彷徨う男
耳を叩く蝉時雨、肌を焼く眩しい日差し、汗で張り付いたシャツに、身体に蓄積された疲労。
俺は夏の世界に包まれながら、一人公園の中をブラブラと歩いていた。
手には仕事用のカバンと、滝のように流れ落ちる汗を拭うためのハンカチ。
ふと仕事用のカバンが震えるのを感じて、俺はカバンの中に手を突っ込んだ。そして、ケータイを取り出す。
ディスプレイに表示されていたのは、会社の上司の名前だった。
いつもお世話になっていて、こんな俺をよく気にかけてくれるとても良い人。
俺はそんな人の名前を目にして、また罪悪感に苛まれていた。
「あっちゃー、やっぱ申し訳ないなぁ」
そう。今日は平日。
そのせいで、鹿が横たわるこの公園に見える人々は観光客ばかりだ。
夏とはいえ、学生はまだ部活があるし、社会人なら言わずもがな仕事だ。
つまり、本来ならば俺は会社にいなくてはならない人間だった。
なのに、その役目を放棄して今はここにいる。
しかも、会社がある大阪ではなく、隣の県……奈良に。
何故、と問われると正直俺にもわからない。
会社へ行くことへの嫌気は日々募っていたとはいえ、まさか自分でもこんなところへ来るとは思ってもいなかった。
今朝だって、何時もどおりに通勤するはずだった。
しかし、今日は環状線の電車に揺られているうちに俺にしては珍しく眠り込んでしまって、一駅乗り過ごしてしまったのだ。
それで、慌てて電車を乗り換えようとしたのだが。
このままだと遅刻だよなぁ、と考え始めてから、フラフラと乗り込んだ電車が奈良行きであったことに気がつけなかったのは何故なのだろうか。
いや、正確には気がついていたのに、そのまま乗り込んでしまった理由については、俺自身にもわからなかった。
よっぽど今の窮屈な世界から逃げたかったのだろうか。
とはいえ、こうしてここまで来てしまったからには、戻る気も起きずに、俺は人生初のサボタージュを決行している。
「山田さん、すみません」
俺はケータイの向こう側にいる上司に向かってそう呟くと、煩くバイブするケータイの電源を切った。
これで明日はきっと怒られること確定だ。
そういえば、今日は重要な会議もあったことだし、俺はクビになるかもしれない。
でも、その事に対する恐怖は微塵もなかった。
元々親に強制されて入れられた会社だ。
山田さんに迷惑をかけてしまうことは忍びないが、会社自体には未練はない。
再就職も厳しいかもしれないが、それも今はどうでもいいことのように思えた。
そう考えると、自分がいかに現状に執着していなかったかがわかる。
「意外とストレス溜まってたのかねぇ」
俺は盛大なため息をついた。
すると、すぐそばを闊歩していた鹿がそんな俺を心配するかのようにつぶらな瞳を向けてくる。
鹿にも心配される人生。なんと、滑稽なのだろう。
俺は己の惨めさに呆れ果てて、自嘲した。
「ほんと、俺の二十五年、なんだったんだろうなぁ」
奈良公園は想像していたより広い。
俺は近くにあった自動販売機で飲み物を購入すると、近くにあったベンチに腰掛けた。
気温が高いせいか、僅かその間にもペットボトルに結露が出来て、手が濡れてしまう。
でも、それをハンカチで拭うことはせず、その心地良さに身を任せながら、これまでの人生を振り返った。
大して長くもないが、ほんと味気ない人生だ。全てが親の言われるがままだった。
自分で未来を選択したことなど、果たしてあっただろうか。いや、きっと無かったはずだ。
何時だって、俺は誰かが教えてくれるリスクの少ない方へと逃げてきた。
唯一言えたわがままといえば、東京ではないところで働きたいということだけか。
だが、その自ら望んだことであるそれさえ、今は満足に貫けずにいた。
「ったく、情けないな」
ああ、もうくよくよ考えていても仕方ない。
今ここにいる以上、仕事にはどうしたって戻れないのだ。
同じところをぐるぐる回る思考に溺れていても、ネガティヴになるだけだ。
なら、いっそのこと現実なんて忘れて、今日くらいは楽しんでしまいたい。
俺はそう決意すると、ベンチから立ち上がった。
まだ半分ほど残っているペットボトルはカバンの中に突っ込む。
代わりにポケットから小銭を取り出すと、すぐ近くで売られている鹿せんべいを購入してみた。
無愛想な老婆から毎度あり、の言葉を背に早速鹿に近づいてみる。
鹿は人に慣れているのか、警戒する様子もなく、むしろあちら側から更に近寄ってきた。
よっぽど腹が減っているのか、鼻をヒクヒクと動かして、俺の手元から目を離さない。
恐る恐るせんべいを差し伸べると、鹿はすぐにせんべいに食いついて来た。
