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敗走屋――最後に逃げる男

作者: 白川 透
掲載日:2026/10/18

敗走屋――最後に逃げる男



第一部 採掘場への道


採掘場へ続く正面搬出路は谷沿いに細く延びていた。


前を行く背中を数える。ガルド、レナ、ミア、ノア。それに俺で五人。


数は合っている。合っているのに、気づけばもう一度最初の背中へ目を戻していた。


「また数えてるな」


隣でガルドが笑った。重い盾を背負ったまま、息ひとつ乱れていない。


「数えてない。景色を見てただけだ」

「五回目の景色か」

「三回目だ」

「数えてんじゃねえか」


先頭近くを歩いていたレナが槍を肩に担いだまま振り返った。


「さっきから帰り道の話ばかりね、敗走屋さん」


棘のある呼び方だった。ギルドで顔を合わせたときから彼女はずっとこの調子だ。


顔合わせの席で俺の評判を聞いた彼女は、真っ先にこう言った。前の依頼で取り残された人を置いて真っ先に引き上げたというのは本当か、と。


本当ではない。全員を連れて引き上げたら、最後に引き上げたのが俺だった。それだけの話だ。だが、噂の尾ひれを一枚ずつ切って回るほど俺は暇でも几帳面でもなかった。


「取り残された人たちのところへ着く前から、逃げる心配?」

「心配してるのは逃げ道じゃない。帰り道だ」

「同じでしょう」

「違う」


俺は道の端にしゃがみ、結び目をつけた縄を地面に伸ばした。岩壁から路肩まで、結び目四つ半。


「伝令の話じゃ、怪我人がいる。歩けない奴は担架で運ぶしかない。前後に運び手が付いて、脇を護衛が歩くなら、幅はこれくらい要る」


縄を巻き取りながら続ける。


「ここは通れる。担架を二台並べたら、片方は谷へ落ちるけどな。行きのうちに見ておかないと、帰りに確かめてる暇はない」


レナが口を閉じた。納得した顔ではない。ただ、言い返す言葉を探している顔でもなかった。


「……そう」


それだけ言って、彼女は前を向いた。肩の槍がさっきより少しだけ低くなった気がする。


「ねえカイル、この棒、ほんとに私が持たなきゃ駄目?」


後ろからミアの不満げな声がした。背丈ほどある担架の柄を二本、杖のように抱えている。


「魔術師は手ぶらで歩くものなの。両手が塞がってたら、いざってとき撃てないでしょ」

「撃つ予定はない」

「予定は未定! 魔物が出たら、あの岩ごとどーんと――」

「駄目だ。作業員がどこにいるか分からないうちは、どーんは禁止」

「けち」


ミアの横をノアが音もなく追い越していった。路肩の石を爪先で軽く押し、体重を乗せてから次の石へ移る。


「ノア、どうだ」

「この辺は平気。でも、あそこ」


彼女が顎で示した先、谷側の路肩に細い亀裂が走っていた。縁の土がわずかに浮いている。


「荷車なら避ける。人なら問題ない」

「助かる。帰りにもう一回見てくれ」

「追加料金」

「偵察は契約に入ってるだろ」

「一回目は偵察。二回目は再確認」

「同じだ!」


ノアは聞こえないふりをして、また先へ行った。


この五人は今朝ギルドで寄せ集められた臨時隊だ。小型魔物を相手にできる腕と救助の心得がある者。条件に合ったのがたまたま俺たちで、指揮は年数と誰かの余計な推薦で俺に回ってきた。出発前に討伐より救助を優先すると決めたとき、レナは不服そうな顔のまま、それでも頷いていた。


