わからないのは、まだ途中なだけ 〜誰とも話さず立山黒部を抜けるはずの陰キャSE、ギャルに写真係を任命される〜
◆第一章 立山駅 標高475m
イヤホンからは、何も流れていない。
中道歩は、立山駅のホームでその白いコードを指でなぞった。音楽を聴くためのものではない。耳を塞いでいる、という事実を周りに見せるためのものだ。話しかけないでください、という看板を、耳に二本ぶら下げている。
四月の終わりの朝だった。富山の平野はもう春で、駅の裏の斜面にはやわらかい緑が噴き出している。けれどホームに吹き込む風だけは、山の上から下りてきた冬の匂いがした。
始発のケーブルカーは、思っていたより混んでいた。団体ツアーの旗、登山靴の夫婦、海外からの家族連れ。歩はいちばん後ろの段に立ち、窓に額を寄せた。
ケーブルカーの床は、階段のように段になっている。動き出すと、窓の外の杉がゆっくり斜めに流れはじめた。立っているだけで、自分が坂の途中にいることを思い知らされる。
——今日の目標は、一つだけだ。
誰とも話さずに、長野まで抜けること。
歩は二十八歳で、都内の会社でシステムエンジニアをしている。出社は月に一度。会話といえばオンライン会議の「聞こえてますか」と「大丈夫です」くらいで、それで困ったことはなかった。困っていないことに、困ってもいなかった。
有給を消化しろ、と人事から三度目のメールが来たのは先週のことだ。行きたい場所などなかった。ただ一つ、頭の隅に引っかかっている名前があった。
立山黒部アルペンルート。
大学時代、唯一の友人だった虹川が、学食のカレーをつつきながら言ったのだ。
「俺の地元さ、春になると雪の壁の間をバスが走るんだよ。二十メートルとかあんの。いつか一緒に行こうぜ、中道」
虹川は、誰とも話さない歩の隣に、毎日勝手に座ってくる男だった。レポートの締め切りを教えてくれて、学食の唐揚げを一個よこして、歩が黙っていても、一人で楽しそうに喋り続けた。歩が「うん」しか言わなくても、虹川は気にしなかった。「中道の『うん』は、三種類あるからな」と、よくわからないことを言って笑っていた。
歩は、あのときも「うん」とだけ答えた。その「いつか」は来なかった。虹川は卒業して地元の富山に戻り、結婚し、連絡は年に一度の年賀状だけになった。歩のほうから送ったことは、一度もない。
昨夜、歩はフォロワーが三人しかいないSNSに、一行だけ書いた。
〈明日、富山からアルペンルート行く〉
誰に向けたわけでもない。独り言を、外に置いておきたかっただけだ。
ケーブルカーが傾いたまま減速する。七分ほどで、終点の美女平に着いた。標高はもう千メートル近い。扉が開くと、空気が一段、冷たくなった。
ここから先は高原バスだ。歩は列の最後尾に並び、いちばん後ろの窓際の席を狙った。誰も来ない席。誰の隣でもない席。
狙いどおりに座れた。歩は小さく息を吐き、イヤホンを押し込み直した。
——その目標は、四十分後に破られる。
正確に言えば、四十秒後だった。
◆第二章 弥陀ヶ原 標高1,930m
「すいませーん、そこ空いてます?」
発車直前に乗り込んできたその声は、明らかに歩に向けられていた。
顔を上げると、金髪があった。根元まで丁寧に染められた、春の日差しをはじく金色。長いまつげ。指先には、桜の花びらみたいなネイル。そして足元は、厚底のスニーカー。雪山に来る靴ではない。
空いています、と言うべきか。空いていません、と嘘をつくべきか。嘘をつくなら、隣に置く荷物が必要だ。歩のリュックは膝の上にある。今から置くのは不自然だ。不自然な動きは、会話を生む。
「……どうぞ」
「あざーす!」
彼女はどさりと座った。甘い、柑橘系の匂いがした。
バスが動き出す。窓の外には、太い杉の木が並んでいる。立山杉だ。中には樹齢千年を超える巨木もあるという。根元には、まだ雪が残っている。
「ねえ、おにーさん一人?」
