蝉の声と朝顔
昔、俺は蝉の鳴き声が嫌いだった。
何でかと問われれば、理由は一つ。
単純にうるさいからだった。
例えば、学生時代、夏休みの朝。
俺が惰眠を貪っていると、彼らはよくそれを責めるように俺をたたき起こしてくれたのを覚えている。
蝉の声は夏になるといつも俺に付き纏った。
窓を閉めていても、音楽を流していても、蝉は常に遠くで鳴き続けていた。
正直、俺にとっては耳障りだった。
それは彼らの命の声だったから。
俺とは正反対の世界を精一杯生きるモノの最期の叫びだったから。
彼らは何もかも無気力で怠惰な俺に、度々、そんな人生でいいのかと、問いかけてきた。
自分の世界に閉じこもって蹲る俺にも等しく、こっちを向いてとばかりに鳴いていた。
だから、地上に上がってから七日間しか生きられないという話を耳にする度に、俺は湧き上がってくる苦々しい感情を押し殺すことが出来なかった。
俺はそっちに踏み出すのが怖いんだ。
そう言い訳している自分の情けなさが嫌になった。
また、蝉の声が変わる度、季節は過ぎ、夏は終わっていく。
夏が終われば、学生にとって待つのは学校という世界だ。
俺には学校という社会の箱の中に追い詰められるような感覚がとても窮屈に思えた。
「でも、それは俺の見方次第なんだよな」
俺は夏希との待ち合わせ場所である駅前に一人佇みながら、そんな言葉を漏らした。
昨日の夕焼け予報通り、本日も晴れ。
日差しは日陰にいても目を細めてしまうほど眩しい。
まだ午前中でこれであるから、午後はもっと暑くなるだろう。
そう思うと憂鬱だった。
東京でも大阪でも、そしてここ奈良でも蝉はよくこの暑さの中でも元気でいられる。
俺は過去の追想から現実に戻ってくると、ケータイのディスプレイに表示される時刻に目をやった。
現在は九時五十分。夏希との約束はいつも通り十時だから、まだ十分あった。
ここに来たのは九時ごろだったから、それなりに時間が経っていた。
どうしてそんなに早くに来ていたのかと問われれば、それは昨日のことが関係している。
あんなに泣いていた夏希のことが心配だったのだ。
あの時の夏希は触れることすら躊躇われるほど神聖であると同時に、本当に弱々しかった。
ともすれば、ある瞬間フッといなくなってしまいそうなほど、手を伸ばさずにはいられないほど。
俺は言いようのない不安感に駆られて、気がつけばこの場所へと足を向けていた。
「夏希は不思議な奴だ」
俺はポツリと呟いた。
一言で彼女の性質を言い表すなら、その言葉が相応しいように思えた。
夏希は本当に初めから不思議な奴だった。
見知らぬ俺なんかに声をかけて、絵のモデルだなんだとしているうちに、いつの間にか五日間もこうして過ごす羽目になっていた。
思い返してみれば信じ難いことである。
過去の自分に話しても信じてもらえるとは到底思えない。
でも、実際はこうだ。
夏希は俺を諦めていたはずの眩しく輝く世界に連れ出してくれた。
鬱陶しかった蝉の声でさえも美しい夏の風景の一部なのだと気づかせてくれた。
夏希はたった数日で俺の魂に変革を起こしてくれたのだった。
「ははっ、年下の女の子のはずなのにな」
やはり、夏希は時折、そう思えない時がある。
俺の心を見透かしたかのような言葉には何度心が震わされたかわからない。
その時の夏希の目はまるで、俺の人生の何倍も生きて来た人のモノのようにも感じるのだ。
性格がハッキリしているわりには、夏希には何処と無く掴めない雰囲気がある。
俺はそのことに時々混乱せずにはいられなかった。
こうして四日間を過ごしてみても、未だに彼女のことは理解できない。
そういう意味でも夏希は「不思議な奴」だった。
そうしてしばらく、取り留めもない思考に浸っていた。
十分という僅かな時間はそうしているうちにすぐに過ぎて行き、気がつけば十時ちょうどになっていた。
夏希の姿はまだ、ない。と、思いきや、背後から肩を叩かれて、驚いた。
「ゆーうっきさん!」
「わわっ! って、夏希か。驚かせるなよ」
「ふふっ、なんか考え事してたみたいやったから。どうせなら驚かせようかなって思って。どうしたん?」
夏希は興味深々といった様子で俺をキラキラとした眼差しで見上げていた。
そこに昨日までの泣いていた形跡は微塵も伺えない。
いつも通りの天真爛漫な夏希がそこにいた。
俺はそのことにホッと安堵を覚えながらも、そのことに触れることなく、夏希の質問に答えた。
「いや、夏希は不思議な奴だなぁって」
「えー? そうかなぁ。自分では結構わかりやすい性格やと思うんやけど」
「まぁ、それはそういう部分もあるさ。けど、珍獣? みたいな」
「ケモノ!? ウチはケモノ扱いなん?」