腰の袋が歩くたびに重く揺れる。煙玉が二つ、縄が二巻き、添え木用の板切れと包帯。全部自腹で揃えたものだ。依頼が失敗すれば、俺の財布は確実に負ける。


「お前、また道具増えたな」

「減らす理由がない」

「財布が減ってるだろ」

「それは減らしたくて減ってるわけじゃない」

「逃げ道を任せるならこいつだ、ってギルドに言ったのは俺だからな」


ガルドが小声で付け足した。


「余計なことを」

「余計か? おかげで報酬が一割増しだぞ」

「その一割で担架を買わされたんだが」


道が大きく曲がると、谷の向こうに切り崩された岩肌が見えた。段状に削られた採掘場だ。


静かだった。働く者の声も、つるはしの音もない。


それから、風に乗って甲高い鳴き声が届いた。獣のものだ。一つではない。


その下にかすかに人の叫びが混じった。


「いるぞ!」


レナが真っ先に駆け出した。


「レナ、待て! 先に――」


言いかけて、やめる。彼女は闇雲に走っているわけではなかった。槍を低く構え、亀裂のある路肩を避けて、岩壁側を選んでいる。


俺はもう一度前を行く背中を数えた。四つ。それに俺で、五人。


「行くぞ。ガルド、レナの後ろへ。ミア、その棒は捨てるなよ」

「捨てないけど、恨むからね!」



第二部 救出と想定外


正面路の終わりは段々畑のように削られた採掘場の縁だった。そこから荷車用の坂が底へ向かってつづら折りに下っている。


レナの背中を追って坂を駆け下りながら、俺は目の端で周りを拾った。上段の岩場。底の資材小屋。その脇へ延びる細い枝道。図面にあった旧搬出路の入口はたぶんあれだ。


奥の岩壁が一箇所だけ大きく崩れていた。崩れた穴の向こうは暗く、底が見えない。掘っていた先が何かの巣に通じてしまったのだろう。


採掘場の底は砕けた岩と倒れた荷車で荒れていた。


鳴き声の主はすぐに見つかった。灰色の毛に覆われた、犬ほどの獣が七、八匹。岩鼬だ。鉤のような爪で地面を掻き、資材小屋の板壁に群がっている。


その手前で男が一人、つるはしを振り回していた。若い作業員だ。片足を引きずり、小屋の戸口から離れようとしない。後ろにまだ人がいるのだろう。


一匹が横から跳んだ。


男の顔が引きつるより先に、レナの槍が届いた。


穂先が獣の喉を貫き、そのまま払って地面へ叩きつける。抜いた勢いで二匹目の前脚を打ち、三匹目が怯んだ隙に、彼女は男と群れの間へ体をねじ込んだ。


「下がって! 戸口から動かないで!」


叫びながら、槍が回る。突く、払う、引く。動きに無駄がない。群れは彼女を越えて小屋へ近づけず、一匹、また一匹と岩陰へ散っていく。


正直に言えば、見とれた。俺があの群れに飛び込んでいたら、二匹目あたりで腕を噛まれている。


「ガルド、右を塞げ!」

「おう!」


ガルドの盾が小屋の右手に据わり、回り込もうとした岩鼬を弾き返した。ミアは担架の柄を抱えたまま、俺の後ろで目を輝かせている。


「今のは撃っていい場面だったよね?」

「小屋に人がいる」

「……分かってるってば」


残った群れが逃げ散るまで、長くはかからなかった。レナは最後の一匹が見えなくなるまで槍を下ろさず、それから若い作業員へ振り返った。


「怪我は?」

「あ、足を……さっき、落ちてきた岩で」

「座って。動かさないで」


突撃しか知らない女だと思っていたのは俺のほうだったのかもしれない。


彼女は男の脛を確かめてから立ち上がり、俺のほうへ歩いてきた。


「あなたは来なかったのね」

「行ったら邪魔になる。俺の剣はお前の槍の半分も届かない」

「認めるんだ」

「事実だからな。お前が群れを止めてくれたから、俺はこっちの仕事ができる」


レナは眉を寄せた。褒められたのか、言い逃れをされたのか、測りかねている顔だった。


「こっちの仕事って?」

「中にいる人間を外へ出す仕事だ」


戸口から髭面の男が顔を出した。四十がらみで、額に血の乾いた跡がある。手には泥で汚れた帳面を握っていた。


「冒険者か。ギルドから?」

「救助に来た。ここにいるのは何人だ」

「十二人だ。俺を入れて」


男は職長のドーランと名乗った。帳面は作業員の名簿だった。


「一人ずつ呼んでくれ。俺が顔を見る」


ドーランが名前を読み上げ、小屋の奥から返事が返る。かすれた声、震えた声、怒ったような声。俺は返事のたびに顔と怪我を確かめ、頭の中で数を足していった。


十人目で、返事が遅れた。


奥の壁際に横たわった年配の男が呻くように手を上げた。足首が妙な角度に曲がっている。


十一人目は戸口で座り込んでいる若い作業員だった。ティモ、と呼ばれて彼は気まずそうに手を上げた。


「十二人目、ドーラン。俺だ」


職長が自分の名前を読み、帳面を閉じた。


十二人。全員が返事をした。


俺は長く息を吐いた。吐いてから、自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。


だが、数が揃っただけだ。ここから全員を街道の集合所まで帰さなければ、何も終わっていない。


「歩けないのは?」

「ハンスとティモだ。ハンスは足首、ティモは脛をやられてる。あと二人、肩を貸せば歩ける」

「残りの八人は」

「俺を含めて歩ける。荷も担げる」


小屋の奥では作業員たちが不安げに身を寄せ合っていた。外の騒ぎが収まっても、誰も立ち上がろうとしない。


ガルドが盾を下ろし、戸口に腰を落とした。わざと大きな音を立てて。


「よし、聞いてくれ。外の鼬は追い払った。ここから先は俺たちが前と後ろを固める。あんたらは真ん中を歩くだけでいい。歩けない奴は担いでいく。置いていく奴は一人もいねえ」


