エピローグ アトリエにて
「こうして、僕たちの夏は終わりました。けれども、あの一週間のことは今でも鮮明に覚えています。決して忘れられない、輝かしい思い出です」
目の前に座る彼はふわりと笑った。
物語はこれで、終わり。
そう告げられると、私はようやく長い夢から覚めたような感覚に陥った。
初めは面白半分で聴き始めた話だったが、いつの間にか聞き入ってしまっていたらしい。
窓の外を見てみれば、話を聴き始めた時にはまだそんな高い位置になかった太陽が、既に真上にある。
軽く三時間くらいはこのままだったということだ。
私は未だ話の中の世界にいるような心地に戸惑いながら、小さくため息をついた。
そして、頭を軽く下げる。
「貴重なお話、ありがとうございました」
「いえいえ。長く、本当かどうかもわからない話に付き合わせてしまって、申し訳ない。お疲れになられたでしょう。お茶でも淹れますね」
「あっ、お構いなく」
慌てて席を立ったものの、まぁまぁと彼に引き止められて、結局再びその場に腰を下ろす羽目になった。
私は彼がお茶を淹れてくれている間、失礼かなと思いつつも、部屋の様子をまじまじと観察してしまう。
やはり、改めて見ると、全体的に白で塗られ、南に大きな窓があるこのアトリエはとても明るかった。
部屋の隅には描きかけの絵や、使いっぱなしの絵の具、色とりどりの水の入ったビンなどが乱雑に散らばっていて、いかにも画家の住処であることを思わせる。
私たちのいるところは辛うじて綺麗にされていたが、それでも全体的に片付いているとはとても言い難かった。
それでいて、居心地はなぜか悪くない。
それが本当に不思議だった。
ありふれているようで、どこか魅力を放つこの空間に、私は彼に許可を得て、いつも持ち歩いている一眼レフカメラで一枚写真を撮った。
「すみません、記者さん。散らかってますね」
「……ああ、いえ。とても素敵なところだなと思っていただけです」
しかし、ワクワクとした気持ちは、すぐ「記者さん」との呼び方に打ち消されてしまった。
自分がついた嘘のことが思い出されて、途端に居心地が悪くなる。
ああ、数時間前の自分、なぜ記者だなんて嘘をついたんだと、今更ながらに私は後悔していた。
とはいえ、仕方がないと思うのだ。
まさか、たまたま来た奈良で、あの新田優輝に逢えるとは思いもしなかったのだから。
新田優輝。あまり有名ではないが、五年前から一部では人気のある画家だった。
彼の描く夏の風景は瑞々しく、とても鮮やかで、美しいのが特徴的だった。
その一方で、どこか寂しさというか、儚さのようなものがあって、私も彼の絵を初めて見た時、グッと心を掴まれてしまった。
以来、ずっと彼の作品を追い続けている。
にも関わらず、作者であるはずの新田優輝の情報はとても少なく、私としても知っていることは少ない。
だから、偶然迷い込んだアトリエが彼のものと知り、どうしても話を聞きたくなって、つい嘘をついてしまった。
まぁ、だからと言って、嘘をついたことが許されるはずもなく。
私はきまりが悪くなって、自分の膝の上にのるカメラに視線を落とした。
お茶にも手がつけられず、数秒の沈黙が流れる。
優輝さんはそんな私の心境を知って知らずか、再度明るく声をかけて来た。
「実はですね、この話にはもう少しだけ続きがあるのです。聞いていただけますか?」
「是非。私も興味があります」
「では、お言葉に甘えて。実は、夏希と別れた後、僕は残された森の中であるものを見つけたのです」
「あるもの、ですか」
「夏希が宿っていたもの……つまりは鏡です」
これがどういうことだか、わかりますか? と優輝さんはちょっと悪戯っぽく笑って、問いかけて来た。
その表情は三十歳半ばに見えていた彼を十歳は若く見せるくらい、無邪気だ。
私は彼が何を言いたいのかわからず、首をかしげる。
宿っていたもの……つまり、彼女の想いが憑いていたのが鏡だったということだろう。
でも、それ以上の何かがあるとは思えなかった。
彼は一体何のことを尋ねているのだろう。私は頭を悩ませた。
「すみません、わからないです」
「謝らないでください。僕の質問の仕方も悪かったと思いますから。聞き方を変えると、夏希が何故鏡だったかということについてです。これは勝手な僕の想像ですが……だからこそ、僕たちは通じ合えたのでしょうね」
