生きる、涙
コンコン、コンコン、と繰り返し扉を叩く音に気がついたのは夏希との約束の時間がとっくに過ぎた昼前のことだった。
俺は虚空を彷徨っていた意識が急浮上していくのを感じて、ようやく何時間もぼうっとしていたことに気がつく。
一体、俺は今まで何をしていたのだろうか。
俺はそんなことを思いながら、覚束ない足取りで部屋のドアの方へと向かった。
今は途轍もなく人には会いたくない気分だが、今朝、人を大切にしなさいと姉に言われたばかりだ。
流石に無視をするわけにはいかない。
取り敢えず、顔だけ出して、少し一人にしてもらおう。そ
んな考えと共に俺はドアを開けた。
だが。
「おはよう、優輝さん」
「……夏希」
そこにいたのが夏希だとわかると、その考えも一瞬にして吹き飛んでしまった。
俺はすっかり夏希との約束を忘れていたのだ。
炎天下の中、長時間も待たせてしまったのだと思うと、申し訳ない気持ちで一杯になる。
俺はそれでも尚、こちらに向かって微笑む夏希に大慌てでガバリと頭を下げた。
「夏希、ごめん。俺……すぐに準備するから」
「それは別にいいけど……どうしたん? 何かあった?」
夏希は俺が勝手な理由で約束を放り出しかけたというのに、俺を一切責めることをしなかった。
それどころか、気遣わしげにこちらを見つめてくる。
夏希は俺の普段と違う様子にも気がついているようだった。
その証拠に、部屋の中に持ち物を取りに戻ろうとした俺の袖を掴んで離さない。
俺はどうしていいものか悩んだ。
夏希は事情を聞きたいみたいだが、これはあくまでも個人的な悩みだ。
夏希に心配をかけるわけには行かないだろう。
少し迷った結果、結局俺は言葉を濁してしまった。
「いや、ちょっとこっちの話。何でもないから」
「嘘や。優輝さん、鏡見た? だって今、すっごく酷い顔してる」
「何だって」
俺は夏希に言われて鏡を覗き込んだ。
すると、そこには明らかに覇気のない顔をした自分がいた。
まさに何もかも疲れたといった風である。
優しい夏希が責めてこないのもわかるほど、酷い顔をしていた。
何時間もぼうっとしてたことといい、この顔といい、自分の思う以上に父との会話にはダメージを受けていたらしかった。
思い返してみれば、この部屋にもどう戻ってきたのか、姉があの後どうしたのかさえも覚えていない。
俺は思わず額に手を当てた。
「悪い。俺、やっぱダメみたいだ」
「うん。わかるよ。少し、休もうか」
夏希の声音は何処までも優しかった。
無理に理由を問うこともなく、約束さえも返上して、俺の都合に付き合ってくれようとしている。
俺は情けないやら、申し訳ないやらで何と言っていいかわからなかった。
でもきっと謝れば、また夏希を困らせてしまう。
「ありがとう」
「うん」
だから、お礼を言った。夏希は笑顔で受け止めてくれた。
そうして笑いあって、俺は夏希に取り敢えず部屋に入って貰った。
立ち話も何だし、俺も気持ちを整理したい。
幸い、荷物は多くなかったので、部屋を綺麗にするのにも時間はかからなかった。
夏希には一人掛けのソファに座って貰って、俺はその向かいに腰を下ろした。
「悪い、ジュースはないけど」
「そんなん気にせんとって。ありがとう」
俺は部屋の冷蔵庫に入れてあったお茶をグラスに注いだ。
すると、夏希は外で待っていたというのもあってか、すぐにそれを口にした。
あっと言う間に半分がなくなり、俺は更にお茶を注ぎ足す。
夏希はがぶ飲みしてしまったことが恥ずかしかったのか、ほんの少し頬を赤く染めていた。
「ホントごめんな、外は暑かったろう?」
「ううん、全然平気。もともと暑いのには強いから」
改めて夏希を見てみれば、それほど汗はかいていないようだった。
顔色も悪くないし、一応無理はしていないようだ。
俺はそのことに、一先ず安堵した。
話しているうちに気持ちも落ち着いてきて、ぼんやりとしていた頭も随分スッキリしてきた。
夏希に影響されたのか、笑みも自然と戻ってきて、他愛もない会話で笑いあう。
とはいえ、意識の根底には父の言葉があって、それをどう説明しようかというのも同時に考えていた。
ここまで付き合って貰っているからには、話さないというわけには行かないだろう。