来た。歩はイヤホンを指で軽く押さえた。聞こえていません、の合図だ。
「それ、なんも流れてなくない?」
心臓が止まりかけた。
「音漏れゼロだもん。あたしもやってたからわかる。中学のとき、ずっとそれ」
彼女はけらけらと笑った。歩は観念して、片耳だけイヤホンを外した。外した、というより、外させられた。
「あたし、ナナ。おにーさんは?」
「……中道です」
「下の名前は?」
下の名前を、初対面の人に教える文化が存在するのか。歩の人生には存在しなかった。
「歩、です」
「あゆむ。ふーん」ナナは窓の外を見たまま、口の中で転がすように言った。「いい名前じゃん」
なぜか、その言い方が少しだけ懐かしかった。気のせいだ、と歩は思った。
バスは高度を上げていく。途中、車窓の遠くに、白い筋が見えた。称名滝だ。落差三百五十メートル、日本一の滝だと、旅の前に調べていた。谷の奥で、白い一本の線が、音もなく落ちていた。
「え、遠っ。でもやば。撮って撮って」
ナナは自分のスマホを歩に押しつけた。
「え、僕がですか」
「おにーさん窓側じゃん。はい、写真係任命」
任命された。辞退の手続きはどこで行えばいいのか。歩はスマホを構え、窓越しの滝を撮った。画面の中の滝は、髪の毛ほどの細さにしか映らなかった。
「上手いじゃん」
ナナは写真を確認すると、なぜか素早く誰かにメッセージを送った。親指の動きが速すぎて、歩には読めなかった。
——今、誰に送った?
歩の脳内で、警報が鳴り始めた。初対面の男にやたら距離を詰め、写真を撮らせ、それを誰かに送る。これはあれだ。ネットで読んだことがある。何かしらの勧誘か、何かしらの罠だ。
「ナナさんは、どうして一人で」
自分から質問してしまった。防衛のための情報収集だ、と歩は自分に言い訳した。
「失恋旅行〜」
あまりに軽い答えだった。
「……それは、大変でしたね」
「でしょ? 三年付き合った彼氏がさ」
ナナはそこで、窓の外に目をやった。
景色が、一変していた。
杉の森が途切れ、バスは広い高原に出ていた。弥陀ヶ原。見渡すかぎり、白かった。起伏も、道も、境目も、すべてが雪に埋もれている。遠くの山の稜線だけが、鉛筆で一本引いた線のように、空と雪を分けていた。
麓は春だった。ここは、まだ冬だ。
バスが上るほど、季節が逆戻りしていく。
歩は、外したほうのイヤホンを握ったまま、その白さを見ていた。何も書かれていない紙みたいだ、と思った。
「ね、きれいでしょ」
ナナが言った。自慢するような口ぶりだった。まるで、自分の家の庭を見せるみたいに。
「……はい」
歩は答えてから気づいた。彼女の失恋話の続きは、いつの間にか消えていた。
◆第三章 雪の大谷 標高2,450m
終点の室堂が近づくと、道の両側の雪が、急に背を伸ばしはじめた。
最初は車の屋根くらいだった。それがバスの窓を越え、バスの屋根を越え、やがて首を思いきり反らさなければ、てっぺんが見えなくなった。
雪の大谷。
虹川が学食で言っていた、雪の壁だった。
「えっぐ……」
ナナが窓に張りついた。歩も、気づけば身を乗り出していた。
バスは、白い谷底を這うように進んでいく。壁は窓のすぐ外にあって、手を伸ばせば触れられそうだった。表面には、木の年輪のような縞模様が幾重にも走っている。ひと冬のあいだに降った雪が、何度も何度も積み重なった跡だ。薄い灰色の線は、きっと黄砂か何かが降った日の記録だろう。冬という季節が、そのまま断面になって並んでいた。
室堂のバスターミナルで降りると、空気が肺に刺さった。冷たいのではなく、薄い。少し歩いただけで、息が浅くなる。
雪の大谷は、ここから歩いても通れるようになっていた。バスが走る道のすぐ脇に、人が歩ける道が切ってある。
「行こ、おにーさん」
「……僕は、別に」
「写真係でしょ」
雇用契約を結んだ覚えはない。けれど歩の足は、もうナナの後ろを歩いていた。
壁の間に入ると、音が消えた。
