朱と白の光
「大丈夫、優輝さん?」
「ああ……大丈夫」
東大寺の見学が終わって次は春日大社。となり、春日大社へと向かう坂の途中にて。
俺はさっきまで張り切っていたのにも関わらず、今は情けないことに醜態を晒す羽目になっていた。
元々インドア派で、会社に入ってからというもの、殆ど運動などして来なかったせいで、体力が足りないのだ。
とはいえ、春日大社の坂自体はそうキツイものではない。
それでも疲れている主な理由としては、夏希に影響されて、はしゃぎ過ぎていたせいだった。
ああ、夏希にこの姿を見られるのは中々にキツイ。
夏希は純粋に心配してくれているようだが、それがかえって今は俺のプライドをズタズタにしていた。
全く、無様すぎて涙が出そうだ。
まだこれからだというのに、身も心もすでにボロボロである。
そうして、暫くはなんとか歩いていたが、不意に夏希がたまりかねた様子で声をかけてきた。
彼女は必死の形相で俺の腕を引っ張った。
「優輝さん、こんなことを言うのもあれやけど、凄い顔。休む? ねっ、休もう?」
最終的には、夏希にそんなことを言われてしまった。
凄い顔って、どんな顔だろうと思ってスマホのカメラで見てみると、そこには悔しさに身悶えする気持ち悪いおっさんがいた。
やばい、これは二十五歳がしていていい顔ではない。
というか、これを見て夏希はよく逃げ出さなかったものである。
流石にこれは自分でも色んな意味でいけないと思ったので、夏希の言葉通り一度休憩することにした。
春日大社の参道の脇にはちょうど、公園も続いている。
俺たちは参道をそれて、公園に出ると、大きなクスノキを横目に、芝生の上へと腰を下ろした。
目に入った、大きく枝葉を広げるクスノキ。
夏希によると、それは百年前に明治天皇によって植えられたらしく、大きな威容を誇っていた。
一見、一本の大きな木に見えるが、よくよく見てみると、三本が連なっていることがわかる。
俺はそれに凄いでかいなぁ、なんて在り来たりな感想を抱きながら、深くため息をついた。
「はぁ、こんなに体力無くなるなんてな」
「優輝さん、大分張り切ってたしな。そりゃ、無理もないわ。それにしたって、体力なさ過ぎるけど」
「仕方ないだろ。というか、夏希は元気すぎだよな。俺以上のテンションで、疲れ一つ見せないし」
「だって、うちの体力は無尽蔵やし。元気だけが取り柄やもん」
ここでインドアを極めたのが仇になった。夏希はそれをからかいながらも、ハンカチで汗を拭いてくれる。
というか、返したハンカチで拭かれたら、また洗わなくてはならない。
これは、もしかしたら夏希の保険なのだろうか。俺がここから逃げ出さないための。
そんな事しなくても、俺には逃げる場所なんてどこにもありゃしないのに。
俺はそんな考えに至って苦笑した。そして、ハンカチを受け取りながら、冗談半分にそれを尋ねた。
「夏希。俺が夏希との約束を破るとでも思ってるのか?」
「……思ってないよ」
少しの間のあとの返答。
しかし、この唐突な質問にハッキリと答えるのはかえって怪しかった。
何より、夏希はこっちを見ていない。嘘をついているのはバレバレだった。
夏希は嘘をつくのが下手すぎる。だから、あんなに純粋でいられるのだろう。
それが俺には羨ましく、眩しかった。
もう俺には決して届かない世界だ。
生まれながらに毒を受けて、捻じ曲がった利己的な考えしか出来なくなった俺には。
俺は手の中のハンカチを強く握りしめた。
「夏希、俺は約束を破らないよ。絶対に」
「……なんで。なんで、そんな風に言い切れるん?」
「なんでって」
俺は戸惑った。夏希の気配が明らかに変わったからだ。
