赤い点
吾輩は猫である。名前はまだない。
……という自己紹介は猫の世界ではもう古いらしいので、普通に言おう。
アタシはクロ。生まれたときから墨汁に浸されていたかのように真っ黒な毛並みなので飼い主からそう呼ばれている。
年は……多分人間で言うと17歳くらい。
これを言ったら嫌味に聞こえるかもしれないけれど、元々細身な上に真っ黒だから人間からも猫からもスレンダーに見えるらしく、外に出たら割とちやほやされる。正直鬱陶しい。
飼い主は作家である。
ある時期になるとこの世の終わりかってくらいにどんよりしてアタシを構ってくれない。
その代わり、その時期が過ぎ去るとあの暗黒期は嘘だったかのようにアタシに構う。そのときは大抵アタシがイライラしてるときだから全くもってめんどくさい。
アタシは思い通りにならないこの世間がとても好きになれなかった。
時々、どうして生きてるかさえも分からなくなる程だ。
もし神様がいるのなら、アタシの存在意義を教えて欲しい。
猫の分際でそんなことを考えていたのであった。
そんな真っ黒な日常に、
ある日赤い点が打ち込まれた。
飼い主が、「オマツリでキンギョスクイをやってきた」とかで、変なお土産を持って帰ってきた。
そこからはもう特急並の早さだった。
日当たりのいいベランダに変テコな形のガラスで出来た壺が置かれ、そこに水が注がれ、例のお土産を入れられたのだった。
あーあ、お気に入りの場所が……
そう思って見てると、中で炎のように赤く揺らめくのがあった。
何だろう。
……魚だ!!
アタシは食い入るようにその魚を見つめた。
こいつはいい食料になる。
頭から食べてやろうかな、それとも尻かな、いやいやここは腹かな、そもそもどうやって取って食おう……本能のままにじっと見ていると、あることに気がついた。
……なんだ、こいつ。
…………泣いてるのか……?
アタシは数秒前とは全く違う理由でその魚を見つめた。
橙混じりの赤い長髪が水で揺れている。
白い布に赤い絵の具を垂らしたかのようなワンピースに身を包み、彼女は泣きじゃくっていた。
「……おい」
思わず声をかけてしまう。
すると魚はびくっと軽く跳ね、隅に逃げようとした。
「だ、大丈夫だって!!食わねぇから!!」
アタシの声が聞こえたのか、魚は恐る恐る近寄った。
そして、小さい手をガラスにぴたっとつけてこちらを観察している。
真雪のように白くて、炎のように赤く、瞳は闇を映すかのように黒い。
「……綺麗だな」
思わず口にしたことに気づき、アタシは顔が熱くなるのを感じた。
それは相手にもガラスを通して聞こえていたようで、黒くて丸い目を見開き、照れくさそうににっこりと笑っていた。先程までその瞳から零れていた滴が、泡となって上へのぼり、消える。
ずっと見ているには眩しすぎて少し目をそらした。
すると、向こうから声をかけられた。
「貴女は、誰なのですか?」
アタシ。
アタシの、名前。
「……クロ」
不吉だと言われたこの毛並み。
単直すぎて誇るには至れない名前。
……だけど、
「いいお名前ですね」
彼女がそう言って微笑むからなのか。
今までとは違う、不思議な気持ちになった。
「……アンタは?」
「え?」
「アンタの名前だよ」
彼女は少し寂しそうな顔をしたあと、呟くように言った。
「……すみません、本当の名前はとうに忘れてしまいました。でも、同じ水槽にいた仲間たちからは“アカネ“と呼ばれていました」
「アカネ……か……いい、んじゃないかな」
アタシがそう言うと、アカネはまたぱっと笑った。
こうして、黒猫と金魚の不思議な距離感の生活が始まったのであった。