雪が音を吸うのだ。前を歩く観光客の話し声も、遠くのバスのエンジンも、白い壁に吸い込まれて、ぼんやりと遠くなる。聞こえるのは、自分の靴が雪を踏む音と、自分の呼吸だけだった。
歩は、ふと上を見た。
両側から白い壁がせり上がり、その間に、空が細く流れていた。
川みたいだった。深い青の、細い川。白い岸に挟まれて、どこまでも続いている。
「……落ち着きますね、ここ」
口が勝手に動いていた。
「両側が塞がってて、上しか見えなくて。誰にも見られてない感じがして」
言ってから、しまったと思った。初対面の人間に、自分の性格の根っこを見せてしまった。
ナナは笑わなかった。厚底のスニーカーで、慎重に雪を踏みながら、壁にそっと手を当てた。
「でもさ、この壁って、勝手にできたんじゃないんだよ」
「え」
「冬のあいだ、ここ全部雪で埋まってんの。道なんかどこにもないの。それを、道を開ける前に、誰かが重機で掘るんだって。何メートルも、何キロも」
ナナは壁を軽く叩いた。
「だからこれ、壁じゃなくて、道なんだよ。誰かが掘ってくれたから、あたしら通れてんの」
歩は返事ができなかった。
閉じこもるための壁だと思っていた。でもそれは、誰かが外から、こちらに向かって掘り進めてきた跡だった。
「てか、なんでそんな詳しいんですか」
「えっ」ナナの目が一瞬泳いだ。「……ネットで見た」
「さっき、失恋旅行って言ってましたよね。三年付き合った彼氏と」
「うん。二年ね」
「三年って言ってました」
「……細かっ! まじめか!」
ナナは怒ったふりをして、スマホを歩に押しつけた。
「はい撮って。壁と空とあたし、全部入れて」
歩はスマホを縦に構えた。白い壁、細い空、ピースをするナナ。シャッターを押そうとした、その瞬間だった。
雲が切れた。
太陽が、細い空の真ん中に顔を出した。白い壁が一斉に光を跳ね返し、画面が真っ白になった。何も映らない。壁も、空も、ナナも、光に溶けて消えた。
歩は思わず、スマホを下ろした。
画面の外に、本物の景色があった。
眩しかった。目を細めなければ立っていられないほど、世界中の白がこちらを照らしていた。両側の壁は内側から光っているようで、その間を流れる空は、さっきよりずっと青かった。
ナナは、ピースをしたまま、目を細めて笑っていた。
撮れなかった。でも、たぶん、忘れない。
「……撮れませんでした」
「いいよ」ナナは言った。「見えたでしょ。なら、いいじゃん」
それから、ナナは雪に足を取られて、盛大に転びかけた。歩はとっさに腕をつかんだ。二人とも数秒、固まった。
「……厚底で来る場所じゃないです」
「知ってる!」
◆第四章 室堂 標高2,450m
室堂平は、一面の雪原だった。
夏には青い水をたたえるはずのみくりが池も、今はまだ雪の下に眠っている。そこに池があることを知らせるのは、ゆるやかな窪みだけだった。その向こうに、立山の峰々が屏風のように立ち並んでいる。雪をまとった稜線が、空の青に白く縁取られていた。
昼どき、ターミナルの売店で、ナナは両手いっぱいに何かを買ってきた。
「はい、おにーさんの」
渡されたのは、塩味のせんべいだった。ナナ自身は、ご当地のチョコレート菓子の箱を抱えている。
「……なんで、しょっぱいほうなんですか」
「チョコ、一個しか残ってなかったの。おにーさんはそれで我慢して」
我慢も何も、歩は昔から甘いものが苦手だった。運がいい、と思った。運がいいと思ったのは、たぶん人生で四回目くらいだ。
せんべいをかじっていると、ナナのスマホが鳴った。彼女は画面を伏せるようにして返信を打つ。その一瞬、歩の目に、送信画面の一部が映った。
いつの間に撮られたのか、歩自身の横顔の写真。その下に、短い文字。
〈……ちゃんと笑ってる〉
笑ってる? 誰が。歩は笑った覚えなどない。いや、雪の大谷で、少しだけ、口元が緩んだかもしれない。それを、誰かに報告している。