やっぱり、彼の言わんとしていることはわからなかった。
相変わらず思案顔の私に、優輝さんは可笑しそうに目を細める。
普段ならそんな風な目で見られたら、つい不満を口にしていただろうが、優輝さんには不思議とそんな感情が湧き上がってこない。
ただ、本当に穏やかな人だな、と思うだけだった。
それから、私たちはもう少しだけ他愛のない話をした。
優輝さんは絵のことはもちろん、奈良についての話もたくさんしてくれる。
幾ら話していても飽きないほどだった。
とはいえ、あんまり長居するのも失礼だ。
嘘をついている以上、いつボロが出てしまうとも限らない。
私はひと段落つくと、早々にいとまを告げた。
「では、私はこれで失礼したいと思います。今日はたくさんお話を聞かせていただき、ありがとうございます」
「もう帰られてしまうんですね。……ああ、長く引き止めてしまって申し訳ない」
「そんなことは気になさらないでください。私も楽しかったですから」
「でも、最後にお尋ねしたいことがあります。いいですか?」
「もちろん。私にお答えできることなら何でも」
「では、見当違いでしたら、申し訳ないのですが……あなた、記者ではありませんね?」
私はその瞬間、心臓が止まってしまうかと思った。
突然に告げられた事実に、ただただ驚くことしかできない。
ジワジワと這い上ってくる罪悪感から、優輝さんの顔を見ることが出来なかった。
私は何も答えられずに、沈黙を貫く。
しかし、優希さんの声はあくまでも優しかった。
「別にそのことを責めたいわけじゃない。ただ、確認したかっただけなんです。あなたの本当の姿というものを」
「……なぜわかったのか、お尋ねしても?」
「昨年結婚した姉がライターだったのでね。メモも取らなければ、録音もしないのが不思議でした。ただ、そのカメラだけは本物に見えたので、確信は得られなかったのですが……どうやら当たっていたようですね」
そう言って苦笑する優希さんの口元を見て、私は恐る恐る顔を上げた。
どうやら、本当に怒っていないらしい。
代わりに彼は少し困った顔をしていた。
そんな顔をされると、ますます申し訳なくなってしまう。
私はたまらず、優輝さんに頭を下げた。
「嘘をついていて、すみませんでした。騙すとか、悪気はなかったんです」
「それは見ていればわかります。なら、どうして?」
「……あなたのファンだったから」
「えっ?」
優輝さんは私の言葉にキョトンとした表情を見せた。
その可能性をつゆほどにも考えていなかったのか、呆然とすらしている。
彼は暫しの放心状態に陥った後で、まじまじと私を見つめた。
それから、自分を指差して、聞き返す。
「ファン? 僕の?」
「はい。あなたの作品が好きです。わかっていて、ここへきたわけではないんですけど。あなたが新田優輝と知って、お話を聞きたくなって記者だと言いました。一般人だと、教えてくれないかなぁ、と思ったので」
「そんなことなのに。っていうか、むしろそうだと言ってくれれば、もっとなにか考えたよ」
そっかぁ、嬉しいなぁ、と優輝さんは顔を綻ばせた。
あんまりに嬉しそうなので、こちらまで照れ臭くなってしまうほどだ。
何処と無く、話に聞いていた夏希さんの笑顔を連想してしまうのは気のせいだろうか。
眩しいほどの笑顔とはこのことを言うのだと思う。
私もそれが羨ましかった。
競争社会の中で、生き抜くことしか考えていなかった私は、その笑顔を過去に置きざりにしてきてしまったから。
「なら、一つだけアドバイスさせてください」
「光栄です、何でしょう?」
「余計なお世話かもしれないけど……あまりさ、無理に頑張らなくてもいいと思う。何と言うか……夏希みたいに上手くは言えないけど」
頑張らなくていい。その言葉に私は、驚いた。
そんなこと、今まで生きてきた二十年ちょいの中で、言われたことがなかったのだ。
いつも言われるのは頑張れ、お前ならやれる、とかそういう励ましの言葉ばかりで。
親にも、先輩にも、上司にも言われ続けるのはそればかりだった。
私は私なりに頑張っていて、自分でも満足出来る結果を出しているのに、周りは更にその上を要求してくる。
