姉弟同盟
『姉ちゃん、ごめん。もう一度話がしたい』
そんな内容のメールを送ったのは三十分前のことだった。
あれから、姉はホテルの周辺を歩きまわっていたようで、『すぐに戻る』との返信が返ってきた。
そうして、その数分後、姉と俺は再びホテルのロビーで向かい合って座っていた。
夏希には夏希たっての要望で、部屋で待ってもらっている。
姉は今度は緑茶を頼みながら、相変わらず優雅に振舞っていた。
さっきあんな別れ方をしたのに、いつも通りの姉の態度が今の俺には有難い。
俺も飲み物を頼みながら、気まずさを忘れて、なんとか平静を保った。
「で、どうよ。少しは落ち着いた?」
それぞれの飲み物が運ばれてきた後、開口一番、姉は単刀直入に聞いてきた。
姉弟だからこそとも言える、遠慮のない直球の質問。
姉は下手に気を使われたくないことをわかって、それを投げかけてきたのだろう。
相手の話の引き出し方に関して、流石はライターだと思わず感心してしまった。
俺はそんな姉の気遣いに甘えて、微笑みながら頷いた。
「ああ、平気だ。あの時は怒ってくれてありがとう」
「当然よ。だって、あれすごくムカついたもの。勝手に産んどいて、死ねとか、じゃあ初めっから作るなよ、って話で。本当に腹立った」
「姉ちゃんは言われたこと、ある?」
「あるわよー。十年くらい前に。もっと軽い感じではあったけど」
「そう、だったんだ」
姉は既に通った道だったのか。そう思うと、より親近感が湧いた。
姉もショックだった経験があるからこそ、怒ったというのもあったのだろう。
なら、これから話したいことも話しやすくなりそうだった。
とはいえ、その前に純粋な疑問も湧いてくる。
俺は夏希にああ言って貰えたからこそ、立ち直れたけれど、姉はどうやって乗り越えたのだろうという興味だ。
姉だって、こう捻くれてはいるけれど、人間だし、感情はある。
親にそんな言葉を言われて、傷つかないはずがないのだ。
俺はそれが気になった。
「でも、姉ちゃんもショックだったろ?」
「まぁ、ね。でも、私は怒りの方が大きかったかな。何も言い返せないのが悔しい、って感じで」
「どうして? 姉ちゃんなら、言えそうなのに」
「あのねぇ、私そんな勇敢じゃないわよ。でも、その時は、ほんの些細なことで口論になったんだけど、あの人、お酒が入ると全く日本語通じないでしょ? 私の理論的な説明に勝てないとわかると、生意気って理由だけで怒り出したわ。それで、脅された。生意気言うなら、今すぐ出て行け。誰のお陰で学校行けてると思ってんだ。その過程で死ねは言われたわ。あんたが丁度家にいなかった時の話だけど」
「もしかして、あの高校の頃のすごい泣いてた時?」
「よく覚えてるわね」
「いや、姉ちゃんが泣いてるの、久々に見たから」
高校の時、たまたま帰りが遅くなって、家に着いてみると、居間ではひどく泣いている姉がいた。
その机の向かいには気まずそうにテレビを見ている父。姉の隣で慰めている母。
正直、何が起こったのかは分からなかった。
漠然と、姉と父に何かあったのだろうな、とは思ったけれど、一応は終わっているらしい問題をもう一度話題にするのも躊躇われて、結局分からずじまいだった。
あの時は気まずい空気の食事になんとか明るい話題を出そうとしていたのを覚えている。
でも、まさかそんなことがあったとは。
しかし、姉の話はまだ終わっていなかった。
「死ねはショッキングではあったけど、その後にはもっとショッキングなことがあった。だから、それでそれ自体の痛みは薄れてしまったの。ほら、私って父さんに似て、プライド高いじゃない? 残念なことに」
「負けず嫌いだな、とは思うけど」
「似たようなものね。……まあそれでね、このままじゃ脅されて、大学行かせてもらえないかもしれない事態になったワケ。私は絶対に大学行きたかったし、それだけは嫌だった。で、この場を収める最善策を考えた。一番平和的に、且つ罪悪感を与えられる方法」
「それは?」
「謝ることよ。それも、涙ながらの土下座ね」
そう語る姉の表情は見るからに不機嫌そうだった。
確かに、負けず嫌いの姉にしてみれば、土下座なんて屈辱的以外の何物でもないだろう。
しかも、話を聞いてみれば、姉の意見は間違ってなくて、父さんの意見は完全な言いがかりだ。
自分の意見が正しいと理解しているのなら、尚更プライドは傷つけられたはずだ。
俺にだって、そんなことは出来そうにない。
しかし、姉はそうしたのだ。大学に行くという望みの為に、本当にしたいことの為に、プライドを捨てた。