歩の脳内会議が招集された。
議題、この女性は何者か。
仮説一、美人局。仮説二、宗教かマルチ商法の勧誘。仮説三、陰気な男を笑わせるまでを撮影する、悪趣味な動画企画。
仮説三が有力だった。だとすれば、自分は今、どこかの誰かに笑われている。
「おにーさん、顔こわ。どしたの」
「……なんでもないです」
逃げよう、と歩は思った。次の乗り換えで、さりげなく別の便に乗ればいい。もともと一人で来たのだ。一人に戻るだけだ。
けれど、そう決めたはずの足は、雪原を歩き出したナナの後ろを、また追いかけていた。
空気が冷たい。息が白い。踏みしめるたび、雪がきゅっと鳴った。
「あ」
ナナが立ち止まり、歩の袖を引いた。人差し指を唇に当てている。
「しっ。あれ」
雪の上に、雪のかけらが動いていた。
目を凝らすと、鳥だった。ずんぐりと丸い体。雪に紛れる白い羽。けれど首のあたりにだけ、黒っぽい羽が少し混じっている。尾は、墨を引いたように黒い。
雷鳥だった。
国の特別天然記念物。神の使いとも呼ばれる鳥。虹川が、いつかスマホの待ち受けにしていた鳥だ。
雷鳥は、歩たちのことなど気にもとめず、雪の上をちょこちょこと歩いた。少し離れたところに、もう一羽、こちらは本当に真っ白な雷鳥がいた。つがいなのだろう。
「なにあれ、ちょっとだけまだらじゃん」ナナが小声で言った。「あっちの子は真っ白。雪かと思った」
「……衣替えの、途中なんだと思います」
歩は、思ったままを口にした。
「冬は、雪に紛れるように真っ白で。夏になると、白と黒と茶色のまだらになるんです。今は、その間の季節で。まだ、どっちでもない」
「途中、か」
ナナがつぶやいた。
振り向くと、ナナは笑っていなかった。さっきまでの軽さが、すっと顔から抜け落ちていた。彼女は雷鳥を見ていた。まるで、ずっと昔に見た何かを、もう一度見つけたような目で。
「……ナナさん?」
「なんでもない」
ナナはすぐにいつもの顔に戻った。けれどその声は、わずかに湿っていた。
雷鳥が、ふいに羽を広げた。白い翼が陽を受けて光り、低く滑るように飛んで、雪原の向こうへ消えていった。
二人はしばらく、雷鳥がいた場所を見ていた。冬と夏のあいだにいる鳥が残していった、小さな足跡を。
◆第五章 大観峰 標高2,316m
室堂から先は、立山の真下を貫くトンネルを、電気バスで抜ける。
窓の外は、ただの闇だった。照明が一定の間隔で流れていくだけで、景色も季節もない。三千メートル級の山の、腹の中を通っているのだ。
暗いと、人は少しだけ正直になる。歩はそれを、この日初めて知った。
「……さっきの鳥」
口を開いたのは、歩のほうだった。
「大学のとき、友だちが待ち受けにしてたんです。地元の鳥だって、自慢してて」
「友だち」ナナの声が、わずかに硬くなった。「どんな人」
「うるさいやつでした。誰にでも話しかけて。僕みたいなのにも」
トンネルの照明が、ナナの横顔を何度も照らしては、離れていく。
「僕、大学で誰とも喋らなかったんです。そいつだけが、毎日隣に座ってきて。一緒にここに来ようって、言われてて」
「……来なかったの?」
「そいつは地元に帰って、結婚して。僕は、連絡しなかった。年賀状は来るけど、たぶん惰性です。向こうも、もう忘れてると思います」
「決めつけんなよ」
思いがけず強い声だった。歩は驚いてナナを見た。ナナは前を向いたまま、唇を噛んでいた。
「……ごめん。なんでもない」
バスが減速した。トンネルの終わりに、駅の明かりが白く浮かんでいた。
大観峰駅を出て展望台に立った瞬間、歩は息をのんだ。
世界の底が、抜けていた。
足元から崖が落ち込み、はるか下に、黒部湖が横たわっていた。湖を囲む山々は、まだ深い雪に覆われている。その向こうに、後立山の連峰が、雪をかぶった巨人の列のように並んでいた。どこまでも、どこまでも。空との境目がわからないほど遠くまで、白い山が続いていた。
