太陽か月か
シャリ、シャリと冷たく心地いい音が俺の耳に届く。
夏希は満面の笑みでその音が生まれる正体にスプーンをさしこんでいた。
夏希の目の前にあるのは小さな氷山……つまりはかき氷だ。
昨日、アイスを奢れと言われ、夏希に連れてこられたのはかき氷店だった。
古民家を改装した店らしく、店内は和のテイストを残しながらも、所々アジア系の異国をうかがわせるオシャレな内装だ。
冷房も効いていて、とても心地よい。
この店で売られているかき氷は夏希の言うアイス、とは少し違うかもしれないが、夏にぴったりの食べ物だった。
夏希は抹茶味のかき氷をセレクトしており、いかにも幸せそうにそれを頬張っていた。
「美味しいか?」
「うん。優輝さんありがとう! むっちゃ、美味しい」
「そうか、良かった」
どうやら、お姫様のお気には召したようである。
俺はそれを聞いて、ホッと息をついた。夏希は笑っている顔が一番良いのだ。
たった二日間しか過ごしていないにもかかわらず、彼女の笑顔にはなんだか力を貰っているような気がした。
夏希と出会ってからというものの、自分も知らず知らずのうちに笑みを浮かべていることが多いのだ。
最早、ずっと前から一緒にいる心地さえする。
俺が頬杖をついて、隣に座る夏希を眺めていると、夏希はふと俺の顔を見た。
今までずっとかき氷に夢中だったのに、急に手を止めたものだから、俺も不思議に思って尋ねた。
「どうした? 急に」
「いや、優輝さんはかき氷食べへんのかなと思って」
「ああ、俺はいいよ。かき氷って、食べた時に頭がキンとするだろう? あれ、苦手なんだ」
「ええっ……せっかく美味しいのに」
「悪いな。遠慮させちゃって。でも、大丈夫だ。ほら、食べろって。溶けるぞ」
俺はそう言って、浮かない表情をする夏希を急かした。
夏希はちょっと残念そうにしながらも、再び手を動かす。
しかし、次にかき氷をすくったスプーンを見て、何かを思いついたのか、そこでニヤリと笑った。
果たして、何を思いついたのか。と、俺は考える間もなく、次の瞬間には口にそのスプーンを突っ込まれていた。
「ん!?」
「ほら、食べた! お味はどう、優輝さん?」
「あっ、美味しい……」
「やろ? こういうのは一度食べてみるもんやって」
夏希はポロリと素直な感想を漏らした俺に、自信満々に胸を張って見せた。
俺はそのことに少し悔しさを覚えながらも、実際にとても美味しかったので、何も言えない。
この店のかき氷は予想外にフワフワとしていた。
かき氷というのはもっとジャリジャリしているものと思っていたのに、このかき氷は口の中でフワリとあっと言う間に溶けてしまう。
また、あんこの甘さに抹茶のほろ苦さも良くあっていて、そこに文句などつけられるわけがなかった。
「抹茶も美味いな」
「奈良の名産、大和茶やもん」
「大和茶? 意外だな。近畿だから宇治とかだと思ってた」
「まぁ、確かに知名度は圧倒的に宇治抹茶が有名やけど、一応奈良にもお茶はあんねん。味は宇治抹茶に似てるらしいけど、大和茶も香りがいいやろ」
「本当だ」
言われてみれば、良い香りがする。
宇治抹茶との違いは宇治抹茶自体、俺が詳しくないせいでよくはわからないが、上品な感じはする。
夏希は更に言葉を続けた。
「最近、これでも奈良のかき氷は評判ええねんで。なんでやろうな」
「さぁ。夏希が知らないなら、わからないな」
「そりゃ、そうやな。でも、やっぱ氷室神社があるからかも。氷室神社には平城京があった時代、献氷されてたらしいし。そういえば……五月にかき氷関連のお祭りもあったような」
「夏希、詳しいな」
「一応、奈良には長く住んでるもん。詳しくもなるわ」
それにしたって、その知識量は凄いと思う。
もし中学生の時の俺に同じように東京のことを聞かれたら、これだけのことが話せるだろうか。いや、きっと無理だろう。
今だって、東京のことを満足に話せそうもないのだ。
その点、夏希の地元愛には感心してしまう。
「夏希は奈良が好きなんだな」
「……嫌いではないよ」
しかし、返ってきた答えは意外にも素っ気ないものだった。
一瞬、夏希の顔が強張った気がする。
その垣間見た表情は、俺にとって夏希に出会って初めてのことだったから、驚いて言葉を詰まらせてしまう。
夏希はそんな俺の様子に気がつくと、ハッと顔をあげた。