俺が未だに出来ていないかもしれない決断を高校生にして、成し遂げていた。
「初めはそれさえも跳ね除けられたわ。そんな形だけの謝罪は要らないって。だから、泣いた。あいつの中に少しでも親の心があるのなら、自分の娘を泣かせて土下座させてる光景の惨めさを煽ってやりたいなって。もちろん、悔しさもあったけど。我ながらえげつないとは思う。けど、これが今日の原動力の一つでもあるのよ」
「原動力」
「そ。私には野望があるの。いつか自分を育てるのに掛かったお金はすべて親に返済して、老人ホームとか介護の金も全部払って、そうして、全部あいつが脅しの材料にしてたものを全部無くしてやる。そんでもって、今まで積もりに積もった言いたいことをぶちまけてやるの」
「うわぁ」
姉は悪そうな顔で不敵に笑った。
俺はそれに少し引きながらも、一方で感心する。
多くの人が己の悲劇に酔って泣き寝入りする中、姉は正々堂々立ち向かおうとしているのだ。
俺にはそれが返って清々しく、眩しく見えた。
現に、姉の表情は生き生きとしている。
これが姉なりの……新田凛華流の乗り越え方なのだ。
「と、言うのは私自身を守る為の言い訳」
「えっ?」
「私はね、本当に臆病なの。だから、保険が欲しいだけよ。対等な立場に立って、私の本音を晒して、あの人には本当の私というものを受け止めて欲しい。それで、嫌われるかどうかは分からない。けど、心のどこかでは愛して欲しいと思ってる。だって、あの人はどうしたって私の父親であることには変わりないから。最後には立派になったって褒めてもらいたいの。ただ、それだけ。今は口が裂けても言えないことだけどね」
「姉ちゃん」
これ、内緒よ。言ったら、問答無用でしばくから、と姉は冗談っぽく笑った。
俺は普段、父さんに対する愚痴しか漏らしていない姉の隠れた思いに驚く。
口では強がっているけれど、姉はもしかしたら俺以上のショックを受けていたのかもしれなかった。
でなければ、十年後である今、こうしてそれを実行することはなかっただろう。
俺は尚更、自分もしっかりしなくてはという思いに駆られた。
「姉ちゃん、俺もさ、それに協力してもいいかな」
「えっ?」
「俺も、父さんに負けたままなのは嫌だ。どうしようもない奴だなんて、もう言わせたくない。だから、頑張りたいんだ」
「ゆう君……」
姉は意外そうな目で俺を見ていた。
それも、そうだ。俺は姉とは違い、いつだって逃げてきたのだから。
自分で意思を示したことなどなく、今までは周囲から言われるがまま流されていた。
それを、今まさに初めて俺は否定したのだ。
夏希に背中を押されて、姉の言葉に心を動かされて、ようやく。
二十五にもなって、自分の選択をした。
「俺、今まで自分に自信がなかった。父さんにはなんでも否定されて、さ。姉ちゃんとは違って、俺は結果を出せなくて、比べられては余計に情けなくなった」
「そんな、私」
「わかってる。姉ちゃんはいつも、俺と比べた時、怒ってた。私とゆう君は違う。人と比べるのは間違ってるって。褒められてたのに、怒るから、俺も姉ちゃんを信用してた。今日まで姉弟仲が悪くないのも、その所為だと思う」
姉は口こそ悪いが、結局のところいつも俺には甘かった。
今朝のように叱ることもあるが、どれも的を射た事実なのだ。
俺が貶されることがあれば、それとなく話題を変えてくれたり、言葉に棘があればフォローに回ってくれたり、意識はしていなかったが、思い出してみれば助けられた場面は多い。
だから、比べられても姉自身のことは恨めなかった。
結果の分、努力をしてきたのも知っているし、それがお門違いの感情だということは無意識のうちに判断していた。
ただ、自分の情けなさにひたすら虚しくなっただけだった。
「でも、姉ちゃんの言葉を聞いて納得した。そりゃ、目的意識を持って努力してきた人に、なんでも惰性にこなしてきただけの俺が勝てるわけがないよな、って。俺が、ただ甘えてただけだった」
俺は親に求められていたから、勉強や運動もやろうとした。
けど、姉は違った。
ずっと心の内に秘めていた野望のため、不確定な未来を生きていく術の為、明確な意思を持ってどれも取り組んでいた。
そこにモチベーションの差は明らかだ。
俺は初めから何のためにするのか、それが自分にどういう影響を与えるのかを考えずに、いろんな可能性を初めから放棄していた。
そんなので、結果が出るはずがない。
「けど、俺は今度こそ、チャレンジしてみたいことが出来た。それが、何の為か、って聞かれたらまだ正直、ハッキリとは答えられないけれど、それでも初めて本気でやってみたいと思えたんだ」