夏希は大袈裟なリアクションと共にショックを受けていた。
ガビーンとでも効果音が聞こえて来そうなそれに、俺は、流石は関西人、とちょっと的外れな感想を抱きながらも感心してしまう。
生粋の大阪人である上司の山田さんーーとはいえ、高校と大学は東京だったらしいがーーもこんな感じでリアクションが面白かった。
もちろん、全ての人がそうというわけではないが、関西のこういうところは俺も好きだった。
「で、今日はどうするんだっけ」
一頻り茶番を終えると、俺は何気なく話題を今日のことへと向けた。
こういう会話は楽しいは楽しいが、いつまでもこれでは日が暮れてしまいそうだ。
せっかくあと二日しかないのに、それはやっぱり勿体無い気がする。
すると、夏希は少しムッとした表情を見せた。
「優輝さん、今日は何するか覚えてないん? ウチ、この五日間で一番今日が楽しみやったのに」
「ごめん、ごめん。なんだっけ?」
「もう! 今日はお祭りやで。お・ま・つ・り!」
夏希はそう力強く言うと、俺の目の前にビシリと指先を突きつけた。
俺はその勢いに気圧されて、コクコクと頷くことしか出来ない。
夏希はタジタジになっている俺を鋭く見据えると、いい? と強く念を押した。
「さて、お祭りと言えば?」
「やっ、屋台?」
「ブーッ!」
「盆踊り?」
「ブーッ!」
「ううーん……あっ、神輿!」
「ブーッ、ブーッ、ブーッ!」
夏希は中々答えの出せない俺の額にデコピンをした。
俺はその想定外の痛さに思わず、額を抑える。
夏希は相当お怒りのご様子だった。
痛がる俺を気にすることなく、仁王立ちで答えを告げた。
「正解は浴衣! 女の子にとってオシャレは重要なことやろ?」
全く、優輝さんは乙女心というやつがわかってないなぁ、と夏希は呆れ顔で首を振る。
でも、俺としてはそれも仕方がないことだと思うのだ。
祭りなんて小さい頃に家族と行ったっきりだし、恥ずかしながら俺には彼女というものが一度も出来たことがない。
あん時、お前大分モテてたぜ、なんて高校時代の友人には言われたことがあったが、それが告白に至ったことがない以上、自覚だってなかった。
そんな中、身の回りの異性といえば、あの女子力皆無な姉しかいなかったものだから、理解しろと言われても無理がある。
そんな不満をたらたらと心のうちでぶちまけてみるものの、言葉に出すには及ばなかった。
もしここでつまらない言い訳でもしようものなら、夏希の怒りに油を注ぐ羽目になりそうだ。
ここは素直に彼女の言うことに従うべきだろう。
つくづく情けないとは思うが、そんなところは変われないようだった。
「で、夏希は浴衣が着たいんだな」
「もちろん。だから、今からショッピングモールに行こうと思います! ちょうど、前に古爺からもらったお金も持ってきたし」
「はぁ、わかった。……じゃあ、どこまでもお付き合いしますよ、お姫様」
「それがわかればよろしい。お願いしますよ、ウチの騎士様?」
そうして、俺たちは浴衣を買いに行くことになった。
の、だが。
「優輝さーん! どれがいいと思う?」
「うーん、夏希の好きな方でいいんじゃないか? どれも似合いそうだし」
「釣れへん返事やなぁ。でも、こっちもいいし……あっ、これも」
俺は一時間後、その答えを後悔する羽目になっていた。
夏希のはしゃぎっぷりは凄まじいもので、俺は始終振り回されっぱなしであった。
時々意見を求められて、初めは真面目に答えていたものの、それが何度も続くと流石にうんざりしてしまう。
夏希だって、耳を貸す気は初めから無いようだった。
あれもこれもと様々な浴衣を手にとってみては、一方的に感想を述べてくる。
漫画やドラマでこう言う場面は目にしたことはあるが、まさか自分がそんなショッピングに付き合わされるとは思ってもみなかった。
世の中の男性はこれほど苦労させられているのだろうか。
彼女いない歴イコール年齢の俺にしてみたら知る由もないが、だとしたら、とても大変である。
俺は思わず深いため息が出そうになるのを必死でこらえた。
「夏希ー、そろそろお腹も減ってきたことだし、どれにするかそろそろ決めないか?」
「そうやね。うー、でも迷うなぁ。これと、これと……これ。でも、これとこれは似てるから、絞り込んで、この二枚でいいかなぁ。ねぇ、優輝さん、ちょっと試着してみてもいい?」
「それくらいは別に構わないが、自分で着付けられるのか? もしわからなかったら、店員さん、呼ぶけど」
「いや、大丈夫。ウチは自分で着れるから。昔はよく着てたし」
夏希は平然とそう答えたが、俺は内心で感心していた。
