起
見てきた話は人魚姫の視点ばかりだったので、海の魔女を軸にしたものを書いてみたくなりました。
ただそれだけの小説です。
ルールリーゼの世界は海の中だけだった。
海の魔女の一族は、下半身が尾鰭の人魚と違い人と同じ足を持つ。目が赤く血が黒いこと以外は、地上に住むという人間と大差ない。
だが人魚とは違い、海の魔女は陸地に上がることなどまず出来ない。
そして上がろうとも思わなかった。
誰も好んでこないヒドラの森の先に、ルールリーゼの家はある。
深い海の底に、僅かに降り注ぐ日の光。舞い踊るマリンブルーが陽光を反射させてキラキラと輝く。
岩と珊瑚礁で出来た家は、貝殻で屋根を葺かした人魚の国の王宮とは違い、無骨だ。だが使い勝手の良いその家が、彼女のお気に入りだった。
蟇蛙に餌をやった後、ルールリーゼは近日採取してきた薬の材料を棚から取り出す。海草とウツボの死骸、シャコガイの殻を擦り鉢で混ぜ合わせ、混ざった物を釜に注ぐ。そして魔法の炎に釜をくべ、匙で掻き混ぜながら熱する。
罅割れたカンテラ越しに移る顔は、まだ若い女のものだ。直接日に当たらぬために肌は白く、腰まで伸びた髪は黒い。吊りあがった真紅の瞳は、彼女が海に住まう人外の中でも特に異端の一族である証。
洒落っ気のないローブ姿のルールリーゼは、額に汗を浮かべながら懸命に釜の中の薬を煮て行く。
「ルル!」
そうしていると、唐突に囀るような声がした。
「ルルー! 聞こえてるかなルールー!!」
何度も愛称で呼ばれる。多分こちらが答えなければ、彼女は呼ぶことを止めないだろうと、簡単に想像出来た。
「はいはい、そんなに呼ばなくても聞こえてるわよ……」
ルールリーゼは薬の調合に用いる実験器具を片付け、家の門へと向かう。
ヒドラの森を薄い珊瑚色の尾で水を掻き分け、家へと来たのは美しい人魚の少女だった。宮殿では大人しく物静かな娘らしいが、こちらのじゃじゃ馬ぶりが本来の性格ではないかとルールリーゼは思っていた。
「聞いて聞いて! 私、今日から地上に出ても良いって言われたの!!」
渦巻きの真ん中を通り抜け、熱く泡立つ泥とヒドラの森を進んできた彼女、マリアンヌは八匹もの牡蛎を噛み付かせた尾鰭を振りながら、笑う。
殺風景でおどろどろしい森の中に、色鮮やかな花が咲いたかのようだった。
だがそんな笑顔を向けるマリアンヌに対する反応は、淡々としている。
「あぁ、成人式を迎えたの……だから今日はめかし込んでるのね」
普段より豪奢なマリアンヌの姿を、ルールリーゼは改めて見つめた。
白百合の冠が映える、緩く波打つ淡い金髪。穢れを知らぬ海色の瞳。うっすらと赤く染まった頬……。
可憐という言葉が相応しい容貌を持つ彼女は、人魚の国の末の姫君だった。どれだけ身分が高くても六匹までしか付けられぬ筈の牡蛎を、二匹も多くつけているのはそのためだ。
「毎度見てて思うんだけど……痛くないの? 牡蛎」
「うーん……痛いし邪魔だしけばけばしいから除けたいんだけど、お母様に『これはお前の立派な身分の娘である証ですよ』って言われて。それで外すに外せなくなっちゃって、そしたら慣れちゃった」
「身分が高いのも大変ねぇ……まぁ、良かったわね。許可を貰えたみたいで」
「うん!」
牡蛎の話で浮かない顔は、あっという間に好奇心で輝く。
「今まで駄目って言われてたけど、もう平気! こっそり行っても怒られないわ!」
「ふぅん、そうなの」
「陸はどんな所なのかしら? キラキラしてるのかな? 賑やかで楽しいのかな? 考えるだけでワクワクしちゃう」
末の姫は姫君の中でも一番の美人という噂だが、変わり者ということでも評判だ。
海の国に住む者は、基本的に陸地を嫌う。戦を起こし大地や空気だけでなく水を汚す人間に、干渉することを嫌がる。人間の作り出す芸術品に興味を示しても、人間自体に好意を持つという人魚は、少ない。
その数少ない一人であるマリアンヌは、嫌われ者の魔女一族であるルールリーゼに臆することなく『友』と呼ぶ。その辺りもやはり、変わっている。
「ねぇねぇルル! 折角だからルルも一緒に陸を見にいかない?」
「無理よ。何度も言ったでしょう……私達海の魔女は、陸地の穢れた空気を吸うと喉が焼け爛れてしまうって」
ルールリーゼは水の上を見つめながら告げる。
かつて、彼女と共に難破船に行った時にも同じやり取りをした。美しい少年を模る大理石の像を撫でながら、マリアンヌは「ルルも地上に行ってみない?」と言った。
ルールリーゼはその言葉に首を振った。マリアンヌは好意で言ったのだろうが、海の魔女にとって地上に上がるということは自殺行為にしかならない。
「昔は問題なかったらしいけど、今はもう駄目。きっと人間が大気を汚染しているせいでしょうね」
「う~……ルルの話は難しくて分かりにくいけど、ようするに駄目なの?」
「駄目。陸地のことなら、いつものようにあなたの話を聞かせてもらうから」
ルールリーゼは毎度お馴染みとなりつつある言葉を振り、マリアンヌを家へと招く。