「それで? 何なのよ、それ」
「俺に何が出来ると思う?」
「逆に聞くのは卑怯よ。けど……なんとなく、わかったわ」
「本当に?」
「ええ、随分と危なっかしい選択だとは思うけれど、あんたが本気なら文句は言わないわ。そんな権利もないし。私は応援する」
姉はそう言って微笑んだ。
俺は取り敢えず、認めてくれた人が出たことに安堵する。
姉ならバッサリと切り捨てたりはしないとは思っていたが、その通りだったようだ。
むしろ、面白がってくれている。若干の心配は含まれていたが、それくらいの事は予想済み。
問題は姉以外の家族だ。
母は本気で説得すれば応援してくれるとは思うが、それまでは大変。
そして、あの父のことはわからない。
けど、電話はあんな形で切ってしまったわけだし、口うるさく何かを言われるのは間違いないだろう。
その辺りは憂鬱だった。
「父さんのこと?」
そんな俺の心境を見透かしたかのように、姉は尋ねてきた。
やはり、俺にはポーカーフェイスは難しく、顔に出ていたらしい。
それを人の反応に目敏い姉が見逃すはずもなかった。
俺はコクリと頷いた。
「別に無視でいいんじゃない? もうあんたも成人してんだし。縛られる必要は無いと思うけど。もちろん、煩いとは思うけどね。あんたが選んだ道なら、あんたが後悔しない選択をするべきよ」
「うん」
「それに、もしあの人があんたのやることに手を出そうとするなら、その時は私がどうにかする。幸いにして、私はあの人の扱いに慣れてるからね。できるだけ穏便に……最悪、実力行使も辞さない形で押さえるから。安心なさい」
「いや、嬉しいけど、怖えよ」
姉は黒い笑みを浮かべた。
俺はそれに思わず戦慄する。
実力行使が如何なるものなのかは知らないが、絶対にその矛先がこちらに向かないようにしなければならない。
まぁ、よっぽどのことがなければ、そうはならないだろうが。肝に銘じておく必要はある。
とはいえ、姉は強い味方だ。これはいよいよ本気で頑張らなくてはならない。
「姉ちゃん」
「ん?」
「俺、頑張るから。ありがとう」
「いいのよ。可愛い弟の為だもの」
俺は今伝えられる精一杯のことを伝えた。
簡単な言葉だが、俺の語彙力ではそれ以上の感謝の言葉は見つからなかった。
いつも俺の行く先をどんどんと進んで、道を示してくれる姉。
そのおかげで俺は知っている道ばかりだったけれど、姉は全て初めて見るものがどれだけ不安だったのか。俺には計り知れない。
ただ、それが姉をひどく臆病にしてしまったのは確かだ。
姉は大切な人には優しすぎる。だから、自分で全部抱え込んで、明るく笑うのだ。
今だって、きっとそう。俺を不安から守ろうとしている。
もちろん、俺がそのことに口出しする権利は無いのだろうけど。それでも。
「姉ちゃん、結婚しないの?」
「はぁ? あんた、それ私が恋人出来たことないのを知っての嫌味?」
「いや。そういうわけじゃないけど。ちゃんとした飯、食ってるのかなって」
「……まぁ、適当に済ませてるわ」
「それじゃ、健康に悪いだろ」
「だって、仕方ないじゃない! 料理苦手なんだから」
「姉ちゃんの場合、苦手というかめんどくさがってるだけだ。で、洗濯物は?」
「うっ……溜まり気味、です」
姉は強気な姿勢を崩して、途端に視線を彷徨わせた。
俺は想像通りの姉の生活力のなさに呆れて、深いため息をつく。
すると、姉はバツの悪そうな表情をした。
一応、本人も己の生活状況が良くないことは自覚しているようだった。
「じゃあ、一度落ち着いたら姉ちゃんのとこ、行くよ。色々、今回のお礼も含めて、手伝うから」
「たっ、助かるわ。ちょっと、最近は危機感を覚え始めてたから」
取り敢えず、そういうことになった。
姉はまた明日から仕事らしく、話が終わるなり、席を立ち上がる。
お盆ももう直ぐだというのに、随分とご苦労なことであった。
無理だけはしないように念をおしておいたが、なんだかんだでサボるのが上手い姉のことだから、その辺りは心配しなくても良いだろう。
しかし、去り際、姉は生活力のなさをいじった仕返しとばかりに、一言残したのだった。
「あっ、そうそう。あんた、その『俺』っていう一人称だけど。ぜんっぜん似合ってないよ」
姉は不敵に言った。そして振り返らず、帰ってしまう。
一人、取り残された『僕』は思わず、額に手を当てて、首を横に振った。
ああ、こんなことだから。
「やっぱり、『僕』は一生、姉ちゃんに敵わないんだろうな」
こんな姿、絶対に夏希には見せられない。
『俺』はそんな情けない気持ちで、ホテルの中へと、夏希の元へと戻ったのだった。