何か思おうとした。気の利いた感想を。
何も出てこなかった。
すごい、と口が勝手に動いた。それだけだった。歩の脳内でいつも饒舌に喋っている誰かが、このときばかりは黙っていた。
ここから黒部平までは、ロープウェイで下る。
ゴンドラに乗り込んで、ナナが窓の外を見た。そして、固まった。
「……え、待って」
「どうしました」
「柱なくない? ロープウェイって、途中に鉄塔とかあるじゃん。なくない?」
立山ロープウェイには、途中に支柱が一本もない。約一・七キロを、ワンスパンで渡りきる。雪崩の多い谷に支柱を立てずに済むよう、そう造られたのだという。おかげで、窓の外を遮るものも何もない。
ゴンドラが、すっと空中に滑り出した。
足元から、地面が消えた。
「むりむりむりむり」
歩は、自分でも驚くようなことをした。黙って、腕を少しだけ、ナナのほうへ差し出したのだ。
ナナが、歩の袖をつかんだ。さっきまでの軽さはどこにもない。金髪の先が震えている。ギャルは、高いところが苦手だった。
高所が苦手なギャル。歩の人生で二件目の新しい知見だった。一件目は、ギャルは音漏れゼロのイヤホンを見抜く、というものだ。
「おにーさん、なんか面白い話して。下見ないで済むやつ」
「……面白い話の在庫は、ありません」
「じゃあつまんない話でいい!」
「SQLのインデックスの話なら」
「それでいい! してして!」
歩は人生で初めて、他人にインデックスの話を求められた。ゴンドラが谷を半分渡るあいだ、歩はB木の説明をした。ナナは一言もわかっていない顔で、それでも「うん、うん」と必死にうなずき続けた。
「なんで落ちないの、これ。何で支えてんの」
歩は窓の外を見た。ケーブルが、谷の向こうまで、細く、まっすぐに張られていた。遠すぎて、その先は見えない。それでも、ゴンドラは揺れながら、確かに前へ進んでいた。
「……見えないけど、ちゃんと向こう側で支えてるものがあるんです」
自分でも、柄にもないことを言ったと思った。
ナナが顔を上げた。袖をつかんだまま、歩の顔をじっと見た。
「それ、自分で言っててわかってる?」
「え」
「……なんでもない」
ナナはまた窓の外に目をやった。今度は、怖がっていなかった。足元の谷の上を、ゴンドラの影がゆっくりと渡っていく。その向こうに、湖と、白い巨人たちの列があった。
袖は、黒部平に着くまで、つかまれたままだった。
◆第六章 黒部ダム 標高1,470m
黒部平から黒部湖までは、ケーブルカーで下る。雪から線路を守り、山の自然を傷つけないように、全線が地下に造られているのだという。だから窓の外には何もない。さっきまで見ていた絶景は、しばらくお預けになる。
暗いトンネルを下りながら、歩は考えていた。
この旅は、トンネルと絶景の繰り返しだ。暗いところを抜けるたびに、世界がひとつ、広くなる。
黒部湖駅を出て、ダムの上に立った。
音が、なかった。
夏なら、ここは轟音に包まれているはずだった。ダムの中ほどから、毎秒何トンもの水が谷底へ吐き出され、霧のような水しぶきの中に虹がかかる。歩はそれを、旅の前に動画で見ていた。
けれど四月のダムは、眠っていた。
巨大なコンクリートの弧が、谷をまるごと塞いでいる。片側には、雪の山々に囲まれた黒部湖。反対側には、日本一の高さ、百八十六メートルの壁面が落ち込んでいく谷。風が吹くたびに、どこか遠くで雪の落ちる音がした。それ以外は、何も聞こえない。
二人は、ダムの上の長い道を、ゆっくりと歩いた。
「夏はここ、どーんって水出るんだって。虹とか出て、えぐいらしいよ」
「……見たかったですね」
「じゃあ夏、来なよ。今度は、ちゃんと誰かと」
誰かと、と言われても、思い浮かぶ顔は一つしかなかった。その顔に、六年も連絡していない。
ダムの真ん中あたりで、ナナは欄干にもたれた。眼下の谷は、吸い込まれそうなほど深かった。
「ねえ。なんで一人で来たの」