ついさっきまで、朗らかに笑っていた彼女とはまるで別人のようである。
責め立てるかのような言葉は、ほんの少し震えていた。
もしかして、何かに怯えているのだろうか。
俺は何も言葉を返せずに黙り込んでしまった。
すると、夏希はようやく我に返ったように顔を上げた。
「あっ、いや。ごめなさい、優輝さん。今のウチ、ちょっと変やった」
「それはいいけど、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「うん、平気。気にせんとって」
夏希は少し弱々しく微笑んだ。
それを見て、俺の心臓がドクンと跳ね上がる。
同時に、まさか今の俺はとんでもないものに触れてしまったのではないかという予感に囚われた。
夏希がずっと秘めている大切な何かに、俺は間違いなく近づいたのだ。
知りたい。ふとそんな衝動が俺を襲った。
太陽のように輝く彼女が抱える闇に触れてみたい。そう、何故か強く思った。
ここまでずっと互いに相手の嫌な思い出には蓋をして、触れ合い、それで満足していたはずなのに。
今は何故だか夏希のことをもっともっと知りたいという欲求に駆られていた。
自分のことさえ話していないのに、何と身勝手な思いだとは思う。
けれど、夏希の笑顔の裏に抱え込んだものを、そのままにしていてはいけないような気がしたのだ。
「優輝さん、もう歩ける?」
夏希は少し無理に笑っていた。
きっと、それを見る限り、まだ深入りしていい話題ではないのだろう。
だから、俺は一言だけ確かめることにした。
「なぁ、夏希」
「うん?」
「大丈夫、なのか?」
そう尋ねた瞬間、夏希の瞳が再び大きく揺らぐ。
それで、俺は彼女が隠した闇の深さをなんとなくだが、思い知った。
同時に、今はまだ「その時」ではないことも。
だから、俺は自分の衝動を押し込めて、俺もいつも通りに笑い返した。
「ごめん。今度は俺が変なこと言った」
「ううん。いつかは話さなあかんことやし。優輝さんをこうして連れ回している以上、ウチには話す義務がある」
それは俺も同じだった。
何しろ、これは己の嫌な部分に目を向ける行為だ。
俺だって、進んで思い出したくない。
例え、夏希が自分のことを話してくれるとして、俺もそれに応えるには心の準備や己のことに関する整理が必要だ。
だから、今は……今だけはまだ忘れていよう。
俺はその場から立ち上がった。
いつまでもこうして重たい空気を引きずっているわけにはいかない。
俺もインドア派とはいえ、まだ二十五。こんなことでくたばっていたら、それこそ老後が心配だ。
そろそろ体力も回復してきたし、出発すべきだろう。
俺は気を取り直すと、夏希と一緒に参道へと戻った。
こうして見てみると、参道は木々に囲まれているせいか、日陰が多い。
白く伸びる広々とした砂利道には神聖さを感じさせられた。
如何にも、神の住まう場所へ向かう道、といった様子である。
しかし、それに突っぱねられるような圧力はなく、むしろ親しみさえ感じた。
何より、マイナスイオンが心地いい。
俺は胸一杯に清浄な空気を吸い込むと、一歩踏み出した。
夏希はそんな俺の手をそっと握ってくる。
夏希の手はひんやりと冷たく、俺の手よりもひと回りは小さかった。
「優輝さん」
「ん?」
「この参道を下る時までにはなんて言うか、ちゃんと考えておくから。もう少しだけ、待ってな」
夏希はまた明るく微笑んだ。
その無邪気な笑顔は、俺に彼女がまだ中学生か高校生でしかないことを思い出させる。
なのに、ああ。あんな儚くて辛そうな表情をするなんて、あんまりだ。
俺は夏希の言葉に黙って頷いた。
