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蝉時雨と夏の希望  作者: 卯月 桜華
DAY2 氷菓と色彩
5/21

黄昏と老人

「おお、意外に賑やかだな」

「やろ。今はちょうど部活が終わった学生が帰る時間帯やし、一番人が多いんとちゃうかな。まっ、人の多さに関しては東京とは比べようもないとは思うけど」


俺たちが今いるのは駅前の商店街だった。時刻は既に夕暮れ時。

絵を描いているうちに時間は経っていたようで、奈良公園からここへ来た時には西の空が黄金色に染まっていた。

訪れた商店街では部活を終えた学生や夕飯の食材を買いに来た主婦で溢れている。

その光景を見ていると、なんだか新鮮だった。

俺はインドア派で中々外に出かけることがなかっただけに、尚更興味深い。

都会にはない奈良の親しみやすい空気が俺には心地よかった。


「そりゃ、そうだろうけど。こういうのも風情があっていいよな。変に人でごった返してるより、楽しめる」

「物は言いようやんな。でも、これくらいが落ち着くのは確かかも」


夏希は奈良に毒されてるな、と笑った。

俺もつられて笑い、商店街の散策を楽しむ。

ここを抜けて、三条通りを下れば、元の駅に着くらしいので、今は夏希に案内してもらっているところだ。

夏希はここら辺に詳しいこともあって、迷うことなく軽い足取りで歩いていた。

でも、時折周囲のものに気を取られて、俺がキョロキョロとしだすと、自然な調子で歩調を合わせてくれたりする。

俺にはそんな夏希のさりげない思いやりが嬉しかった。

本来ならば、男である俺がエスコート出来たなら格好がつくものの、残念ながらここではアウェーだ。

大人しく彼女が導くままに行動する。


「なぁ、優輝さん。ちょっと寄り道してもいい? 時間とかって、大丈夫?」

「ああ、俺は平気だが……」


そうして、歩いていると、夏希は不意にそんなことを提案してきた。

なんだろう、と思いながらも特別帰ってすることもないので、了承の旨を伝えた。

すると、夏希は三条通りに出た後、横道に逸れてしまった。

何やら人気の少ないところに出てしまったが、一体、この先には何があるのだろう? 

