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蝉時雨と夏の希望  作者: 卯月 桜華
DAY2 氷菓と色彩
4/21

世界を彩る

「ねぇねぇ。優輝さん。そこはこの色の方がいいんちゃう?」

「いやいや、だから人間は青じゃないだろ。どれだけ顔色悪いんだよ」

「だって、映画で青い人見たもん。あれ、カッコ良くない?」

「そういう問題じゃない」


俺たちは再び、公園にいる。昨日描いたモノクロの絵に色をつける為だ。

それで、今は肌の色を試行錯誤しているのだが、夏希は相変わらず青を勧めてくる。

どうやら、夏希の人間の色が青になるのは某有名映画がもとになっているらしい。

しかし、あまりに現実とは違いすぎる色のため、これだけは断固拒否しなくてはならなかった。

ピンクとかならまだしも、青はあまりに高度だ。


俺は夏希から差し出された青い色鉛筆を押し返すと、再び肌色を手に取った。

時々オレンジや黄色、ピンクも使って肌に生気を与えていく。

影になりそうなところには仕方なく青も使ったが、その時の夏希と言ったら嬉しそうだった。

全く、どれだけ青が好きなのだろうか。訳がわからない。


「なぁなぁ、どれくらいかかりそう?」

「一時間、二時間では終わりそうにないな」

「ええー、ヒマ!」

「そう言うなって」


夏希は俺が絵に集中してあんまり話さないのも相まって、そろそろ暇になって来たらしい。

芝生の上で足をバタバタとさせて、俺に文句を言い始めた。

俺はそれを軽くあしらいながら、今度は目の色に取り掛かる。

改めて夏希の目を良く観察してみると、夏希の瞳はただ黒いだけでなく、不思議な輝きを放っていた。


「夏希、もうちょっとこっちに来てくれないか」

「ん、寂しくなった?」

「違う。夏希の目をもっと近くで見るだけだ」

「またまたぁ。なんか、見つめ合うって、恋人同士っぽくない?」


そう言って、夏希は俺の腕に自らの手を絡ませた。

夏希は俺に対して警戒心というのが全くないらしく、非常に距離が近い。

まぁ、だからと言って今の夏希をどうこうしようとは思わないのだが。

彼女が成長したら、きっとどんな奴だって手玉に取ることが出来るだろう。今から末恐ろしい。


それでも、こうして近くなったからには、目をよく観察することは出来た。

夏希の瞳は本当に黒い宝石のようだ。

まるでシャボン玉のように表面の色を次々と変えていく。

その奥には何が潜んでいるのかは分からない。

でも、何もかもを見通したかのようなそれを見ていると、思わず吸い込まれそうになる感覚に襲われた。


「優輝さん?」


そして、夏希の名前を呼ぶ声にハッと我にかえる。

夏希は怪訝な表情を向けていたが、なんでもないと首を振った。

それから、今の感覚を忘れないうちに色を塗っていく。

黒をベースに少し違う色もポツポツと重ねていった。

光は少し少なめ。このスケッチを描いた時を思い出してみれば、あの時の夏希は今とはだいぶ違ったはずだ。

どちらかというと、さっきのかき氷店で俺を誘惑した時のそれに近い。


「成る程。優輝さんにはウチがそう見えてたんや」

「夏希にはモデルの才能があると思うよ。スイッチが入った時に雰囲気がガラリと変わる。あれ、本当に演技なのか?」

「いや、どっちも本当のウチ。もちろん、かき氷店ではふざけた部分もあるけど、あれもウチの一部。ほら、優輝さんも会社での自分と一人でいる時の自分とでは違う部分もあるやろ?」

「確かに。そう言われてみれば、別段おかしいことでもないのか」

「まっ、そういうこと。覚えといて」


夏希はそこでようやく、俺の腕に絡ませていた自らの腕を解いた。

そして、いそいそと先ほどまでのポジションへと戻っていく。

なんやかんや文句を言いつつも、モデルを止めないでいてくれるあたり、夏希は優しかった。

俺も実際にモデルを経験して、恥ずかしい思いをしたのは記憶に新しい。

俺はそんな夏希に甘えて、色を塗り続けた。


コバルトブルーの空に大きな入道雲。なだらかに広がる芝生と、細かい松の葉の色には特に気を使った。

紙の上に汗が落ちないように時折汗を拭いながらも、精神を集中させて、絵と向き合う。

こんなひと時は何年振りか分からない。

夏希は何も言わずに、俺を見守ってくれていた。


そして、数時間が経ち。


「出来た」


俺はふうっとそれまで張り詰めていた空気に、大きく息を吐き出した。

途端、夏希がパッと表情を輝かせて、駆け寄ってくる。

夏希は俺の絵の完成を早く見たくて仕方がないようだ。

俺が一度伏せた絵を奪い取るようにして、ひっくり返した。


「わぁ……」

「どうだ? 中々良い出来だろ?」

「中々どころじゃあらへんよ、優輝さん。なんか在り来たりな感想やけど、むっちゃ綺麗。なんか絵の中にももう一つ世界があるみたい。風が吹いているのがわかるし、何もかもが生き生きしてて……夏っていう感じがする。なんやろう。今、むっちゃ感動してる」