その後で、ほらほら、優輝さん、それより歩くのをもっと頑張らんと! と手を引く夏希の笑顔には、その言葉通り影は無いように見えた。
夏希は俺の不安なんてよそに、ザクザクと砂利道を踏みしめながら、軽快な足取りでずんずんと進んでいった。
そうなると、手をつながれている俺も歩かないわけにはいかず、慌ててその後を着いていく。
夏希の笑顔は俺に不思議と元気を与えてくれる。
だから、俺に常に付きまとっていた不安も次第にゆっくりと薄れていった。
そうして、暫く歩いていると、夏希がふと前方を指差した。
「ほら、優輝さん。鳥居が見えてきた」
「あっ、ほんとだな」
ぼんやりとした考え事と歩くことに対する必死さのせいでいつの間にか下がっていた顔を上げると、その先には大きな朱色の鳥居が見えた。
太陽の光を浴び、木々の間に佇む鳥居の姿は、とても朱が映えて、目に鮮やかだった。
浮世離れした雰囲気にまさか、この先には異界へ続いているのではないか、とすら思わせる。
俺は一度、その場で足を止めて鳥居に見入った。
夏希はそんな俺の反応を楽しむように眺めている。
「綺麗やね」
「ああ、本当だ」
何かちゃんとした感想を述べるべきだったのだろうか。
けれど、俺の語彙ではどれも陳腐な表現になってしまって、この光景を汚してしまいそうだった。
だから、俺は相槌だけを打って、心のうちにそれを留めておく。
俺と夏希は手を繋いだまま、鳥居を潜り抜けた。
鳥居の下を抜けると、手や口を清めるための手水所がある。
春日大社のは独特で、なんと石の鹿の口から水が流れていた。
どうやらその水をすくうらしい。
手水の作法は昔祖母に教わった気がするが、今は思い出せなかった。
思わず柄杓を手にしたまま、固まっていると、隣では夏希が流れるような動作でそれを行っていた。
そして、俺が固まっているのをみると、驚いた顔をする。
「優輝さん、もしかしたらわからへん?」
「ああ、うん。夏希は分かるんだな」
「まぁな。でも、そっか……最近の人はわからへんのか」
「最近の人って、夏希もだろ? 分かるのは凄いよ」
「いやぁ、それほどでも」
そう少し照れながらも、夏希は正しいやり方を教えてくれた。
これで、一つ勉強になったと思う。
手を清めた後は自然乾燥させなくてはいけないらしく、濡れた手が少し気持ち悪かったが、夏なので、すぐに乾いてしまった。
そうして、遂に春日大社の門へと続く階段を登ると、朱色の門がすぐに見えた。
門の前の回廊では記念撮影をする人々が沢山いる。
今の時間帯、傾いた日が絶妙な光のコントラストを生み出しており、神々しい雰囲気を醸し出していた。
「ねぇ、優輝さん」
夏希はタタッと回廊の先へと歩み出た。
朱に囲まれた中、透き通るように白い彼女はこちらを肩越しに振り返る。
その目には刹那、何時ぞやの憂いを帯びた光が宿った。
しかし、直後にその均衡は崩れて、夏希はクシャリと笑った。
「ウチ、今が一番楽しい」
「ああ、俺もだ」
俺は不意にその光景を残したくなった。
この気持ちを忘れたくない。この光景を焼き付けたい。夏希の笑顔をずっとずっと見ていたい。
そんな強い衝動が俺を駆り立てた。
カバンの中にしまっていたスケッチブックを取り出して、俺は鉛筆を走らせた。
写真じゃ俺にはこの大切な何かを残すことが出来ない。
だから、せめて得意なこれに縋るのだ。
夏希は突然絵を描こうとしだした俺に驚きつつも、文句も言わずに付き合ってくれた。
そうして、時間は過ぎていく。
はたと気がついた時には周りには他の観光客はいなくて、二人で笑ってしまった。
旅にはこういうことは付き物だ。
日は沈んだ。一日目の終わりが近づいてくる。
俺はそれが早過ぎるように思えて、ほんのちょっと寂しくなった。