それから、嘘のようにまたニッコリと笑う。
そこにさっきの表情を見つけることはもう出来なくなっていた。
「じゃあさ、これからちょっと質問タイムにせぇへん? ほら、ウチらこんな風に一緒にいる割にはさ、お互いのこと何も知らんやん?」
「言われてみれば、そうだな」
「うん。それって、これからのことを考えても、寂しいことやと思うねん。だから、今の間に少し、話しておこう? もちろん、話したくないことは別に構わへんから」
どうやろ? とこちらの様子を伺うように小首を傾げる夏希。
言葉にも俺に何か事情があることを察しているのか、配慮が溢れている。
そこまできっちり考えてくれているのだから、断るはずがなかった。
俺はその提案を苦笑しながら、受ける。
「そうだな。やろうか」
「決まり。じゃあ、まずはウチから質問。ズバリ、好きな女性のタイプは?」
「はぁ? 普通、そこから聞くか? 夏希、俺の年齢も知らないだろ」
「だって、別に年なんてどうでも良いやん。それより、こっちの方が気になる」
夏希は何故かワクワクしたような目を向けてくる。
一体何を期待しているのかは見え見えだったが、ここは乗るべきか乗らざるべきか非常に迷うところだ。
俺は結局、悪戯心に負けて、こう答えた。
「そうだな。控えめで慎ましい、大人びた人、かな。でも、どこか妖艶なところがあると最高だな」
「それって、ウチが子供っぽくて、煩いって言いたいん?」
「はて、何のことかな」
「……ううっ、わかった。なら、そういう風にしたる」
「はいはい……って、え?」
俺は適当な返事をしかけて、思わず耳を疑った。
てっきり、俺の冗談にいじけると思っていたのだ。
そうなれば、謝ろうと決めていただけに、思いもよらぬ返答には度肝を抜かれた。
そういう風にしたるって、それって。
「……優輝さん」
俺が軽い混乱状態に陥っていると、夏希が俺に呼びかけて来た。
先ほどまでの元気な口調とは全く違う、控えめな呼び方。
俺はさっきの言葉の意味を理解して戦慄した。
それでも、夏希を無視するわけには行かず、恐る恐る彼女の方へと顔を向ける。
「うおっ」
そこにいたのはまるで別人だった。
俺は衝撃のあまり、間抜けな声を出してしまう。
でも、それくらい夏希の纏う雰囲気は変わっていたのだ。
僅かに潤んだ儚げな瞳。桜色に染まった頬。そして、禁断の果実のように男を誘う唇。
今目の前にいるのは、きっと少女ではない。まさに、妖艶な美女そのものだ。
夏希は俺のそばに寄りかかると、目を少し伏せた。
すると白いうなじが露わになる。
俺は最早放心状態で、されるがままだった。不覚にも夏希に魅せられてしまっているのだから、仕方がない。
俺が動けないでいると、夏希はニヤリと笑った。
そんな表情にさえ色香が漂っている。
「どう、優輝さん。ウチ、優輝さんの理想になれてるやろうか?」
「ちょっ、待て。お願いだから」
「なんで? ウチ、優輝さんの理想を叶える為に頑張ったのに」
次第に涙を浮かべる夏希。
俺はどうしたらいいのか分からずに、オロオロとする。
周囲の客のおかしなものでも見るような視線が痛いほどに突き刺さっていた。
そうだ、俺は一体何をしているのだろうか。
俺はようやく辺りを見渡して、冷静な思考を取り戻した。そして、夏希の肩を掴む。
「夏希、ふざけるのも大概にしてくれ」
「ええー、なんでやねん。優輝さんも満更でもなかったクセにー!」
「そんな演技に引っかかるわけないだろ」
「嘘や! 絶対動揺しとったもん」
俺が注意すると、いつもの調子を取り戻し、わあわあと騒ぎ出した。
俺は必死に平静を取り繕いながら、グラスの水を飲み干す。
正直、心乱れたのは事実だ。夏希の演技は本当に完璧だった。
今も胸に手を当ててみれば、ドキドキとした高鳴りが聞こえる。
あれはいっそ、多重人格を疑うほどだ。
彼女いない歴イコール年齢の俺には相当キツイ。
でも、俺は十代前半かもしれない少女にそんなことを思ってしまったなど認めることは出来なかった。
軽く深呼吸をして、なんとか動揺を押し隠す。
これ以上触れられないように、とにかく思いついた質問を口に出した。
「で、夏希の年齢は?」
「優輝さん、それ女子に聞くのはタブーちゃう?」
「何をおばさんみたいに。それくらい、隠すことでもないだろ」
