信実に惑う
今思い返せば。夏希は俺以外の人と関わる場面を徹底的に避けていた気がする。
例えば、大仏殿に入るために拝観料を払おうとした時。
その時も買ったチケットを見せなければいけないというシチュエーションを逃れて、トイレに逃げていた。
浴衣を買う時も同様。自分で買おうとはせず、俺にお金を押し付けてトイレに行ってしまった。
あの時はちょっと不自然だ、くらいにしか思わなかったが、こうして考え直してみると、やっぱりおかしい。
そして、そういう場面は多々あった。
つまり、夏希は意図的に人に自分が見えないことを隠そうとしていた、ということだろうか。
だから、夏希はあんなことを言ったのかもしれない。
騙していて、ごめんなさい、と。
ただし、その前につくのは自分が見えないことを隠していて、が省かれていた。
こう考えれば納得はいくが、本当に夏希が誰にも見られていなかったことが証明されてしまうようで、本当は少し怖かった。
あれだけ誰も夏希を見ていないと言っても、俺には確かに見えていたし、暖かさだって感じたのだから、未だに信じきれない部分がある。
逆に夏希が普通の女の子だったという証明は出来ないのだろうか。
ついにはそんなことまで考え始めて、俺はふとあることに思い当たった。
そうだ。あの人物なら、それを証明できるかもしれない。
だって、「彼」は唯一夏希と直接話していたのだから。
俺は即座に傘を片手に走り出した。
人通りの少ない道。
その中でも一際暗く、奥まった場所を目指して、微かな記憶を頼りに街中を彷徨った。
一度行ったきりだが、懸命に記憶を掘り起こして、足を向ける。
やがてたどり着いたその店は、今日も開いているのか定かではない様子で、静かにそこにあった。
俺は息を飲んで、開けにくいガラス戸をゆっくりと開く。
「そろそろ来る頃だろうと思っておりました」
「古爺……」
骨董屋の店主にして、夏希と唯一直接話していた人物。
それが今目の前にいる、古川寛次こと古爺だった。
彼はまるで俺が来ることを予期していたかのような言葉と共に、そっと微笑んだ。
何もかもわかっている。それはそんな表情だった。
俺はそれを見て、思わず彼を問い詰めたくなる。
けれど、言葉が口をついて出る寸前でグッとたえた。
今ここで彼を責めたところで、どうにかなるとも思えなかったからだ。
今、大切なのは冷静な判断力。
俺は深く呼吸をして気持ちを落ち着かせると、言葉を選びながら、彼に問いかけた。
「全部わかっていたんですか?」
「何を、でしょう」
「夏希が人には見えないこと。それと、こうして消えてしまうこと」
俺は冷静なつもりだった。
けれど、夏希の今の状況を言葉にすると、より現実味が増してしまったような気がして、声が震えてしまった。
夏希はもしかしたら、俺の幻だったのかもしれない。
そんな答えが出てしまうことを深く、恐れていた。
夏希は確かにいたのだと、今は誰でも良いから言って欲しかった。
「優輝さんは……あなたはどう思われますかな」
「えっ?」
「その夏希さんと過ごした日々は全て、偽りだったと。彼女はあなたに都合の良いまやかしだったと、そう思われますかな?」
「俺は……」
そうは思いたくない。それが正直な答えだった。
でも、それはただの俺の願望であり、とても中途半端な答えだ。
だから、口にするのは躊躇われた。
今、問われているのは、俺にとっての夏希はどうあったか、ということ。
その時点で、俺は大切なことに気づかされていた。
そう。周りがどう言おうが……実際に見えていようがなかろうが、そんなことはどうでも良いのだ。
重要なのは、彼女が俺に何をしてくれたかということ。たったそれだけ。
俺は目を閉じ、考えた。
「俺は、そうは思いません」
「ほう。それは如何に」
「夏希は、俺を救ってくれた。無価値だったと思えていた自分に、価値を与えてくれた。そして、ずっと諦めていた夢だって気づかせてくれた」
夏希は俺の魂に変革をもたらした。
そしてそれは目には見えないけれど、確かに今もここにあるものだ。
この数日間で、夏希と俺とで出した答えは間違いなくここにあった。
そんなこれを嘘だとは、どうして言えるだろうか。いや、言えるはずがない。
なら、答えは明白。選ぶべきは一つだ。
「だから、俺は夏希を信じます」
俺はそう言い切った。
古爺の目を真っ直ぐ見据えて、揺るぎない決意を示した。
色々動揺し、迷いはしたけれど、夏希を信じたいと思う理由の根源はこれでハッキリした。
もう、迷うことはない。
夏希の存在は例え万人が否定しようとも、俺だけは信じようと決めた。
そして、それはきちんと伝わったのだろう。
彼は深いため息をついた。呆れているようだ。
けれども、その様子がどこか嬉しそうなのは俺の気のせいではないだろう。
古爺は俺に手招きをした。
「なるほど。あなたの気持ちはしかと受け取りました」
