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蝉時雨と夏の希望  作者: 卯月 桜華
DAY6 燈火の夜
17/21

星の海の先は

そこは星の海だった。

無数のやわらかな光が浮かぶ空を反射して輝く、波の穏やかな海。

微かな風に揺れる火は、星の瞬きさえ忠実に表現していた。

また、白の若い星々の中にはいつ消えるかわからぬ、赤い星もポツリポツリと懸命に光を放っている。

あれは、ベテルギウスだろうか。

いや、でもそれは冬の星だから、アンタレスかもしれない。

俺はそんなことを考えて、昔、キャンプで連れて行ってもらった、山の奥。そこで見た満天の星空を想起していた。

その時と同じ、静かな興奮を今、覚えている。


三日前までは緑が萌えるのどかな丘だったそこ。

しかし、今は天多あまたのキャンドルライトが幻想的な風景を生み出していた。

星、というには実はあまりにも整然としすぎているが、それさえもこの光景を作り出した人の手の暖かさを思わせて、一つの感動になっている。


「ねぇ、優輝さん」


夏希は俺の手から離れて、光の中へと一歩踏み出した。

そして、くるりと一回転半。俺の方を振り返った。

彼女は光に囲まれて、そっと微笑む。

闇の中に紺色の浴衣は境界が曖昧になって、薄紫の朝顔だけがパッと燈籠の光の中で鮮やかに咲いた。

綺麗だった。思わず、息を飲んでしまうほどに。

夏希は俺へと再び手を伸ばした。


「こっち、歩いてみよ?」


燈籠の間には光の中を歩いて行くことが出来る道があった。

俺は差し伸べられた手をとって、夏希の隣に並ぶ。

俺たちは夏希の下駄が鳴らすカランコロンという音に合わせて、ゆっくり歩いた。

人々はヒソヒソと綺麗だねと囁きながら、俺たちを追い越して行く。

これだけ綺麗な風景が広がっているのに、スタスタと行ってしまうのはもったいない気がした。

そして、声をかけ会うことで感動の余韻を邪魔してしまうことも。

だから、俺たちの間には暫し言葉がなかった。


普通の人の倍以上の時間はかけて歩いただろうか。

そうして、光の海の中心に俺たちは立った。

暗黙の了解が解けた瞬間、夏希が俺の手をクイッと引っ張る。

隣を見下ろしてみると、夏希はふわりと笑っていた。

そして、参道からも光の道からも離れた場所を指差した。

その先にも点々と燈籠が続いていたが、正規のルートではないのだろう。人気が少ない。

そこなら落ち着いて絵も描けそうだった。


「行ってみるか」


俺の言葉に、いつも騒がしい夏希も、コクリと無言で頷いた。

その手が震えているのはこの光景に対する興奮からか、否か。

俺は少し不思議に思ったが、きっとそうだろうと思うことにした。

何しろ、それ以外に理由など思いつかなかったから。

いや、本当は心の何処かで気がついていたけど、それを見ないふりした。

もし、気がついてしまえば、実際にそうなってしまいそうで怖かったのだ。

だから、手をただ強く握っていた。


やがて、俺たちは一本の木の元にたどり着いた。

穏やかな光に包まれた、とても静かな場所。

祭りの喧騒とは遠く離れた場所だった。

俺たちは木の根元に腰を下ろす。

そして、俺はじっとりと滲んでいた汗を拭った。


「やっと、静かな場所に来れた」

「そうだな。祭りは楽しいけど、正直ちょっと疲れる。夏希は下駄で歩きにくくなかったか?」

「平気。ウチ、体力だけには自信あるから」

「そういや、そうだったな」


俺は山登りしていた時の夏希の言葉を思い出して、苦笑した。

昨日のあれは本当にキツかった。

おかげで今日は太ももが筋肉痛だ。

夜になって幾らかは癒えてきたものの、慣れないことをしたものだとつくづく思う。

でも、キツイことにあれだけの達成感を感じたのもまた初めての経験だった。

夏希と話しながら登るのは楽しかったし、後悔はない。


俺は目を閉じて、この数日間の思い出に浸った。

しかし、それは同時に別れもあるのだということを強く実感させられることにもなる。

明日で最後。こうして夜になると、やはり寂しさが募った。

明日までは表に出すまいとは決めていたが、胸はギュッと締め付けられる。

緩やかに吹き付ける風は祭りの熱気を吹き飛ばし、後に残ったのはほんの少しの哀愁だった。


「あっ、優輝さん! これ見て!」


けれども、そんな中で聞こえた夏希の声は明るかった。

ハッと我に返り、そちらを向くと、何やら夏希が手招きしている。

足元を指差す様子は本当に楽しそうだった。

一体、なんだろう。そう思いながら夏希の指差す先を覗き込むと、そこには可愛らしいものがあった。


「ハート形の燈籠、か」

「うん。むっちゃ可愛いやろ? 誰がこんなところに持ってきたんやろう?」


その燈籠は上から覗き込むと、ハート形に見えた。