だから、したいことなんてずっと出来なかった。
今ここにあるカメラでさえ、買うのには苦労したし、持っていても使える場面は多くなかった。
社会人になって、ようやく使い方を覚えたけれど、結局それまでだった。
気がつけば、仕事が次から次へと舞い込んできていた。
お前は有能だとか、何とか言われて。
考えてみれば、自由なんてなかったかもしれない。
「君も、おそらく逃げてきたんだろう? 何があったのか、そこまで推察することは出来ないけど、多分そうなんじゃないかな」
「間違っては、ないと思います。気がつけば、ここにいましたから」
「なら、僕と一緒だ。君もきっと、何かに引き寄せられてきたんだ。恐らくは、ここに眠る想いに」
「夏希さんのことですか」
「僕にとってはそうだった。けれど、君にとってそうなのかは、さすがにわからない」
そりゃそうだ。優輝さんがしてくれた話は確かに興味深かったけれど、私には信じがたい話だった。
例え、優輝さんの身に起きたことが本当のことだとして。
それでも、私が彼と同じような経験をするとは、とても思えない。
想い人が私の目に見えてくれるとは限らないのだ。
そう言う意味でも、優輝さんの言葉は合っていた。
「でも、奈良はいいところだ。京都とかに比べると華やかさに欠けるけど、その分のんびりできる。頑張りすぎた君にはちょうどいいんじゃないかな」
「確かに、落ち着くところです」
「だから、そのカメラでも持って、暫く歩いてみなよ。ゆっくり考えてみたら、案外何か見つかるかもしれない。ほら、例えば夢、とか」
彼はまるで、私の心を見透かしているようだった。
私は手にしたカメラに視線を落とす。
果たして、私にも見つかるのだろうか。
この奈良という地で。大切なことを思い出させてくれるような、輝く何かが。
わからない。
けど、優輝さんの提案はとても魅力的に聞こえた。
やってみようかな、という気になってしまう。
私は気がつけば、頷いていた。
「やってみます」
「それがいい。もし迷ったら、いつでもここに来て。何も言えないかもしれないけれど、お茶くらいはご馳走出来そうだから」
「お茶、美味しかったです」
「そりゃ、大和茶だし」
そうだったのか、と私は今更ながらに納得した。
そして、優輝さんに見送られながら、店の外へと出る。
太陽は肌を刺すような光を浴びせ、蝉は相変わらずうるさくないていた。
これだから、夏は苦手だ。
眩しくて、うるさくて、鬱陶しい。
私は思わず、陽炎が立ち上るアスファルトの道の先を睨みつけた。
「って、あれ」
ふと、電信柱の陰に白いものが見えた。
ワンピース、だろうか。
次いで、見えるのは黒く長い髪。
私はまさか、と思いながら、そこにいる少女に目を奪われた。
電信柱の陰から現れたのは、透き通るような白い肌をした、誰もが振り返りたくなるほどの美しい少女だった。
彼女は私と目が合うと、輝かんばかりの天真爛漫な笑顔を浮かべる。
そして、秘密と言わんばかりに桜色の唇の前でしぃっと人差し指を立てた。
彼女はアトリエの中へと入っていくと、こちらに背を向けて絵を描いている優輝さんの隣に立った。
絵を覗き込むその様子はいかにも楽しそうで。
私は彼女の正体を直感した。
「ああ」
そう呟いた途端、彼女の姿はフッと消えてしまった。
しかし、その光景は私の網膜に鮮烈に焼きつき、未だハッキリと残っている。
私は言葉に表せないほどの歓喜に包まれていた。
本当に、いたのだ。
私は刹那しか出会えなかったにもかかわらず、そう確信した。
幻か蜃気楼だなんて、何故だかちっとも思えなかった。
私はついさっきまで彼女がいたところにカメラを向ける。
無意味だとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
シャッターをきると、私の心にはついさっきまでは無かった充足感が生まれていた。
心なしか足取りも軽い。
不安がなくなったわけじゃないけれど、何かを期待する気持ちが今の私にはあった。
きっとこれから、奈良という地で大切なものを見つけられるはず。
そんな予感に囚われていた。
だったら。
「もう少しだけ」
自由に生きてみようか。
私は一歩、想いが宿るこの地へと踏み出した。