声が太く、よく通る。作業員の何人かがようやく顔を上げた。


「腹が減ってる奴は? 手を挙げろ」


三人が手を挙げた。ガルドは干し肉を割って配り、自分も一切れかじった。


「帰ったら、もっといいもん食わせてもらえ。依頼主の払いでな」


小さな笑いが起きた。俺にはああいうことはできない。


八人歩けて、二人は介助、二人は担架。担架の柄は二組持ってきた。足りる。足りるが、担架を担いで正面路のあの亀裂の脇を通ることになる。


「帰りは正面路を使う」と俺はドーランに言った。「谷沿いに亀裂がある区間だけ、担架を一組ずつ岩壁側に寄せて通す。そこさえ抜ければ集合所まで下りだ」

「あの亀裂か。前から気にはなってた」

「人が歩く分には持つ。仲間がそう見てきた」


それが俺の最初の計画だった。道はある。人数も揃っている。あとは鼬が戻る前に動き出すだけだ。


念のため、もう一本の道も見ておく。


「ノア」


振り返ると、彼女はもう地図を広げていた。


「資材小屋の脇から旧搬出路。図面では狭い道と石橋を通って外の山道に出る」

「今も使えるか分からない。見てきてくれ。橋まで行って、戻ってこい」

「戻る前提ね」

「当たり前だ」


ノアは頷き、小屋の脇の枝道へ消えた。足音はすぐに聞こえなくなった。


俺は担架の組み立てに取りかかった。ミアから柄を受け取り、帆布を通し、縄で端を締める。ガルドが作業員二人に支え方を教え、レナは小屋の外で周囲を見張っている。


ティモを担架へ移すとき、彼は歯を食いしばって声を殺した。


「痛いなら言え。我慢されると、運ぶほうが加減を間違える」

「……痛いです」

「よし。正直でいい」


隣でドーランがハンスの足首に添え木を当てるのを手伝っていた。手つきが慣れている。現場で怪我人を何度も見てきたのだろう。


「すまねえ」と職長は低く言った。「奥の岩盤を掘り抜いた途端、こいつらが湧いてきた。俺の判断で掘らせた場所だ」

「謝るのは帰ってからにしてくれ。今はあんたの名簿が要る」

「……ああ」


縄の端を結び終えたときだった。


上で、何かが鳴った。


鳴き声ではない。岩が擦れる音だ。続いて、重いものが地面を踏む音。一度。間を置いて、もう一度。


採掘場の上段、段状に削られた岩場の縁で砂がこぼれ落ちていた。


「伏せろ!」


叫んだのと、それが降ってきたのはほとんど同時だった。


牛を二頭並べたほどの胴体。背と頭を覆う、灰色の分厚い殻。四本の脚は柱のように太い。


それが段を一つ飛ばしに滑り降り、採掘場の底へ着地した。


地面が揺れた。小屋の板壁が軋み、荷車が転がる。そして、来た道の方角から低く長い崩落の音が響いた。


振り向いた先で谷沿いの路肩がまるごと剥がれていた。


ノアが顎で示した、あの亀裂のあたりだ。道の縁が土煙を上げて谷へ落ちていく。土煙が晴れたとき、正面搬出路には人の背丈を何倍も超える幅の欠落が口を開けていた。


帰り道が、一つ消えた。


「岩殻獣……!」


ドーランの声が裏返った。名前があるなら、少なくとも知られた魔物だ。知られているからといって、助かる理由にはならないが。


獣が頭を巡らせた。小屋を見ている。人の匂いを嗅いでいる。


レナが動いた。


止める暇もなかった。彼女は小屋から獣の注意を逸らすように斜めに走り、左の前脚、関節の裏へ槍を突き込んだ。


穂先が肉に食い込む。獣が吠えた。


だが、止まらない。脚を振り上げた勢いで槍ごとレナを振り払い、彼女の体が地面を転がる。殻に覆われた頭が倒れた彼女へ向いた。


「ガルド!」

「分かってる!」


ガルドの盾が割り込み、振り下ろされた脚を斜めに受け流した。鈍い音がして、ガルドの膝が沈む。その間にレナが跳ね起き、二人で並んで後ずさった。


「ミア!」

「撃てない!」


ミアの声は悲鳴に近かった。杖の先に光を溜めたまま、彼女は小屋と獣を見比べている。


「この距離で大きいのを撃ったら、小屋ごと吹っ飛ぶ。レナとガルドも巻き込む!」


正しい判断だった。正しすぎて、何の救いにもならない。


獣が脚の傷を舐めた。浅くはない。だが、致命傷にはほど遠い。あれを倒すにはレナの槍があと何十回届けばいいのか。その間、担架の二人と介助の二人をこの小屋で守り続けられるか。


無理だ。


そのとき、散っていた岩鼬の一匹が岩陰から飛び出した。獣の注意が逸れる。巨体が意外な速さで首を振り、鼬を咥え込んだ。骨の砕ける音がした。


餌だ。あいつにとっては鼬も人も同じ餌だ。


散った鼬はまだ採掘場のあちこちにいる。獣はそれを順に追い始めた。数分は稼げる。数分しか稼げない。


「撤退する」


自分の声が思ったより落ち着いていた。


「討伐は無理だ。ここを出る。ドーラン、担架を持てる奴を四人選んでくれ。道はノアの報告で決める」


枝道の奥から駆けてくる足音が聞こえた。



第三部 逃げる仕事


ノアは息を切らしていなかった。ただ、額の汗を拭う手だけが速かった。


「旧道は通れる。小屋から橋まで、ざっと百八十歩。途中に岩陰の曲がりが二つ。最後の曲がりの先が狭い道で、その先が石橋」

「橋は」

「長さは十二歩くらい。人なら渡れる。でも手前側の橋脚にひびがある。一人ずつ、間を空けて。担架は一組ずつ。まとめて乗ったら保証しない」


都合のいい報告ではなかった。だから信用できた。


「向こう側は」

「山道に出る。そこから先は集合所まで下るだけ。崖は高いから、あいつは登れないと思う」


正面路は消えた。残る地上の出口はその石橋だけだ。


「決まりだ。旧道で出る」


俺が言うと、レナが槍を握り直した。獣の血が穂先に黒くこびりついている。


「あなたが本気で全員を連れ帰るつもりなのはもう分かった」


彼女は俺ではなく、採掘場の奥で鼬を追う巨体を見ていた。


「でも、倒さないで逃げて、追いつかれたら? 担架の人たちは走れない。どうやって守るの」

「それを今から考える」

「考えてないってこと?」

「考えてる途中ってことだ」


レナは何か言いかけて、口を閉じた。答えに満足したわけではないだろう。それでも彼女は獣へ向かって走り出さなかった。


ドーランの割り振りは早かった。


「ハンスの担架は、そこの二人。ティモはクルトと相棒で頼む。歩ける二人はそれぞれ一人ずつ肩を貸せ。俺ともう一人は交代要員だ。荷物は最低限。大きい工具は置いていけ」


作業員たちの顔に一瞬だけ迷いが走った。道具は職人の命だ。だが、誰も文句を言わなかった。


「冒険者は前と後ろを固める」と俺は続けた。「レナが先頭、ガルドが最後尾。俺とミアはその間を動く。ノア、先導を頼む」

「了解。料金は後で」

「分かったから行け」


入口の手前でガルドが作業員たちを振り返った。


「いいか。後ろで音がしても、振り返るな。振り返るのは俺の仕事だ。あんたらは前の奴の背中だけ見て歩け。それで帰れる」


誰かが小さく「はい」と返した。それが合図のように、列が足を揃えた。


「行くぞ」


列が枝道へ入った。


最後の一人が入ったのを見届けてから、俺はガルドと入口へ戻った。倒れた鉱石運びの荷車が一台、壁際に転がっている。二人でそれを起こし、枝道の口へ横倒しにした。その上に小屋の脇に積まれていた坑木を何本か投げ込む。


完璧な柵ではない。あの巨体なら押しのけられる。それでも、狭い入口で体の向きを変えさせるだけの手間にはなる。


最後に腰の袋から煙玉を一つ取り出した。二つしかないうちの一つだ。


「もったいなくない?」と、列の後ろからミアが振り返る。

「匂いを散らす。あいつ、鼻で追ってる」


導火線を擦って荷車の陰へ転がすと、灰色の煙がもうもうと湧き上がった。煙の向こうで獣が顔を上げた気配がした。


俺とガルドは列の後ろへ駆け戻った。


旧道は思っていたより暗かった。両側を岩壁に挟まれ、頭上には細い空しか見えない。足元は古い石畳で、ところどころが割れて段差になっている。


担架はゆっくりとしか進めなかった。前の担ぎ手が段差を越えるたびに、後ろの担ぎ手が腕を突っ張る。そのたびにハンスが呻いた。


「急がなくていい。転ぶほうが遅れる」


介助の組も楽ではなかった。肩を借りた男の一人は一歩ごとに顔をしかめている。もう一組は支えられるほうが背が高く、肩の位置が合わない。ドーランがそれを見て、二人の左右を入れ替えさせた。それだけで足取りが少し揃った。


