奈良を味わう
「ええと、猿沢池……猿沢池と」
俺はスマホの画面を何度も確認しながら、夏希との待ち合わせ場所である、猿沢池へと向かっていた。
今日も天気は晴れだ。太陽は少し鬱陶しくなりそうなほど、眩しく輝いている。
おまけに今日は入道雲さえも見えないほどの快晴。
アスファルトの上には陽炎が立ち上っていた。
時刻は九時五十分。夏樹との待ち合わせ時間まではあと十分だ。
この距離ならばどうやらそれには間に合いそうだった。
とはいえ、女の子を待たせるわけにはいかないので、歩調を少し早める。
土産物屋を横目に三条通りの坂を登っていくと、やがて池が見えてきた。
猿沢池は柳と松の木に囲まれていた。
少し濁った水面ではアメンボが自由に滑っており、石碑のそばでは亀がくつろいでいた。
決して澄むこともなく、濁りすぎることもない、猿沢池。
夏希から猿沢池についてそう聞いていた。
スマホの地図でも猿沢池という文字と現在地がぴったりと重なっているので間違いないだろう。
しばらく、辺りを見渡していると、やがて池の淵で蹲っている夏希の姿を見つけた。
何やら池の中を観察しているらしく、その視線の先には首だけを水面に突き出して泳ぐ亀がいた。
夏希はよっぽど夢中になっているようで、今にも池の中へ落ちてしまいそうである。
俺は慌てて駆け寄ると、その肩を掴んだ。
すると、夏希が驚いたように振り向いた。
「あっ、優輝さん! おはよう」
「おはよう……じゃなくて、今落ちそうだったぞ。大丈夫か?」
「ん? ああ、平気平気。ちょっと探しモノをしてただけやから」
「探しモノ? 何か落としたのか」
「いや、そういうわけではないんやけど」
夏希は俺の質問に少し困ったような顔をした。
それから、忘れろと言わんばかりに手をひらひらと振る。
俺はそのことに疑問を抱きつつも、夏希の思いを察して、それ以上の言及はしなかった。
俺たちは互いに秘密を多く持ちながらも、今は俺もそれを心地良く感じているのだ。
こういう素振りを見せるということは、いつかは話すつもりなのだろうし、俺としてはただそれを待つだけ。
下手に詮索して、この心地よい関係が崩れるくらいなら、気長に待つ方が良いというものだ。
「とにかく、池には落っこちるなよ?」
「わかってるって。優輝さんは大袈裟や」
夏希は俺の心配をカラカラと笑い飛ばした。
けれど、それが逆に俺の心配を煽る。
天真爛漫なのは夏希の良いところだが、輝きすぎて疲れてしまわないかと時折不思議になるのだ。
それは俺が元々明るい性格とは言い難いせいなのかもしれないが、夏希のそれはどうも危うさを含んでいるように見える。
時々ふと覗かせる儚げな表情が俺の不安を余計に掻き立てていた。
「優輝さん、そろそろ行こっか」
「ああ、うん」
俺は夏希に声をかけられて、考えることを止めた。
俺はどうも最近、感覚的なことに囚われすぎているのかもしれないと、今更ながらに思い至ったのだ。
これでは楽しむものも楽しめない。俺は首を左右に軽く振ると、気持ちを入れ替えた。
そして、どうしたん? とこちらを見上げて、服の袖を引っ張ってくる夏希に微笑み返す。
「なんでもない。行こうか。案内、よろしく」
「了解! ウチに任しといて」
夏希は張り切った様子でガッツポーズをとった。
俺はそれに頼もしさを感じながら、夏希の後をついて歩く。
どうやら楽しい一日になりそうだった。
東大寺までの道のりにも興味惹かれるものは沢山あった。
例えば、猿沢池の向かいにある興福寺や五重塔。
緩やかな坂を登りきった先には一の鳥居。
そこから北東に進めば国立博物館とその周辺でくつろぐ無数の鹿達。
昨日、かき氷店で話していた氷室神社もあり、その一つ一つに夏希は詳しい説明をしてくれた。
曰く、今建っている五重塔は室町時代に再建されたものだとか。
また曰く、毎年国立博物館が開かれる正倉院展は大勢の人で賑わい、休日には何時間も待たなければいけないのだとか。
夏希は相変わらず奈良に詳しく、説明する口調は流暢で、俺の知らない話がポンポンと出てきた。
そうして談笑していると、やがて参道へと出た。
相変わらず鹿は多く、外国人観光客も鹿にせんべいをあげて楽しんでいた。
一昨日、少し怖い目を見た俺からすれば、もう二度とやる気は起きないが、夏希は何処からともなくせんべいを持ってくると、鹿に食べさせていた。
