失神と覚醒
ヘイゲンスの物語を語るなら、7歳になった頃から始めるのがいいだろう。
人によっては、家庭教師が来た頃というかもしれない。
あるいは、物心ついたころというのかもしれない。
あるいは、あるいは、産まれたときからというのかもしれない。
でも、私は先ほど述べたように7歳になった頃が一番だと思う。
なんといっても、彼の人生を左右する出会いがあったのだから。
では、長くもなく、短くもないが、夢に向かって必死に歩き続けた男の話を始めるとしよう。
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ヘイゲンスが7歳になった頃、彼は一人だった。
5歳になる頃家に来た”先生”が、いなくなった途端、彼の周りから大人が一気に去っていった。
幼心ながら、自分ではなく自分の力が目当てで笑いながら話しかけてくる大人が気持ち悪かった彼にとっては願ったり叶ったりではあったのだが、”先生”もいなくなったのは寂しかった。
ある日現れた”先生”は、彼に魔法のすごさを刻み込んで、しかし、彼に芽が出ないと分かると去っていった。
幼くして大人に囲まれていた彼には、同年代の友達はいなかった。というか、近寄らせてもらえなかった。村の子供たちも、なんだか目立っているヘイゲンスに興味を持っていたのだがいつも大人が側にいて、近づけば邪険に扱われたので自然とヘイゲンスとは関わろうと思わなくなってしまっていた。
農夫である家族は、家業に忙しくまだ働けないヘイゲンスに構っている余裕も無かった。
結果、”先生”がいなくなり、大人がいなくなり、子供たちは近づいてこず、家族が忙しい彼は一人だった。
家には、面白くも無い大量の魔導書とちょっとは面白い絵本……のふりをした魔導書くらいしかなかった。
ヘイゲンスからすれば、おもちゃが欲しかった。
しかしながら、貧乏でこそないものの、裕福でもない農家には望むべくも無く。兄たちが使っていた、木彫りの人形なども、人形?と疑問符がつく位くたびれはて、それで遊ぼうとも思えなかった。
しかたなくではあったが、すでに魔法には魅せられていたヘイゲンスはちょっとは面白い絵本のふりをした魔導書を毎日一人静かに読むのであった。
特に治安が悪いでもなく、家には鍵もかかっておらず外に出るのも自由だった。ヘイゲンスも、天気がよければ外に出ることもしばしばあった。
しかし、同年代と遊んだこともない彼はどう遊べばいいかもよく分からず、結局は魔導書を片手に外を歩き、いい感じの日陰を見つければ、そこで夕方まで魔導書を読みふけるのみであった。
◆
この日も変わらず、天気がいいのでヘイゲンスは外に出た。
「西にしようか……、東にしようか……」
彼が住む村は東西を横切るように街道が通っており、街道沿いであればそこまで危険な動物や魔物は出てこなかった。
村事態は名前など特に無く、しいて言うなら村の領主であるハドイン家であることから、ハドインの村とでも呼ばれていた。これは村に限らず、規模の小さな町もそこを収める領主の家名でよばれることが大多数であった。
規模が大きい町や、領主という存在が来る前からある町は名前はあるものの、国名も国主である王などの家名もしくはそれに準ずるものとなっているので、それにならったとも言える。
村はパガーニ辺境伯の領地内にあり、50年ほど前に開拓してできた村である。そのため、村全体としてそこまで老齢のものおらず、またまだまだ開拓できる土地もあるため積極的に住民の受け入れを行っていた。
それでも、現在村の人口は70を超える程度で、農夫も家もヘイゲンスの家と、あと2家族といった感じである。
ハドイン家の現当主である、ヤンヴォルフ・ハドインは二代目であり息子が二人に、娘が一人である。貴族として最下級の騎士家であるが、開拓に手を貸し尽力したことと、ヤンヴォルフの戦働きの結果、先代から領地持ちとして認められた。
先代も、ヤンヴォルフもどちらも武家の家であり、領地経営が得意というわけではなかった。しかし、害獣・魔物の被害時には率先して討伐に乗り出し、怪我や病気を負ったものがあれば薬なども分けていたので村民からは慕われている。
長男が現在21歳で、パガーニ辺境伯の直轄地にある騎士団に所属している。また、次男は12歳で家にいる。
15歳で成人とされるこの世である。騎士の家であれば、成人を迎えた長男は当然どこぞの騎士団にすぐに所属しある程度の箔をつけ戻ってくる。しかしながら、ハドイン家は少々特別で15歳を迎えた翌日から3年間の旅に出される。これは、領地を持つ前からの恒例行事で市井の生活を見、感じ、味わってくることを旨としている。
同行するのも二名のみなので、旅の途中死ぬ者も少なくなかったが、帰ってきたものは逞しさが身についてくるので武家であるハドイン家では続けられていた。
長男はたまたま、旅の途中金銭を稼ぐために護衛の仕事をし、その武が認められ若くして騎士団の中隊長の位置についている。
長女はヘイゲンスの1歳上の8歳でお転婆という言葉が良く似合う娘である。淑女などどこ吹く風といったように礼儀作法の家庭教師を撒き、村の子供たちと泥だらけになりながら野を駆け回っている。
話がそれたが、ヘイゲンスは今日の読書場所を東に求め、街道沿いを魔導書片手に歩き出していた。1時間ほど歩いた頃であろうか、道の先から子供が二人泡を食って走ってくる。
普段なら、なんとなくヘイゲンスを避けて通る彼らは今日はまっすぐに走り、そして去っていった。
どうしたものかと、ヘイゲンスが彼らが来た方向に向かってみると件のハドイン家の長女が倒れていた。
見ればその右腕にはニードルラビット――頭に角の生えたウサギ――の角が刺さっており、傍らには角の無いニードルラビットが横たわっている。
右腕からはいまだに出血を続けており、このまま行けば死ぬことは確実と思われる。
人が目の前で死ぬかもしれない事態にヘイゲンスは、おおいに動転した。まず、どうしたらいいのか分からず、彼女の周りをうろうろとしていた。
当然、その間も出血は続いており彼女の肌はだんだんと青ざめてきていた。
このままではいけない。
助けなくちゃ。
どうしたらいいのか、分からない。
どうにかしなくちゃいけない。
助けなくちゃ。
自分に何が出来る?