現場の人間は現場の動かし方を知っている。俺が口を出すより、職長に任せたほうが早い場面がいくつもあった。


俺は列の横を後ろへ下がった。ガルドが最後尾で盾を構え、来た道を睨んでいる。


「あいつは」

「まだ見えねえ。煙の向こうで鼬を漁ってる音がする」


最初の曲がりを抜けたところで、前から甲高い声が上がった。


岩鼬だ。散った群れの一部が旧道の先に回り込んでいた。三匹。担架の前を塞ぐように牙を剥いている。


レナが前へ出た。だが、群れはすぐには飛びかからず、岩壁の上の斜面へ跳び移った。上から担架を狙う気だ。槍では届かない高さだった。


「カイル」


ミアが俺の袖を引いた。杖の先が斜面の上を向いている。


「あそこ、誰もいない」


俺は斜面を見た。鼬が三匹。その上は崖で、下には担架が来る。撃てば岩が落ちる。


「担架を三歩下げろ!」


担ぎ手が慌てて下がる。レナが槍を構えたまま、列の前に立った。


「ミア。上の岩棚を狙え。斜面の根元じゃなく、上だ。落ちた岩は担架まで届かない位置で止める」

「つまり?」

「撃っていい」

「やった!」


ミアが杖を振った。


閃光が斜面の上端を打ち、岩棚が砕ける。鼬は悲鳴を上げて四散し、崩れた岩が斜面を転がって担架の手前で止まった。止まるように撃ったのだ。


「見た? 見た? ちゃんと加減したよ!」

「見た。助かった」

「次はもっと大きいの撃っていい?」

「次は駄目だ」

「えー」


ミアは不満げに頬を膨らませたが、すぐに俺の横へ並んで声を落とした。


「でもさ。撃っていいって言う前に、担架を下げたでしょ」

「当たり前だろ」

「当たり前じゃないよ。前の隊じゃ、撃てって言うくせに、誰も射線を空けてくれなかった。撃てないって言ったら、役立たずって」

「それは空けなかった奴が悪い」

「うん。だから、カイルの撃っていいは、なんか好き」


返事に困っている間に彼女はもう前へ戻っていた。


列が再び動いた。転がった岩の脇を担架が一組ずつ抜けていく。


ノアが前から戻ってきた。列の先を確かめては戻り、また先へ出る。それを繰り返している。


「この先、鼬はいない。足跡もない。曲がりの手前で段差が二つ。担架は低く持って」

「了解。ノア、疲れてないか」

「疲れてる。だから早く帰りたい」


それだけ言って、彼女はまた先へ消えた。姿が見えなくなっても、行き先は分かっている。それだけで列の前に穴が開いた気はしなかった。


少し進んだところでガルドと最後尾を交代した。


「代われ。盾を持ったまま後ろ向きに歩き続けたら、膝が先に終わる」

「まだ耐えられ――」

「さっき、あいつの脚を受けただろ」


ガルドは何か言いかけて、黙った。それから盾を少し下ろし、俺と立ち位置を入れ替えた。


「……ちょっとだけだぞ」

「十分だ。前で担架を見ててくれ」


最後尾から振り返ると、来た道は静かだった。静かなのがかえって嫌だった。


少しして、今度はレナが息を整えるために列の中ほどへ下がった。先頭が空く。俺が前へ出た。


岩陰から鼬が一匹飛び出してきた。


剣を抜き、鼬と担架の間に体を入れた。飛びかかってきたのを刃の腹で払い、岩壁のほうへ押し返す。仕留めるには浅い。だが、担架からは引き離せた。鼬がもう一度跳ぼうと身を縮めたところを、横から伸びた槍が一突きで貫いた。


「……休憩、終わり」


レナが短く言った。俺は剣を収め、先頭を明け渡した。


「助かった」

「一匹に時間をかけすぎ」

「担架から離すのが先だった。仕留めるのはお前のほうが速い」


レナは呆れたように息を吐いた。ただ、その呆れ方は出発したときの軽蔑とは少し違っていた。


二つ目の曲がりの手前でティモの担架が止まった。


後ろの担ぎ手、クルトの腕が震えている。顔が真っ赤だった。段差を三つ続けて越えたせいだ。ドーランがすぐに気づいて駆け寄った。


「クルト、腕がもう限界だろ」


そのとき、担架の上でティモが口を開いた。


「あの……俺、置いていってください」


担ぎ手たちが顔を見合わせた。


「俺が一番遅いでしょう。俺を置いていけば、みんなもっと早く――」


その言葉を、前にも聞いたことがある。


一瞬だけ、別の声が頭の奥で重なった。別の場所、別の暗い道。俺はそれを喉の奥へ押し戻した。


「交代要員、後ろを持て。クルトは一度下がって腕を休めろ。次の曲がりでまた交代だ」


ティモが目を丸くした。


「いや、だから俺を」

「担ぎ手の交代は今決めた。お前を置いていく話は、今決めない」

「でも」

「足が動かないなら、運ぶのは足が動く奴の仕事だ。お前の仕事は、落ちないように柄を握ってることだ」


交代要員の若い男が黙って担架の後ろを持った。クルトは肩で息をしながら、それでもティモの頭の脇に立って、揺れないよう帆布の端を押さえた。


担架が持ち上がる。列はティモを乗せたまま進み始めた。


ティモは何も言わなかった。ただ、言われたとおりに柄を握る手に力を込めていた。


その様子を先頭から戻ってきたレナが見ていた。


「置いていかない判断は、正しいと思う」


それから声を低くした。


「でも、さっきの質問の答えはまだ聞いてない。追いつかれたら、どう守るの」


今度は、はぐらかせなかった。


「あいつを止めるのは無理だ。だから止めない。道の狭いところで時間を稼いで、その間に列を先へ出す」

「時間稼ぎは誰がやるの」

「仕掛けは俺がやる。レナには、列に取りついた小型を落としてもらいたい。あいつに気を取られてる間に、鼬が担架を噛んだら終わりだ」


レナは少し黙った。大物を任されると思っていたのかもしれない。


「……分かった。列は私が守る」


そう言って、彼女は先頭へ戻った。


担架の脇を歩いていたガルドが振り返って小さく笑った。


「嫌われてねえな」

「今のでどうしてそうなる」

「嫌いな奴に、守る場所なんか聞かねえよ」


返事をする前に、遠くで重い音がした。


荷車が転がる音。坑木が弾ける音。


枝道の入口のほうからだった。



第四部 計画の変更


「来るぞ!」


最後尾へ戻っていたガルドが怒鳴った。


一つ目の曲がりの向こうで岩壁に何かがぶつかる音がした。巨体が狭い道に体を押し込み、殻で岩を削りながら曲がろうとしている。


早すぎる。


荷車と坑木で五分は稼げると踏んでいた。鼬を漁る時間も足せば、もっとあるはずだった。実際にはその半分も持っていない。


「すまん。読み違えた」


口に出すと、ガルドが盾越しに鼻を鳴らした。


「謝る暇があったら次を言え」

「分かってる」


分かっている。分かっているが、次の手が少ない。


来た道を戻るのは論外だ。採掘場の底にはもう何もない。小屋に立てこもっても、あの体当たりを何度も受ければ壁が持たない。全員で岩陰に隠れてやり過ごす手もある。だが、あいつは鼻で追ってくる。それに、担架の二人を寝かせたまま、いつ来るか分からない獣を待ち続けるのは、隠れるのではなく閉じ込められるのと同じだ。


