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蝉時雨と夏の希望  作者: 卯月 桜華
DAY3 古都奈良の風
8/21

届かぬ人

空が茜色から藍色へと移り行く中。

俺たちはぶらぶらと手を繋ぎ、歩いていた。

スケッチブックを小脇に抱え、参道を下り終える頃にはすでに上弦の月が空に浮かんでいた。

手を繋ぐことには気恥ずかしさを覚えながらも、振り払うわけにもいかず、夏希に繋がれるままだ。

夏希は現在、随分とご機嫌らしく、ふんふんと何の曲か分からない鼻歌を歌っている。

メロディの特徴から明らかに今はやりの曲ではないのだが、両親の影響だろうか。

何はともあれ、俺たちは再び公園へと足を踏み入れようとしていた。


「なぁ、夏希。これ、何処に向かってるんだ? もうそろそろ暗くなってきたぞ」

「そうやなぁ。でも、内緒。着いてからのお楽しみ」

「帰り、大丈夫か? 暗くなると危ない」

「暗いって言っても、まだ七時すぎやろ。平気、平気。全く、優輝さんは心配性やなぁ」


言われてみれば、そうかもしれない。

七時なんて、まだ他の学生だってこのあたりにいる。

部活をしていたら、帰宅時間がこれくらいになるのは、考えてみれば普通のことだった。

よって、まだこの時間帯に危険は少ないだろう。

でも、これだけ美人な夏希のことだから、完全に危険がないとも言い切れない。だから、心配だった。

もちろん、そんなことを言い出せば、キリがないのはわかっている。

でも、夏希の持つ雰囲気は眩しいほどに輝いているくせ、何処までも儚げで、時々消えてしまいそうな不安に駆られるのだ。

それは、俺が夏希のことを知らないせいもあるのだろうけど、俺の元々の性格のせいでもあった。

俺は昔から、やたら人の気持ちが気になって仕方ない性分なのだ。

気にしすぎ、とは何度も言われた言葉であるが、変えられないのだからしょうがない。


でも、流石に今回は夏希の言う通りなので、それ以上のことは言わなかった。

俺もいつもより神経質になってしまっている自覚がある。

それは、これから夏希が話してくれることのせいに違いない。

夏希、という謎めいた彼女の核に今まさに触れんとしている。

俺はそのことに正体不明の漠然とした緊張感を抱いていた。


「ほら、ここ」


しかし、それは次の瞬間に目にした光景によって、霧散してしまった。

俺はあっ、と声をあげそうになるのを抑えて、その場の幻想的な雰囲気に飲まれる。

月を映した水面。その上にかかる白い木橋。淡い光の中に浮かぶお堂の上には夏の星座が輝いている。

静謐な空気に包まれたその光景に、俺は今日何度目かも分からない深い感動を味わった。


「とても、綺麗だ」


心の中で呟いたはずのそれ。けれど、知らないうちに声に出ていた。

俺は己の無意識の言葉に少し驚きつつも、夏希がやろ? と嬉しそうに首を傾げるのを見て、その答えが正解だったと知る。

夏希がこの美しい光景を眺める瞳には光が反射して、キラキラと輝いていた。

どうやらここは夏希のお気入りの場所らしい


「ここは浮見堂。時々デートスポットにもなるんやで」


けど、ちょうど今日は人がおらんなぁ、と夏希はキョロキョロと周囲を見回す。

確かに今日は人影が一つも見当たらなかった。

まるで、自分たちが大事な話をすることを知っているかのように。

不思議な力でも働いているのかとすら思わせる状況だが、これからの話題にはうってつけだった。

俺たちは橋を渡って、六角形のお堂の中へと入る。

中は休憩所のような造りになっていて、俺たちは隅のベンチに腰掛けた。


「さて、と」


と、早速夏希が話を切り出した。

俺はそれを察して、慌てて居住まいを正す。

しかし、準備が整ったというのに、夏希はまたそれっきり黙り込んでしまった。

互いの間に気まずい沈黙が降りる。

夏希は思案するように、口を開いたり閉じたりを繰り返していた。

言葉にするには何かが一歩が足りない、そんなところだろうか。

俺は取り敢えずはこの嫌な空気を払拭すべく、夏希に声をかけた。


「夏希、大丈夫か」

「ん……ごめん。何を迷ってるんやろうな、ウチは。伝える言葉も、覚悟だって、決まってたはずやのに」

「別に焦る必要はない。ゆっくりで良いんだ。俺だってきっと……上手くは話せないはずだから」

