々訳があって……」
「訳、ねぇ……。大事な会議を無断で放っぽり出したり、心配して電話かけてきた上司を着信拒否するような、社会的な義務さえも放棄したことに見合うだけの大事な訳ってなんでしょうね?」
「うー、あー、ごめんなさい」
駄目だ、全部バレていやがる。
俺はそうと悟ると早々に抵抗を諦めた。
何故かは知らないが、姉には全部筒抜けになっているのは間違いなかった。
もし、ここで下手を打てば姉の機嫌をさらに損ねることになる。
こういう時は素直に謝るに限った。
それに、俺の犯したことは姉の言う通り、社会人失格であり、許されざること。
そういう点で、これ以上言い訳するのにも負い目があった。
「認めたわね。まぁ、いいわ。とにかく、部屋から出てきなさい。私、今ホテルのロビーにいるから」
「はぁ!?」
あれ、意外に怒られない? と、安堵しかけたのも束の間だった。
姉の思いもよらぬ言葉に俺は素っ頓狂な声を上げてしまう。
ロビーにいるってことは、今現在奈良にいるのだろうか。いやいや、それはいくらなんでも。
「さっさと来なさいね。でないと、飲み物代、幾らつくかわかんないわよ。もちろん、あんたに払ってもらうんだからね」
じゃっ、待ってるわね。と姉は言い残して、通話をブチリと切った。
けれど、俺は勢いで立ち上がったまま、携帯を握りしめ、その場に立ちすくんでしまう。
これははたして現実なのだろうか。
俺は信じ難く、思わず頬をつねってみる。
しかし、願いとは裏腹に、頬はしっかりと痛みを返してきた。まさかの本当である。
俺は現実逃避を止めると、慌ただしく動き始めた。
シャツとジーパンに着替えて、顔を洗うと、スマホと財布だけをポケットに突っ込んで部屋を出る。
途中、すれ違う人には俺の慌てっぷりに訝しげな表情をされたが、それを気にも留めずにロビーへと駆け下りた。
「姉ちゃん」
「予想以上に早かったわね。けど、寝癖が立ったままよ」
息を切らせる俺とは対照的に、姉は優雅にコーヒーを飲んでいた。
白いブラウスに黒のロングスカートという地味な格好に、黒縁メガネを掛けた人物。
間違いなく、俺の姉だ。四、五年ぶりだが、少し髪が伸びて、大人っぽくなったこと以外は何も変わっていない。
俺は改めて本当に姉が来ているとわかって、愕然とした。
指摘された寝癖にも気が回らない。挨拶よりも先に、疑問が口をついて出た。
「えっ、ってかマジでなんで。姉ちゃんがここに?」
「あんたの上司、山田君よ。彼、私の同級生だって話、前にしなかったっけ?」
「知らないよ!」
「あら、そうだったかしら? でも、山田君はあんたがいたく気に入ってたみたいよ。三日前、連絡が取れないあんたを心配して、私にまで連絡を寄こしてきたの。私も運よく休みがとれたからあんたの家まで行ってみたんだけど、その時にたまたま会社に行ってないはずのあんたが家を出ていくところを見たのよ。それで、何をするのかなぁと思ってあとをついて来てみたってワケ。中々ここにたどり着くのは骨が折れたけどね」
「マジか」
「あんた、なんだか目立ってたわよー。妙な挙動の男がいるって。その目撃情報のおかげでここにたどり着けたわけだけど、みっともない真似はやめなさいね」
道理で、俺のしたことを知っている訳だ。
というか、さすが記者とあって、姉の情報収集力が恐ろしい。
それと、妙な挙動とは、夏希とは明らか身内には見えなかったせいだろうか。
俺が脳をフル稼働させて、現状を理解しようと努めていると、姉に取り敢えず座りなさい、と向かいの席に座るように促された。
大人しく従うと、姉はコーヒーと紅茶を新たに注文する。
それは俺が払うことになっているのだが、遠慮が微塵もなかった。
俺がそれを見送っていると、姉はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、今更だけど。久しぶりね、ゆう君」
「久しぶり」
「案外、元気そうで安心したわ。仕事サボったって聞いたから、どんだけ精神追い詰められてんのかって思ってたけど」
その必要はなかったわねぇ、と姉は大袈裟に首を振った。
あからさまな嫌味に俺は頬を引きつらせながらも、悪いのは俺なので、取り敢えず頭をさげる。
おそらく、姉がまだ本気で怒っているわけではないのは、長年一緒にいたせいでわかってもいた。
姉は本気で怒ると、まず暴力に出る。それから理論武装して、精神的に痛めつけられる。
だから、この程度は姉にとってのコミュニケーションの一環だった。
とんだ歪み方だが、普段他人に接する外面は良いので、まだ俺が信用されていると思えば、安心材料ですらあった。
「それは、俺も思うけど。というか、ごめんなさい」
「謝んのは私にじゃないでしょ」
しかし謝ると、割と本気な声音で、ピシャリとそう言われてしまった。
俺はビクッと震えながらも、こくりと頷く。
顔を少し上げてみれば、腕組みをして、厳しい眼差しでこちらを見る姉と目が合った。
怒るというより、叱るという感じだ。
姉は冷静に、言葉を重ねた。
「別にね、私自身はあんたに迷惑かけられようが、どうってことはないわ。もちろん、怒るでしょうし、嫌味を言うかもしれないけど、家族だから見放さない。最後には絶対に許すわ。けど、他人はそうじゃないでしょ」