前へ行くしかない。問題は前へ行った先だった。


煙玉は残り一つ。縄は担架の固定に使った分を除けば、一巻き。ミアの魔法はさっき斜面を撃った分だけ減っている。


列の速さでは橋まで逃げ切る前に追いつかれる。仮に逃げ切れても、橋の向こうまで追ってこられたら同じことだ。山道は広い。担架を担いだまま、あの巨体から逃げる場所はない。


「ねえ」


ミアが隣に並んだ。息が上がっているのに、目だけは妙に冷静だった。


「渡ったら、橋を落とそうよ」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「ひびがあるって、ノアが言ってたでしょ。全員渡ってから、向こう岸で私が撃つ。橋がなくなれば、あいつは追ってこられない」

「撃てるのか。あの大きさの石橋を」

「ひびのとこを狙えば。それと――」


ミアは自分の杖を見下ろした。


「大きいのは、あと一発。それで空っぽになる。だから、それまで何があっても撃たない。途中で鼬が出ても、私は撃たないからね」


爆破したがりの魔術師が自分から撃たないと言っている。それだけでこの案が本気だと分かった。


「本当に一発分残るのか」

「残す。残さなかったら、怒っていいよ」

「怒る前に谷に落ちてる」

「だから残すの!」


俺は前を行く職長を呼んだ。


「ドーラン!」


彼はすぐに振り返った。


「あの石橋のこと、知ってるか」

「知ってるも何も、去年の雨のあとに見回ったのは俺だ」


ドーランは早足のまま答えた。


「手前側、こっちの岸の橋脚の根元が緩んでる。石組みの継ぎ目に水が入って、楔石が浮いてるんだ。補修の予定を出してたが、旧道はもう使わねえからって後回しにされた」

「そこを崩せば、橋は落ちるか」

「根元の楔石が抜ければ、半分から先は持たねえ。人が渡ってる最中に崩れたら最悪だがな」


前方からノアが戻ってきた。列の先を確かめに行っていたらしい。話の途中から聞いていたのか、彼女は迷わず口を挟んだ。


「向こう岸、出口の左に岩棚がある。さっき見てきた。そこからなら、手前側の橋脚の根元が真っ直ぐ見える。橋にも山道にも人がいない位置」

「撃ったあとは」

「岩棚の後ろが窪んでる。破片が飛んでも、そこに隠れれば当たらない。ただ、岩棚までは橋を渡った先から少し登る。ミアが撃つまでの間、私がそこまで連れて行く。誘導と同時にはできないから、最初の何組かは私の声だけで渡ってもらうことになる」


できないことを、先に言う。ノアはそういう斥候だった。


「それでいい。声が聞こえれば十分だ」


逃げ切れるかもしれない。


いや、逃げ切れる形にする。それが俺の仕事だ。


「やる。橋を落とす」


俺は歩きながら頭の中で順番を組んだ。


橋は一度に一組しか渡れない。担架の組は一組渡るのに二十数える程度だろう。介助の組はもう少し速い。全員が渡るまでに、二分と少し。


その二分を、どこで稼ぐか。


荷車の柵は破られた。だが、あいつはまだ二つ目の曲がりを抜けていない。体の向きを変えるたびに、殻が岩壁につかえている。今の差があれば、列が橋に着くまでは持つ。持たないのは最後の何人かが渡る間だ。


「最初にノアとミア。そのあと担架、介助、交代要員の順に一組ずつ。ガルドは渡り口で担架を支えて、最後の作業員が渡ったら向こうへ移れ。着いたら列の護衛を引き継いでくれ」

「お前とレナは」

「最後だ。俺は時間を稼ぐ仕掛けを作る」


ドーランが眉を寄せた。


「仕掛け?」

「さっきの荷車みたいなやつだ。狭い道に、使えるものはないか」


職長は少し考え、それから顔を上げた。


「ある。橋の手前、最後の曲がりの角に、搬出用の丸太が積んである。旧道を閉じるときに置いていったやつだ。下の楔を一本抜けば崩れるように組んである。運び出すときの組み方だ」

「道を塞げるか」

「全部崩せば、曲がり角が埋まる。あの化け物でも、乗り越えるのに少しはかかるだろう」

「少しでいい」


全員がそこを通り抜けた後でなければ、崩せない。崩す役は最後に通る者になる。


前方で岩壁が開けた。


狭い道の終わりに石橋が見えた。


深い谷だった。底は暗く、水の音だけが遠く聞こえる。その上に古い石のアーチが一本、向こう岸へ渡されている。思っていたより細い。


列の先頭が橋の手前に着くと、ノアが俺を呼んだ。


「ここ、見て」


彼女は橋の入口にしゃがみ、石畳の一枚を指で押した。わずかに揺れる。


「この列と、この列は浮いてる。踏むならこっち。中央より少し右。私が渡るとき、踏めるところに印をつけていく」

「助かる」

「料金は――」

「後で全部払う」


ノアは一瞬だけ意外そうな顔をした。それから黙って頷いた。


ミアは橋脚の根元を覗き込んでいた。谷側へ身を乗り出しすぎないよう、ガルドが彼女の背中の帯を掴んでいる。


「ある。あそこの石、確かに浮いてる。ドーランさんの言うとおり」


彼女は振り返った。


「いける。向こうの岩棚からなら、絶対外さない」


最後の曲がりは橋の入口から十歩ほど手前にあった。俺は列の脇をすり抜けてそこへ戻った。


丸太の山は角の岩壁に沿って胸の高さまで積まれていた。その一番下に太い楔が一本噛ませてある。手で触ると、確かに抜けそうだった。抜けたら、上の丸太が転がって道を塞ぐ。


