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わからないのは、まだ途中なだけ 〜誰とも話さず立山黒部を抜けるはずの陰キャSE、ギャルに写真係を任命される〜

作者: 朝霧ナギ
掲載日:2026/10/12

◆第一章 立山駅 標高475m

イヤホンからは、何も流れていない。

中道(なかみち)歩(あゆむ)は、立山駅のホームでその白いコードを指でなぞった。音楽を聴くためのものではない。耳を塞いでいる、という事実を周りに見せるためのものだ。話しかけないでください、という看板を、耳に二本ぶら下げている。

四月の終わりの朝だった。富山の平野はもう春で、駅の裏の斜面にはやわらかい緑が噴き出している。けれどホームに吹き込む風だけは、山の上から下りてきた冬の匂いがした。

始発のケーブルカーは、思っていたより混んでいた。団体ツアーの旗、登山靴の夫婦、海外からの家族連れ。歩はいちばん後ろの段に立ち、窓に額を寄せた。

ケーブルカーの床は、階段のように段になっている。動き出すと、窓の外の杉がゆっくり斜めに流れはじめた。立っているだけで、自分が坂の途中にいることを思い知らされる。

——今日の目標は、一つだけだ。

誰とも話さずに、長野まで抜けること。

歩は二十八歳で、都内の会社でシステムエンジニアをしている。出社は月に一度。会話といえばオンライン会議の「聞こえてますか」と「大丈夫です」くらいで、それで困ったことはなかった。困っていないことに、困ってもいなかった。

有給を消化しろ、と人事から三度目のメールが来たのは先週のことだ。行きたい場所などなかった。ただ一つ、頭の隅に引っかかっている名前があった。

立山黒部アルペンルート。

大学時代、唯一の友人だった虹川(にじかわ)が、学食のカレーをつつきながら言ったのだ。

「俺の地元さ、春になると雪の壁の間をバスが走るんだよ。二十メートルとかあんの。いつか一緒に行こうぜ、中道」

虹川は、誰とも話さない歩の隣に、毎日勝手に座ってくる男だった。レポートの締め切りを教えてくれて、学食の唐揚げを一個よこして、歩が黙っていても、一人で楽しそうに喋り続けた。歩が「うん」しか言わなくても、虹川は気にしなかった。「中道の『うん』は、三種類あるからな」と、よくわからないことを言って笑っていた。

歩は、あのときも「うん」とだけ答えた。その「いつか」は来なかった。虹川は卒業して地元の富山に戻り、結婚し、連絡は年に一度の年賀状だけになった。歩のほうから送ったことは、一度もない。

昨夜、歩はフォロワーが三人しかいないSNSに、一行だけ書いた。

〈明日、富山からアルペンルート行く〉

誰に向けたわけでもない。独り言を、外に置いておきたかっただけだ。

ケーブルカーが傾いたまま減速する。七分ほどで、終点の美女平(びじょだいら)に着いた。標高はもう千メートル近い。扉が開くと、空気が一段、冷たくなった。

ここから先は高原バスだ。歩は列の最後尾に並び、いちばん後ろの窓際の席を狙った。誰も来ない席。誰の隣でもない席。

狙いどおりに座れた。歩は小さく息を吐き、イヤホンを押し込み直した。

——その目標は、四十分後に破られる。

正確に言えば、四十秒後だった。

◆第二章 弥陀ヶ原 標高1,930m

「すいませーん、そこ空いてます?」

発車直前に乗り込んできたその声は、明らかに歩に向けられていた。

顔を上げると、金髪があった。根元まで丁寧に染められた、春の日差しをはじく金色。長いまつげ。指先には、桜の花びらみたいなネイル。そして足元は、厚底のスニーカー。雪山に来る靴ではない。

空いています、と言うべきか。空いていません、と嘘をつくべきか。嘘をつくなら、隣に置く荷物が必要だ。歩のリュックは膝の上にある。今から置くのは不自然だ。不自然な動きは、会話を生む。