「ははっ、流石に褒めすぎだ。でもありがとう。嬉しいよ」


俺も改めて己の完成した絵を眺めた。

自分でも納得できる会心の出来栄えだ。

個人的にはやはり、夏希の物憂げな目が一番上手く表現出来ていると思う。

その視線の先に何があるのか。それは俺にさえ分からないが、そのミステリアスさこそが、彼女の魅力を引き立てているように思えた。

背後の景色も色づいたことで、生命の息吹を吹きかけられたかのように、瑞々しく絵の中で生きていた。

そういう意味では柔らかいタッチとなる色鉛筆という選択は良かったのかもしれない。


「夏希、ありがとうな。付き合ってくれて。暇だったろ?」

「ううん。元はと言えば、ウチが我儘を言ったことが発端やったもん。それに、こんなに綺麗にウチのこと書いてくれて嬉しい。お礼を言うのはウチの方。ありがとう、優輝さん」


夏希は満面の笑みを浮かべて、お礼を返してきた。

そして、再び絵を覗き込むと、目をキラキラとさせる。

ひょんなことから描くことになった絵だが、こんなに喜んでくれる人がいたのなら、描いた甲斐もあるというものだった。

今まで凄いと褒められたことはあっても、誰かにここまで感謝されたことなどなかったから、尚更だ。


俺も喜びを隠しきれずに、口元を緩ませていると、ふと俺はあることに気がついた。

それは、絵が完成してしまったからには、この子との関わりが無くなってしまうということだ。

元々はハンカチを借りて、そのお礼にモデルとなるという約束で関わることになった仲だ。

それが二転三転して、俺が絵を描くことになったり、かき氷を食べることになったりしたが、それももう終わり。

彼女を繋ぎ止めていた鎖は今この瞬間、解けてしまったのだ。


「いや」


しかし、俺はこのまま終わりたくないと、今強く望んでいた。

理由はどうしようもないほど自分でも理解している。

彼女が俺にとって、あまりにも大きな存在になり得ていたからだ。

それは、過ごした時間はとても短いのにも関わらず、だ。

夏希はこの二日間で、惰性にしか生きられなかった俺に眩しい光を見せてくれた。

取り繕わない純粋な笑顔を見せてくれた。

夏希と過ごした二日間は今までの二十五年間の中でも、一層輝いているように俺には思える。

だから、今になって、この繋がりをどうしても手放したく無くなっていた。


「ねぇ、優輝さんはほんまに凄いな」


相変わらず、無邪気な笑顔を見せる夏希。

実は、彼女ともう一度会うための方法はまだ残っている。

それは汚く醜いやり方だが、今もまだ鞄に入っている彼女のハンカチを、今日は忘れてしまったとさえ言えば良いのだ。

でも、それは同時にこんなに美しい夏希を裏切る行為でもある。

ましてや、純粋な表情を向けられたら、嘘などつけるはずもなかった。


「なぁ、夏希」

「どうしたん? 優輝さん」

「はい、コレ」


正直、手が震えた。ハンカチを渡して仕舞えば、そこで何もかもが終わる。

明日から何でもない日常が再び始まるかもしれないのだ。

俺はその息苦しさを表に出さないように努めるので必死だった。

ゆっくりハンカチを受け取ろうとする夏希の手に押し付けるようにして渡す。

そして、ハンカチが手から離れると、すぐさま背を向けた。


「ハンカチ、ありがとう。その絵はお礼にあげるよ」

「あっ、ちょっ……優輝さん」

「じゃあ、さよなら。元気で」


俺は一方的に別れを告げた。

あまり多く話せば、きっと気持ちが揺らぐのはわかっていたから、呼び止める声にも耳を貸さなかった。

これ以上、俺みたいな奴に彼女を縛り付けておくわけにはいかない。

彼女にも彼女の人生がある。そう思うが故の苦渋の選択だった。


しかし、そんな俺の前に夏希は立ちはだかった。


「そんな、優輝さん! 待ってよ」

「もう用は済んだろ。これ以上、俺みたいな奴に構っていても、何も良いことはないぞ。早く帰った方が、無難だ」

「俺みたいな奴って何? 優輝さんは凄い人やろ。自分を卑下するような、そんな悲しいこと言わんといて」

「卑下するもなにも、俺はどうしようもない奴だ。ただの事実だろ」