ハート形の燈籠はたった一つだけ、ポツンとそこにある。

おそらく、これはさっきの道を順路通りに行けば、自分たちで火をつけることが出来た燈籠だろう。

つまり、ここには以前誰かが来ていたということで。

果たして、こんなところに来る人が俺たちの他にもいるとは思わなかった。

試しにキョロキョロと辺りを見回してみるものの、人影は全くない。

もう退屈して帰ってしまったのだろうか。というか、そうだといいのだが。

こんなところに十歳は年下の女の子といることが知れたら、あらぬ疑いをかけられそうである。

この数日間でも、訝しげな視線を受けた回数は数知れなかった。


「もう、優輝さん? ウチの話聞いてる?」

「ん……って、ああ。ごめん、全然聞いてなかった」


ううむ、と俺が唸っていると、いつの間にか現実のことを忘れていたらしい。

悪い癖は一向に治らないようで、夏希をまた不機嫌にさせてしまった。

もしかしたら、これが本当の彼女がいない理由なのかも知れない。

俺はそんなことを思いながら、慌てて素直に謝罪した。

夏希も最早慣れた様子で、それ以上はこのことについて、何も言わなかった。


「そういえば、優輝さん、絵は描かへんの?」

「ああ、描こう、かな。この光景は綺麗だし……そうそう、夏希、モデルやってくれないか? ほら、出会った時みたいに」

「えっ、モデル? いいけど……改めてお願いされると、ちょっと恥ずかしいな」

「まぁまぁ。今の夏希は綺麗だし、自信持ってくれよ」

「……優輝さんがそう言うなら」


夏希には燈籠の間で立ってもらうことにした。

さっき俺に手を差し伸べた瞬間、浴衣姿と柔らかい光が調和した瞬間が、俺にはとても綺麗に思えたのだ。

実際、もう一度やってもらうと、今度は月明かりが出てきたおかげで神々しさのようなものも感じ取ることが出来た。

夏希のモデルとなると、ガラリと変わる雰囲気は相変わらず凄い。

俺は気がつくと、紙の上に万年筆を走らせていた。


中心に据えるのはもちろん、夏希の浴衣姿だ。

艶やかな黒髪と、不思議な色を帯びた瞳は月の光に濡れ、大人びた印象だ。

しかし、一方でふっくらとした白い頬のラインや身体つきには幼さがまだ残っていて、艶やかさを否定する。

神聖、とでも言うべきだろうか。

また、紺色の浴衣は夜闇に混ざり合い、朝顔の美しさを引き立てる。

足元の燈籠は神聖さから来る怜悧な雰囲気を優しく包み込み、夏希の本来の良さを消してしまわぬように留めてくれた。


月も闇も燈籠も、そして夏希さえも一瞬のもの。

俺はそれを全て自分のものにしてしまいたかった。

けれど、もちろんそんなことは出来ない。

だから俺はもどかしさと戦いながらも、自分の中に持ちうる感情の全てを注ぎ込む。

それは感情を切り取るという行為で、魂をすり減らすようなものだった。

自分の中に走る光を追うように、ただひたすら時も忘れてのめり込む。

一瞬でも気を抜けば、プツリともうそこで描けなくなってしまいそうだったから、頭の中が熱くなるくらいにもう必死だった。


けれども。


「あっ」


俺はその瞬間、思わず声をあげた。

俺の中を漂っていた火はスッと消えてしまう。

絵は大方描き終えていたけれども、それでも何か大切なものを失ってしまった気がした。

月が雲に遮られて、辺りが真っ暗になる。

足元を照らす燈籠だけが、辺りを照らした。


「夏希?」


俺はふと不安になって、燈籠の狭間に立っているはずの夏希に呼びかけた。

眩しい月明かりになれた目は、中々どうして闇の中を見極めることが出来ない。

絶対にそこにいるはずなのに。


俺は先ほど夏希が立っていた場所に、一歩近づいた。

返事がなかったのだ。

聞こえなかったのかもしれない。

もう一度、呼びかけてみる。


「夏希、返事をしてくれ」


再び、月が現れた。

俺は同時にハッと目を見開く。信じられなかった。

伸ばした手が空を掴んでいた。

そこにあるはずのものがない。

夏希という、少女の温もりがそこにはなかった。


「……夏希?」


俺の声は震えていた。

胸は絶望に撃ち抜かれていた。

どうしていいかわからずに、ただ立ち尽くすことしかできない。

けれども、頭だけは嫌という程冴えていて、彼女がいない事実だけはハッキリとそこにあった。

全身に力が入らなくなって、手にしていたものを全部取り落す。


「……なぁ、嘘だろ」


俺は呟いた。

事実を認めたくなくて、膝だけはつくまいと必死に足に力を込める。

膝をついてしまうことは敗北を意味する。

きっと、ふらりと何処かへ行ってしまっただけのだ、と思い込もうとする。


「このたった一瞬でか?」


ありえない。やっぱり、そう思う。

月が雲に隠れたのはほんの一瞬、五秒にも満たない時間のことだった。

それなのに、この視界の開けた場所から姿が見えなくなるほど遠くへ行くことは可能なのだろうか?