「……どうぞ」

「あざーす!」

彼女はどさりと座った。甘い、柑橘系の匂いがした。

バスが動き出す。窓の外には、太い杉の木が並んでいる。立山杉だ。中には樹齢千年を超える巨木もあるという。根元には、まだ雪が残っている。

「ねえ、おにーさん一人?」

来た。歩はイヤホンを指で軽く押さえた。聞こえていません、の合図だ。

「それ、なんも流れてなくない?」

心臓が止まりかけた。

「音漏れゼロだもん。あたしもやってたからわかる。中学のとき、ずっとそれ」

彼女はけらけらと笑った。歩は観念して、片耳だけイヤホンを外した。外した、というより、外させられた。

「あたし、ナナ。おにーさんは?」

「……中道です」

「下の名前は?」

下の名前を、初対面の人に教える文化が存在するのか。歩の人生には存在しなかった。

「歩、です」

「あゆむ。ふーん」ナナは窓の外を見たまま、口の中で転がすように言った。「いい名前じゃん」

なぜか、その言い方が少しだけ懐かしかった。気のせいだ、と歩は思った。

バスは高度を上げていく。途中、車窓の遠くに、白い筋が見えた。称名滝(しょうみょうだき)だ。落差三百五十メートル、日本一の滝だと、旅の前に調べていた。谷の奥で、白い一本の線が、音もなく落ちていた。

「え、遠っ。でもやば。撮って撮って」

ナナは自分のスマホを歩に押しつけた。

「え、僕がですか」

「おにーさん窓側じゃん。はい、写真係任命」

任命された。辞退の手続きはどこで行えばいいのか。歩はスマホを構え、窓越しの滝を撮った。画面の中の滝は、髪の毛ほどの細さにしか映らなかった。

「上手いじゃん」

ナナは写真を確認すると、なぜか素早く誰かにメッセージを送った。親指の動きが速すぎて、歩には読めなかった。

——今、誰に送った?

歩の脳内で、警報が鳴り始めた。初対面の男にやたら距離を詰め、写真を撮らせ、それを誰かに送る。これはあれだ。ネットで読んだことがある。何かしらの勧誘か、何かしらの罠だ。

「ナナさんは、どうして一人で」

自分から質問してしまった。防衛のための情報収集だ、と歩は自分に言い訳した。

「失恋旅行〜」

あまりに軽い答えだった。

「……それは、大変でしたね」

「でしょ? 三年付き合った彼氏がさ」

ナナはそこで、窓の外に目をやった。

景色が、一変していた。

杉の森が途切れ、バスは広い高原に出ていた。弥陀ヶ原(みだがはら)。見渡すかぎり、白かった。起伏も、道も、境目も、すべてが雪に埋もれている。遠くの山の稜線だけが、鉛筆で一本引いた線のように、空と雪を分けていた。

麓は春だった。ここは、まだ冬だ。

バスが上るほど、季節が逆戻りしていく。

歩は、外したほうのイヤホンを握ったまま、その白さを見ていた。何も書かれていない紙みたいだ、と思った。

「ね、きれいでしょ」

ナナが言った。自慢するような口ぶりだった。まるで、自分の家の庭を見せるみたいに。

「……はい」

歩は答えてから気づいた。彼女の失恋話の続きは、いつの間にか消えていた。

◆第三章 雪の大谷 標高2,450m

終点の室堂(むろどう)が近づくと、道の両側の雪が、急に背を伸ばしはじめた。

最初は車の屋根くらいだった。それがバスの窓を越え、バスの屋根を越え、やがて首を思いきり反らさなければ、てっぺんが見えなくなった。

雪の大谷。

虹川が学食で言っていた、雪の壁だった。

「えっぐ……」

ナナが窓に張りついた。歩も、気づけば身を乗り出していた。

バスは、白い谷底を這うように進んでいく。壁は窓のすぐ外にあって、手を伸ばせば触れられそうだった。表面には、木の年輪のような縞模様が幾重にも走っている。ひと冬のあいだに降った雪が、何度も何度も積み重なった跡だ。薄い灰色の線は、きっと黄砂か何かが降った日の記録だろう。冬という季節が、そのまま断面になって並んでいた。

