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蝉時雨と夏の希望  作者: 卯月 桜華
DAY7 消ゆる夏の希望
20/21

蝉時雨と夏の希望

夕暮れ時。雨も上がり、わずかに雲が残るだけの空の下。

俺は古都の街をただひらすらに走り抜けていた。

胸には強い決意と、伝えたい想いを宿して。

雨に濡れて輝く地面を強く蹴る。

俺はただ一人の少女を求めていた。




時は遡ること数十分前。

もう一度、どうしても夏希に会いたいと告げた俺に古爺は満足気に微笑んだ。

それはまるで、その答えを予想していたかのようで。

今思えば、俺は古爺に試されていたのかもしれない。

夏希の最期に、相応しい者になれているかどうかを。

きっとただ甘えきって、縋り付くだけだったなら、今頃俺は古爺に見放されて、路頭に迷っていたことだろう。

それじゃあ、消えゆく夏希の枷となってしまうだけだったから。

けれど、俺は彼に認めてもらえた。

それだけの決意を彼に示すことが出来たのだ。

だから、古爺はその後、語った。


「想い人にはたった一つ、役目があります。全ての想い人に共通している、消える前に成し遂げなければならないこと。それが何だかわかりますか」

「役目、ですか。……わかりません」

「『想い』を継ぐことです。彼らの構成要因でもある『想い』。彼らにとっても大切なそれを忘れられないように、後世へ残していく。それが彼らの役目です。もちろん、上手く伝わらず、消えていくことも多々ありますが……自分が宿るものを人に見つけてもらって、文字に形を変えたり、時折人の前に姿を現しては、その役目を成し遂げていくのです。私のような者はその仲介をしている感じでしょうか。……何はともあれ、それが彼らの頼りにしている存在意義です。それがあるからこそ、この世界に留まれている」

「それは夏希も、なんですね」

「無論、夏希さんもまた然り。だから、夏希さんを呼び戻す方法もまた一つ。必要なのは強い想いだ」


古爺はそういって俺の胸をトン、と叩いた。

俺はその部分を自分でも触れて、改めて俺の「想い」について考えてみる。

俺が持っている想い。それは果たして、夏希に会いたいという想いだけだろうか。

これは俺の直感だけど、それだけでは夏希を引っ張ってくることは出来ないと思う。

それ以外にも俺には夏希に通ずる何かがあるはずだ。

そして、それが最も重要なのだ。


夏希に会えるのは黄昏時だった。

古爺曰く、その時刻が最も夏希の向かう世界とこことの境界があやふやになるらしい。

だから、時間はあまり残されていなかった。

古爺は焦り始める俺を落ち着かせるように、ゆっくりとした口調で、再びアドバイスをしてくれた。


「まだ何か引っかかりを覚えるのなら、もう一つ言っておきましょう。まず、普通の人に想い人が見えることは滅多にありません。ですから、想い人が普通の人に見えた場合、それは想い人とよほど繋がるものがあったということです。夏希さんと優輝さんに共通する、強い想い。それについて考えてみてください」

「なるほど。ありがとうございます。おかげで少しわかった気がします」

「それは良かった」

「なので、俺、もう行きますね。お世話になりました」

「とんでもない。お力になれたのなら、私はそれだけで嬉しい。貴方がもう一度、夏希さんに会えることを願っています」


古爺はそうして、またあの寂しげな表情で俺に手を振った。

きっと彼はこれまでの人生で何人もの想い人が消えていくのを見てきたのだろう。

それだけに、消えゆく彼らの気持ちが痛いほど伝わってくるのだ。

俺はそんな老人に敬意を覚えた。

俺だったら、別ればかりの人生に鬱屈としてしまっていただろう。

けれども、彼はとても優しかった。


俺は彼にもう一度、ありがとうと心の中で呟いて、店を出た。

そして、今に至る。




俺はどこをどう行けばあの場所に行けるのか、わからなかった。

けれど、走り続けていればきっとたどり着く、という漠然とした自信があった。

現に気がつけば、周囲は森の中へと景色を変えている。

夏希がいるであろう場所まであと少し。

時折木の根に足を取られそうになりながらも、俺は足を動かし続けた。


「あれだ。あの鳥居」


森の中を駆け抜けると、やがて古びた鳥居が見えてきた。

その先に昨日のように夏希の姿は見えない。

もう夏希は向こう側に行ってしまったのだろうか。

俺ははやる気持ちを抑えながら、鳥居の前に立った。

やはり、向こう側へ行くことは叶わない。

そこで不思議と足が止まってしまった。

俺はあらん限りの声を振り絞って、叫んだ。


「夏希っ! お願いだ。もう一度、もう一度だけでいい。返事をしてくれっ! 俺は夏希にまだ話したいことがあるんだ。だから、頼む。ほんの少しでもいい。戻ってきてくれ!」