俺は何も言い返せなかった。姉が、正しいことを言っているのかはわからない。
他人はそうじゃない、つまり意地の悪い見方をすれば、それは姉があまり他人を信用していないということで。
けれど、重要なのはそこではなく、姉は俺を大切に思ってくれていたということだ。
そこに口を挟む余地などあるはずがない。
俺は姉の言葉を黙って聞いていた。
「あんたには確かに才能がある。他人に愛されるっていう、才能がね」
俺にある才能。それを聞いて、夏希もそんなことを言っていたなと、ふと思い出す。
夏希は俺の才能を「世界を彩る力」と言っていた。
その時はピンとこなかったし、あるとは思えなかったけれど、姉にも同じようなことを言われてしまった。
もちろん、身内の姉の言葉は夏希よりも厳しいものではあったが。
「でもね、だからと言って、他人に甘えて、迷惑を掛けて良いってことにはならないのよ」
それは、当然のことだ。
俺は薄れかけていた罪悪感が再び湧き上がり、より大きなものになるのを感じた。
せめて、山田さんに事情を話せば良かったのだ。
自分でもわからない感情の正体は上手く話せたかは、正直自信がないけれど、それでも何か言えば良かったのだ。
そしたら、少なくとも行方不明かもしれないとか、精神的に追い詰められてるとか、そういう要らぬ心配はかけないで済んでいた。
俺はとてつもない後悔に苛まれていた。
「あんたの周りにはあんたを助けてくれる人が沢山いる。だから、他人に礼儀を返すことを忘れちゃダメよ。そのことにきちんと感謝して、出来ることならあんたも彼らを助けるの。そうして、認められていくんだから」
わかったわね、と姉は俺の意思を確かめるように聞いた。俺はもちろん頷く。
すると、姉はほんの少しだけ寂しそうな顔で笑った。
それがやけに印象的で、俺は胸に言いようのない不安が現れるのを感じた。
姉はいつも強くて、なんでも出来るイメージだっただけに、そんな顔をするのが意外に思えたのだ。
しかし、姉はそれをすぐに消すと、ふと何かを思い出したようにスマホを取り出した。
「あっ、そうそう。私のお説教はまぁ、このくらいなんだけど」
姉は浮かない表情をしながらも、スマホを俺に向かって差し出した。
そこには俺と姉と同じ苗字の名前と、彼の連絡先が載っている。
俺は姉の浮かない表情の理由を察して、頭痛がした。念のため、これから取らなくてはいけない行動を確認する。
「電話しろと?」
「ええ。電話させろだってさ。面倒くさくなりそうだよ」
「しないという選択肢は?」
「止めて。私まで火の粉を浴びる羽目になる」
姉はそう言って、強引にスマホを俺に握らせた。
正直、あの人には電話したくなかった。
絶対に怒られるのは目に見えているし、それが長くなるのも予想できる。
繰り返し同じ話ばかりで、自慢話や罵倒と共に徐々に論点がずれていくあの人の話は、聞いていて苦痛以外の何物でもない。
今回は自業自得とはいえ、それでも尚、躊躇わずにはいられなかった。
「ほら、早くしちゃいな。先に引き延ばすほど、余計にしづらくなるよ」
姉の言う通りだ。ここで躊躇っていても、埒があかない。
それどころか、将来の俺と何もしていない姉まで被害を受ける可能性がある。
こうやって、わざわざ奈良まで来てくれた姉にこれ以上の迷惑はかけられなかった。
やるっきゃない。
「姉ちゃん、コツはある?」
「なんで私に聞くのよ」
「ほら、姉ちゃん昔から怒られるの、避けるの上手かっただろ?」
「あんたが下手だっただけね。……でも、強いて言うならイエスマンになることね。そうして、自尊心を満たしてやればどうにかなるものよ。私なら泣き落としって手もあるけど、男のあんたじゃねぇ。まぁ、最悪長くなりそうなら、私が適当なところで代わるわ。電話代がーとか、言ってみるから」
「ありがとう」
「良いのよ。私もあの人のやり方には賛同しかねるから」
ともかく、頑張りなさいよー、と姉は憐憫の入り混じった目で俺を見た。
俺は苦笑いでそれに答えながら、再びスマホの画面と向き合う。
新田優二。それが俺と姉が苦手意識を……姉に至っては唾棄すらしている、俺たちの父親の名前だ。
俺は育ててもらったことこそ感謝しているし、多分死んだら泣くだろうけど、未だに苦手なイメージは抜けない。
現に、今も通話ボタンを押す手が震えている。
大丈夫だ。
俺は自分にそう強く言い聞かせた。
絶対に大丈夫。
俺は大きく息を吸い込み、通話ボタンに指先を触れさせた。
「……ッ」
スマホを耳に当てると、発信音が流れた。
俺は知らず知らずのうちに息を止めながら、父が出るまで待つ。
もしかしたら、出ないんじゃないかという淡い期待もあった。
出なくても問題は先延ばしになるが、少なくとも一時は緊張から解放される。
とはいえ、そんな希望を抱いた次の瞬間には、刹那の幻想は打ち砕かれた。
「もしもし」
「……あの、俺だけど」
「優輝か」
「うん」
「話がある。自分のやったことはわかっているだろうな」
「……ああ」
一瞬の間。電話の向こうで父が酒を飲む、氷の音がした。
「バカたれが」
冷たく、軽蔑するように放たれた、一言。その瞬間に俺は悟った。
ああ、イエスマンなんて、無理だ。と。