室堂のバスターミナルで降りると、空気が肺に刺さった。冷たいのではなく、薄い。少し歩いただけで、息が浅くなる。

雪の大谷は、ここから歩いても通れるようになっていた。バスが走る道のすぐ脇に、人が歩ける道が切ってある。

「行こ、おにーさん」

「……僕は、別に」

「写真係でしょ」

雇用契約を結んだ覚えはない。けれど歩の足は、もうナナの後ろを歩いていた。

壁の間に入ると、音が消えた。

雪が音を吸うのだ。前を歩く観光客の話し声も、遠くのバスのエンジンも、白い壁に吸い込まれて、ぼんやりと遠くなる。聞こえるのは、自分の靴が雪を踏む音と、自分の呼吸だけだった。

歩は、ふと上を見た。

両側から白い壁がせり上がり、その間に、空が細く流れていた。

川みたいだった。深い青の、細い川。白い岸に挟まれて、どこまでも続いている。

「……落ち着きますね、ここ」

口が勝手に動いていた。

「両側が塞がってて、上しか見えなくて。誰にも見られてない感じがして」

言ってから、しまったと思った。初対面の人間に、自分の性格の根っこを見せてしまった。

ナナは笑わなかった。厚底のスニーカーで、慎重に雪を踏みながら、壁にそっと手を当てた。

「でもさ、この壁って、勝手にできたんじゃないんだよ」

「え」

「冬のあいだ、ここ全部雪で埋まってんの。道なんかどこにもないの。それを、道を開ける前に、誰かが重機で掘るんだって。何メートルも、何キロも」

ナナは壁を軽く叩いた。

「だからこれ、壁じゃなくて、道なんだよ。誰かが掘ってくれたから、あたしら通れてんの」

歩は返事ができなかった。

閉じこもるための壁だと思っていた。でもそれは、誰かが外から、こちらに向かって掘り進めてきた跡だった。

「てか、なんでそんな詳しいんですか」

「えっ」ナナの目が一瞬泳いだ。「……ネットで見た」

「さっき、失恋旅行って言ってましたよね。三年付き合った彼氏と」

「うん。二年ね」

「三年って言ってました」

「……細かっ! まじめか!」

ナナは怒ったふりをして、スマホを歩に押しつけた。

「はい撮って。壁と空とあたし、全部入れて」

歩はスマホを縦に構えた。白い壁、細い空、ピースをするナナ。シャッターを押そうとした、その瞬間だった。

雲が切れた。

太陽が、細い空の真ん中に顔を出した。白い壁が一斉に光を跳ね返し、画面が真っ白になった。何も映らない。壁も、空も、ナナも、光に溶けて消えた。

歩は思わず、スマホを下ろした。

画面の外に、本物の景色があった。

眩しかった。目を細めなければ立っていられないほど、世界中の白がこちらを照らしていた。両側の壁は内側から光っているようで、その間を流れる空は、さっきよりずっと青かった。

ナナは、ピースをしたまま、目を細めて笑っていた。

撮れなかった。でも、たぶん、忘れない。

「……撮れませんでした」

「いいよ」ナナは言った。「見えたでしょ。なら、いいじゃん」

それから、ナナは雪に足を取られて、盛大に転びかけた。歩はとっさに腕をつかんだ。二人とも数秒、固まった。

「……厚底で来る場所じゃないです」

「知ってる!」

◆第四章 室堂 標高2,450m

室堂平は、一面の雪原だった。

夏には青い水をたたえるはずのみくりが池も、今はまだ雪の下に眠っている。そこに池があることを知らせるのは、ゆるやかな窪みだけだった。その向こうに、立山の峰々が屏風のように立ち並んでいる。雪をまとった稜線が、空の青に白く縁取られていた。