「まぁ、そうなのかもしれんけど。逆に聞くけど、優輝さんにはウチが何歳くらいに見える?」
「十四、五くらい」
「じゃあ、そういうことにしといて」
「はぁ? 答えになってないぞ、それ」
「でも、言いたくないもん。本当はもっと上、とだけ言っておく」
で、次の質問は? と夏希はたちまち不機嫌な様子で尋ねた。
どうやら、年齢に関しては夏希のタブーだったらしい。これ以上聞いても話すことはなさそうだ。
まぁ、俺だって聞かれたくないことはあるし、仕方がないだろう。
俺は諦めて、別の質問を投げかけることにした。
「なんで、俺なんかにハンカチを貸してくれたんだ? 今の防犯意識の高いご時世、さすがに誰にだって、そうするわけじゃないだろう。しかも、知らない男と会う約束までするなんて」
「ああー、なるほど。確かに、誰にでもすることじゃないな」
「だろ。で、何故なんだ」
「ううーん、どうやろ。ウチにもわからへん」
「おい」
またかよ。俺は思わず突っ込んでしまった。
でも、今度はそれなりに難しいことを聞いてしまったのかもしれないとは、思う。
たまたま、偶然。親切にすることにきっと理由なんてないはずだ。
バスで老人に席を譲るとか、前を歩く人がハンカチを落として、届けてあげるとか、そんなことに一々理由を求めていたら、きっと疲れてしまう。
よくよく考えれば、俺が馬鹿な質問をしてしまったのだ。
彼女が俺に無邪気に懐いてくれるあまり、誰でもない俺を必要としてくれているのかもしれないと、期待してしまっていた。
俺が例え、会社に戻らなかったとしても、社会もいつか回り出していくように、俺の価値なんてその程度のもの。
それを忘れていた俺が愚かだった。
「悪い、今の質問は……」
「でも、なんとなくはわかる気はする」
「えっ?」
独りよがりな質問を取り消そうとした矢先、夏希はハッキリとした口調でそれを遮った。
まさか、答えてくれるとは思っていなかっただけに、俺は拍子抜けしてしまう。
夏希はにっこりと優しく微笑んでいた。
「多分、優輝さんも何かに迷っているように見えたから」
「俺が迷う? どうして、分かるんだよ」
「だって、ちょうどウチも迷ってたから。ウチがここにいる意味はなんなのやろうって。ずっとそれを考えてた。けど、中々答えは見つからんくって。そんな時に鹿に囲まれてる優輝さんを見かけてん。そして、優輝さんも……これはウチの勝手な思い込みかもしれへんけど、この人も迷ってるって何故か確信できた。それも、この人ならウチの求めるものも一緒に見つけてくれるかもしれへんって。何をウチは優輝さんに期待してるんやろうなぁ。今になってそれは身勝手な期待やったと思う」
「そんな、俺だって」
俺は何も言うことが出来なかった。
この少女は多分、俺の思っている以上に何か大変なものを抱え込んでいるのだ。
俺は夏希が儚げに笑うのを見て、何故か胸が締め付けらるように痛くなった。
「でも、その期待は半分以上、優輝さんのせいやねんで?」
「俺?」
「うん。優輝さんがこんなうるさい子供を突き放さずに甘やかしてくれるから、ウチは期待してしまうんや。だから、優輝さんの所為」
そこでようやく、夏希は悪戯っぽく笑った。
俺に元気をくれる、あの笑顔だ。
彼女は大袈裟な仕草で、この重い空気を払拭するように手を振り回した。
「ああもう、この質問大会止めよ! なんか、難しい話してる。お互いのことなんて、これからゆっくり知れば良いやんか」
「言い出したのはそっちだろ。でも、まぁ、そうだな」
「ねっ、そういえばまだ昨日の絵の色塗りしてない!」
「やべ、忘れてた」
俺達はスケッチブックを持つと、席を立った。
それから、お会計をサッと済ませると店を出る。
外はまだ真昼間で、強い日差しが燦々と降り注いでいた。
夏希は昨日被っていなかった麦わら帽子を今日は身につけている。
彼女は一足先に前に出ると、振り返って俺を呼んだ。
「おーい! 早く!」
「そんなに急ぐなよ。転ぶぞ」
「転ばへんもーん! って、痛っ」
「ああ、言わんこっちゃない」
俺は呆れて、首を振った。
彼女の本当の笑顔は太陽か月か、どちらなのだろうか。
でも、この色んな笑顔を持つ少女にはどうやら、手を焼きそうだ。
俺はそんな予感にとらわれながら、転んだ夏希に手を差し伸べたのだった。