子供を子供扱いして何が悪い。
子供扱いしないでよ、と彼女は秋正の手を払った。
お前が仕える主だ、と引き合わされたお嬢様は、秋正の知る女児とも世のお嬢様とも全く違った。
負けず嫌いでおてんばで、気位ばかりが高い子供。というよりは、警戒心の強い獣の様。満たされた事の無い目で、野良猫みたいに世界全てを敵だと睨んでいた。
枯れ木の様にやせっぽちで、小さな身体。虚弱で育たぬひよわな子供。だが、懐かぬ猫はとにかく秋正に牙を剥く。牙を剥いて威嚇し、爪を立て、噛み付く。
ひよわな子供は世間知らずの温室の花だ。幼稚園すらまともに行けぬ身体であり、実際は前述の通り、睨んだり手を払ったり言葉で噛み付く程度。喧嘩の仕方すら知らない。知っていても体力も腕力も無い子供には無理だっただろう。
「子供を子供扱いして何が悪い」
秋正もまだ十歳、五歳年下で虚弱体質の、しかも主家の子供とは言え、一人では何も出来ぬ子供の世話を焼き四六時中側で喧嘩を売られ続けられては腹が立つ。敬語も抜ける。
五歳年上相手でも、当時からやや仏頂面であった秋正が不機嫌に目を眇めても子供は怯まない。却って同じ冷ややかさで見据えて来る。
「ひとりであるけます」
「まっすぐに立てもしないくせに」
睨まれても腹を立て続ける事が難しい程、子供はひよわだった。あおいかおをして、歩くどころか立っているだけでふらふらと身体が傾ぐくらい、その時は具合が悪かった。
春に庭が姿を変え、蕾を付けた花を眺めていただけなのに。厚物を着てちゃんとショールも羽織っていたのに。少し冷たい風に当たったら、もう咳をして、すぐふらつき出す。
秋正は四六時中側に居る世話役である。大体この後の展開が予想できた。これは寝付くな、部屋に帰るまでに倒れるパターンだ、そう思って抱き上げたら、子供は猫の様にむずがった。
「大人しく抱かれろ」
「ひとりであるけるといってるでしょう! こどもあつかいしないでちょうだい! だっこもおんぶもいりません!」
癇癪を起こして秋正が伸ばした手をぺちりと叩き落とす。子供の沸点は低い。そして、具合の悪い場合、激情は大抵体調を更に悪化させる。
ぐらりと頭の大きなバランスの悪い身体が傾ぐ。支えると、秋正を不興げに睨む。こんな状況ですら、と秋正は溜息を吐いた。
「お嬢様」
呆れも苛立ちも一旦脇に置き、秋正は平坦な声音を出す。勉学やマナー等を教える時の父を思い出し、恭しく、そして厳しく。
雰囲気を変えると、子供は怪訝げに秋正を見る。そこに怒りはない。
子供の頭は単純で、目の前の物事に捕らわれやすい。まして、今子供は具合が悪いので尚更だ。
宜しいですか、お嬢様。と秋正は父がレッスンを始める時の言葉を口にする。
「淑女は声を荒げるものではありません。そして、公式な場では男にエスコートされなくてはなりません」
子供のぐらぐらする身体を離して、この様に、と秋正は小さな手を取り己の腕に掛ける。支えを失った身体はぐらつき、しかし、袖をギュッと握る。本来はそっと手を置くだけだが、まあいい。これはただの茶番だ。
秋正は宜しいですと頷いて、では次に、と子供の目を見る。
「エスコートする相手は案山子だとでも思いなさい。貴方はその半歩後ろをしずしずと歩く」
身長の違う子供に身体を傾けながらゆっくり歩き出すと、子供は秋正の袖を掴んで歩き始める。しずしずとではなく、よたよたと。
具合が悪いのだ、こんなものだろう。
だがレッスンの体を装えば、負けず嫌いの子供は手を振り払いはしない。
「さあ、あごを引いて。背はまっすぐにピンと伸ばす。頭のてっぺんを糸で上から吊られていると思って下さい」
熱い背に触れても怒らない。
「宜しいですか。べったりくっついてもいけませんが、離れ過ぎてもいけません」
軽く引き寄せてみても、噛み付いては来ない。
まだかおがあおい様だが、子供の身体は熱い。部屋までもたないな。
そう思ったが、子供は部屋までは頑張った。ドアを閉めて、すごいな、と思ったら糸の切れた人形の様に倒れたので、ベッドに運んで執事長である父に報告に行った。
熱発の対処は、熱の高さにより異なる。そもそも発熱とは体内に入った病原菌や細菌などの増殖を防いだり、免疫機能を上げるといった、身体が病気と戦う正常な反応なのだ。
故に、熱が出たからとむやみに冷やしてはいけない。だが、パソコンと同じで脳は高熱に弱い。三十八度を越したら解熱剤を呑むべきだ。
が、子供は甘いものは好きだが辛いものや苦いもの、すっぱいものが嫌いなものである。