昼どき、ターミナルの売店で、ナナは両手いっぱいに何かを買ってきた。

「はい、おにーさんの」

渡されたのは、塩味のせんべいだった。ナナ自身は、ご当地のチョコレート菓子の箱を抱えている。

「……なんで、しょっぱいほうなんですか」

「チョコ、一個しか残ってなかったの。おにーさんはそれで我慢して」

我慢も何も、歩は昔から甘いものが苦手だった。運がいい、と思った。運がいいと思ったのは、たぶん人生で四回目くらいだ。

せんべいをかじっていると、ナナのスマホが鳴った。彼女は画面を伏せるようにして返信を打つ。その一瞬、歩の目に、送信画面の一部が映った。

いつの間に撮られたのか、歩自身の横顔の写真。その下に、短い文字。

〈……ちゃんと笑ってる〉

笑ってる? 誰が。歩は笑った覚えなどない。いや、雪の大谷で、少しだけ、口元が緩んだかもしれない。それを、誰かに報告している。

歩の脳内会議が招集された。

議題、この女性は何者か。

仮説一、美人局(つつもたせ)。仮説二、宗教かマルチ商法の勧誘。仮説三、陰気な男を笑わせるまでを撮影する、悪趣味な動画企画。

仮説三が有力だった。だとすれば、自分は今、どこかの誰かに笑われている。

「おにーさん、顔こわ。どしたの」

「……なんでもないです」

逃げよう、と歩は思った。次の乗り換えで、さりげなく別の便に乗ればいい。もともと一人で来たのだ。一人に戻るだけだ。

けれど、そう決めたはずの足は、雪原を歩き出したナナの後ろを、また追いかけていた。

空気が冷たい。息が白い。踏みしめるたび、雪がきゅっと鳴った。

「あ」

ナナが立ち止まり、歩の袖を引いた。人差し指を唇に当てている。

「しっ。あれ」

雪の上に、雪のかけらが動いていた。

目を凝らすと、鳥だった。ずんぐりと丸い体。雪に紛れる白い羽。けれど首のあたりにだけ、黒っぽい羽が少し混じっている。尾は、墨を引いたように黒い。

雷鳥だった。

国の特別天然記念物。神の使いとも呼ばれる鳥。虹川が、いつかスマホの待ち受けにしていた鳥だ。

雷鳥は、歩たちのことなど気にもとめず、雪の上をちょこちょこと歩いた。少し離れたところに、もう一羽、こちらは本当に真っ白な雷鳥がいた。つがいなのだろう。

「なにあれ、ちょっとだけまだらじゃん」ナナが小声で言った。「あっちの子は真っ白。雪かと思った」

「……衣替えの、途中なんだと思います」

歩は、思ったままを口にした。

「冬は、雪に紛れるように真っ白で。夏になると、白と黒と茶色のまだらになるんです。今は、その間の季節で。まだ、どっちでもない」

「途中、か」

ナナがつぶやいた。

振り向くと、ナナは笑っていなかった。さっきまでの軽さが、すっと顔から抜け落ちていた。彼女は雷鳥を見ていた。まるで、ずっと昔に見た何かを、もう一度見つけたような目で。

「……ナナさん?」

「なんでもない」

ナナはすぐにいつもの顔に戻った。けれどその声は、わずかに湿っていた。

雷鳥が、ふいに羽を広げた。白い翼が陽を受けて光り、低く滑るように飛んで、雪原の向こうへ消えていった。

二人はしばらく、雷鳥がいた場所を見ていた。冬と夏のあいだにいる鳥が残していった、小さな足跡を。

◆第五章 大観峰 標高2,316m

室堂から先は、立山の真下を貫くトンネルを、電気バスで抜ける。

窓の外は、ただの闇だった。照明が一定の間隔で流れていくだけで、景色も季節もない。三千メートル級の山の、腹の中を通っているのだ。

暗いと、人は少しだけ正直になる。歩はそれを、この日初めて知った。

「……さっきの鳥」

口を開いたのは、歩のほうだった。

「大学のとき、友だちが待ち受けにしてたんです。地元の鳥だって、自慢してて」

「友だち」ナナの声が、わずかに硬くなった。「どんな人」

「うるさいやつでした。誰にでも話しかけて。僕みたいなのにも」

トンネルの照明が、ナナの横顔を何度も照らしては、離れていく。

「僕、大学で誰とも喋らなかったんです。そいつだけが、毎日隣に座ってきて。一緒にここに来ようって、言われてて」

「……来なかったの?」

「そいつは地元に帰って、結婚して。僕は、連絡しなかった。年賀状は来るけど、たぶん惰性です。向こうも、もう忘れてると思います」

「決めつけんなよ」

思いがけず強い声だった。歩は驚いてナナを見た。ナナは前を向いたまま、唇を噛んでいた。

「……ごめん。なんでもない」

バスが減速した。トンネルの終わりに、駅の明かりが白く浮かんでいた。

大観峰(だいかんぼう)駅を出て展望台に立った瞬間、歩は息をのんだ。

世界の底が、抜けていた。

足元から崖が落ち込み、はるか下に、黒部湖が横たわっていた。湖を囲む山々は、まだ深い雪に覆われている。その向こうに、後立山の連峰が、雪をかぶった巨人の列のように並んでいた。どこまでも、どこまでも。空との境目がわからないほど遠くまで、白い山が続いていた。