俺は周囲に立ち並ぶ古民家を眺めながら、それを夏希に尋ねた。


「夏希、俺たちは今どこへ向かってるんだ?」

「知り合いがやってる古本屋さん。ほら、優輝さんと約束したやろ。この五日間をウチと一緒に過ごすって。その為の計画を練ろうと思ってん」

「ああ、確かに。というか、予定は決まってなかったんだな。てっきり、何か夏希が目論んでるのかと思ってた」

「一応昨日の時点で考えてはみたんやで? でも、そういうのはやっぱり優輝さんと一緒に考えたほうが楽しいかな、って思ったから」


どうやら、夏希の方は元よりまだまだ俺とは別れるつもりはなかったらしい。

俺は今更ながら、先ほど自虐に走ってしまったことが恥ずかしくなった。

全く。この二、三年の社会経験も俺にはなんの変化も与えてくれなかったようだ。

まぁ、俺が変わろうと努力していなかったのだから、当然といえば当然だが。


「あっ、ここや」


人気のない通りを少し行くと、その中でも一際暗い場所に夏希の言う古本屋はあった。

その店は随分と奥まった場所にあり、そうと知らなければ簡単に見過ごしてしまいそうな店だった。

これで人が来るのかは甚だ疑問である。

それでも、夏希が通い慣れているように見えるからにはそれなりの年月の間は持っているようだった。


俺が内心で失礼なことを考えていると、夏希は店のドアをガラリと引いた。

途端、埃の独特な香りが俺の鼻を突く。

ガラス戸は歪んでしまっているのか、少し開け閉めしづらい。

夏希は店内に我が物顔でズカズカと入り込むと、店の奥へと大声で呼びかけた。


「古爺、いる?」

「はいはい、おりますよ。ちょいとお待ちを」


中からは穏やかな老人の声が返ってきた。

そして、奥からドタバタと何やら騒がしい音がしたかと思うと、奥の一段上がったところにある障子が開いて、お爺さんがひょっこりと顔を覗かせた。

目は細いが、笑顔を浮かべた優しそうな人だ。

いかにも好々爺といった様子の彼に俺は軽く会釈をした。


「こんにちは」

「おや、今日はもう一人お客さんがおりましたか。こりゃ、失礼」

「古爺、こんにちは」

「夏希さんもこんにちは。珍しいですなぁ、貴女が誰かを連れてくるとは」

「そうやんな。でも、優輝さんは特別やから」


古爺、と呼ばれた老人は夏希を見ると、嬉しそうに店へと降りてきた。

夏希もいかにも親しげに古爺と挨拶をかわす。

俺は夏希に「特別」と言われたことに驚きつつも、彼女に促されて自己紹介をした。


「初めまして。新田優輝にったゆうきです」

古川寛次ふるかわかんじといいます。こんなボロボロの店にようこそいらっしゃいました」


俺と寛次さんは互いに握手を交わしあった。

寛次さんはこうして近くで見てみると、それなりの歳になっていそうなのに、足腰もしっかりしていて、言葉もハキハキしている。いかにも、健康そうだ。

夏希は俺たちの簡単すぎる自己紹介に言葉を付け加えた。


「もともとは古川寛次を略してふるじ、ってウチは呼んでてん。けどもう、流石におじいちゃんやろ。だから、ここ数年は古爺って呼ぶことにしてんねん」

「へぇ、そうなのか」

「うん。古爺にはよく話し相手になってもらってる」

「もし、優輝さんもそちらの方が呼びやすければ、どうぞ古爺と呼んでください」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


確かに寛次さん、というとちょっと厳格な感じがする。

けれど、古爺が持つ響きはなんとも親しみやすかった。

俺も試しに古爺、と呼んでみると、彼は優しげに「はい」と微笑んだ。

彼もどうやらこっちの名前の方が気に入っているらしい。

古爺の紹介が終わると、夏希は俺の方の紹介も始めた。


「で、優輝さんやけど……」

「敬語の抑揚のつけ方を聞くに、関東の方ですかな」

「そうです。よくわかりましたね」

「長年生きてると分かるもんですよ。で、今回はどうして奈良に?」

「それがなんともたまたまで。なんとなく、来てしまいました」

「ほほう、それはそれは。では、私たちが会えたのも奇跡ということですね。奈良はどうですか?」

「穏やかな良いところです。気に入りました」

「それは良かった。なら、是非ともゆっくりしていってくださいね」

「ちょっと!」


古爺の優しい口調に自然と会話が次々と紡がれていく。

そのせいで、夏希は話すタイミングを完全に失ってしまった。

それがよっぽどお気に召さなかったらしく、頬を膨らませながら会話に割り込んでくる。

夏希は俺の腕を取ると、鋭く古爺を睨みつけた。


「優輝さんはウチのもの。勝手に取らんといて?」

「おいっ」

「おやおや、優輝さんはよっぽど夏希さんに気に入られたようですねぇ」


しかし、古爺は夏希の扱いに手慣れているようで、鋭い視線にもどこ吹く風だ。

ただ微笑ましいと言わんばかりの余裕の態度だった。

夏希はそんな古爺が更に気に入らなかったらしく、もういいっ! とそっぽを向いてしまった。

俺はというと完全に板挾み状態で、ただただ苦笑することしかできない。

下手な発言でもしようものなら、夏希からのとばっちりを受けるのが目に見えている。


ということで、俺は二人が仲直りするまでの間、少し店内を見て回ることにした。

全体的な店の雰囲気としては、穏やかで優しげだ。

店に入る前までは暗く、陰気なイメージが強かったが、実際入ってみると、意外とそうでもない。

店内の四隅に置かれたオレンジ色のランプが柔らかな光をもたらし、この少し薄暗いくらいの明るさが不思議と心を落ち着かせてくれた。

まるでこの店の店主である古爺の性格を体現しているようでもある。

店には古本だけではなく、ツボや刀など様々な調度品も置かれていて、古本屋というよりは骨董品店という感じだ。

きちんと整理されているわけではなく、乱雑に散らかったそれらの価値を俺にはかることは出来ないが、相当に古そうだ。

試しに一番近くに積まれていた本の山から一冊取り上げて、ページをめくってみたが、今にもバラバラになってしまいそうだったので、すぐに閉じてしまった。

それからは、何かを壊してとんでもない額を請求されては堪らないと、戦々恐々と歩く羽目になる。

とはいえ、置かれているものは普段は見慣れない興味深いものばかりで、尚も慎重に店内を歩き回った。


「あっ……これ」


そんな時、店の隅に置かれた本棚の最上段にふと見覚えのある背表紙を見つけた。

取り出してみると、茶色の表紙に金の文字で『世界大百科事典』と書かれている。

このシリーズは父の書斎にいつも並んでいたものだった。

中身を開いたことは一度たりともないが、その部屋の中で厳粛で異様な存在感を放っていたのをハッキリと覚えている。

俺がこれを開かなかったように、父がこの本を開いている姿も一度も見たことはなかったが、部屋の掃除の際、母が「捨てようか」と提案した時には頑なに首を横に振っていたのを思い出した。