それなのに、鹿は大人しく、グイグイと押し寄せてくることはない。
頭を撫でられても、嫌がる素振りは見せずに、せんべいをひたすらムシャムシャと食べていた。
鹿がトラウマになりかけた身としては、なんだか不平等な気分である。
やはり、鹿も相手が美少女だと気を使うらしい。
夏希は俺が複雑な表情でそれを見ていると知ると、可笑しそうに笑った。
鹿と再び戯れた後は、引き続き大仏のある本殿へと歩き始める。
すると、今度は南大門が目の前に現れた。
段を登り、門の下にたどり着いてみれば、左右には仁王像が厳しい顔で佇んでいた。
教科書ではお馴染みの運慶快慶によって鎌倉時代に作られた作品である。
でも、その顔があんまりに怖いから、そばにいる赤ちゃんなどは泣き出していた。
無理もない。この威圧感は大人の俺だって感じることが出来る。感受性の強い子供なら尚更だった。
門を潜り抜けた先にはまたもや鹿。
これだけ見れば飽きるというもので、今度はスルーだ。
せんべいさえ持っていなければ、あちら側も積極的に構ってくることはないので、俺も鹿とは関わることなくそこを抜けた。
全く、食い意地の張った奴らである。
いや、この神聖な場所では神の使いとして扱われているのだから、あまり不用意なことは言わないほうが良いのか。
なんて、俺が俗っぽいことを考えていると、夏希にはジトッとした視線を送られた。
何を考えていたかは彼女に筒抜けだったらしい。
俺がそれに苦笑いで答えていると、大仏殿の門の前に着いた。
どうやらここで拝観料を払わなくてはいけないらしく、俺は財布を取り出した。
「じゃあ、夏希の分も払ってくるから、そこで待っててくれ」
「あっ、いや……大丈夫。ウチが自分で払うから」
「別にいいよ。これくらい。案内料ってことで」
「本当に大丈夫やから。それより、先行っててくれへん? ウチ、ちょっとお手洗い行ってくるから」
「えっ、ちょ、おいっ!」
結局、押し切られる形で拝観料は各自で払うことになった。
どうして夏希がここまで拒むのかはわからなかったが、彼女なりのこだわりがあるのだろうと割り切る。
トイレに行ってくるという口実まで作るのだから、聞き出すのも無駄そうだった。夏希は本当に不思議な奴だ。
仕方なく中門を潜り抜けて待っていると、予想以上に大きな大仏殿がそこにはあった。
あの中に大仏があるのだとすると、はたして大仏はどれくらいの大きさなのだろうか? ちょっと楽しみである。
そうして、未だ見ぬ大仏のことを考えていると、ようやく夏希が戻ってきた。
入り口はそれなりに混んでいたのに、随分と早いご帰還だ。
「おまたせ」
「そんなに待ってないよ。ということで、また案内よろしく」
「それは、もちろん。取り敢えず、中に入らへん? 暑いし、日陰に入りたい」
「だな。俺、夏は苦手だ。寒いのは着ればいいけど、暑いのはどうにもなんないだろ」
「えー、ウチは夏好きやけどなぁ、明るくて眩しくて、食べ物も美味しいし。まぁ、確かに暑いのは嫌やけど」
言われてみれば、夏は夏希のイメージにぴったりだ。
名前にも夏が入っているし、性格も夏希が挙げた夏の長所と完全に合致している。
食べ物は夏希が食いしん坊、ということにはなるが。
夏が夏希のような存在なのだと思うと、夏も存外悪くないような気がしてきたのだから、不思議だ。
それから中に入ってみると、俺は目の前に立ちはだかるそれを見て、呆然とする羽目になった。
それ、というのは言わずもがな大仏だ。
その大きさはもちろん、その荘厳な佇まいに俺は圧倒されてしまう。
果たして、名前は盧舎那仏と言っただろうか。
大仏さまは右手をこちらに向け、左の手のひらを天に向けるというテレビで見た通りのポーズをしていた。
夏希に聞くと、そのポーズにもどうやら意味があるようで、大丈夫だ、という意味だったり、望みを叶えてくれるというものだったりするらしい。
こうして実際に見ていると、大仏様にはいかにも人に拝ませるような存在感があった。
「すげぇな」
「やろっ? まぁ、大仏様は奈良の象徴やからねー」
「修学旅行も俺の学校は京都くらいしか行かなかったからな。こんな感じだとは思わなかった」
「じゃあ、そん時に優輝さんが来てたら、もっと早く会えたってこと? うわぁ、勿体無い」