四十度近い朦朧とした目で、苦い薬は嫌だとごねる。
潤んだ目は果たして熱による生理的なものか、苦い薬を呑む苦行を思ってなのか。
こうなると理を説いても通らぬただの子供だ。
だが、理は通らずとも本能を擽る事はできる。秋正はわざとガサガサ音を立てて、傍らに隠していたラッピングを解く。
薬は嫌だと背を向けていた娘がのろのろと振り向き、常の険の無いぽうっとした目が秋正の手元を見る。
兎型をしたマスコットの付いた留め具を外し、虹色に透けるビニールを解いて、色とりどりのセロファンで包まれた、小さい丸や三角や四角いもの。
なあに、と問う目をするから「飴だ」と答える。
一つを解いて秋正は口に含む。コロコロと口の中で転がすと、子供がやや物欲しそうに秋正の手元を見た。
粉薬の包みに兎のマスコットをくっつけて差し出すと、おずおずと小さな手を伸ばして来る。
ふわふわの兎を細い指でなぞって確かめ、モフり、キュッと口を結ぶ。苦い薬は嫌、とその目が言っている。だが、秋正の手元を見、己の手の中にある兎を見て、身体を起こしベッドヘッドに凭れ、意を決した様にギュッと目をつぶって薬を呷る。まるで毒でも呑む様だが、繰り返すがこれは薬を呑んでいるのだ。
だが、辛さとはそもそも痛覚だし、自然界において酸味は腐敗を指し、苦味は毒を指していたので、それを好んで口にする様にした最初の人間は相当な変わり者だったのではないか。そして周りをこうやって懐柔していったのかも知れない。そうした事に照らし合わせるなら子供のこうした反応は本能による防衛反応で、至極当然とも言える。
苦い、と目を潤ませるのに、こんなの平気だ、と無駄に強がってみせるあたりはよくわからないが。
包みを差し出せば、迷う指が緑色のセロファンを摘み、四角い飴を口に含んだ。
子供の頬が緩むのは、こんな時くらいだろう。この子供は甘い菓子が好きだ。なのに、素直に喜びはしない。こうして虚勢を張れぬ程不調な時くらいにしか、笑いはしない。
が、それを口にすれば子供は怒り出す。じろじろと見てもいけない。面倒な生き物である。
だから身を横たえさせきちんと布団を被せて、枕元に飴の包みを置き、空のグラスと空の薬包を片付けに秋正は子供の部屋を後にする。
戻ると、子供は眠っていた。いや、うなされていた。
額に載せたタオルを氷水で固く絞り、涙を拭ってやると、いやいやをする様に首を振る。
秋正が熱い手を握ると、子供はぼんやり目を開ける。潤んだ目から涙がこぼれた。
「しぬの……?」
不調は子供を気弱にさせる。腫れた喉からしわがれた声が出た。三日も高熱が続いている。弱るのも当然かも知れない。
顔を冷たいタオルで拭い、布団に手を差し入れ子供の身を起こしてやり、吸い呑みから湯冷ましを飲ませる。
夢と現の間にいる子供は秋正の手を拒まず、悪態を吐く事もない。だが、薬を飲んだ時よりも喉が腫れているのか、ゆっくり飲ませても何度かむせた。
咳込む背をさすっては飲ませ、少しずつ喉を潤してやる。
「つめたいつちのなかにうめられる?」
ぎゅうっと小さな指が離れていく秋正の袖を握り、ガラガラの声が小さな身に余る不安を溢れさせる。
子供は『死』というものを少しだけ知っていた。
「人はみんな死ぬ」
干からびた唇がわなないて、しゃっくり上げる。
「聖書にはこう書いてある。『時と予見しえない出来事は彼ら全てに臨む』。事故や天災や病気は、いきなり襲ってくる。誰にも避けられない。だが、『死んだ者には何の意識もない』『彼の考えは滅び失せる』とある。死は夢を見ない深い眠りだ。イエス・キリストが親しくしていたラザロが死んだ時、イエスは初め『ラザロは休んでいる』と言った。その後『ラザロは死んだ』と言った。死は眠りだ」
怖いものじゃない、と涙でぐちゃぐちゃな顔を冷たいタオルで拭ってやり、自力で起きられず秋正に凭れかかっている身体を横たえさせる。
「ゆめ、みないの?」
まだどこか不安げながら舟を漕ぎ出す子供が眠りに抗って問う。何がそんなに気に掛かるのかわからないが、秋正は頷く。悪夢も見ない深い眠りの様なものだ。
「アキマサも、いない?」
握られ過ぎてしわだらけの袖を子供はまたギュッと掴む。
何か不可解な事を聞いた。と秋正は思った。
だが、泣き腫らした目はいつの間にか閉じ、先程とは違う健やかな寝息だけがひび割れた唇からこぼれるだけで、顔を拭いてやりながら、さっきのはただの聞き違いだろう、と秋正は思う事にした。
*
「背をお貸ししましょうか、お嬢様」
