刹那の幻想
「どうして、こうなった」
「もうっ、優輝さん。動かんとって!」
あのハンカチのやり取りから約一時間後。場所はまだ奈良公園。
そこで、俺と夏希はまだ行動を共にしていた。
というのも、夏希にある「お願い」をされてしまったからだ。
ハンカチのこともあって、彼女に笑顔を見せられると弱い俺は、ついそのお願いを聞いてしまったのだが。
「仕方がないだろ! 恥ずかしいんだから」
「でも、優輝さんは良いって言ってくれたやんか」
「それはそうだけど、モデルなんて……」
ごにょごにょと反論を試みるものの、夏希は全く許してくれなかった。
青い絵の具を含んだ筆をビシッと俺に突きつけると、「動かんとって!」と厳しい声で要求してくる。
俺がその剣幕に押され、諦めて動きを静止させると、夏希はようやく落ち着いて、キャンバスへと向き直った。
そう、夏希のお願いとはなんと俺に絵のモデルになって欲しいというものだった。
一体全体、俺なんかを描いて何が良いのか甚だ疑問だが、それでも引き受けてしまったものは仕方がない。
おそらく夏休みの宿題なのだろうから、付き合ってやるべきなのだろう。
時々通りがかる人は奇妙なものを見るかのように、ジロジロと視線を向けてくるが、一刻も早く終わらせるには耐えるしかないのだ。
ああ、夏希は自画像でも描けば、それこそ絵になりそうなのに。
なんてことをぼんやりと考えながら、俺は完成を待つことにした。
それにしても、青なんて何に使っているのだろうか。
空だとしても、あの絵の具の量は多すぎる。
何となく嫌な予感がするが、気のせいかもしれない。
「でーきた!」
「へぇ、どれどれ」
絵を描き始めてから約一時間半。
夏希は目を輝かせて、ようやく完成を喜ぶ声を上げた。
はて、そんなに上手く描けたのだろうか。と、俺もそれまで募らせていた嫌な予感を吹き飛ばし、期待を込めて、絵をのぞき込んでみる。
そして、絶句した。
「何じゃこりゃあ!」
「へへん、どう? ウチの才能にびっくりしたやろ」
「ああ。別の意味でびっくりだ」
「……それどういう意味?」
俺の思わず零れた本音に、夏希の目が険しくなる。
だが、俺はそんなことにさえ、気が回らずに、夏希の描いた絵に呆然としていた。
いや、多分こんな絵を見たら誰だってそうなるのではないか。
まず、俺がモデルになっていたはずだが、俺の姿が何処にも見当たらなかった。
キャンパスの中央にあるのはタコにもイカにも見える、何が何だかよくわからない大きな青い生物だ。
まさに、エイリアンという言葉が最も相応しいのではないか。
でも、それを俺と仮定としても、周りの風景もだいぶ酷い。
空はまだ青い時間帯なのに色の加減をミスったのか、夜のような紺になっているし、鹿が食している芝生も緑は緑なのだろうが、青が少し混ざっていて、正直汚い。
幼稚園生でもここまで酷い絵は描かないだろう。
「なぁ、今の空の色は何色だ?」
「水色やろ?」
「俺の肌の色は?」
「そんなんもわからへんの? 肌色に決まってるやん」
「じゃあ、この真ん中のは何だ?」
「優輝さん」
「色も形も違うってわかるよな」
「ううっ……ちょっとな」
夏希は誤魔化すように、目を泳がせた。
恐らく、絵が恐ろしく下手だという自覚はあるらしい。
それにしたって、これは下手すぎると思うのだが。
俺は思わず深いため息を吐いてしまった。
この子には俺がこんな風に見えているのだとしたら、だいぶショックだ。
「だっ、だって下手なんやもん! 練習せんと、仕方ないやん」
「それはわかるけど。君ねぇ……」
「君ちゃう! ウチの名前は夏希!」
「……わかったよ。夏希、何か描くものを貸してくれ」
「いいけど……何するん?」
夏希は怪訝そうな表情ながらも、描く道具を貸してくれた。
渡されたのはスケッチブックと鉛筆、あとは色鉛筆だ。
既に青でグッチャグチャになっているパレットは流石に気が引けたのだろう。
俺は夏希の質問には答えずに、夏希を先ほどまで俺の腰掛けていたところに座らせた。