それどころか、俺の手までしゃぶりつくさんとする勢いである。
「おっ、おいっ!」
指を咥えられそうになって、俺は慌てて手を引っ込めた。
それでも鹿は飽き足らないようで、残るせんべいのある左手に鼻先を向けてくる。
いつの間にか他の鹿も集まってきていた。
「ちょっと、止めろって! せんべいちゃんとやるからさ!」
鹿というのは意外に大きい。
むしろ、デフォルメされたキャラクターからは想像できないほど、結構逞しいのだ。
俺はテレビのドキュメンタリーで野生の鹿がツノを突き合わせているのを不意に思い出して、軽い恐慌状態に陥る。
思わず鹿せんべいを放り出すと、鹿はそこに争うようにして首を突っ込んだ。
俺はその間に大慌てで鹿から距離をとった。
「うわぁ、ヤバかった」
鹿から解放されて、俺は安堵のため息を吐く。
知らず知らずのうちに、汗でびっしょりだ。軽くトラウマになりかけたかもしれない。
汗を拭くためにハンカチを取り出すものの、それは既にここに来るまでの汗でびっしょりだった。
正直、使い物になりそうにない。
全く、災難だ。
俺がそう思い、俯いていると、ふと目の前に誰かが立つ気配がした。
そして、目の前には色とりどりの花模様が散りばめられた紫色のハンカチがすっと差し出された。
「はい、これ」
俺は驚いて、弾かれるように顔を上げた。
しかし、目に入った人物を見て、すぐに固まってしまう。
まず、目に入ったのは艶やかに伸びる黒く長い髪だった。
そして、黒曜石の如く輝く、綺麗な瞳。
真っ白な肌に、桜色の唇や少し高めの鼻は完璧なバランスでそこに配置されている。
スタイルも抜群で、白いワンピースがよく似合っていた。
まさに絶世の美少女、といっても過言ではない彼女は俺に向かってにっこりと微笑んでいた。
その表情にはまだあどけなさが残っていて、そこでようやく彼女が中学生くらいの年齢だと察する。
俺はその美しさのあまり、刹那呆然としてしまった。
とはいえ、彼女が俺よりも遥かに年下だと気付くと、何とか我にかえることが出来た。
そして、差し出されたハンカチを押し返す。
こんな綺麗なハンカチを俺みたいな奴の汗で汚すのはどうしても気が引けた。
「ありがとう。けど、いいよ。俺、クサイし。君のハンカチが汚れてしまう」
「あら、遠慮せんとって。ハンカチは汚れるためにあるんやから。使って貰わんと、ハンカチが可哀想やろ?」
彼女はそう言って、尚もハンカチを差し出した。
そこにあまりにも眩しい笑顔が浮かんでいるものだから、俺も断り辛くなって、ウッと呻く。
そうしているうち、俺はいつの間にかハンカチを手にしていた。
これは絶対に不可抗力である。
でもまぁ、受け取ってしまった以上は使わないわけにはいかず、少し躊躇いながらも流れ落ちる汗を拭った。
「ありがとう。助かったよ」
「良かったぁ。受け取って貰えんかったらどうしようって思ってた。お兄さん、鹿に襲われて災難やったなぁ。この子達、ほんと食いしん坊やから」
「ああ、驚いたよ。全く。軽くトラウマになりそうだった」
「ははっ、大袈裟やなぁ。にしても、お兄さんその口調……関東から来たん? シャツ着てるから、このあたりで働いてんのかなあって思ってんけど」
「ああいや、出身は東京だけど、今は大阪で働いてるんだ」
まぁ、もう直ぐクビになりそうだけど。と、俺は心の中で付け足した。
でも、そんなかっこ悪いことを言えるはずもなく、思わずそこで黙り込んでしまう。
少女もそんな俺の様子に何か訳アリなのを察したのか、それ以上の追求はしてこなかった。
代わりにおもむろに俺に向かって手を伸ばすと、手にしていたハンカチを引っ張った。
「汗は拭けた? なら、返してもらっていい?」
「えっ、でも汚しちゃったし」
「大丈夫やって。そんなん気にせんとって」
「いや、洗うよ。洗って、きちんと返す。君はそれでも大丈夫?」
「それは平気。なんなら、明日でも……って、お兄さん、大阪で働いてるんやった! しかも今日会ったばかりやのに! ごめんなさい。ウチったらつい……」
「あっ、いや大丈夫。来れるよ!」
申し訳なそうに言う少女に俺は気が付けばそう答えていた。
しかし、すぐに見ず知らずの少女に自分は一体何を言っているのだろうと気づいて、慌てて己の口を塞ぐ。
とはいえ、出てしまった言葉を取り消すことは出来ない。
俺は目を丸くする少女にもう一度、弱弱しい声音ながらも言った。
「じゃあ、絶対明日返すから」
「ほんまに? じゃあ、ウチの名前教えておくわ」
彼女はその場でクルリと一回転した。そして、悪戯っぽく、茶目っ気たっぷりに笑った。
「ウチの名前はナツキ。夏に希望と書いて夏希。ええ名前やろ?」