「……一人が、楽なので」
「ふーん」ナナはスマホを見ないまま言った。「楽と、平気は違くない?」
歩は答えられなかった。
楽だった。一人は、ずっと楽だった。でも平気だったかと聞かれると、わからない。わからないまま、何年も過ぎていた。
しばらくの沈黙のあと、ナナが言った。
「あたしさ、失恋旅行って嘘」
来た、と歩は身構えた。まず小さな嘘を告白して信頼を得る。それから本題に入る。ネットで読んだ手口だ。次に出てくるのは壺か、浄水器か、投資の話だ。
「知ってました」
「は? 早く言ってよ」
「設定が、途中でブレてたので」
ナナは吹き出した。それから、笑い声がゆっくりと小さくなって、静けさの中に溶けた。
壺は、出てこなかった。
「あたし、昔めっちゃ暗かったの」
ナナは、谷の底を見ていた。
「中学のとき。友だちいなくて、勉強もできなくて。数学のテスト、十二点とか。もう全部わかんなくて、自分のこと、全部だめだと思ってた」
金髪が、風に揺れた。
「そしたら、ある人が、一晩だけ宿題見てくれたの。めっちゃ説明下手で。ぼそぼそ喋るし、目も合わないし。でも最後に、一言だけくれたの。それが今でも、あたしのお守り」
「どんな言葉だったんですか」
「ないしょ」ナナは唇に指を当てた。「おにーさんに言うのは、もったいない」
少し間をおいて、ナナは続けた。「その一言で、けっこう生きれたの。だからこの髪も、この爪も、あたしががんばって変わった跡なの。似合ってるでしょ」
「……はい」
「今の、ちょっと間があった」
「考えてから答えるタイプなので」
ダムの向こうの山に、雲の影がゆっくりと流れていった。
「……その人に、言ったんですか。ありがとうって」
「まだ」
ナナは欄干から体を離した。
「でも、今日言えるかもって、ちょっと思ってる」
その言葉の意味を、歩はまだ知らなかった。
ダムを渡りきった先、駅へ続く通路の入口の脇に、慰霊碑が立っていた。このダムと、これから通るトンネルを造るために命を落とした人たちの名前が、刻まれている。
ナナは立ち止まり、黙って手を合わせた。歩も、それにならった。
誰かが、誰かのために道を掘った。その上を、今、自分たちは歩いている。
◆第七章 扇沢 標高1,433m
長野側の扇沢へは、もう一本、長いトンネルを電気バスで抜ける。
扇沢が近づいてきたころ、ナナが急に声をひそめた。
「ここ、破砕帯っていうんだって」と、窓の外を指さす。「工事のとき、地下水と土砂がどばーって出て、七ヶ月も進めなくなったとこ。それを、ちょっとずつ、ちょっとずつ掘ったんだって」
その区間は、たった八十メートルほどだという。本来なら数日で掘り進める距離だ。バスなら、ほんの十秒ほどで通り過ぎてしまう。その十秒の場所のために、七ヶ月もかけて闘った人たちがいた。
「……やっぱり、詳しいですね」
「ネットで見た」
ナナは、今度は目を泳がせなかった。ただ、少しだけ笑った。
トンネルの出口が近づいてくる。四角い光が、だんだん大きくなる。
歩は、自分の耳に手をやった。
イヤホンを、外した。誰に言われたのでもなく、自分で。白いコードを丸めて、ポケットにしまった。
バスが、光の中に飛び出した。
光が、やわらかかった。
斜面にはまだ雪が残っている。けれどその雪は、山の上のように硬く光ってはいなかった。濡れて、ゆるんで、ところどころに黒い土がのぞいている。さっきまでいた山の上は、まだ真冬だった。白い壁、白い雪原、雪の峰々。それなのに、トンネルを一本抜けただけで、ここではもう春が始まりかけていた。
朝、麓の春から冬へ上り、今、冬から春へ下りてきた。一日で、季節を往復したのだ。
扇沢のバスターミナルで降りると、空気がやわらかかった。土と、雪解け水の匂いがした。
「じゃ、あたしはここで」
「ナナさんは、長野へ?」
「ううん。戻るの。今日は室堂に泊まって、明日、来た道で富山」
「え。ここまで来て、ですか」