だが、全員がこの角を抜けるまでは使えない。角を曲がれば、橋からは見えない。縄を引いて離れたところから抜くには、道が曲がりすぎている。


俺は縄の一端を楔に巻きつけ、固く結んだ。引けば抜ける。引いた者はその場から走る。


それだけだ。


「仕掛けは俺がやる」


戻ってきた俺の言葉に、ガルドが顔をしかめた。


「お前が残るのか」

「残らない。楔を抜いたら、すぐ走る。それで終わりだ。仕掛けを組んだのは俺だから、引くのも俺がやる。それだけの話だ」

「……逃げ足だけは信用してるからな」

「それで十分だ」


ドーランが作業員たちに怒鳴っていた。


「荷を捨てろ! 歩ける奴は、水筒以外全部置いていけ! 橋の上で重いもんは要らねえ!」


腰の道具袋が、弁当の包みが、次々と道端に落とされていく。誰も惜しそうな顔をしなかった。


ドーランも腰の道具袋を外した。少し迷ってから、名簿の帳面だけを抜き取って懐へしまった。


「それは捨てないのか」

「これは荷じゃねえ」


職長は帳面の上から胸を叩いた。


「俺が掘らせた場所で、こいつらは閉じ込められた。全員の名前を、帰ってから読み上げる。それまでは手放さねえ」


そのとき、列の中ほどで悲鳴が上がった。


岩鼬だ。散った群れの残りが岩壁の上から担架の列へ飛び降りてきた。二匹、三匹。獣に追われて、こちらへ逃げてきたのかもしれない。


レナがすでに走っていた。


一匹目を穂先で払い落とし、二匹目を柄で岩壁へ叩きつける。三匹目がティモの担架へ飛びかかろうとした瞬間、彼女の槍がその腹を貫いた。


「列から離れないで! 鼬は私が見る!」


担ぎ手たちが担架を下ろさずに踏みとどまった。


担架の上でティモが鼬の死骸を見下ろし、それから自分を担ぐクルトの顔を見上げた。


「……すみません、重くて」

「黙って柄を握ってろ。さっきそう言われただろ」


クルトはそう言って、担架を持ち直した。腕はまだ震えていたが、下ろす気配はなかった。


後方から地響きが近づいてくる。


レナが振り返った。曲がり角の向こう、獣の気配がする方向へ一瞬だけ顔を向け、槍を握り直した。


だが、彼女は足を止めなかった。担架の脇へ戻り、残った鼬を睨みつけた。


「レナ」


俺は声をかけた。


「小型を追い払ったら、列と一緒に渡れ」


レナは俺を見た。それから、短く頷いた。


「分かった」


橋の入口でノアが手を挙げた。最初の一人が渡る合図だった。



第五部 十七人目


ノアが橋へ踏み出した。


速くはない。一歩ごとに足を止め、爪先で石を押し、体重を乗せてから次へ移る。乗せた石の端に炭の欠片で小さな印をつけていく。


十二歩。


向こう岸に着いた彼女が振り返り、両手で大きく丸を作った。


「次、ミア! 印のとこだけ踏んで!」


ミアが杖を胸に抱えて渡り始めた。三歩目で足が止まり、下を覗きかけて、慌てて前を向く。


「下は見なくていい! 私の足跡だけ踏んで!」


ノアの声が谷に響いた。ミアは頷き、印を一つずつ踏んで渡りきった。そのまま出口の左手へ走り、岩棚の上に膝をつく。杖の先がこちらの岸の橋脚へ向いた。


撃つ準備ができた。あとは撃っていい状態を作るだけだ。


ミアがこちらへ片手を上げた。指を一本だけ立てている。一発分、残っている。そういう意味だろう。


俺も片手を上げて返した。分かった、まだだ、の意味で。伝わったかどうかは分からない。ただ、彼女は杖を下ろさなかった。


俺は最後の曲がりの角に立っていた。


片手に楔へ結んだ縄。振り返れば、狭い道の先に橋の入口が見える。反対へ顔を向ければ、来た道の暗がりが見える。どちらも同時には見られない。


「担架、一組目。ハンス」


ガルドの声がした。彼は盾を橋の入口の脇へ立てかけ、両手を空けていた。


ハンスの担ぎ手が二人、担架を持ち上げる。ガルドが前の担ぎ手の腕を支え、段差になった最初の石を越えさせた。


「印を見ろ。前だけ見ろ。揺れても止まるな、止まると余計に揺れる」


担架が橋の上を進んでいく。ハンスは目を閉じ、帆布の端を握りしめていた。


半ばまで来たとき、前の担ぎ手が足を滑らせかけた。印の石の隣、浮いた石に爪先が掛かったのだ。石が鳴り、担架が大きく傾く。


「止まるな!」


ガルドの怒鳴り声が橋の上まで届いた。


「右足を戻せ! 印だ! そうだ、それでいい!」


前の担ぎ手が足を戻し、後ろが柄を持ち直す。担架の傾きが収まり、ハンスの呻き声がひとつ漏れただけで、二人はまた歩き出した。


俺は自分が縄を握りしめていたことに気づいた。指を一本ずつ緩めた。


来た道の奥で岩が砕ける音がした。


まだ遠い。二つ目の曲がりのあたりだ。だが、確実に近づいている。


担架が向こう岸へ着いた。ノアがハンスを受け取り、担ぎ手を奥へ誘導する。


「二組目。ティモ」


クルトと相棒が担架を持ち上げた。クルトの腕はまだ少し震えている。ガルドがそれに気づいて、後ろの柄に片手を添えた。


「最初の三歩だけ俺が持つ。あとはお前だ」

「……はい」


三歩目でガルドが手を離した。クルトは歯を食いしばったまま印を踏んで進んだ。ティモは言われたとおり柄を握って動かなかった。


二組目が渡りきる。


地響きがまた近くなった。


列の後ろで、残った鼬が一匹、岩壁から跳んだ。レナの槍が空中でそれを撃ち落とした。見もせずに、と言いたいところだが、彼女はちゃんと見ていた。最後の一匹まで目を離していない。