何か思おうとした。気の利いた感想を。

何も出てこなかった。

すごい、と口が勝手に動いた。それだけだった。歩の脳内でいつも饒舌に喋っている誰かが、このときばかりは黙っていた。

ここから黒部平までは、ロープウェイで下る。

ゴンドラに乗り込んで、ナナが窓の外を見た。そして、固まった。

「……え、待って」

「どうしました」

「柱なくない? ロープウェイって、途中に鉄塔とかあるじゃん。なくない?」

立山ロープウェイには、途中に支柱が一本もない。約一・七キロを、ワンスパンで渡りきる。雪崩の多い谷に支柱を立てずに済むよう、そう造られたのだという。おかげで、窓の外を遮るものも何もない。

ゴンドラが、すっと空中に滑り出した。

足元から、地面が消えた。

「むりむりむりむり」

歩は、自分でも驚くようなことをした。黙って、腕を少しだけ、ナナのほうへ差し出したのだ。

ナナが、歩の袖をつかんだ。さっきまでの軽さはどこにもない。金髪の先が震えている。ギャルは、高いところが苦手だった。

高所が苦手なギャル。歩の人生で二件目の新しい知見だった。一件目は、ギャルは音漏れゼロのイヤホンを見抜く、というものだ。

「おにーさん、なんか面白い話して。下見ないで済むやつ」

「……面白い話の在庫は、ありません」

「じゃあつまんない話でいい!」

「SQLのインデックスの話なら」

「それでいい! してして!」

歩は人生で初めて、他人にインデックスの話を求められた。ゴンドラが谷を半分渡るあいだ、歩はB木の説明をした。ナナは一言もわかっていない顔で、それでも「うん、うん」と必死にうなずき続けた。

「なんで落ちないの、これ。何で支えてんの」

歩は窓の外を見た。ケーブルが、谷の向こうまで、細く、まっすぐに張られていた。遠すぎて、その先は見えない。それでも、ゴンドラは揺れながら、確かに前へ進んでいた。

「……見えないけど、ちゃんと向こう側で支えてるものがあるんです」

自分でも、柄にもないことを言ったと思った。

ナナが顔を上げた。袖をつかんだまま、歩の顔をじっと見た。

「それ、自分で言っててわかってる?」

「え」

「……なんでもない」

ナナはまた窓の外に目をやった。今度は、怖がっていなかった。足元の谷の上を、ゴンドラの影がゆっくりと渡っていく。その向こうに、湖と、白い巨人たちの列があった。

袖は、黒部平に着くまで、つかまれたままだった。

◆第六章 黒部ダム 標高1,470m

黒部平から黒部湖までは、ケーブルカーで下る。雪から線路を守り、山の自然を傷つけないように、全線が地下に造られているのだという。だから窓の外には何もない。さっきまで見ていた絶景は、しばらくお預けになる。

暗いトンネルを下りながら、歩は考えていた。

この旅は、トンネルと絶景の繰り返しだ。暗いところを抜けるたびに、世界がひとつ、広くなる。

黒部湖駅を出て、ダムの上に立った。

音が、なかった。

夏なら、ここは轟音に包まれているはずだった。ダムの中ほどから、毎秒何トンもの水が谷底へ吐き出され、霧のような水しぶきの中に虹がかかる。歩はそれを、旅の前に動画で見ていた。

けれど四月のダムは、眠っていた。

巨大なコンクリートの弧が、谷をまるごと塞いでいる。片側には、雪の山々に囲まれた黒部湖。反対側には、日本一の高さ、百八十六メートルの壁面が落ち込んでいく谷。風が吹くたびに、どこか遠くで雪の落ちる音がした。それ以外は、何も聞こえない。