「うん。あたしの用事は、ここまでだから」
意味がわからなかった。わざわざアルペンルートを横断して、また同じ道を引き返す。そんな旅行者がいるだろうか。いるとしたら、それは旅行者ではなく——。
ポケットのスマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、歩は息を止めた。
〈虹川 架〉
年賀状以外でその名前を見るのは、六年ぶりだった。
〈よう。妹、うるさかったろ。ごめんな〉
妹。
歩は、ゆっくりと顔を上げた。
ナナが、自分のスマホを握りしめたまま、ものすごく気まずそうな顔で立っていた。
「……あのバカ兄。絶対まだ送るなって言ったのに」
「妹、って」
「……はい。妹です。虹川七海です」ナナは観念したように両手を上げた。「美人局でも、勧誘でも、動画企画でもないです」
「なんで、それを」
「顔に全部書いてあったよ。室堂あたりから」
歩の脳内で、三つの仮説が音を立てて崩れた。美人局ではなかった。勧誘でもなかった。動画企画でもなかった。もっとたちの悪いものだった。
善意だった。
スマホが、また震える。
〈お前のSNS、ずっと見てたんだよ。フォロワー三人のうちの一人、俺な〉
〈俺は仕事で行けないから、七海に頼んだ。あいつ二つ返事だった。始発の時間から何から、全部調べてさ〉
添付されていた写真は、雪の大谷の白い壁を見上げている、歩自身の横顔だった。口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。
〈ちゃんと笑ってるって、七海から来た。安心した〉
室堂で盗み見た、あの文字だった。
「……せんべいも」
「え」
「チョコが一個しか残ってなかったっていう、あれも」
ナナは目をそらした。「……お兄が、あいつ甘いの食えないからって」
歩は、言葉が出なかった。
「でもね」ナナが、まっすぐにこちらを見た。金髪の向こうで、雪解けの山が光っていた。「頼まれたから来たんじゃないよ。あたしが、来たかったの」
「……どうして、僕なんかに」
「ほんとに、覚えてない?」
ナナは、少しだけ寂しそうに笑った。そして、ダムでは言わなかった言葉を口にした。誰かの口真似をするみたいに、ぼそぼそと、目をそらして。
「『わからないのは、まだ途中なだけだから』」
記憶の霧が、晴れた。
大学二年の冬。虹川の実家に泊まりに行った夜。蛍光灯の明るい部屋。小さな机。黒い髪を肩で切りそろえた、うつむいてばかりの中学生。十二点の答案。ノートに落ちた、涙のしみ。
どう慰めていいかわからなくて、歩は、ただ思ったことを言ったのだ。目も合わせられずに。説明も、下手なまま。
今日、雷鳥の前で口にしたのと、同じ「途中」という言葉を。
「……あのときの、子が」
「あのときの子が、こうなりました」ナナは金髪をひと房つまんでみせた。「衣替え、まだ途中だけどね」
歩は、吹き出してしまった。声を出して笑ったのが、いつ以来なのか思い出せなかった。
「ずっと言いたかったの。ありがとうって」ナナは言った。「おにーさんのあの下手な説明で、あたし、けっこう生きれたから」
何か言わなければ、と歩は思った。気の利いたことは何も浮かばない。いつも饒舌な脳内の誰かは、大観峰のときと同じように黙っている。
だから、思ったことを言った。
「……今日、楽しかったです」
自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。楽だった、ではない。楽しかった、と言ったのだ。
「楽と平気は違う、って言ってましたよね」
「うん」
「平気じゃ、なかったです。ずっと」
ナナは、何も言わずにうなずいた。それから、いつもの軽い調子に戻った。
「じゃ、夏ね。お兄と三人で放水見よ。虹、出るから」
「……厚底は、やめてください」
「知ってる!」