「介助の組、行け!」


介助の二組がそれぞれ足を痛めた仲間に肩を貸して渡り始めた。一組ずつ、ゆっくりと。


角からは、橋の上の様子は半分しか見えない。代わりに向こう岸からノアの声が届いた。


「一組目、着いた! 次、いいよ!」


少しして、また。


「二組目も着いた! あと少し!」


声が届くたびに、頭の中の数が一つずつ動く。向こう岸に何人。こちらに何人。橋の上に何人。数え間違えないように、俺は口の中で数を繰り返した。


その間に俺の前を残りの者たちが通り過ぎていく。


ドーランが最後に角を曲がった。交代要員の若い男を先に行かせ、自分は一度振り返って俺の手元の縄を見た。


「楔は浅く噛ませてある。思い切り引け。半端に引くと、途中で引っかかる」

「分かった」

「……生きて渡れよ」

「そのつもりだ」


職長は頷き、橋へ向かった。


最後に、レナが角を抜けた。


槍の穂先が赤く濡れている。彼女は俺の横で一瞬だけ足を緩め、それから何も言わずに橋の入口へ走った。


これで角の向こうには誰もいない。


俺は縄を握り直した。


来た道の暗がりで殻が岩を削る音がした。


見えた。


狭い道いっぱいに灰色の巨体が押し込まれている。殻の縁が両側の岩壁を擦り、火花のような砂を散らしている。左の前脚をわずかに庇っていた。レナの傷だ。


距離は、まだある。だが、そう長くはない。


今だ。


俺は縄を思い切り引いた。


楔が抜けた。一瞬の静寂のあと、丸太の山が崩れ落ちた。一本目が道の中央へ転がり、二本目、三本目がその上に重なる。乾いた木と石の轟音が狭い道を埋め尽くした。


最後の煙玉を崩れた丸太の向こうへ放り込む。灰色の煙が湧き上がった。


俺は走った。


十歩。橋の入口までは、たった十歩だった。


足元の石畳が割れていて、二歩目でつまずきかけた。踏みとどまり、三歩目で体勢を戻す。背後で丸太の山が獣の重みを受けて軋む音がした。


一度も振り返らずに走れたのは、背中の音だけで十分すぎたからだ。


着いたとき、橋の上にはまだガルドがいた。


最後の介助の組とドーランたちを渡らせた後、盾を回収して今まさに渡っている。重い盾を背負ったまま、印の石を一つずつ踏んでいる。踏める石は中央より少し右の一列だけだ。その幅をガルドの体と盾が塞いでいる。追い越す隙間はない。


待つしかなかった。


背後で、丸太の山が軋んだ。


早い。


振り返ると、煙の中で丸太が持ち上がっていた。獣が頭を下げ、殻で丸太の山を押し上げている。一本が弾け飛び、岩壁に当たって砕けた。


三十は数えられると思っていた。まだ二十にも届いていない。


橋の上ではガルドがまだ半ばにいた。


「下がって」


横で、レナが槍を構えていた。


「お前は列と渡れと言っただろ」

「ガルドがまだ橋の上。列はまだ引き継いでない」


正論だった。


「渡れる順番が来たら、すぐ渡れ」

「分かってる」


分かっている、と言った声が妙に落ち着いていた。


ガルドが向こう岸に着いた。盾を地面に置き、振り返って叫ぶ。


「着いた! 列の護衛、引き継いだ! レナ、来い!」


橋の入口にいたレナがガルドの声に短く返した。


「了解!」


それから彼女は橋へ踏み出さなかった。


俺を見た。それから、丸太の向こうで煙を割って現れた巨体を見た。


「こっちは私が見る。先に渡って!」


文句を言う暇はなかった。言うつもりも、なかった。


「お前もすぐ来い!」


俺は橋へ踏み出した。レナが体を横にずらし、俺を先に通す。


最初の印の石を踏んだとき、背後で丸太の山が完全に崩れた。


獣が来る。


振り返らなかった。振り返ったら、足が止まる。


二歩。三歩。印の石だけを見る。足の下で浮いた石が鳴った。


背後でレナの足音が止まった。


獣の吠え声が、すぐ後ろで弾けた。


「――っ!」


レナの気合いが聞こえた。槍が肉を打つ、鈍い音。


一撃だけだった。


獣の吠え声が、苦痛のそれに変わった。重いものが岩を擦る音。その音が止む前に、レナの足音がこちらへ向かってきた。


「行って! 私も行く!」


軽い足音が俺のすぐ後ろに続いた。


間を空けずに、二人分の足が同じ一列の石を叩いている。走るたびに、橋全体が小さく揺れた。足の下で石組みが不穏な音を立てている。それでも止まれなかった。


六歩。七歩。


背後で獣が体勢を立て直した。重い前脚が橋の最初の石を踏む音がした。


十歩。十一歩。


向こう岸の地面が見えた。


十二歩目で、俺は山道の土を踏んだ。半歩遅れて、レナが俺の背中にぶつかるように飛び込んできた。


「二人とも出た!」


ノアが叫んだ。


振り返ると、獣が橋の入口にいた。前脚を二本とも橋に乗せ、こちらへ身を乗り出している。左の前脚の傷が採掘場で見たときより深く裂けている。その脚が重さに耐えかねて震えていた。


「ミア!」


岩棚の上でミアが杖を構えていた。


小屋の前では撃たせられなかった。今は、全員がこちら側にいる。


「今だ!」


ミアの杖が光った。


閃光が獣の足元にある橋脚を打った。根元の石組みが砕け、浮いていた楔石が弾け飛ぶ。


一拍置いて、橋が崩れ始めた。


崩落は獣のいる側から始まった。最初の石が落ち、二つ目が続き、石のアーチが端から谷へ吸い込まれていく。


獣の前脚が足場を失った。


巨体がのけぞった。崩れる石を蹴り、後ろ脚で岩を掻き、殻を岩壁に擦りつけながら、獣は向こう岸へ這い戻った。


橋の残りが轟音とともに谷底へ消えた。


土煙が谷を昇ってくる。


晴れたとき、谷の向こうに獣がいた。


崩れた橋の端に立ち、こちらを睨んでいる。左の前脚を地面から浮かせ、低く唸っている。


だが、渡ってはこなかった。渡れる場所はもうどこにもない。


獣は長いあいだこちらを見ていた。やがて背を向けて、狭い道の暗がりへ戻っていった。


誰も、しばらく動かなかった。


作業員の誰かが声にならない声を上げた。歓声になりかけて、途中で止まった。まだ信じきれていないのだ。崩れた橋の向こうにあの巨体がもう一度現れるのではないかと。


ガルドが盾を下ろし、その場に腰を落とした。


「……来ねえよ。来られねえ」


その一言でようやく何人かが座り込んだ。


俺も膝が笑っていた。立っていられたのは、立っていないと数えられないからだ。


ミアがようやく息を吐いた。


「撃った……」


岩棚の上で杖を抱えたまま座り込んでいる。


「ちゃんと撃った。外さなかった。誰も巻き込んでない」

「ああ。完璧だった」

「でしょ」


小さく笑った声が少し震えていた。


レナが俺の隣で槍を下ろした。


「倒さなくても、守れるのね」


独り言のような声だった。


「守れたのは、お前があいつの一歩を止めたからだ」

「指示されてないけど」

「されてないな」

「怒る?」

「帰ってから考える」


レナは小さく鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。


ノアが岩棚の後ろの窪みから顔を出した。彼女は谷の向こうを確かめてから、こちらへ手を振った。


「山道の先、安全な場所がある。そっちへ移って」


俺たちは山道を少し下った。岩の張り出しに守られた、平らな場所だった。ハンスとティモの担架がそこに下ろされ、介助を受けていた二人が座り込む。作業員たちが互いの顔を見合わせ、肩を叩き合っている。