「いや、優輝さんならもっと上手く言えると思う。だって、優輝さんは人のことをよく見てるもん。ウチのことも、自分の本当の姿も」


俺はその言葉にドキリ、とした。

まるで自分の心を見透かされているようで、途端に不安になる。

自分の心は決して綺麗ではない。俺は優しい人を利己的に演じているだけの道化師だ。

人間ならばそれは普通のことなのだろうけど、俺はそれをうじうじと考えてしまう臆病者だ。

思春期で停滞したままの、そんな幼稚で情けない心の内は人に見せられるものではない。

だから、俺は終ぞ隠し続けていた。

なのに、いつの間にか夏希には見破られている気がする。

夏希はそれを貶すことなく、むしろ褒めてくれるけれど、俺はいつかその反動で、本当は情けないだけだということを知られて、もっとがっかりされるのが怖かった。

それが、未だに夏希に自分のことを話せていない理由。


しかし、夏希に今、恐れはない。

俺のような怯えは皆無であり、真剣な表情には確固たる信念が伺える。

ただ、言葉が上手く出てこないだけ。

夏希は自分の弱さを俺に晒すことを揺るぎない覚悟と共に決意していた。

だから、俺が逃げ出すわけには行かない。

夏希のことを知りたいと願ったのは他でもない俺なのだ。

その思いが俺の恐怖を超えて、辛うじて俺をこの場に縫い止めている。

俺は少なくとも、夏希に己のことを話す価値があると判断された。

それについては自信を持たなくてはならない。

俺は大きく息を吸い込んで、夏希の言葉を待ち続けた。


夏希は暫く、宙に遠い目を向けていた。

きっと、何かを思い出しているのだろう。

その姿はすぐ側にあるはずなのに、どこか遠い人のように思えた。

今の夏希は俺の知らない夏希。それをより強く実感した瞬間だった。


「優輝さんはさ、耐えきれないほど強い想いに駆られた事ってある?」

「耐えきれないほどの強い思い」


俺は夏希の質問を口の中で反芻した。

一体何のことだろうか、と思いつつも、大切なことなのだと判断して、答えを考えてみる。

耐えきれないほどの強い思い。俺にとって、一番辛い感情はおそらく自己否定だ。

自分を認めることが出来ず、孤独を味わうことになるあの感情に、俺は何度苛まれてきたか分からない。

けれど、耐えきれないかと言われると違うと思う。

思春期の頃こそ、あんまりにそれが辛くて、死のうかなんて考えてみたことはある。

でも、それはあくまで一時のものだった。

いざ試みようと包丁を手首にあててみたことはあれど、臆病者の自分には決断するには至らなかったのだ。

ただ、その時は泣き崩れて誰かも分からない人への謝罪を繰り返した。

自分か、あるいは親か。今でも分からないが、結局今ここにいるということは、幾らあの時は辛けれど、耐え得る痛みだったということだろう。

だから、俺はこう答えを出した。


「多分、ない」

「そっか、そうやね。じゃないと、ここにはおらへんし」


ウチも、と夏希は寂しそうに笑った。

では、今の質問は夏希自身のことではなかったのか。

俺は思考を巡らせながらも、感情は表には出さなかった。

今は夏希の話を聞くことを徹底したいし、多分それは邪魔になってしまう。

だから、俺は言葉も最低限に抑えた。

夏希もその意を察してか、数秒の沈黙の後、再び口を開いた。


「けど、彼女はそうじゃなかった」


ポツリ、と呟くように生まれた言葉は何故か俺の心にズシリと重みを感じさせた。

彼女、というのは夏希にとって大切な人なのだろう。

夏希は腰掛けていたベンチから立ち上がると、お堂の外へと出て行く。

俺もそれについていくと、夏希は欄干に身を乗り出して、水面をジッと眺めていた。

ただただ無表情。

いつもは表情がコロコロ変わる夏希とは違い、今は彼女が何を考えているのか全くわからなかった。


「彼女は、自分の強すぎる想いに殺されてん」


ギリッ、と夏希は唇を血が出そうなほど強く噛み締めた。

瞳に映るのはここではないどこか。

漂うのは諦念と、悲しみと、絶望。ハッキリとはわからなかったが、それが負の感情であるのは違いなかった。


「彼女は、決して自分の手の届かないところにいる人を愛した。届かないとわかっていながらも、好きになってしまった」