俺の声は黄昏時の静かな森によく響いた。

俺は夏希の姿を探して、懸命に鳥居の先に目を凝らす。

夏希に会いたい。それだけを祈りながら、声を枯らした。

同時に襲いくる不安で、膝をついてしまいそうになりながらも、なんとか鳥居の前に立ち続ける。


「夏希っ!」


その瞬間だった。

強い突風が吹き付けたかと思うと、無数の木の葉が舞った。

それは俺の頬を切り裂くと、次々に周囲のものを巻き上げていく。

堪らず、腕を顔の前に翳すと、何も見えなくなった。

風に耐え、足を踏ん張る。

嵐のような轟音が耳を叩き、刹那、その風は俺の五感の全てを奪って行った。

自分がどこにいるかもわからなくなり、ただそれが過ぎ去ることを待つことしか出来ない。


それがどれほど続いていただろうか。

気がつけば、轟音は止んでいた。

体ごと吹き飛ばさんとしていた風も穏やかになり、俺の頬の傷を優しく撫でて行った。

俺はゆっくりと目を開けた。


「ここは」


目を開けると、景色が変わっていた。

暗かった森の中ではなく、芝生が生えた地がどこまでも続く丘の上にいた。

鳥居の代わりにあるのは一本の松の木。

それらは夏希の絵を初めて描いた時の景色に酷似していた。

ただ、その時と違うのは他に人の姿はなかったし、鹿も見当たらないこと。

あるのは松の木と緑の丘、そして黄昏の空だけだった。

とても寂しく、静かな世界。

俺は暫くの間、呆然と立ち竦んでいた。


しかし。


「優輝さん」


背後で聞き覚えのある声がした。

その瞬間、俺はハッと我に返って、声の先を振り返る。

そこには俺が会いたいと切望していた少女が儚げな笑みを湛えて、立っていた。

俺は驚きのあまり、あれだけ考えていた言葉もすっかり頭から抜け落ちてしまった。

混乱しすぎて、何と言って良いのかわからない。

ただ、震える声で俺は彼女の名を呼んだ。


「夏希」

「優輝さん」

「夏希……夏希なんだよな」

「うん、間違いなく。ウチは夏希。優輝さん、また会えた」


夏希はそう言って無邪気に、いつものように笑った。

俺はそこでようやく、夏希に再会できたという事実を認識する。

すると、驚きのあまり忘れていた喜びが、一気に胸の内に溢れた。

ああ、夏希に会えたのだ。そう思うと、言葉よりも先に、体が動く。

俺は夏希を抱きしめると、その存在を確かめた。

夏希のぬくもりは確かにここにある。

その事実は俺の心に深い安寧をもたらした。


「やっと、やっと会えた。夏希。心配したんだからな」

「優輝さん、ごめんなさい。突然、いなくなったりして」

「全くだぞ。夏希は何も言ってくれなかった」

「ウチのこと、嫌いになった?」

「まさか。でなきゃ、こうして探していなかったさ」


俺はそこでようやく夏希を離した。

改めて見ると、夏希はまたあの酷く苦しげな表情をしている。

やはり、まだ自分の正体を隠していたことが後ろめたいのだろうか。

夏希は今にも泣き出してしまいそうに顔を歪めて、俺から一歩距離を取った。

かと思うと、その場で深々と頭を下げた。


「ごめんなさい。騙していて、本当にごめんなさい。ウチは馬鹿やった。人じゃないなんて、そんな重要なことをウチは、ずっと黙ってた。普通になんて、そんなの、初めから無理やったはずやのに。ウチは優輝さんに甘えて……」

「夏希、もうやめてくれ。そんなこと、俺はどうも思っちゃいないんだ。確かに、驚きはしたけど、それだけだ。騙されたなんて思っちゃいない」

「でもっ」

「あのなぁ。それの一体どこが重要なんだよ。夏希は俺を何度も励ましてくれたし、一緒にいて楽しかった。それだけで十分なんだ。勝手に自分が人じゃないことに負い目を感じているのは夏希だろ。謝る必要はない」