二人は、ダムの上の長い道を、ゆっくりと歩いた。

「夏はここ、どーんって水出るんだって。虹とか出て、えぐいらしいよ」

「……見たかったですね」

「じゃあ夏、来なよ。今度は、ちゃんと誰かと」

誰かと、と言われても、思い浮かぶ顔は一つしかなかった。その顔に、六年も連絡していない。

ダムの真ん中あたりで、ナナは欄干にもたれた。眼下の谷は、吸い込まれそうなほど深かった。

「ねえ。なんで一人で来たの」

「……一人が、楽なので」

「ふーん」ナナはスマホを見ないまま言った。「楽と、平気は違くない?」

歩は答えられなかった。

楽だった。一人は、ずっと楽だった。でも平気だったかと聞かれると、わからない。わからないまま、何年も過ぎていた。

しばらくの沈黙のあと、ナナが言った。

「あたしさ、失恋旅行って嘘」

来た、と歩は身構えた。まず小さな嘘を告白して信頼を得る。それから本題に入る。ネットで読んだ手口だ。次に出てくるのは壺か、浄水器か、投資の話だ。

「知ってました」

「は? 早く言ってよ」

「設定が、途中でブレてたので」

ナナは吹き出した。それから、笑い声がゆっくりと小さくなって、静けさの中に溶けた。

壺は、出てこなかった。

「あたし、昔めっちゃ暗かったの」

ナナは、谷の底を見ていた。

「中学のとき。友だちいなくて、勉強もできなくて。数学のテスト、十二点とか。もう全部わかんなくて、自分のこと、全部だめだと思ってた」

金髪が、風に揺れた。

「そしたら、ある人が、一晩だけ宿題見てくれたの。めっちゃ説明下手で。ぼそぼそ喋るし、目も合わないし。でも最後に、一言だけくれたの。それが今でも、あたしのお守り」

「どんな言葉だったんですか」

「ないしょ」ナナは唇に指を当てた。「おにーさんに言うのは、もったいない」

少し間をおいて、ナナは続けた。「その一言で、けっこう生きれたの。だからこの髪も、この爪も、あたしががんばって変わった跡なの。似合ってるでしょ」

「……はい」

「今の、ちょっと間があった」

「考えてから答えるタイプなので」

ダムの向こうの山に、雲の影がゆっくりと流れていった。

「……その人に、言ったんですか。ありがとうって」

「まだ」

ナナは欄干から体を離した。

「でも、今日言えるかもって、ちょっと思ってる」

その言葉の意味を、歩はまだ知らなかった。

ダムを渡りきった先、駅へ続く通路の入口の脇に、慰霊碑が立っていた。このダムと、これから通るトンネルを造るために命を落とした人たちの名前が、刻まれている。

ナナは立ち止まり、黙って手を合わせた。歩も、それにならった。

誰かが、誰かのために道を掘った。その上を、今、自分たちは歩いている。

◆第七章 扇沢 標高1,433m

長野側の扇沢(おうぎさわ)へは、もう一本、長いトンネルを電気バスで抜ける。

扇沢が近づいてきたころ、ナナが急に声をひそめた。

「ここ、破砕帯(はさいたい)っていうんだって」と、窓の外を指さす。「工事のとき、地下水と土砂がどばーって出て、七ヶ月も進めなくなったとこ。それを、ちょっとずつ、ちょっとずつ掘ったんだって」

その区間は、たった八十メートルほどだという。本来なら数日で掘り進める距離だ。バスなら、ほんの十秒ほどで通り過ぎてしまう。その十秒の場所のために、七ヶ月もかけて闘った人たちがいた。

「……やっぱり、詳しいですね」

「ネットで見た」

ナナは、今度は目を泳がせなかった。ただ、少しだけ笑った。

トンネルの出口が近づいてくる。四角い光が、だんだん大きくなる。

歩は、自分の耳に手をやった。

イヤホンを、外した。誰に言われたのでもなく、自分で。白いコードを丸めて、ポケットにしまった。

バスが、光の中に飛び出した。

光が、やわらかかった。

斜面にはまだ雪が残っている。けれどその雪は、山の上のように硬く光ってはいなかった。濡れて、ゆるんで、ところどころに黒い土がのぞいている。さっきまでいた山の上は、まだ真冬だった。白い壁、白い雪原、雪の峰々。それなのに、トンネルを一本抜けただけで、ここではもう春が始まりかけていた。