「事実やない。ウチが認めへんから、それは事実じゃなくなる。だから、優輝さんはどうしようもない奴じゃない」


夏希は怒ったように俺を睨みつけた。

繰り出すのは随分と強引な持論だ。

夏希は自分を貶めようとする俺に対して、途轍もなく怒っていた。

綺麗にしてきたはずのハンカチをくしゃくしゃに丸めたかと思うと、俺を目掛けて投げつけてきた。

もちろん、痛くも痒くもないから、ハンカチが地面に落ちて、汚れる羽目になるだけだった。

でも、それは夏希の策略だったようで。


「それ、もう一回洗ってきて」

「はぁ? 投げたのはそっちだろ」

「でも、最後に触ったのは優輝さんやろ。なら、汚れたのは優輝さんのせい。だから、洗ってきて。そしてまた明日、ここへ来て」

「そんな、小学生みたいなこと……」


俺は呆れた。夏希はどうしても俺とまだ過ごしたいらしい。

こんな何の価値もない俺を何故か買ってくれている。

俺にはそれが理解出来なかった。夏希がこんなにも必死になって、引き止めてくれる理由が。

俺は少し嬉しいという気持ちが湧き上がってきてしまうのを抑えて、舌打ちした。

まだ、折れるわけにはいかない。ここまでくると、俺も意地になっていた。


「ったく。どうして、そこまで俺に肩入れするんだよ」

「言ったやろ。ウチは優輝さんに期待してるって」

「残念ながら、期待に添えるようなものは何もないんだがな。俺には」

「それも、優輝さんが見せてくれた。優輝さんは誰にも負けない才能がある。ウチがそれを保証する」

「なんだよ」

「世界を彩る力」


夏希は真剣な眼差しで言い切った。疑うことなど微塵も知らぬ様子で。

俺は顔が熱くなるのを感じた。


「それって、絵のことか?」

「それももちろんそう。優輝さんは一瞬の風景を膨らませて、絵の中にもう一つの世界を創った。それは優輝さんの才能やと思う。けれど、それだけじゃない」

「どういう、ことだ」

「優輝さん自身の日常も、もしかしたらウチの探している答えにも色を付けてくれる、そんな気がするねん」


夏希はひたすらにジッとこちらを見つめていた。

それを見るに、冗談を言っているわけでもなさそうだ。

彼女は本気で俺にそんな才能があると思っている。

俺自身が求め続けてきた力がきちんとあると、保証してくれると夏希は言っているのだ。


「もし、優輝さんがその為にウチに協力してくれるって言うなら、優輝さんの時間を……明日からの五日間を分けて欲しい。本当に我儘やし、勝手なことを言ってるとは思う、けど。お願いします」


夏希は深々と頭を下げた。本来なら、頭を下げるべきはこちらだというのに。

この誠実な態度は恐らく、彼女なりの証明なのだろう。

誠意を払わなければならない理由は、頭を下げるほどの価値は、俺にあるのだと。


俺もここまでされたら断る術など持ち合わせていなかった。

元より、会社に戻れない身だ。これだけ休んでしまった以上、クビは確定だろうし、そうでなくても取り返しのつかないことをしてしまっている。

俺にそんな価値があるのかは俄かに信じ難かったが、ここまでして俺を頼ってくれる夏希をこれ以上無下にすることは出来なかった。


「止めてくれ、顔を上げてほしい」


夏希は恐る恐る顔を上げた。

俺はそんな夏希を安心するように笑ってみせる。

決意はもう既に固まっていた。


「ああ。やるよ、俺の五日間なんて。最も、期待に応えることは出来ないかもしれないがな」

「ホンマに!? ホンマにええの?」

「もちろん。ゴメンな、変な意地張って」

「ううん。迷惑な話なのはわかってたから、引き受けてくれただけで嬉しい。ありがとう」


夏希は俺の腕を掴むとブンブンと振り回した。

俺の答えがよほど嬉しかったようで、目尻には涙さえ浮かんでいる。

俺は申し訳ないやら、気恥ずかしいやら、正直戸惑っていた。

けれど、夏希の喜ぶ顔を見れば、悪い気はしない。

俺も夏希の手を握り返した。


「これから、改めてよろしくな。夏希」

「よろしく、優輝さん」


夏希は涙を拭うと、暖かい手で俺の手を包み込んだのだった。


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