ましてや、夏希の事情は昨晩聞かせてもらったばかりだ。
俺もそろそろ覚悟を決めておかなければならない。
「夏希」
会話がひと段落した後、俺はついに切り出した。
息を深く吸い込んで、夏希の目をしっかりと見据える。
夏希も俺が決意したのを感じ取ったのか、途端に真剣な表情になった。
ゆるぎなく、意志のこもった目で見つめ返してくる。
数瞬の沈黙がおち、緊張の為か、俺には外でなく蝉の声がやけに大きく感じられた。
「夏希、俺の話を聞いてもらってもいいか?」
「もちろん。優輝さんが話してくれるなら」
夏希は震える声で問いかける俺を安心させるように微笑んだ。
相変わらず、自分の情けなさには呆れるが、夏希がこうして言ってくれるから、話す気になれた。勇気を分け与えて貰った。
もう、情けないのは夏希に知られている。なら、何を今更恐れることがあろうか。
俺は覚悟を決めた。
「俺さ、今朝姉ちゃんに会った」
「お姉さん? 優輝さん、お姉さんおったんや」
「ああ、一歳上で途轍もなく口が悪い姉が、な。東京でライターの仕事をしていて、バリバリ働いてる。それなのに今日、突然ホテルに押しかけてきた」
そういや、夏希にはそんなことさえも話していなかったのだと、今更ながらに思い至る。
夏希とは今日で出会って四日目。
そんな彼女に自分のことを話すとは、それ以前には思いもよらなかった。
いや、そもそも誰かに話すなど想定していない。
だから、まだ言葉では上手く纏まらないけれど、これほど助けてもらっている夏希にはやっぱり知って欲しかった。
誰にも言えなかったコンプレックスの根源……家族のことを、話してみたかった。
「本当は奈良に来る前、俺は会社を無断欠勤してたんだけど、それが姉にばれたんだ。それで、叱られた。まぁ、当然だよな。社会人としての務めを放棄したんだから。姉ちゃんの言うことは最もだし、俺も納得した。けど」
「けど?」
「その後で、父さんに、電話することになった」
夏希は未だ、何が問題なのかわからないようだった。
それも当然だ。俺は今まで不自然なまでに家族のことを話題にしようとはしなかった。
だから、夏希がそれを知る由もない。
俺は初めて、家族のことを口にした。
「俺、昔から父さんのことは苦手なんだ。何時も何時も一番をとれとか、男はこうあるべきだとか、頭ごなしの否定とか。そういうものばかり押し付けてきてさ。それを叶えることなんて、俺には出来っこないのに。出来ないことを馬鹿にされて罵られて。他人と比べたり、意味もなくこき下ろしたり。挙げ句の果てに、ちょっと反論しようものなら脅してくる。誰が育ててやってるんだ、俺が気に入らないなら出て行けとか。学生の頃は自分で稼ぐ術なんてなかったから、何も言い返せなかった。昼間から酒を飲んでばかりで、ひどい時には暴力に出ることもあったから、それはたまらなかった」
夏希は俺の説明には何も口を挟まなかった。
酷い、とも、辛かったね、とも。何も言わなかった。
きっと、俺が夏希の時に何も言わなかったのと同じように、俺もそれを望んでいないことをわかっていたから。
ただ、夏希は静かに、少し泣きそうな表情をしていた。
「もちろん、何時もそうってわけじゃない。常に結果は求められたけど、したいことはさせてもらえた。旅行にも連れて行ってくれたし、誕生日も祝ってくれる。結果を出せば、褒めてくれることも稀にあった。それ以上を求めた俺が強欲なのかもしれない」
わがままで頑固で、どうしようもない人でも、父親は俺にとっては父親だった。
そして、父親の優しい面を見てしまうと、どれだけ理不尽なことを言われようと、苦手ではあっても嫌いにはなりきれなかった。
血の繋がりというのは、切っても切れなかったのだ。
「でも、それでも俺は時々父さんを憎んでしまう。俺はどう頑張っても父さんの期待には答えられない。一番にはなれないし、いい結果も出なかった。その度に頑張りは否定されて、自分の価値まで否定されて、正直辛かった。自分はダメな奴なんだと、何度も親に言われると、自分でもそうとしか思えなくなってしまう。本当に愛されているのかさえ、時々わからなくなった」
自分でさえ自分を認められないのは、とても孤独なことだ。