「じゃあ」
「まぁ、落ち着いてください。取り敢えず、立ち話もなんですし。奥でお茶でも淹れて、詳しいことは話しましょう」
「わざわざ、すみません」
「構いません。私も優輝さんの言葉は嬉しかったですから」
それから、古爺は奥の部屋へと案内してくれた。
店の奥には住居があるようで、一段上がった先には畳が敷かれていた。
俺はちゃぶ台の前に置かれた座布団をすすめられて、そこに腰を下ろした。
古爺は向かい側に座る。
「さて、どこから話したものか」
「ところで、本当に夏希は大丈夫なんですか? とても今更な話にはなってしまいますけど」
「そうですね。とても、今更だ。けれど、大丈夫ですよ。どのみち会えるとしたら、もう少し先のことですから」
古爺はそう言って、時計を確認した。
時刻は午後二時。昼はとうに過ぎてしまっていた。
古爺はそれを確認すると、まだ大丈夫という風に頷く。
どうやら、夏希に会えるのには時間が関係しているらしい。
その原理はよくわからなかったが、嘘をついたり、騙そうとしている様子もないので、俺も取り敢えずは古爺の話を聞いてからにしようとした。
座布団の上で姿勢を正すと、古爺はそれを見計らったかのように口を開いた。
「まず、夏希さんの正体ですが」
「夏希の、正体」
「ええ。優輝さんも察されているかもしれませんが……彼女は」
古爺はそこで一呼吸おいた。
俺もその間にゴクリと息をのむ。
手には古爺が淹れてくれたお茶の入った湯のみがある。
それを持つ手にも自然と力が入ってしまった。
水面がゆらゆらと不安定に揺れ、波紋が広がる。
俺と古爺の二人しかいないこの和室はとても静かだった。
そして、その言葉はおちた。
「彼女は、人間ではありません」
「……っ」
言葉が出なかった。
もちろん、夏希が人じゃないのでは、という予感は古爺の言う通り、元々あった。
何しろ、自分と古爺にしか見えない存在など、普通じゃないに決まっている。
しかし、そういう風に改めて言われてしまうと、かなりショックだった。
幾ら重要なのは夏希が「してくれたこと」だと理解していても、心の奥底のどこかで、きっと俺は夏希に「普通」を求めていたのかもしれない。
またいつもの癖で深く思考に沈み込んでしまいそうになった矢先、古爺は言葉を続けた。
「けれど、夏希さんはあなたと『普通』として関わりたかった。それだけは覚えておいてください」
「……はい」
俺は頷いた。
それはとうに分かりきったことだ。
でなきゃ、あんなに一生懸命隠したりはしないだろうし、騙してしまったと繰り返し謝ることもしなかっただろう。
言われるまでもなく、夏希の想いは既に十分、伝わっていた。
だから、俺は彼女を責めたりはしない。出来そうもない。
そして、だからこそやはり気になるのは。
「じゃあ……夏希は何者なんですか?」
「それは難しい問いですね。実のところ、私たちも彼女達のことはまるでわかっていない。しかし、私たちは彼女のような者たちを『想い人』と呼んでいます」
「想い人」
「ええ。或いは付喪神、なんて呼ばれることもあるそうですが。私たちはそう呼んでいます」
そちらの方が相応しい気がするのです、と古爺は呟いて、お茶を啜った。
一方俺は、夏希が山登りをしていた時、付喪神について話していたことを思い出す。
付喪神。彼女はあの時、自分のことについて話していたのだ。
だから、あって欲しいと、案外身近なものだと、そういう風に言った。
「想い人は、この街のモノに宿る想いの残滓が人の形をとったものです。持ち主のそれを大切に思う想いや、持ち主の中にあった強い想いが反映され、なんの偶然かモノが人の形をとる。そういうことがあるのです。まぁ、多くの場合、人の目には見えませんが……それでも時折、運命の繋がりがある人には見えることがあります。優輝さんはきっとそれでしょう」
「じゃあ、古爺は」
「私は先祖代々、うちは想い人が見える家系、とでも言いましょうか。夏希さん以外にも想い人が見えるのです。彼女以外にも、彼らはこの店を時々訪れてくれますよ」
古爺は店先に視線を向け、スッと目を細めた。
もしや、今も他の想い人が来ていたりするのだろうか。
俺には当然何も見えないが、そうであってもおかしくはない。
想い人。実に不思議な存在だ。
普段ならこんな話を聞いても、よく出来た話だ、くらいにしか思えないが、俺には夏希と関わってきた時間がある。
俄かに信じがたい部分もありはしたものの、信じる他なかった。
俺は古爺の言葉を頭の中でゆっくりと咀嚼しながら、なんとかそのことを受け止めていこうとした。
「でも、想い人には寿命がある」
しかし、そんな努力も虚しく、唐突に告げられた衝撃の事実に、今までの思考は弾け飛んだ。
嫌な予感が心臓の鼓動を早め、冷や汗が頬から流れ落ちる。
まさか、姿を消したのはそのせいだったりしないだろうか?
