木星の火
用語
ヘリオス・ダイナミクス:木星圏で創業した新興エネルギー企業。超流動分離法の実用化により急成長し、後に太陽系で最も悪名高い企業の一つとなる。
超流動分離法:ヘリウム3とヘリウム4が極低温下で異なる量子統計に従う性質(ヘリウム4はボース粒子として超流動化するが、ヘリウム3はより低温でなければ超流動化しない)を利用した、大気ガスからのヘリウム3分離技術。
精錬プラットフォーム:木星大気圏内を飛行船のように浮遊し、大気を採取・圧縮・初期分離する施設。
軌道エレベーター:精錬プラットフォームと木星の同期軌道上にある貯蔵施設を結ぶ、全長約8万8000kmの輸送インフラ。半世紀以上前に別目的で構想されながら凍結されていた計画を、ヘリオス・ダイナミクスが権利ごと買収して転用したもの。
本編は西暦2738年から2793年、木星圏を主な舞台とする。
一
氷室朔がその現象を初めて観測したのは、木星軌道上の小さな研究施設だった。西暦二七三八年三月のことだった。
超流動状態にまで冷却したヘリウム4の中を、ヘリウム3の同位体だけが異なる速度で拡散していく——理論上は知られていた現象だったが、これほど鮮明に、これほど効率的に分離が進む様子を、氷室は見たことがなかった。
「もう一度」
助手の芝村悠に、氷室は言った。
「もう一度、同じ条件で」
三度目の再現に成功したとき、氷室は自分の手が震えていることに気づいた。これは偶然でも、測定誤差でもない。ヘリウム3とヘリウム4が、極低温下でまったく異なる量子統計に従うという性質——ボース粒子であるヘリウム4は超流動化するが、フェルミ粒子であるヘリウム3はさらに低い温度でなければ超流動化しない——その差を、これほど単純な装置で、これほど大きな効率で利用できるとは、誰も想像していなかった。
「これなら」
芝村がモニタのデータを見つめながら言った。
「これなら、木星の大気からヘリウム3を、桁違いの効率で取り出せます」
氷室はうなずいた。頭の中にあったのは、金でも名声でもなかった。月や水星でヘリウム3を掘り続けている採掘労働者たちの映像。外惑星圏のコロニーが、いまだにエネルギーの多くを内惑星圏からの輸入に頼っている現実。もし木星の——木星圏の——大気そのものから、安価にヘリウム3を取り出せるようになれば。
「これで、外惑星圏は自分たちのエネルギーを、自分たちで賄えるようになる」
氷室はそう呟いた。それは善意だった。少なくとも、その時の氷室にとっては。
二
西暦二七三九年、氷室のチームは小型プロトタイプで、実験室規模の十倍の分離量を達成した。西暦二七四一年、ヘリオス・ダイナミクスは氷室の技術を事業化するため、木星圏の投資家連合から大型出資を取り付けた。
精錬プラットフォームの設計案がまとまったのは西暦二七四三年のことだった。木星の上層大気に浮かぶ、全長数キロメートルの気球型施設——高温高圧の木星大気を取り込み、圧縮し、超流動分離法によって粗抽出したヘリウム3を、さらに高純度へと精製する構造だった。問題は、そこからどうやって軌道上まで運び出すかだった。
ロケットによる打ち上げでは、採算が合わない。木星の重力は地球の二倍以上あり、大気圏からの脱出には莫大なΔVを要する。氷室のチームが出した答えは、軌道エレベーターだった。
実のところ、木星の同期軌道と大気圏とを結ぶ軌道エレベーター構想そのものは、氷室たちの発明ではなかった。半世紀以上前、木星圏の資源採掘コンソーシアムが大気採掘事業の将来性を見込んで基礎設計と軌道測量を行っていたが、当時は採算の取れる用途が見つからないまま計画は凍結され、権利だけが投資家連合の資料庫に眠っていた。
「あの凍結案件、まだ生きているはずです」
芝村が持ち出したのは、その古い設計図だった。放射線帯を通過するケーブル材の選定、基礎構造計算、係留点候補の座標——五十年以上前の技術者たちが積み上げた検討の大半は、超流動分離法という新しい用途にもそのまま転用できるものだった。
木星の同期軌道は、木星中心から約十六万キロ、雲頂からはおよそ八万八千キロメートル。凍結案件の設計もこの高度を前提にしていた。氷室たちが変更したのは、主に下端の係留方式だった。木星には固い地面がない。旧設計は軌道上の固定ステーション同士を結ぶ構想だったが、氷室のチームは、ケーブルの下端を大気に浮かぶ精錬プラットフォームそのものに固定する方式へと設計を改めた。