「いやいや、十年前だぞ? その時に会ってても、夏希は幼すぎて覚えてないだろ」
「ああ、そういうことになるんやね」
それを聞いて、夏希は少し残念そうだった。俺がこっちに来たのは中学生の時だ。
まだ今は二十五だが、それでももう十年も前のことになる。
もし夏希が見た目通りの年齢だとしたら、その当時は五、六歳。
それよりちょっと上だとしても、小学校低学年だ。
その時期にたった一度だけ会った冴えない中学生のことなど、到底覚えているはずもない。
ふと昔のことを思い出し、郷愁に浸りながらも、俺たちは順路に沿って歩いた。
大仏の周りをぐるっと囲むように続いている順路には大仏に関する説明などがされている。
俺がそれをちょこちょこと読んでいると、夏希は優輝さん、こっち! と俺を呼んだ。
何事か、と近づいてみると一本の柱の周りに人だかりが出来ているのに気がついた。
「なんだ、これ」
「ほら、この柱の下のところに穴が開いてるやろ」
「……本当だ」
「これな、大仏の鼻の穴と同じ大きさと同じやねん」
「はっ、鼻?」
夏希の突拍子もない答えに、俺は思わず声を上げた。
それで、周りの視線が突き刺さるのを感じて、慌てて口を押さえるものの、驚きは隠せない。
鼻と同じだけの穴がここにある意味はなんなのか。
よく見れば、穴の中を子供や小柄な女性が潜り抜けている。
夏希もその列に並びながら、戸惑う俺に説明してくれた。
「うん、鼻。ここを通り抜けるとご利益があるらしいで? まぁ、優輝さんには無理やろうけど」
残念なことに、無理なのは事実だ。
俺も頑丈な体型というわけではないが、身長は一七〇センチ以上あるわけだし、この小さな穴には入れそうにない。
夏希はスルリと抜けてしまったが、大人の女性でもキツそうなのだ。
それでも無理に入ろうとした男性は肩が入らず、周囲にいた家族に笑われていた。
首だけ突っ込む姿はとても滑稽で、俺たちも笑いを隠しきれなかった。
「ねぇねぇ、優輝さん。こっちにお土産屋さんあるー!」
穴の前を通り過ぎると、大仏殿内の順路はそこで終わっていた。
あるのは様々な土産物で、夏希は興味津々にそれを眺めていた。
逆にずっと奈良にいたのなら、土産物をしっかり見る機会も少ないのかもしれない。
土産物は定番のキーホルダーやお菓子を始め、扇子やお守り、文房具などが売られていた。
中には奈良の可愛いんだかわからない、個性的なキャラクターがプリントされた物も多い。
外国人は刀のおもちゃを購入していた。
俺もお土産を買って帰る相手などいないので、この三日間であまりしっかりと見たことがなかったが、意外に色んなものがあって面白い。
「綺麗やねぇ、これ」
そんな中、夏希が目を止めたのは扇子だった。
扇子には色んな模様のしたものがあり、金ピカな派手なものもあれば、反対に渋めの藍色、明らかに外国人観光客を狙った漢字がでっかくプリントされているものもある。
夏希が目を止めたのはもちろん、そのどれでもなく、紫色の背景に金の川に桜が浮かぶ大人っぽくも美しいものだった。
あの夏希がかき氷店でしたように、妖艶さを醸し出すあの姿にはぴったりだ。
思い返して見れば、今日返してしまったハンカチも似たようなデザインで、夏希はこういうのが好きなのかもしれなかった。
「おじさん、これ一つくれるか?」
「あいよ」
「えっ、優輝さん買うの?」
「ああ。ちょうど、案内料も払ってないしな。これくらい買わせてくれ」
「そんな、ウチが勝手に振り回してるだけやのに。気にせんとってよ」
「と言われても、買っちゃったしな。受け取ってくれないと困る」
さっ、受け取ってくれよ。と俺が買った扇子を差し出すと、夏希はおずおずとそれを受け取った。
それから、改めて扇子を確認すると、口元を緩ませる。
なんだかんだ言いつつも、一応喜んでくれているらしい。
俺がホッと息を吐くと、夏希はニンマリと笑った。
「優輝さん、ありがとう。大切にする」
「池に落っこちて破かないでくれよ? 夏希は危なっかしいからな」
「まだそれ言うてんのー? 優輝さんは心配性やなぁ」
俺たちは笑いあった。今この時間が楽しくて、まだ続くことが堪らなく楽しみなのだ。
今日の奈良観光は始まったばかり。俺はそれに胸を躍らせていた。