ナナは手を振って、ぱたぱたと切符売り場のほうへ走っていった。来た道を、今夜は室堂へ、明日は富山へ戻るために。歩は、小さく手を振り返した。人に手を振ったのは、何年ぶりだろうと思った。
麓へ下るバスの中で、歩は返信を打った。
〈ずっと連絡しなくて、ごめん。妹さんに、全部聞いた〉
〈夏、行こう。今度は、僕から誘いたかった〉
長い文章ではなかった。それでも、打っては消し、消しては打ち、送るまでに十分近くかかった。言葉の選び方は、きっと昔と同じで、下手なままだ。
それでいい、と歩は思った。
自分もまだ、途中なのだ。
送信ボタンを、押した。
バスが山を下るにつれて、窓の外は少しずつ緑になっていった。麓のほうでは、もう若葉が光っている。その遥か上に、雪をかぶった峰々が白く浮かんでいる。あの白い壁の道を、誰かが掘ってくれていた。見えないケーブルを、誰かが谷の向こうまで渡してくれていた。
ポケットの中のイヤホンは、長野に着くまで、一度も出てこなかった。
◆終章 黒部ダム 夏
日にちを決めて誘ったのは、歩のほうだった。
〈七月の三連休、空いてる?〉
たったそれだけのメッセージを送るのに、三日かかった。返事は三秒で来た。
〈空いてる。空いてなくても空ける〉
七月の黒部ダムは、轟音に包まれていた。
四月に来たときは、音のない場所だった。巨大なコンクリートの弧が谷を塞ぎ、雪の山々が黙ってそれを見下ろしていた。今は違う。ダムの中ほどから、白い水の束が谷へ向かって吐き出されている。河床から百二十メートルの高さで、毎秒十トンを超える水が弧を描き、谷底へ落ちていく。
風向きが変わるたびに、細かい水しぶきが霧になって吹きつけてきた。頬が濡れる。まつげに、細かい粒が光る。
「中道!」
振り向くと、日焼けした大きな男が、両手を振りながら走ってきた。六年ぶりに見る顔は、少しだけ丸くなっていた。それ以外は、学食で唐揚げをよこしてきたあの頃と、何も変わっていなかった。
「……虹川」
「おう。久しぶり」虹川架は、歩の肩を、遠慮なく二回叩いた。「お前、全然変わんねえな」
「お前もな」
言ってから、歩は気づいた。六年間、この一言が言えなかったのだ。たった一言なのに。
「お兄、声でかい。ダムの音に勝ってる」
後ろから、ナナが歩いてきた。金髪は少し伸びて、根元が黒くなりかけている。足元は、厚底ではなかった。登山靴だった。ただし、ピンクの。
「……厚底じゃない」
「言われたから」ナナは胸を張った。「成長したでしょ」
三人で、放水の見える場所に並んだ。
虹川が、ふいに言った。
「なあ、中道。お前のSNSのフォロワー三人さ。俺以外の二人、誰か知ってる?」
「……知らない」
「一人は、あたし」ナナが手を挙げた。
「もう一人は?」
虹川とナナは顔を見合わせた。
「わかんない」
「業者だろ、たぶん」
歩は、ダムの轟音の中で、声を出して笑った。四月より、ずっと自然に笑えた。
雲の切れ間から日が差すと、水しぶきの霧が、光を受けて輝きだした。
「あ」ナナが指さした。「出た」
霧の中に、虹がかかっていた。
放水の白い束をまたぐように、七つの色が、くっきりと弧を描いていた。白一色の雪の世界を通り抜けた四月の旅の、その続きに、こんな色が待っていた。
歩はポケットのスマホに手を伸ばしかけて、やめた。画面越しに見る必要はなかった。水しぶきで濡れた顔のまま、ただ、その虹を見ていた。
「なあ、中道」虹川が、轟音に負けない声で言った。「来てくれて、ありがとな」
「……誘ったのは、僕だよ」
「知ってる。だから、ありがとなんだよ」
歩は返事をしなかった。代わりに、「うん」とだけ言った。
虹川は笑った。
「今のは、三種類のうちの、いちばんいいやつだな」
歩は空を見上げた。
四月、雪の大谷で見上げた空は、白い壁に挟まれた、細い川のようだった。今、ダムの上に広がる空は、どこまでも広く、遠くの山の稜線まで続いていた。
空は、もう細くなかった。