「本当に持つのか、これ」
芝村が図面を見ながら呟いた。基礎設計があるとはいえ、この高度を貫く構造物が実際に運用された前例はどこにもなかった。
「持たせる」
氷室は短く答えた。理論上は可能だった。あとは、それを現実にするだけだった。
建設は西暦二七四四年に始まり、五年を要した。ゼロからの設計ではなく、既存案件の権利買収と実装に特化した工期であり、半世紀前の基礎検討がなければ、この期間での完成はあり得なかった。西暦二七四九年末、精錬プラットフォーム「第一プロメテウス」と軌道エレベーターの建設が完了し、試験運用が始まった。
三
試験運用は順調だった。西暦二七五〇年一月、ヘリオス・ダイナミクスは正式な商業稼働の開始と、価格表を同時に発表した。
従来価格の五パーセントを下回る水準——氷室自身、経営陣がここまで踏み込むとは思っていなかった。段階的な値下げの方が、市場への影響は緩やかになる。氷室はそう進言していた。だが経営陣は、競合に対応の猶予を与えないことを選んだ。
「これでいいんだ」
氷室は自分に言い聞かせるように、芝村に言った。
「これでいい。技術が優れているから、価格が下がる。それだけのことだ」
発表から数週間のうちに、需要のほとんどが、木星圏からの安価なヘリウム3へ流れ始めた。
四
商業稼働の開始から一年と経たない、西暦二七五〇年内のうちに、月面と水星極地の採掘企業の株は、軒並み暴落した。
数世紀をかけて築かれてきた旧来の採掘産業は、その事業基盤ごと、価値を失っていった。地球連邦経済の少なくない部分が、この採掘産業と、それに連なる金融、保険、輸送の各業界に依存していた。連鎖的な株価下落は、やがて地球連邦全体の金融システムを揺るがし始めた。
後に「第三次世界恐慌」と呼ばれることになる不況の始まりだった。
氷室は、ニュース映像でそれを見た。地球圏の失業率上昇。年金基金の毀損。連邦議会での怒号じみた議論。誰かが、木星圏の——ヘリオス・ダイナミクスの——名前を、槍玉に挙げ始めていた。
「私は」
氷室は、誰に言うともなく呟いた。
「私は、エネルギーを安くしただけだ」
その言葉に嘘はなかった。だが、それが免罪符にならないことも、氷室はやがて理解することになる。
五
地球連邦は財政再建のため、外惑星植民地への課税を強化した。特にヘリウム3産業には市場安定化を名目とした特別負担制度が導入され、木星産ヘリウム3には旧来産業との価格差を埋めるための極めて高額な負担金が課された。最終的には販売価格を旧来水準まで押し戻すほどの規模となり、その実質的な負担率は約二千パーセントに達した。
外惑星圏の反発は、氷室が想像していたよりもずっと早く、ずっと強く広がった。自治権の要求は独立運動へ、独立運動はやがて、局地的な衝突へと姿を変えていった。氷室自身が、その一つひとつの決定に関わったわけではない。だが「ヘリオス・ダイナミクスの技術が、すべての始まりだった」という物語は、誰にも止められないまま、外惑星圏全体に広まっていった。
氷室は、技術者としての実績を買われ、ヘリオス・ダイナミクスの経営陣に加わることになった。本人が望んだ地位ではなかったが、断ることもまた許されなかった。
会社は、その後の数十年で、太陽系有数の——そして最も悪名高い——企業へと成長していた。内惑星圏では、氷室の名は「第三次世界恐慌を引き起こした男」として語られた。外惑星圏では、同じ名前が「独立への道を開いた男」として語られた。氷室自身は、そのどちらの物語にも、完全には同意できずにいた。
六
西暦二七九三年、外環評議会が地球連邦からの正式な分離を宣言する式典が、木星圏の首府コロニーで開かれることになっていた。
氷室は、もう若くはなかった。五十五年前、深夜の研究施設で見た小さな現象を思い出すことは、近頃めっきり減っていた。だが式典への招待状を受け取ったとき、氷室は珍しく、あの夜のことを鮮明に思い出していた。
「行きましょう、会長」
芝村が——もう若くはない芝村が——車両の扉を開けた。