彼女にお菓子を振る舞い、お茶を啜りながら話に花を咲かせ、その後は末の人魚姫を森の外へと送る。
「いってらっしゃい」
「行ってくるね! お土産話、楽しみにしていて!!」
――――数日後、家へやって来た彼女はどこか上の空だった。
はぁ、とため息がまた耳朶を打つ。
普段のお転婆ぶりはどこへやら。ここ最近のマリアンヌは何度も吐息を零して、波打つ金髪を指先で弄ぶことが多くなっていた。
するとまた、大きなため息が一つ。
「……あなた、一体どうしたの?」
さすがに彼女の様子が気になり、本のページを捲る指を止める。
「何か悩んでいることがあるなら、相談に乗るわよ?」
「……うん、あのね」
問うと、以外にもあっさり答えてくれる。
そして彼女は、人間の男に恋したと語った。成人を迎えて陸に出たとき、難破した船に乗っていた彼を助けた際、一目惚れしたらしい。
「本当にステキな人だったの。格好良くて、優しくて……物陰からこっそり見ているうちに、好きになっちゃった」
「…………マリアンヌ、先に言うけど。あなたのその行動、陸地ではストーカーっていうのよ」
岩陰からこっそり男性を覗き見る人魚の姿を想像し、ルールリーゼは顔をしかめながら告げる。
だが恋する乙女には、これっぽっちも聞こえなかったらしい。
「あぁもう、あの人に面と向かって会いたい。お話して、一緒にどこかへ出かけて、結婚したい」
「異種族だから難しいと思うわ」
革張りの本を撫でながら告げる。
異種族同士の恋愛は人の世では好まれるようだが、それは創作。物語の中での話だ。実際に異種族を受け入れる者はそうそういない。
と言えば、マリアンヌは唸った。
「そう、そうなのよ。お婆様にも同じ事を言われたわ! なんで私は人魚で、あの人は人間なんだろう……!」
人魚姫はテーブルにしばし突っ伏し、呻く。
だが彼女は思考を止めない。すぐさま可憐な顔を起こし、尋ねる。
「ねぇ、ルルって海の魔女なのよね。なら、人間になれる薬って作れない?」
「作れるけど……私の作った薬じゃ、三日くらいで効果が切れるわよ」
海の魔女は依頼主から代償を奪う代わりに、願いを叶える薬や道具を作ることが出来る。
しかしそれは一人前の魔女での話。日々書物を読み、薬の研究を行うルールリーゼはまだ半人前だ。その効果には刻限がある。
「本当の意味で人間になりたいなら、私より大婆様に頼んだ方が良いわ」
「そっか。……ルル」
「はいはい。大婆様の場所まで案内して欲しいんでしょ?」
どうせ暇だし、とルールリーゼは腰を上げた。
海の魔女はヒドラの森に住む。それは仮に王宮の者たちが攻めてきた時、撃退するのに都合が良いからだ。
「気をつけてね。大婆様の森のヒドラは、とりわけ獰猛だから」
先にそう告げてから、ルールリーゼは半ば植物で半ば動物で出来た森林に足を踏み入れる。
マリアンヌはルールリーゼの所よりも恐ろしい森に立ちすくんだが、それでも後ろを付いて来た。
水草に生殖するヒドラたちは、細長い体に幾つもの触手を持つ。体と触手には吸盤が生え、口がある。彼らはその吸盤で獲物を捕らえて食べるのだ。
そして大婆の森のヒドラは、既にその小さな手でたくさんのものを捕らえていた。船の櫂や人間の骨、大きめの木箱。餌食になったものは様々だが、とりわけ恐ろしいのは若い人魚の娘が絞め殺されていることだろう。
ルールリーゼたちは森を越え、ぬかるんだ広場に到着する。
目の前に経っているのは、一軒の家。難破して命を落とした人間たちの骨で作った建物に、大婆は住んでいる。
「大婆様、いらっしゃいますか?」
「あらルルかい……扉は開いているから入っといで」
促され、二人は家の中へと入る。
魔女の一族の長たる大婆は、丁度口移しで蟇蛙に餌を与えているところだった。彼女は深い皺が刻まれた手で杖を突き、曾孫と客を迎え入れる。
「おんや、人魚の国のお姫様も一緒かい」
「ええ。今日は彼女が大婆様に頼み事があるらしくて」
「そうかいそうかい。……ルル。あんた、アタシの代わりに餌をやっときな。アタシはこのお姫様と話をするから」
「分かりました」
ルールリーゼは言われた通りにした。
餌やりをしてから数時間後、家からマリアンヌが出てくる。彼女は澄んだ水のような薬の入ったガラス瓶を抱き締め、微笑んでいた。
「あら、薬を作ってもらえたのね。良かったじゃない」
そう声をかけると、彼女は微笑みながら首を縦に振る。
……それで、彼女が声を代償にしたということが分かった。
普段は喧しいと思っていたあの元気で明るい声を、もう聞くことが出来ない。そのことにズキリと、胸が傷むような寂しさを覚える。
それでも幸せそうに笑むから、ルールリーゼは「良かったわね」と再び言うだけに留めた。
彼女は薬を貰ってすぐ、地上へ上がる予定らしい。
マリアンヌはお城へ投げキスをし、ルールリーゼを抱き締めた後、青く澄んだ海を上へ上へと泳いでいった。
ルールリーゼは、その姿に何も言わず少女を見送った。
どこか物悲しい風が、穴の空いたような胸を通り過ぎるような心地で。