届かない人。そう言われても、俺にはよく分からなかった。

もしかして、テレビの向こう側の人を好きになってしまった、ということなのだろうか。

はたまた、死人、既婚者という可能性もあり得る。

夏希はそんな俺の様子に気がついたのか、苦笑しながら教えてくれた。


「お偉い人やった。奥さんもおったよ」


それは、また。難しい恋愛をしたものだ、と思う。

恋愛云々は俺にはよく分からないが、それが叶いそうにないというのは誰の目にだって明らかだろう。

少なくとも、無理やり手に入れようとしたのなら、世間には厳しい目を向けられること間違いなしだ。

夏希の大切だったであろう人は、なんという偶然かそんな人を愛してしまった。


「普通の人なら諦めるやろうね。苦しみながらも、いつかはそれを忘れて、また新しい恋をする。一歩前に進むために。そうせぇへんと、生きていけへんから」


人間、どんな辛い記憶だって、いつかは忘れてしまうものだ。

いや、完全には忘れることはないのだろうが、それを背負いつつも日々の生活を過ごすために一時的に記憶に蓋をする。

そうして、痛みや悲しみも風化していくのだ。俺もそれをよく知っている。

嫌なことも、楽しいことがあれば……例えば夏希と過ごしていると、思い出せない瞬間があるものだ。

けど、夏希の語る彼女はおそらく。


「けど、彼女にはそれが出来ひんかった。愛した人が振り返らないことはわかっていたのに。彼女は、あの人を想うことを止められへんかった。そうして、毎日苦しんでた」


そうなった人間の末路、優輝さんはわかる? と夏希は今にも泣きそうな顔で俺に問いかけた。

俺はその答えを察していたが、答えが答えなだけに何も言えずに黙り込んでしまう。

夏希はハッ、とその彼女を嘲笑うように、俺の言えなかった答えを吐き出した。


「死んだ。彼女は死んでん。彼女を大切に思ってた人も、ウチと一緒に置いて」


夏希の頬を涙が伝った。

泣くものかと口元は笑みを浮かべていたが、涙はそんな夏希の意に反して次々に流れ落ちる。

予想はしていたが、夏希の親友らしいその人の末路は、夏希の口から聞くと、想像以上にキツイものに思えた。

こんなに痛ましい姿を晒す夏希が目の前にいるからだろうか。俺は思わず俯いてしまった。


「馬鹿やと思わへん? 死ねば愛した人の思い出に永遠に残るって、そんな理由で彼女は死んだ。池に身を投げて、な。彼女を大切に思ってた人も彼女の決意に逆らえへんかった。こんなの、間違ってるって気がついた時には何もかも終わってた。遅かった。彼女も彼女を大切に想った人も、本当に大切なことが何なのか、気づくのが」


俺は情けないことに夏希に何も声をかけることが出来なかった。

言葉がグサグサと心に突き刺さり、どれだけそれが辛い出来事だと思えど、俺はあくまでも他人なのだ。

夏希の、夏希だけの苦しみに俺が口出しするのはお門違いに思えた。

下手な同情だって、過ぎればただの迷惑だ。

だから、俺はただ夏希のそばにいる事しか出来なかった。


「でも、ウチも大概やと思う。だって、もう随分と昔のことをまだ引きずってんねんから。優輝さんもそう思うやろ?」


別に、普通の事だと思う。

それだけの事があって、引きずらない方がおかしいというものだ。

でも、俺はどう答えていいかわからずに、苦笑を浮かべる。

夏希もはなから答えは期待していなかったようで、それに何かを言う事はしなかった。


「だから、ウチは最後にこの想い出ときちんと決別しておきたい。薄情やと思うかもしれへんけど、ウチは彼女みたいにはなりたくないから。それで、優輝さんに五日間をもらってん」

「どういうことだ?」

「ウチは残りの時間で、彼女の身を焦がした想いの正体を知りたい。惰性に生きてきたウチには分からない、強い感情を理解したい。そして、最後には生きてきた意味さえも見出せたらなって」


それが、今のウチの原動力。

優輝さんを振り回している理由。夏希はそう締めくくった。

月を見上げ、涙の跡が残る横顔はやはり、大人っぽく見える。

年相応、とはとても言い難い、見えない傷がたくさんついていた。

それでも俺は何一つ気の利いたことなんて思いつかなくて、夏希と一緒に上弦の月をただ眺めていた。


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