俺は呆れて首を振った。

自然といつもより態度がぞんざいになってしまうが、それだって仕方がない。

元来、俺は性格が良い方じゃないのだ。

それに、今回のことは俺なりに少し怒ってもいた。

夏希に俺がそれくらいでがっかりすると思われていたことが、正直腹立たしかった。

あと少しで、俺は夏希のことを何も知らないまま、一生後悔しながら生きていくところだったのだ。

自分にも責任はあると思うが、夏希が信じてくれなかったことも今では悔しかった。


夏希は俺の言葉にバツの悪そうな顔をした。

俺もそれを見て、少し言い過ぎたかと反省する。

ああ、今言いたいのはそんなことじゃないのだ。

俺は表情を和らげると、夏希の頭の上にポンと手を置いた。


「だからその、夏希が普通として俺と関わりたかったってことも分かってる。もう気にしないでくれ」

「うん」


夏希はそこでようやくホッとしたように、頷いた。

それは自分の正体を隠していたことに対する不安の大きさの現れでもあったのだろう。

夏希はずっと普通でありたかった。

古爺も言っていたが、それは当たり前のようで、しかし彼女にとっては大切なこと。

俺は改めて思い知らされた。


「優輝さん。ありがとう」


そう言う夏希は今にも消えてしまいそうだった。

別れの時が近いのだ、と嫌でも実感してしまう。

俺は確認するように問いかけた。


「……いって、しまうんだよな」

「うん、まだ少し時間はあるけど。いずれは」


期待していたわけじゃない。

けれど、本人の口から別れのことを話されると、それはそれで辛かった。

どうせ最後なら笑って、なんてフィクションではいうが、そんなの現実にはとても無理だ。

顔がこわばってしまって、どうしても上手く笑えない。

俺は笑顔を諦めて、聞いておきたいことを聞くことにした。


「どうせ最期なら聞かせてくれよ。今まで思ってたこと、全部。もう怖がることもないだろ?」

「うん、そうやね。優輝さんには聞いてもらいたかったし。ずっとウチが誰にも伝えられなかった想い。聞いて?」


俺たちは松の木の下に腰を下ろした。

まだ夏希が存在していることを一秒たりとも忘れたくなかったから、互いに肩を預け合う。

夏希は青と黄が混ざり合う空の果てに何かを探すように目を細めていた。


「ウチは奈良という地でずっと一人ぼっちやった」


ポツリ、と語られ始めた言葉。

それはどこまでも重みのある言葉だった。

たった一言。けれどそれは何十年……もしかしたら、何百年という想像もつかないような長い時を孤独に過ごしてきたことを示めしていた。

けれども、夏希の声は至って淡々としていて。

意識していなければそれを忘れてしまいそうだった。


「何の為にウチが生まれたのかはわからへんかった。生まれた時に持っていたものはウチを大切にしてくれた人の想いのことだけ。浮御堂でした話、覚えてる?」

「ああ、もちろん」

「あれがそう。あれはウチの持ち主の過去。そして、ウチが継ぐべきものはあれを踏まえた上で、生きる意味を問うものやった。身を焦がすほどの想いとは何? 親友が死ぬことで生きた証を得たなら、私がここに生きたことの証は? そういった疑問。ウチの最後の所有者はそんな想いと共に、親友を失って、迷い。後悔して、死んでいった。彼女は生涯得られなかったその答えを残したかった。後の人も自分のように後悔しないように、その正体を知りたがってた」

「じゃあ、答えのない今、想いは未完成のまま、ということか?」

「……ううん。実はウチはその先に死んだ親友の形見でもあった。だから、前の持ち主たる彼女が焦がれた想いの正体も本当は知っててん。ただ、納得出来ひんかっただけで。それ、何やったと思う?」

「愛、ではなさそうだな」

「正反対。……答えは『絶望』。親友は想いが届かない絶望にのまれて死んだ。こんなもの、誰かに継げるとでも思う?」


夏希は自嘲した。

それはそうだ。生に対する絶望なんて、夏希の持ち主が望んだものとは正反対の位置にあるものだった。

夏希の持ち主は生きていく為に、親友の身を滅ぼした想いの正体を知りたがったのだ。

なのに、これじゃあ死こそ招けど、生きていく為の理由になどなるはずがない。

それを伝えたところで、何の解決にもならないのだ。

そんな事実に気がついて、夏希はきっと悩んだのだろう。

彼女は膝を抱え、蹲っていた。


「生きていく意味なんてもの、ウチにはわからへんよ。だって、ウチはただ想いを残すために生まれた想い人。それ以上でも、それ以下でもない。なのに、何も伝えられない。もし伝えられても、生に対する絶望だけ。そんなウチなんてさっさと消えてしまえば良いと思った。ウチはずっと、自分が嫌いやった」