着物とか、浴衣を着る機会が少なくなった現代、中高生の女子で自ら着付けられる子はなかなか少ないのだ。
俺の高校時代の文化祭では夜のお祭りで浴衣を着る習わしがあったが、自分で着られる人は少なく、そのことに手慣れたPTAの人がその為だけに来校していたことを覚えている。
手水所での作法といい、夏希は日本文化について、俺より知っていることが多かった。
夏希はいそいそと更衣室に入ると、そこで待っててと厳命してきた。
もしかして、俺が覗くとでも思っているのだろうか。
もしそうだとしたら、心外である。
死んでも覗くか、と空腹による苛立ちを誤魔化し、俺は腕を組んで、佇むこと数分。
ついに目の前でサッとカーテンがひかれた。
「一枚目! どう、これ?」
夏希はその場でくるりと一回転した。
俺は初めて見る夏希の浴衣姿におっ、と目を丸くする。
夏希が一枚目として着ていたのは白地に赤い金魚と水色の波紋が広がる明るい雰囲気の浴衣だった。
いつも夏希に抱いていた綺麗、というイメージとは違って、それに身を包む夏希は少し幼く、可愛らしい感じに見えた。
意外ではあるが、悪くはないんじゃないだろうか。
長くおろされていた髪もいつの間にか浴衣に合うように、お団子になっていた。
「いいと思う。ちょっと雰囲気が違って、驚いたけれどな」
「意外? まぁ、確かに最近はこういうの着なくなったけど。じゃあ、もう一枚も着てみるな」
夏希はそう言うと、またカーテンの中へと姿を消した。
すると、向こうからはスルスルという帯を解く衣擦れの音が聞こえてくる。
夏希は黙ったまま着替えるのではなく、カーテン越しに声をかけてきた。
「なぁなぁ、優輝さん」
「ん? なんだ」
「優輝さんって恋人とか、おらへんの?」
「またそれか」
俺は出会った当初から度々もたらされるその話題に、最早呆れ果てていた。
やっぱり夏希も女子らしく、こういう色恋沙汰が好きらしい。
俺としては、それを聞かれる度に虚しくなるのだが。
だから、俺はいつもと同じ答えを返した。
「いないよ。いたこともない」
「人を好きになったことは?」
「それもない。未だに恋ってのがなんなのか、わかってないんだよ」
「ほんまに? どうして?」
「どうしてって……」
それは俺が聞きたかった。もし人を好きになれるのだとしたら、俺だって一度は夢中になれる恋をしてみたいものだ。
それくらい、俺は愛だの恋だの、そういうものには疎かった。
一方で、どこまでもそれを渇望していたはずなのに。
ああ……そう考えてみれば、理由は案外簡単なものかもしれなかった。
「俺には自信が無かったから」
「ん……」
「俺を好きになってくれる人なんて、いるわけないって、そう思い込んでしまうほどに自分が嫌いだったから」
きっと、そうだ。
俺はかつて、親の愛ですら疑ったことがある。
常に結果を求められて、応えられなかったその時、俺はいつも父親にひどく責められた。
お前にはがっかりしたと言われる度、その目に失望が宿る度。
いつか、自分の無能さ故に愛されなくなるのではとひどく怯えていた。
ずっとずっと、小さい頃からそうだった。
愛にはそれ相応の何かが必要なのだと、そしてそれを持たぬ自分が愛されるはずもないのだと。
無意識のうちに理解していたから、周りの色恋には無関心かつ、鈍感だった。
俺でも理解できるように言葉にしてくれる人なんて、もちろん中々いなくて。
あるとすれば姉や母が自分を気遣ってくれる時だった。
「だから、俺はきっと恋が出来なかった」
ストンと、結論は俺の中に落ちて来た。
それは、納得、だろうか。安堵、だろうか。それとも不安、なのだろうか。
よくはわからなかったが、凝り固まっていた何かがゆっくりとほどけていくようであった。
夏希はそんな俺の変化に気がついたのだろうか。
その何かの奥にあったものを、背後から俺の手を、不意にギュッと掴んだ。
「ならさ、優輝さん」
夏希はいつの間にか、ぴったりと俺の背中にくっついていた。
いつもの声音、いや、それよりも何処か色香の漂う声で、身長差があるはずの俺の耳元に囁く。
「今日だけウチの恋人になってくれへんかな」
俺はその瞬間、不覚にもどきりとしてしまった。
そして次の瞬間、それを誤魔化すように慌てて夏希から離れ、振り返る。
しかし、そこにいたのはいつもの無邪気な笑顔を浮かべる夏希だった。
彼女は深い紺に薄紫の朝顔が咲く浴衣に身を包み、小首を傾げている。
先ほどまでの妖艶な雰囲気は、微塵もなかった。
「ねっ、お願い!」
俺は暫し呆然とした。
けれども、キラキラと輝く瞳でそう言われて仕舞えば、無下にあしらうことも出来ない。
ハッと我に帰った俺は、コクリと頷くことしか出来なかった。