「今日という日を、あなたが見届けないわけにはいきません」
氷室は頷いた。車両が動き出す。窓の外を、見慣れたコロニーの街並みが流れていく。
銃声は、一度だけだった。
護衛が制圧するまでの数秒間、氷室は自分が撃たれたことに、ほとんど気づかなかった。ただ、芝村の顔が、驚くほど近くにあることだけを覚えていた。
犯人は、その場で拘束された。取り調べで語られた動機は、単純だった。父は、外惑星自治運動の初期の衝突で死んだ。祖父母は、その後の混乱で故郷のコロニーを追われ、二度と戻れなかった。すべての始まりは、氷室朔という一人の技術者の発明だった——彼はそう信じていた。
理不尽な物語だった。だが、理不尽であることは、その物語が力を持たない理由にはならなかった。
氷室は、式典の開催を見届けることなく、その日のうちに息を引き取った。
内惑星連合の教科書は、氷室朔を、旧文明の経済を意図的に破壊した、太陽系史上最も悪名高い人物の一人として記述することになる。外環評議会の教科書は、同じ人物を、外惑星圏に真の独立をもたらした技術者として讃えることになる。どちらの物語にも、氷室自身の——ただ安価なエネルギーで、誰かの暮らしを楽にしたかっただけの——素朴な動機は、あまり登場しない。
(了)
――本作の技術設定について
超流動分離法とヘリウム3
現実の物理学において、ヘリウム4はボース粒子として絶対零度近くで超流動状態に転移しますが(転移温度約2.17K)、ヘリウム3はフェルミ粒子であるため、超流動化にはさらに低い温度(約2.5mK)を必要とします。この量子統計の違いにより、極低温下での両同位体の挙動は大きく異なり、現実の研究でも、この性質を利用した同位体分離手法が検討されています。本作の「超流動分離法」は、この現実の物理現象を大幅に高効率化したものという設定です。
軌道エレベーターと精錬プラットフォーム
木星の自転周期(約9.9時間)から計算される同期軌道は、木星中心からおよそ十六万キロメートル、木星の雲頂からは約八万八千キロメートルの高度にあたります。木星には固体の地表が存在しないため、軌道エレベーターの下端を地上に固定する、地球型の空間エレベーター概念はそのままでは使えません。本作では、大気圏内に浮遊する精錬プラットフォームそのものをエレベーターの下端の係留点とする設計を採用しています。
このエレベーター自体は、ヘリオス・ダイナミクスが一から設計したものではなく、半世紀以上前に木星圏の資源採掘コンソーシアムが構想し、採算難で凍結されていた計画を権利ごと買収し、係留方式を精錬プラットフォーム対応に改めて転用したものという設定です。基礎構造計算や放射線帯対策など、長期にわたる先行検討が既に存在していたことで、五年という建設期間が成立しています。ただし木星は強力な放射線帯を持つため、この高度を貫くエレベーター構造物の建設・維持は、現実の工学的課題としても極めて困難であることが指摘できます。
建設に先立ち、エレベーター予定軌道上の安全確保のため、木星内側衛星であるメティスおよびアドラステアについて軌道除去作業が実施されました。両衛星はいずれも半径十数キロメートル程度の小天体であり、新たな安定軌道へ移送するよりも、逆行方向への減速噴射によって徐々に高度を下げ、最終的に木星大気圏へ突入させる方が必要ΔVは小さく済むと判断されました。この除去作業は数年をかけた低推力の減速運用であり、両衛星は最終的に木星大気中で燃え尽きています。木星大気全体の質量と比較すれば、この規模の天体の突入が及ぼす影響は無視できるほど小さいと考えられます。
第三次世界恐慌の経済構造
基本設定に示されている通り、月面・水星極地の採掘産業を基盤とした旧来の資源経済は、外惑星圏でのヘリウム3供給量の急増によって崩壊しました。本作は、この供給拡大の技術的起点を、木星圏の一企業による超流動分離法の実用化として具体化しています。商業稼働開始と同時に価格が従来の五パーセントを下回る水準まで引き下げられたことで、一年足らずのうちに月・水星の採掘企業の株価が暴落し、地球連邦経済圏全体に波及したという想定です。
天王星・海王星の大気組成上、天王星・海王星に採取施設ができればより価格は下がります。