……答えはもちろん、否だ。無理だ。

そんなこと、夏希が下駄を履いた足で逃げることが出来るわけがない。

そもそも、唐突に姿を消す意味だってない。


じゃあ、だとしたら。


「誰かに連れ去られた?」


一応、これだって難しい気はした。

第一、この辺りに人影は一度だって見ていない。

五秒の間に夏希を黙らせて連れ去ることも不可能に近い。

でも、夏希自らの行動というよりは可能性があった。

じゃあ、助けに行かなくてはならない。


俺は混乱しながらも、一歩を踏み出した。

けれども、ドンと何かにぶつかって、その場に尻餅をつく。

俺はそれが夏希である可能性を考えて、サッと顔をあげた。


「……って」


そこにいたのは夏希ではなかった。

こちらを至近距離で見下すのは茶色い体につぶらな瞳。

つまり、鹿だった。

立派な角を持った雄ジカはこちらをジッと見つめている。

俺は驚きのあまり、その目を見つめ返すことしかできなかった。

そんな俺に鹿は鼻先を徐々に近づけてくる……と、すると突然、俺の胸元から何かを引き抜いた。

そして、駆け出して行く。


「あっ、夏希のハンカチ!」


絵が未完成である今、唯一、俺と夏希を繋ぐ存在でもあるそれ。

それだけはどうしても失ってしまうわけには行かなかった。

俺は飛び上がるようにして立ち上がると、鹿を追って走り出す。

鹿の足は恐ろしいまでに速かったが、俺は自分の持てる力を全て振り絞って、必死に追いすがる。

筋肉痛の足が悲鳴をあげ、運動に慣れない肺が痛んでも、気にしなかった。

ただひたすらに、鹿の後ろ姿を追う。

もちろん、どの道を選んでいるかも、土地勘のない俺には分からなかったが、闇雲に走り続けた。


そして。


「あっ……」


遂に足がもつれ始めた頃、霞む視線の先に古びた鳥居が見えた。

周囲の景色はいつの間にか森の中に変わっており、ここがどこかなど俺には見当もつかない。

ただ、鹿は鳥居の前でようやく足を止めている。

奴はハンカチをその場にひらりと落とした後、再び森の中へと走り去ってしまった。

全く、とんでもないことをしてくれたものである。


俺は乱れた呼吸を整えると、ハンカチの落ちている場所へと向かった。

色とりどりの花模様が散る紫色のハンカチは落ち葉や土がついて、すっかり汚れてしまっていた。

とはいえ、ハンカチを取り返すことは出来た。

あとは、肝心の夏希を探さねばならない、が。


「夏希?」


俺は顔を上げた瞬間、心臓が止まってしまいそうなほど驚いた。

鳥居の向こう、果てなく続いているように思える道の先に、紺色に朝顔の模様が入った浴衣を着た少女の後ろ姿が見えたのだ。

間違いない、あの後ろ姿は夏希だ。


「夏希っ!」


俺は夏希を追おうと、鳥居を潜り抜けようとした。

しかし、驚いたことに足が地面に縫い付けられたかのように全く動かない。

一体、これは。俺は困惑しつつも、このままではいけないという強い確信に迫られていた。

このまま夏希を行かせてしまったら、もう間違いなく会えなくなってしまう。そんな予感にとらわれた。

だから、精一杯声を振り絞った。


「夏希っ! 俺だ、優輝だ! こっちに戻ってきてくれっ!」


きっと、この声に気がついてくれたのだろう。

夏希は弾かれたように、こちらを振り向いた。

そして、木の根や落ち葉に足を取られながらも、懸命にこちらに駆け出してくる。


「優輝さんっ!」


夏希は俺の胸元に飛び込んできた。

俺はそれをしっかりと受け止める。

途端、夏希の暖かい体温が俺を包み込んだ。

今まで不安に覆われていた心がゆっくりと落ち着いて行くのを感じ取ることができる。

夏希は俺の腕の中で再び泣きじゃくっていた。


「優輝さん……ウチっ、ウチは」

「大丈夫。大丈夫だから」


今、夏希がここにいる。

たったそれだけで十分だった。

あんな風な突然の別れだけはとても耐えられなかったから。

もう一度、会えた。それが今の俺にはとても意味のあることだった。


けれど、夏希は首を振った。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」


ごめんなさい。夏希はただそれを繰り返した。

俺はその言葉に衝撃を受ける。

何も、言えなかった。

何が、とも、いいよ、とも。

何が何だかわからない俺には何も言えなかった。

そもそもの話、何を謝られているのかが全くわからない。

俺は夏希の弱さに触れる機会があったのにも関わらず、ずっと避け続けていたのだ。

俺はそれを」強く実感していた。


夏希のなき声は悲痛だった。

その慟哭は俺の胸をナイフのように鋭く切り裂く。

彼女は嗚咽の狭間で懺悔していた。


「ごめんなさい。騙していて、ごめんなさい」


夏希は今にも壊れてしまいそうなほど、震えていた。

なのに、俺ときたら。

情けないことに、彼女の傷口を共有する以前に、見ることすら叶わず、彼女を抱きしめていることしか出来なかった。


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