俺は気がつけば身を乗り出していた。
「まさか……夏希は」
「夏希さんは私が物心ついた時には、もうこの店の常連でした。そして、祖父の少年時代にも既にいたそうです。夏希さんがいつから想い人として生きているのかはわからない。けれども、知る限りでそれなのですから、相当な年月が経っているのは確かでしょう。いつ、その時が来てもおかしくはありません」
「嘘だ」
「兆候はありませんでしたか? 突然姿が見えなくなったり、不安な様子を見せたり」
あった。例えば、喧嘩別れしてしまいそうになった時。
その直前、俺は夏希を認識出来なくなって探していた。
燈火会の時もそうだ。月が雲に隠れた一瞬の後、夏希が何処にいるかわからなくなった。
そして、その日……彼女は泣いた。
そう考えれば、兆候はあったけれど、そんなことは言いたくなかった。
もし、そう言ってしまえば、この事実を受け止めてしまうような気がして。
とても、怖くなった。
だから、口から出て来たのはその事実への拒絶の言葉だった。
「でも、夏希はまた明日会おうって、そう言ってました! なのに、そんなこと……」
俺は絶対に信じたくなかった。
古爺の急いだってどうにもならないというのは、夏希がもういないから、だったのだ。
それでは確かに急ごうが何をしようがどうしようもないが、こんな事実だけはあんまりだ。
受け入れるなんてことは到底出来なかった。
俺はまだ夏希に言わなくてはならないことがたくさんある。
知りたいこともたくさんある。
それなのに、それなのに。全て遅いと言うのだろうか。
「夏希さんはそう言ったのですね」
古爺は沈痛な面持ちで、呟いた。
俺はそれに答える気力もなくて、小さく頷く。
だが、涙だけは不思議と出てこなかった。
それはきっと、まだあの天真爛漫な少女が消えてしまったことを俺が受け止めきれないから。
ただ、胸は苦しくてたまらなかった。
息をすることさえ、もはや億劫に感じてしまうほどに。
世界が再び急速に色褪せて見えた。
「優輝さん……」
「どうにか、どうにかして夏希にもう一度会うことは出来ませんか? たった一度でも、ほんの少しでも構いません。どうか、もう一度だけ」
「……可能性は低いと思います」
「っ! そんな」
「ですが」
古爺はそこで、一拍おいた。
深く息を吸い込み、目を閉じる。
俺はそんな彼を縋るように見つめた。
もし、ほんの少しでも可能性があるのなら、俺は全力でそれを成し遂げる。
それくらい、藁にもすがる思いだった。
古爺はそんな俺の視線を受けて、ゆっくりと話し出す。
「貴方に本当に強い想いがあるのなら、まだゼロというわけではありません」
「ホント……ですか」
「ただし、過度な期待はしないでください。あくまでもこれは言い伝えですから」
それくらい不明瞭で縋るには頼りないものです。古爺は暗にそう言っていた。
しかし、俺には他に頼るあてもない。
既に心は決まっていた。
あとは言葉に出すだけ。
残酷で、揺るぎない一つの真実を。
「お願いします。夏希にもう一度だけ合わせてください」
それは即ち、夏希の消滅を肯定することに等しかった。
もう、その事実からは逃げられない。
俺の頬には涙がつたい、夏希のハンカチを濡らしたのだった。