朝、麓の春から冬へ上り、今、冬から春へ下りてきた。一日で、季節を往復したのだ。

扇沢のバスターミナルで降りると、空気がやわらかかった。土と、雪解け水の匂いがした。

「じゃ、あたしはここで」

「ナナさんは、長野へ?」

「ううん。戻るの。今日は室堂に泊まって、明日、来た道で富山」

「え。ここまで来て、ですか」

「うん。あたしの用事は、ここまでだから」

意味がわからなかった。わざわざアルペンルートを横断して、また同じ道を引き返す。そんな旅行者がいるだろうか。いるとしたら、それは旅行者ではなく——。

ポケットのスマホが震えた。

画面に表示された名前を見て、歩は息を止めた。

〈虹川 架(かける)〉

年賀状以外でその名前を見るのは、六年ぶりだった。

〈よう。妹、うるさかったろ。ごめんな〉

妹。

歩は、ゆっくりと顔を上げた。

ナナが、自分のスマホを握りしめたまま、ものすごく気まずそうな顔で立っていた。

「……あのバカ兄。絶対まだ送るなって言ったのに」

「妹、って」

「……はい。妹です。虹川七海(ななみ)です」ナナは観念したように両手を上げた。「美人局でも、勧誘でも、動画企画でもないです」

「なんで、それを」

「顔に全部書いてあったよ。室堂あたりから」

歩の脳内で、三つの仮説が音を立てて崩れた。美人局ではなかった。勧誘でもなかった。動画企画でもなかった。もっとたちの悪いものだった。

善意だった。

スマホが、また震える。

〈お前のSNS、ずっと見てたんだよ。フォロワー三人のうちの一人、俺な〉

〈俺は仕事で行けないから、七海に頼んだ。あいつ二つ返事だった。始発の時間から何から、全部調べてさ〉

添付されていた写真は、雪の大谷の白い壁を見上げている、歩自身の横顔だった。口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。

〈ちゃんと笑ってるって、七海から来た。安心した〉

室堂で盗み見た、あの文字だった。

「……せんべいも」

「え」

「チョコが一個しか残ってなかったっていう、あれも」

ナナは目をそらした。「……お兄が、あいつ甘いの食えないからって」

歩は、言葉が出なかった。

「でもね」ナナが、まっすぐにこちらを見た。金髪の向こうで、雪解けの山が光っていた。「頼まれたから来たんじゃないよ。あたしが、来たかったの」

「……どうして、僕なんかに」

「ほんとに、覚えてない?」

ナナは、少しだけ寂しそうに笑った。そして、ダムでは言わなかった言葉を口にした。誰かの口真似をするみたいに、ぼそぼそと、目をそらして。

「『わからないのは、まだ途中なだけだから』」

記憶の霧が、晴れた。

大学二年の冬。虹川の実家に泊まりに行った夜。蛍光灯の明るい部屋。小さな机。黒い髪を肩で切りそろえた、うつむいてばかりの中学生。十二点の答案。ノートに落ちた、涙のしみ。

どう慰めていいかわからなくて、歩は、ただ思ったことを言ったのだ。目も合わせられずに。説明も、下手なまま。

今日、雷鳥の前で口にしたのと、同じ「途中」という言葉を。

「……あのときの、子が」

「あのときの子が、こうなりました」ナナは金髪をひと房つまんでみせた。「衣替え、まだ途中だけどね」

歩は、吹き出してしまった。声を出して笑ったのが、いつ以来なのか思い出せなかった。

「ずっと言いたかったの。ありがとうって」ナナは言った。「おにーさんのあの下手な説明で、あたし、けっこう生きれたから」

何か言わなければ、と歩は思った。気の利いたことは何も浮かばない。いつも饒舌な脳内の誰かは、大観峰のときと同じように黙っている。

だから、思ったことを言った。

「……今日、楽しかったです」

自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。楽だった、ではない。楽しかった、と言ったのだ。

「楽と平気は違う、って言ってましたよね」

「うん」

「平気じゃ、なかったです。ずっと」

ナナは、何も言わずにうなずいた。それから、いつもの軽い調子に戻った。

「じゃ、夏ね。お兄と三人で放水見よ。虹、出るから」

「……厚底は、やめてください」

「知ってる!」

ナナは手を振って、ぱたぱたと切符売り場のほうへ走っていった。来た道を、今夜は室堂へ、明日は富山へ戻るために。歩は、小さく手を振り返した。人に手を振ったのは、何年ぶりだろうと思った。