他人に幾ら褒められようと、自分に価値を感じられない分、全て嘘のように思えてしまう。
自分の生きている価値とか、そんなものまで考えてしまって、夜は眠れないこともあった。
俺は頑張っている。けれど、一番認めて欲しい人には全く認めてもらえない。
本当は努力が足りなかったかもしれないけれど、そういうことが毎度になると、次第に諦めることも覚えてしまった。
何をするにも無気力で、結局親の言いなりに流されて生きてきた。
自分が嫌いなまま、何がしたいのかさえもわからぬまま。
二十五にもなって、俺の心は未だ思春期から時を止めているのだ。
「で、今朝は何て言われたと思う?」
夏希は首を横に振った。
俺は自嘲するように、あの衝撃的だった言葉を吐き出した。
「死ね、だとさ」
俺は自分の告げた言葉に、再びギュッと胸が締め付けられた。
息がつまる。頭痛がする。
あの時、あの瞬間、俺は目の前が真っ赤になったのを思い出した。
怒りと絶望が綯い交ぜになって、もう何が何だかわからなくなっていた。
何にも言えなくなって、そこからの記憶が曖昧だ。
姉ちゃんが確か、ケータイの向こう側に怒鳴り返していたのは何となく覚えているけど、どういうやり取りをして、この部屋に戻ってきたのかはやっぱり思い出せない。
それくらい、俺はあの言葉に衝撃を受けていた。
「何時も期待に添えなくて、どうしようもないお前は親の恥だ。だから、死ね。父さんはそう言った。多分、父さんにしてみれば叱るつもりで、軽く言った一言なのだろうけど、俺はそんな風には受け止められなかった。確かに俺は人に迷惑をかけたし、どうしようもない奴だ。けど、親に言われるのは、相当キツかった」
俺はギリリ、と強く唇を噛み締めた。途端、口内に鉄の味が広がる。
それでも構わなかった。
今は少しでも油断したら、泣いてしまいそうだったから。
でも、泣くわけにはいかない。
もし泣いて仕舞えば、俺はその言葉を受け入れてしまったような気がして、それだけは譲れなかった。
「これが、俺があんな情けない顔してた理由。ゴメンな、予定を返上させちゃって」
さあ、今からでも出かけるか、と俺は立ち上がった。
この自らが作り出してしまった重々しい空気を何とか払拭しようと、できるだけ明るい声を作る。
けれど、準備をしようと歩き出した俺の服の袖を夏希が掴んだ。
「優輝さん」
「ん? どうした?」
「優輝さんの絵、ウチは好き」
「どうしたんだよ、突然」
夏希は急にそんなことを言った。
俺は唐突に褒められて、どう反応して良いか分からずに苦笑する。
しかし、夏希は顔を伏せたままで、表情がうかがえなかった。
「優輝さんは、ウチに何時も良くしてくれる。扇子をプレゼントしてくれたり、何度もハンカチを洗ってくれたり、ワガママにやって付き合ってくれる」
「……そんなの、俺以外だって出来るだろ?」
「かもしれへん。けど、実際にウチにそうしてくれたのは優輝さんやろ。ウチの話やって、笑わずに聞いてくれた。ウチのことを知りたいって、心から思ってくれた。そしてウチも……優輝さんが良いって思った。優輝さんじゃなきゃ、絶対にそんなこと思わへんかった」
「そんなの、わから」
「なくない! ウチは優輝さんに一緒にいて欲しい」
夏希は俺の言葉を遮って、叫ぶように言った。
俺は驚いて、ビクリと動きを止める。
気がつけば、夏希が顔を上げていた。
涙を瞳にたっぷりと溜めて、こちらを見つめていた。
俺は動揺して、言葉を失った。
「ウチはあの時、彼女を失ったとき、本当に後悔した。なんで、誰もなんも言ってあげられなかったやろうって。何か一つ、言葉をかけていたら、彼女は死ななかったかもしれへんのにって」
夏希は俺の手を強く握りしめた。
決して離すまいと、小さな手で、強く、強く。
夏希は涙を零しながら、俺の腕を抱き込んだ。
温かく、包み込んだ。
「だから、今度は言う。こうして言える今やから言う。優輝さん、生きてって。優輝さんの価値を認める人はここにおるって。だからっ!」
「優輝さん、泣いて」
その言葉とほぼ同時だった。俺は立っていられなくなった。
夏希の腕に縋り付いて、子供のように泣きじゃくっていた。
そんな俺を、夏希はそっと抱きしめてくれていた。