俺はその告白に驚きを隠しきれなかった。

ずっと、自分を嫌っていた俺を励ましていた彼女こそが、自分が嫌いだったなんて思いもしなかったから。

明るく笑っていた影で、そんな自己嫌悪を抱えていたなんて、全然気づかなかった。

彼女もまた、俺と同じだったのだ。

だから、俺たちは通じた。きっと、そうだった。


「でも、気の遠くなるような年月を過ごして、このまま消えていくんやろうなぁ、って思ってた時。ウチは優輝さんを見つけた。才能はあるのに、全てを諦めていた人。優しすぎて、自分を常に犠牲にしてしまう人。そして、自分がたまらなく嫌いだった人。ウチは優輝さんを見た時、そう思った。まるで、ウチを大切にしてくれていた人のようやった。だから、気がついたら声をかけてた」


ウチの名前はナツキ。夏に希望と書いて、夏希。ええ名前やろ? 

そう言って、俺に声をかけてくれた日のことは今もまだ鮮明に覚えている。

あの時は何と眩しい笑顔を見せる子なのだろうと思った。

でも、その下で彼女は泣いていた。苦しんでいた。消えることすらも覚悟していた。

夏希の苦悩は俺には到底、想像の及ばないところにあった。


「もう、どうせ消えてしまうのなら、どうなっても良いかなって、初めは思ってた。でも、優輝さんはどんどん輝きを取り戻していくから。ウチもいつしか、一緒に優輝さんの夢の先を見たいって思うようになってた。たとえ、それが叶わなくても、優輝さんの記憶に残っていたいって、願うようになった」


夏希は静かに泣き出した。

頬を伝う涙は煌めきながら、ポタリ、と草の上におちてゆく。

こんな時なのに、夏希の涙はどうしようもなく美しかった。

見ているこっちまで、泣き出してしまいたくなるほどに。

夏希の涙を見た途端、胸がきゅうっと苦しくなって、指先が小さく震えた。

俺はそれに耐えるよう、指を己の手の中で握りこむ。

今、泣くわけにはどうしてもいかなかった。


「今ならわかる。ウチの二人目の持ち主が、生きる理由を求めた意味。きっと彼女は忘れられたくなかった。忘れ去られて、大切な人の死を、無意味にしたくなかったんや。だから、自分の生にも理由が欲しかった。自分の人生が忘れられたら、自分が見てきたものを伝えられる人もいなくなってしまうから。自分たちがいた証は永久に失われてしまうから。意味を持てば、きっと忘れられへんって彼女は思ってた」


それが本当なのかは果たして、わからない。

でも、決して間違いではないような気がした。

忘れられたくないから、自分の生に意味を持たせる。

世界に大きな変化をもたらした人物が歴史に残ったように、夏希の持ち主もそうあろうとしたのだ。

結局、彼女の名は時の波にさらわれてしまったけれど。

代わりに、その想いを継ぐ夏希がここにいる。

そして、夏希の思いを継ぐ俺がいる。

数百年の時を超えて、ようやく想いは繋がったのだ。


「夏希。夏希の持ち主だった人の想いはしっかり受け取った。けど、まだ聞いてないことがある」

「聞いてない、こと」

「夏希のわがままだ。生の意味とか、色々なものを抜きにしたそのままの感情。夏希は何をしたいか、それを聞かせてほしい」

「ウチ……ウチは」


夏希は迷うように、口を一度噤んだ。

けれども、俺がジッと見つめ返すと、ついに耐えきれなくなったのか、涙を次々と零した。

俺の腕をギュッと抱きしめて、ワンワン泣く。

そこにいるのは年相応の少女だった。

ちょっとわがままで甘えたがりの、可憐な普通の女の子。

それこそ、夏希が求めた姿であり、隠していた素直な面だった。

夏希は胸の内を吐き出すように泣き叫んだ。


「ウチ、ほんまは消えたくない」

「うん」

「優輝さんともっと一緒にいたい」

「うん」

「やりたいことも、見せたいものもまだたくさんある」

「うん」

「なのに、時間が足らへんなんて、そんなん受け入れたくない。嫌や。消えたくない」

「俺もだよ。ずっと一緒に居たかった。まだ、俺も夏希の絵をたくさん描きたかった。俺が夢を叶える姿、見て欲しかった」

「優輝さん。でも、もう」


腕の中にある夏希の体温は徐々に薄れ始めていた。

空が藍色に染まり、黄昏が終わって行く。

それはそろそろ来たる別れの時を示唆していた。

あと少しで、夏希は消えてしまう。

俺も思わず、泣き叫びたくなった。

行かないでくれ、とそう言って。

だけど、そうなれば伝えたいことも涙に掻き消されてしまうような気がしたから、グッと堪えた。

俺はここに来る前、心に決めたことを口にした。


「夏希はさ、俺にとって、太陽だったよ。眩しくて、暖かくて。こんな俺でさえ照らしてくれる。そのくせ幾ら手を伸ばしてみても、まるで触れられる気がしない。そんな存在だった」