大人を呼びに行く?
もう、子供たちが走って行ったし、そんなに自分は走れない。
助けなくちゃ。
なにができる。
助けなくちゃ。
どうしたらいい。
助けなくちゃ。
10分ほどもうろうろしていた結果、彼は自分の右手に持っているものを思い出す。絵本のようではあるが、魔導書である。
当然、中には初歩も初歩ではあるが魔法の詠唱がいくつも載っている。
その中に、怪我を治すと書いてある魔法を思い出し、急いで彼女の横に座り詠唱を行う。
魔法が発動すると、ほんの10秒ほどであるが出血が極わずかになる。
しかし、その結果を見ることなく、ヘイゲンスは彼女の作った血だまりにつっぷすように失神する。
ヘイゲンスは5秒ほどで目を覚ますが、ふらつく視界で彼女を見てみれば出血は止まっていない。
当然ではある。
初歩の治癒魔法である。詠唱こそ1小節でとても短いが、その分効果はせいぜい簡単な切り傷が直る程度である。
しかし、彼にはそれは失敗に見えた――実際には、効果のほどはおいておき成功はしていたのだが。
ヘイゲンスはまた、治癒魔法を詠唱して彼女にかけ、失神して、血だまりに倒れる。
そこからは、ひたすら治癒魔法、失神、覚醒、これの繰り返しだった。
何回も何十回も何百回も魔力不足による失神と覚醒を繰り返した。
頭には霞がかかり、視界ももやがかかったような状態で、見えるのは角をはやした彼女の真っ赤な右腕のみであった。
詠唱も何回もつぶやいたおかげか、覚醒と同時に始まるようになった。
助けなくちゃ。
ヘイゲンスの中にはそれしか、なかった。
自分のほうこそ、幾度とない魔力枯渇で土気色の顔をしながら覚醒と同時に見える赤を確認すれば詠唱をしていた。体には力が入らず、だんだんと口が回らなくなっていったが、それでも懸命に魔法を紡ぎ続けていた。
それが奇跡を起こしたのか、いつしか彼は詠唱をせずに治癒魔法を発動させていた。
しかし、いや当然ながら魔力枯渇による失神は変わらず起こっていた。
かれこれ1時間半も経った頃だろうか。
ヤンヴォルフと治癒魔法の使える――当たり前ながら、ヘイゲンスの使っているものよりも高度な治癒魔法である――従者が、騎馬で到着した。
もう、自分が何をしているかも分かっていないヘイゲンスは彼らには気づかなかった。
それでも、覚醒すれば、赤が目に入った。そして、瞬間的に治癒魔法を発動させ失神していた。
ヤンヴォルフも従者も、娘のことなどひと時忘れるほどそれは鬼気迫る光景だった。
狂気と言ってもいい。
まだ、年端もいかない子供が、自身のことなど省みず、全身を血で染め上げながら魔法を使っては失神と覚醒を繰り返しているのである。
しかし、そこは戦場にも出たことがある彼らである。
すぐに状況を思い出し、娘に駆け寄り治癒魔法をかけながらゆっくりと角を抜いていった。
一気に抜けばその分出血も多くなり、下手すれば命を落としかねなかったから、抜いた端から治癒させていったのである。
その間も、ヘイゲンスは治癒魔法を使い続けていた。
5分ほどかけて、角をぬいた彼女の右腕は傷一つ無い状態で回復していた。
腕からあふれる赤がなくなったからか、ヘイゲンスは魔法を発動させることなくそのまま失神した。