きっと、何か思い入れがあったのだろう。

その思い入れについては、これからも聞くことはないのだろうが、どうして気になったのかは疑問だ。

俺は頭の奥にズキンと鈍い痛みが走るのを感じて、本を元の位置に戻した。

止めよう。このことは今はこれ以上、考えていたくない。


「優輝さん」


そんな時に、夏希が俺を呼んだ。

俺の頭痛もその瞬間に何事もなかったかのように霧散する。

俺は深く息を吐き出すと、夏希と古爺のいる所へと戻った。

どうやら、二人の仲は元に戻ったらしく、今は互いに笑顔で話している。

夏希は俺が近づくと、今まで覗き込んでいた何かの雑誌を興奮気味に指差した。


「ねぇ、優輝さん行きたいところある?」

「少し前のものですが、奈良の観光雑誌がありましてね。参考になればいいのですが」

「ありがとうございます。代金は……」

「いえいえ、結構ですよ。夏希さんのお願いは断れませんしね。この店も定年退職後の趣味のようなものです。気にせずにお持ち下さい」

「本当にありがとうございます」


俺は再度古爺にお礼を言った。本当に古爺は良い人だ。

だからこそ、年の離れているように見える夏希とも上手くやっていけているのだろう。

こんなおじいちゃんが居たら、俺だって嬉しい。

知識も豊富そうだし、いろんな事を教えてくれるに違いない。


「ねぇ、優輝さん。やっぱり東大寺は外せへんよな」


俺が古爺の事を考えていると、夏希に袖を引っ張られた。

慌てて雑誌に視線を落としてみると、そこには東大寺を始めとした数々の名所が載っている。

法隆寺や唐招提寺、飛鳥の石舞台古墳なんて俺にとっては教科書の中の世界でしかなかっただけに、中々に興味深い。

夏希はどうやら観光もこの五日間のプランに組み入れてくれるらしかった。


「取り敢えず、明日は観光にしようと思ってんねんけど、優輝さんは行きたいところの希望ある?」

「うーん、やっぱり東大寺は行きたいな。あとは、法隆寺とかも興味ある」

「法隆寺か……申し訳ないけど、ちょっと難しいと思う。ウチ、ちょっと事情があって、実は奈良市からは離れられへんねん。ごめんな。それに、その事情を抜きにしても法隆寺は斑鳩の方にあるから、少し遠くて、一日があっという間に終わっちゃうのも、もったいないし……」


夏希は申し訳なさそうに謝った。でも、そういう事なら仕方ない。

奈良市内の事さえ俺には分からないし、どれだって新鮮に見えるはずだ。

他の場所に興味がないと言ったら嘘になるが、そこまで固執する理由もない。

何より、夏希の何処か思い詰めた表情を見て、そんな我儘は到底言えなかった。


「じゃあ、後は春日大社とか見てみたいな」

「それなら、平気。明日は昼前に猿沢池で集合しよっか。携帯があれば、イマドキ場所は分かるやろ? 今日満足に見れなかった三条通りでもゆっくり見ながら来たらええよ。それでいい?」

「了解。じゃあ、十時くらいにはいるようにするから」


こうして、概ねの明日の計画が立った。

俺たちは見ていた雑誌を閉じると、はたきで店内を掃除していた古爺に声をかける。

古爺は俺たちが帰ると分かると、少し寂しそうに笑った。


「そうですか。お帰りになりますか」

「ええ、いつかまた来ます」

「古爺、さよなら。元気でね」

「夏希さん、悔いのない日々を」

「わかってる。それじゃあね」


夏希はヒラリと手を振ると、一足先に店の外へと出て行ってしまった。

俺もそれを追おうと、古爺に会釈をして、店を後にしようとする。

しかし、古爺は俺を引き止めた。


「優輝さん」

「はい、なんでしょう」

「夏希さん、我が儘なところもあると思いますが、よろしくお願いします」

「わかってますよ。それじゃあ、またいつかの機会に」

「ええ。また」


古爺はやはり、寂しそうだった。

夏希は古爺にとって、孫のような存在であるのかもしれない。

見たところ、奥さんもいなさそうだし、一人で暮らすのは寂しい部分がありそうだ。

俺は黄昏の光が閉ざされていく中、暗い店の中で手を振る老人の姿を振り切るようにして、夏希の後を追ったのだった。


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