俺は数えた。


ドーランが帳面を開く前に、もう数え始めていた。


担架の二人。肩を借りていた二人。担ぎ手と介助の六人。交代要員の若い男。ドーラン。


十二人。


ドーランが帳面を開いた。今朝、仕事の前にも読み上げたはずの名前を、職長は一つずつゆっくりと読み上げた。


「ハンス」

「……おう」

「ティモ」

「はい」


名前が続き、返事が続いた。


返事が一つ返るたびに、作業員たちの間で小さな息が漏れた。ドーランは最後に自分の名前を読んだ。


「ドーラン。……いる」


帳面を閉じた職長の手が少しだけ震えていた。


ガルドが盾に寄りかかっている。ノアが担架の脇で水筒を回している。ミアが岩棚から降りてきて、まだ杖を抱えている。レナが槍を地面に立てて、俺を見ている。


四人。


全員いる。


それでもまた最初の顔へ目を戻しそうになった。


そのとき、担架の上から声がした。


「あと、あんた」


ティモだった。寝かされたまま、こちらを指差している。


「十七人だろ」


すぐには返事ができなかった。


誰かに自分の帰りを確かめてもらうのは、久しぶりだった。


「……ああ」


ようやく、それだけ言えた。


「十七人だ」


肩から力が抜けた。抜けて初めて、ずっと力が入っていたことに気づいた。


隣でレナが小さく息を吐いた。何か言うかと思ったが、彼女は何も言わなかった。ただ、俺の横に立って、谷の向こうの暗がりを見ていた。



第六部 次の依頼


街道の集合所に着いたのは日が傾いてからだった。


ハンスとティモは救護所の寝台へ運ばれ、ガルドの肩も湿布で膨れ上がった。俺はギルドの係員に採掘場で見たものを順に話した。岩殻獣の大きさ、殻の厚さ、左の前脚の傷。正面路の崩落と、旧道の石橋を落としたこと。


係員は帳面に書き留めながら、橋のところで一度だけ顔を上げた。


「落とした、と」

「落とさなきゃ、十七人のうち何人かは帰れなかった」


隣にいたドーランが口を挟んだ。


「上の岩棚なら、縄を張って降りられる。担架は無理だが、身軽な奴なら行ける。討伐隊が来るなら、俺が案内する」


係員は頷き、採掘場の封鎖と討伐隊への引き継ぎを書き加えた。橋については、救命のためやむを得ず、と一行で済んだ。


救護所の前でティモが担架を運んだクルトを呼び止めていた。


「クルトさん」


すまない、と言いかけたのだろう。口が一度その形になって、それから閉じた。


「……ありがとうございました」


クルトは照れくさそうに頭を掻き、腕はまだ痛えよ、とだけ言った。


報酬は思っていたより多かった。そこから使い潰した縄と煙玉二つ、破れた担架の帆布、ガルドの湿布代を引くと、思っていたより少なくなった。


*


翌日、ギルドの酒場の隅で俺は修理代の明細を睨んでいた。


何度足しても、数字は変わらない。


「また数えてるな」


ガルドが向かいに座った。肩を回しながら、楽しそうにしている。


「数えてない。計算してるだけだ」

「同じだろ」

「違う」


そこへ紙が一枚、卓に叩きつけられた。


顔を上げると、レナが立っていた。槍は背負っていない。昨日より少しだけ肩の力が抜けて見えた。


「依頼書。商隊の護衛。峠越え、三日」

「……俺に?」

「あなたたちに」


彼女は椅子を引いて、勝手に座った。


「逃げるな、とはもう言わない」


それから少し視線を逸らした。


「その代わり、次は最後尾、私にも任せて。昨日みたいに、ちゃんと帰すから」


返事に詰まった。


「……指示は聞くか」

「必要なら」

「必要なときに聞かないと困る」

「聞かなくて正解だったでしょう、昨日は」


言い返せなかった。ガルドが盾の陰で肩を震わせている。


「一つ聞いていいか」

「何」

「どうして俺と組む。お前なら、もっと強い隊に入れるだろ」


レナは少し考えた。それから卓の上の依頼書を指でなぞった。


「列を守れって言われたから」

「それだけか」

「あの化け物じゃなくて、鼬を落とせって。最初はがっかりした。でも、担架に飛びかかった鼬を落としたとき、あれが一番、槍が役に立った気がした」


彼女はそこで言葉を切り、顔を上げた。


「あなたは、私の槍がどこで一番役に立つか、分かって任せた。だから、また組む」


照れくさくなるような理由を、彼女は照れもせずに言った。照れたのは、聞いた俺のほうだった。


「はいはい、最後尾の話はそこまで」


ミアが俺の隣に割り込んできた。肘が当たるくらい近い。


「近い」

「狭いんだもん、この卓」

「四人掛けだ。今は四人しかいない」

「じゃあ、ちょうどいいね」


よくない。肘はそのままだった。


「峠越えなら崖があるよね。落石とか。私の出番あるよね?」

「ない」

「あるよ。昨日あったもん」

「昨日はあった。今日はない」

「じゃあ明日はある」


反対側の椅子が静かに引かれた。


ノアが座り、俺の手元の明細を覗き込んだ。


「そこ、計算違ってる」

「どこが」

「煙玉の横に、炭の欠片が抜けてる。橋の印に使った分。あと、昨日の再確認の追加料金」

「払うって言ったな、俺」

「言った。全部払うって」


ノアは自分の帳面を取り出し、俺の明細の横に並べた。立ち去る気配はなかった。


卓に、五人が揃っていた。


数えようとして、やめた。数えなくても、全員いるのは分かった。


ガルドがレナの依頼書を引き寄せ、目を細めた。


「峠越えか。道は広いのか」

「途中に吊り橋が一つ」

「吊り橋」


俺とミアの声が重なった。


ミアの目が輝き、俺は額を押さえた。


「落とすなよ」

「まだ何も言ってないよ!」


レナが依頼書の端を指で叩いた。


「それで、敗走屋さん。最初に聞くことは?」


分かっていて聞いている顔だった。


「……帰り道は?」


レナが笑った。初めて見る顔だった。


「そう言うと思った」

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