麓へ下るバスの中で、歩は返信を打った。

〈ずっと連絡しなくて、ごめん。妹さんに、全部聞いた〉

〈夏、行こう。今度は、僕から誘いたかった〉

長い文章ではなかった。それでも、打っては消し、消しては打ち、送るまでに十分近くかかった。言葉の選び方は、きっと昔と同じで、下手なままだ。

それでいい、と歩は思った。

自分もまだ、途中なのだ。

送信ボタンを、押した。

バスが山を下るにつれて、窓の外は少しずつ緑になっていった。麓のほうでは、もう若葉が光っている。その遥か上に、雪をかぶった峰々が白く浮かんでいる。あの白い壁の道を、誰かが掘ってくれていた。見えないケーブルを、誰かが谷の向こうまで渡してくれていた。

ポケットの中のイヤホンは、長野に着くまで、一度も出てこなかった。

◆終章 黒部ダム 夏

日にちを決めて誘ったのは、歩のほうだった。

〈七月の三連休、空いてる?〉

たったそれだけのメッセージを送るのに、三日かかった。返事は三秒で来た。

〈空いてる。空いてなくても空ける〉

七月の黒部ダムは、轟音に包まれていた。

四月に来たときは、音のない場所だった。巨大なコンクリートの弧が谷を塞ぎ、雪の山々が黙ってそれを見下ろしていた。今は違う。ダムの中ほどから、白い水の束が谷へ向かって吐き出されている。河床から百二十メートルの高さで、毎秒十トンを超える水が弧を描き、谷底へ落ちていく。

風向きが変わるたびに、細かい水しぶきが霧になって吹きつけてきた。頬が濡れる。まつげに、細かい粒が光る。

「中道!」

振り向くと、日焼けした大きな男が、両手を振りながら走ってきた。六年ぶりに見る顔は、少しだけ丸くなっていた。それ以外は、学食で唐揚げをよこしてきたあの頃と、何も変わっていなかった。

「……虹川」

「おう。久しぶり」虹川架は、歩の肩を、遠慮なく二回叩いた。「お前、全然変わんねえな」

「お前もな」

言ってから、歩は気づいた。六年間、この一言が言えなかったのだ。たった一言なのに。

「お兄、声でかい。ダムの音に勝ってる」

後ろから、ナナが歩いてきた。金髪は少し伸びて、根元が黒くなりかけている。足元は、厚底ではなかった。登山靴だった。ただし、ピンクの。

「……厚底じゃない」

「言われたから」ナナは胸を張った。「成長したでしょ」

三人で、放水の見える場所に並んだ。

虹川が、ふいに言った。

「なあ、中道。お前のSNSのフォロワー三人さ。俺以外の二人、誰か知ってる?」

「……知らない」

「一人は、あたし」ナナが手を挙げた。

「もう一人は?」

虹川とナナは顔を見合わせた。

「わかんない」

「業者だろ、たぶん」

歩は、ダムの轟音の中で、声を出して笑った。四月より、ずっと自然に笑えた。

雲の切れ間から日が差すと、水しぶきの霧が、光を受けて輝きだした。

「あ」ナナが指さした。「出た」

霧の中に、虹がかかっていた。

放水の白い束をまたぐように、七つの色が、くっきりと弧を描いていた。白一色の雪の世界を通り抜けた四月の旅の、その続きに、こんな色が待っていた。

歩はポケットのスマホに手を伸ばしかけて、やめた。画面越しに見る必要はなかった。水しぶきで濡れた顔のまま、ただ、その虹を見ていた。

「なあ、中道」虹川が、轟音に負けない声で言った。「来てくれて、ありがとな」

「……誘ったのは、僕だよ」

「知ってる。だから、ありがとなんだよ」

歩は返事をしなかった。代わりに、「うん」とだけ言った。

虹川は笑った。

「今のは、三種類のうちの、いちばんいいやつだな」

歩は空を見上げた。

四月、雪の大谷で見上げた空は、白い壁に挟まれた、細い川のようだった。今、ダムの上に広がる空は、どこまでも広く、遠くの山の稜線まで続いていた。

空は、もう細くなかった。

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