代わりに俺は夏希が絵を描いていた場所に座り込む。
そして、スケッチブックを開くと、鉛筆を握りしめた。
「まさか、優輝さんが絵を描くん?」
「今の状態でそれ以外の何しようとしているように見える?」
「いや、だって優輝さんが絵を描くのは意外やもん」
「意外で悪かったな。これでも一度は美大を目指そうとしたことはあるんだぞ」
でも、それは親に止められたけど。とは、またしても言わない。
どうも、この子の前ではカッコつけたくなるのだ。
だからとにかく今は絵を描くことに集中する。
俺は夏希と背後の景色をじっくり観察しながら、鉛筆を紙の上に走らせた。
今日はとても晴れている。空は雲ひとつない真っ青な快晴。
そのせいで強い日差しが容赦なく降り注ぐが、それも夏希の白い肌を輝かせる良い材料となりえていた。
松の葉が揺れる下で佇む彼女はまるで古代の美姫のよう。
さっきまでパッチリしていると思っていた目は太陽の眩しさに細められ、今は大人びた雰囲気を醸し出していた。
鹿も彼女の放つ独特の空気に畏れをなしたのか、全く近づいてこない。
そこには間違いなく、浮世離れし、完成された世界があった。
俺は思わずその光景に見惚れてしまった。
果たして、俺にこの美しさ……いや、彼女の神々しさを表現出来るのだろうか。そんな不安が俺の胸を支配する。
けれど、そこに一歩でも近づいてみたくて、必死に手を動かした。
これを掴まなければ、もう次はないのだ。
俺はそんなある種の確信を持って、目の前の世界に挑んでいた。
「……出来た」
それからどれほどの時間が経ったのだろうか。
ほんの一瞬だったような気もするし、恐ろしく長かったような気もする。
とにかく、時間の感覚もわからなくなるほど、夢中になっていたのは確かだ。
正直、こんな感覚は初めてで、書き終えた今では戸惑っている。
書き終えると同時に、あの完全な世界は遠ざかっていたのだ。
夏希も先ほどまでの静けさが嘘のように無邪気に笑っている。
「やっと出来たん? ウチにも見せて」
「ああ、これだ」
「どれどれ……って」
夏希はハッと息をのんでいた。
俺も改めて自分の絵を見つめ直して、驚く。
そして、疑ってしまった。これは本当に俺が描いた絵なのだろうか、と。
それくらいに、たった今描き上げた絵の完成度は高かった。
俺は思わず、鉛筆を取り落としてしまった。
「ヤバ……俺、こんなに絵描けたっけ?」
「凄い綺麗。ウチ、こんなに絵に感動したのは初めてかもしれへん」
紙の上には、先ほど俺が見ていた世界がそのまま広がっていた。
いや、むしろもっと幻想的な雰囲気が漂っていると言っても良いだろう。
モノクロではあるものの、夏希の細められた目の奥に潜む僅かな憂いも、松の葉を揺らす風の通りも感じられるようだった。
「優輝さん、むっちゃ凄い! こんなに才能あったんや」
「だな……俺が今一番驚いてるよ」
本当にこれを自分が描いたのか、実感が湧かない。
あの時はまるで、何かに取り憑かれたかのようだったのだ。
学生時代にも美術部で頻繁に描いていたし、コンクールでも最優秀賞を取った経験もあるが、自分でここまで手応えを得られたことはなかった。
もしかしたら、今は自分に一生に一回訪れるかもわからないことを経験したのではないか。
俺は自分の絵にそこまでの戦慄を覚えていた。
「なぁ、夏希」
「うん? 何?」
夏希は俺の呼びかけに、可愛らしく小首を傾げた。
そこには何かへの期待がありありと浮かんでいる。
俺はその正体を知っていたから、遠慮なく彼女に尋ねた。
「また明日、ハンカチを返す時、この絵の続きを書かせてくれないか?」
「そんなん、決まってるやん」
彼女はまた眩しい笑顔で答えた。
「もちろん。その代わりにアイス奢ってな、優輝さん?」
暑い暑い、八月のとある日。その日が彼女に会った初めての日だった。
そして、それは俺の人生を大きく変えた出会いだ。
そのことを、この日の俺はまだ知らない。