ふらつきがちな主の血色が良いというより赤いかおを見て秋正は言った。
気を付けていても、本当に、冷たい空気に少し触れたくらいで直ぐ体調を崩す虚弱である。
自宅の庭で花を眺める事すら、満足に出来ない。日差しが暖かいのでもう少し大丈夫かと秋正がハーブの世話に目を離した隙に風邪を引くとは。
「要らないわ。子供扱いしないで頂戴」
あれから十年経って丸くなるどころか、炯々とした眼差しは冷たく冴えて、野良猫などではなくなってしまった。
「それは失礼致しました。レディ、お手をどうぞ」
恭しく頭を垂れて、手を差し伸べる。
「……何のつもり」
鼻白むお嬢様に、お部屋までエスコート致します、と秋正はこたえる。
「エスコート役は皆ただの案山子です。お気遣いなく」
「お前が、カカシ?」
奇妙な事を聞いた、と言うように眉をひそめ、それから頷いた。
「部屋までならお前の戯れに付き合ってあげなくもないわ」
可愛くない言い分を吐いて、秋正の手に熱い手が載る。
茶番だ。お嬢様もそれは解っている。
だが、虚勢を張る生き物なのだ、これは。だから仕方ない。
口実を作ってやる。そうしてお嬢様が妥協するなら秋正の勝ち……ではなくとも痛み分けだ。
お嬢様の足元や歩みに気を配りながら部屋まで連れて行く。
段差がある場所などで足元に注意を促すと、「知っている」「子供扱いしないで頂戴」しまいには「お前の声は耳障りよ。カカシがしゃべらないで」と怒られた。
「ナビゲーションシステムです」
しれっと言ってやると、呆気に取られたのか、キョトンとしたかおになる。
「口の減らないカカシね」
ぷいっとそっぽを向かれた。
だが場所が悪い。階段で足元不如意な人間がそんな事をすると、落ちる。まあ、踏み外したお嬢様を支えるのは簡単だが。体格も貧弱なら、見た目を裏切らない軽さ。
咄嗟に秋正の腕にしかみついていたお嬢様が我に返る前に、秋正は身体を離してさっさと階段を再び登り出す。うやむやにしてしまうのが一番楽だ。不毛な口喧嘩は果てがなく、馬鹿らしい。
背中を睨まれている気配はしたが、秋正は一切振り返らなかった。
部屋に着くと、お嬢様はふらふらとソファに座った。熱は微熱だが、少し喉が腫れている。この娘は喉が弱い。咳もしていて、熱が上がりそうだ。
「お薬をお持ちしますが、眠れる様でしたら横になってお休み下さい」
奥の寝室を見たお嬢様は首を振る。
「眠れる気がしないわ」
早く薬を持って来なさい、と追い出されて、秋正はかしこまりましたと部屋を出た。おそらくさっきの失態を悔いているのだろう、そっとしておこう。
薬の他に、花を添えたゼリーを用意する。冷たい物は良くないので、寒天やアガーなど冷やさなくても良いものを予め作ってある。常備しておくとこういう時に便利だ。勿論薬との相性もあるのだが。
部屋に戻りノックをしても返事が無い。
「失礼致します」と手押しワゴンを押して中に入ると、お嬢様はソファで寝ていた。
辛いならベッドで寝ろ。
「お嬢様」
薄い肩を揺すると、瞬く目から涙がこぼれた。
熱を出しても最近は泣かなかったのに。
「どうした?」
「……が、居なくなってしまう」
何だか酷く悲しい夢を見ていたらしい。
ぼろぼろ涙をこぼして泣くから、小さな子供にするつもりで頭を撫でてやる。
ふと泣き止んだお嬢様は、ゆるゆるとかおを上げた。キョトンと瞬いて、何で居るの、と呟いた。
「何を、しているの、お前……」
何が起こっているかわからない、というかおをする。どうやら漸く目が覚めたらしく混乱している様だ。
「お薬をお持ちしました。召し上がられますか?」
手を引っ込め何も無かった事にして、秋正はワゴンからテーブルに薬と水の入ったグラスを載せる。
「……頂くわ」
お嬢様も、何も無かった事にしたらしい。
薬を見て、ワゴンに載ったゼリーを見て、お嬢様はやや口元を引き攣らせつつ薬を呑む。相変わらずお菓子が控えていないと薬が呑めない困ったお嬢様だ。
空のグラスと薬包を下げ、代わりにゼリーの皿をテーブルに載せる。毒見で少し欠けた部分をうらめしげに見ながら、お嬢様はキラキラしたゼリーをスプーンで掬い、それが震える様に僅かに口元を綻ばせた。
それを見てから、彼女付きのメイドに吸い呑みとグラスを載せた銀トレイと、氷水の張った盥、タオルを渡し、秋正は部屋を後にした。
――アキマサも、いない?
聞かなかった事にしたあの言葉が、不意に耳の奥に蘇る。
懐かぬ猫が気まぐれに擦りよって来ただけ。
秋正は、再びそれを聞かなかった事にした。