太陽か、月か。

夏希と出会って二日目、俺は夏希に対してそんなことを思った。

様々な顔を見せる夏希に当初は戸惑い、魅せられ、時折手を伸ばしていた。

いつか、俺もあんな風に笑ってみたい、そう思いながら。

結局、夏希に見せられたのは情けない姿ばかりだったけど。

間違いなく、夏希は俺の憧れだった。


「たい、よう。そっか、太陽。あの眩しい光……なれてたら、いいなぁ」

「なれてたさ。少なくとも、俺の前では。夏希は俺にたくさん、光をくれた」


夏希は俺に夢をくれた。

前を向くことを思い出させてくれた。

そして、自分を嫌わないということを教えてくれた。

それらは一生色褪せない宝物だ。

どんな絵にも勝る、鮮やかな思い出だ。

だから、俺は。


「俺は忘れない。この奈良でのこと、夏希のこと。何もかも。夏希が教えてくれたことを無駄にはしない。夏希の想いを失わせたりなんて、しない」


何百年も孤独に生きる、ということがどれだけ辛いことか俺はわからない。

消えてしまう、ということがどれだけ不安なことか、俺には想像がつかない。

俺はきっと、夏希の全ての半分も理解していないだろう。

だから、同情なんて出来ない。しようとも思えない。

けれど、大切にしようとしたものを共有することは出来る。

忘れない、ということだけは約束できる。


「俺は死ぬその瞬間まで、この夏のことを覚えてるって誓う。ずっと、大切にしている。だから、夏希もこれだけは覚えていてくれ。夏希と一週間を過ごし、夏希を大切に想う人がいたってことを。たとえ、俺のことを嫌ってくれても構わない。ただ、記憶の片隅にでもいさせてくれたら、それで良いから」

「もう。ウチが優輝さんのこと、嫌うわけあらへんやんか。でも、うん……その言葉を貰えたら、もう大丈夫。消えてしまうことも怖くない。例え、いなくなっても、優輝さんがずっと覚えてくれるんやろ? だから、大丈夫」


夏希は笑った。

俺を何度も元気付けてくれた、あの眩しい笑顔で。

徐々に身体が消えていくのにも関わらず、輝かんばかりに笑った。

だから、俺も笑い返す。

夏希みたいに上手くは笑えていないかもしれないけれど、夏希がそれを望んでいる気がしたから。

今度は諦めなかった。


「優輝さん、ありがとう。最期までウチのワガママを聞いてくれて。ありがとう、ウチのことを忘れないって約束してくれて。ありがとう、ウチがここにいた意味をくれて」

「夏希」


黄昏が終わる。

俺と夏希のいた世界は崩れていく。

とある夏の一週間は、どこまでも儚く、夢のように。

夏希の姿と共に光の中に消えてゆく。

俺は僅かな希望に縋って、光の中に手を伸ばした。


「さよなら。優輝さん」


でも、その手はもう届かない。

俺は最後の言葉を叫んだ。

全ての気持ちを乗せた、たった一言。

果たしてちゃんと届いたのだろうか。

しかし、それを確かめる間も無く、視界が眩んだ。


気がつけば、蝉の声が響く森の中に一人いた。

いつの間にか夜を飛び越えていた、朝の森。

強い陽射しの木漏れ日が、俺に降り注いでいた。

何も変わらない、夏の世界。

けれど、夏希の姿と鳥居はどこにも見当たらなかった。

俺は一人きりだった。


夏希はいってしまった。

俺の届かない世界へと。

勇敢にもたった一人で。

胸を満たす喪失感はそれを確信させた。

あれは夢じゃなかったのだと、ハッキリと思い出させてくれる。


俺はようやく、泣いた。

夏希の前では我慢していた涙が一気に決壊した。

柔らかい土の上に蹲って、声を上げて泣く。

そして、もう一度、別れ際に放った一言を口にした。


「さよなら、俺の夏の希望」


雨が降り注ぐように蝉のないた、あの夏。

それはここで終わり、遠のき始めたのだった。

俺の心に鮮やかな色を残して。


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