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第一話 渦の兆し

 慶応3年(1868年)11月初頭――。若松の空は、どこまでも重く、どこまでも冷たかった。

 雪は音もなく降り続け、屋根を、道を、そして平馬の心まで覆い尽くしていく。

 渡辺平馬は、往来の端を歩いていた。褐色の羽織の裾を汚すことも構わずに。家禄僅か30石。開国に伴う物価の高騰により、暮らし向きは厳しかった。

 平馬は、城下外れの長屋に戻ると、襦袢の裾を振り払うようにして凍った藁の上に腰を下ろした。炊事場のかまどに火の気はなく、部屋には痩せた母の咳だけが響く。

「……また、何も買えなかったのかい」

 せつの声は優しかったが、その優しさが刺さった。武士の家に生まれてなお、白米は夢物語、味噌汁一椀に涙する暮らし。平馬の父は、平馬が幼い頃、会津藩主・松平容敬(かたたか)を護衛中、暗殺者の刀を受けて命を落とした。家名は残った。だが、禄が増えることはなかった。平馬は、その意味を知っていた。家が貧しいからではない。上意に近づけぬ家柄だからだ。

「……父上が命を賭してお守りしたお方の治める藩で、これほどの困窮とは……」

 母はかすかに笑みを浮かべた。

「よいのです。生きてさえいれば、それで……」

 だが、平馬には、その「生きる」ことすら先を見通すことができなかった。

 その夜更け。戸口を静かに叩く者があった。

「……この時分に、誰だ」

 出迎えると、寒風のなかに立っていたのは村岡清四郎。平馬の幼馴染であり、いまや藩政に連なる若手の士だ。

「この時分に珍しいな?」

 ためらいながらも清四郎を中に通そうとする平馬。清四郎はこれを制し、抑揚もなく告げた。

「神谷様がお召しだ」

「今からか?」

 平馬の問いに清四郎は無言で首を縦に振った。

「神谷様からのお召しとのこと。母上は先にお休みになってください」

 平馬の言葉に母が頷くと、平馬は清四郎と共に冷たく暗い道を歩き出した。


 しばらくして神谷の屋敷に着いた平馬は、清四郎と共に屋敷の奥に導かれた。そこに一人、目を閉じて座り込む男がいる。

 会津藩御目付役、神谷左京――。藩内でも一、二を争う切れ者と評判の男である。清四郎が端に控える中、深々と頭を下げる平馬。居直る平馬に神谷はゆっくりと口を開いた。

「急ぎお主に頼みたいことがあってな」

「お頼みごと、でございますか?」

 平馬が問うと、神谷は茶を一すすりして口を開いた。

「徳川様が(まつりごと)を天子様にお返しなされたことは聞き及んでおろう?」

 頷く平馬。

 この年の10月14日、京の二条城で第15代将軍徳川慶喜が政権返上を天皇に奏上、翌15日にこの奏上が勅許された。いわゆる大政奉還である。

「返上したとは言え、朝廷にこの国を統べる力はなく、天子様はしばらくの間、徳川にこれまで通りの政をお命じになられたのだが、これを不服とする薩摩が不穏な動きを見せているとの報せが江戸からなされた」

「不穏な動きとは?」

 喉を潤すかのように再び湯呑に口を移す神谷。一息ついた神谷は、続けた。

「今この時、もしお主が薩摩の立場なら、どう動く?」

 平馬は一瞬、言葉を失うも、言葉を選びながら答えた。

「……徳川を怒らせます」

「さすがだな」

 神谷の口元がわずかにほころぶ。

「騒ぎを起こし、怒らせ、討たせる。刀を抜かせた側を逆賊に仕立てる。それが奴らの狙いだ」

「しかし、江戸で騒動があっても、我が藩の行く末とは無関係ではございませぬか?」

「確かに。しかし、薩長が集めた浪士が北に向かう、としたら?」

 にわかに神谷の表情が険しくなる。

「もしや会津に?」

 わずかに頷く神谷。

「奴らが果たしてどこに向かうのか……。その動き次第では我が藩にも火の粉が降りかかるおそれがある」

 真剣な眼差しのまま頷く平馬に、神谷は続けた。

「そこでだ。お主に奴らの動向を探ってもらいたい」

「間者になれ、と?」

 家柄ゆえの捨て駒――。平馬の言葉にわずかばかりの怒気が宿る。窮するとはいえ会津武士としての誇りを失ったわけではない。これを察しているかのように神谷は続けた。

「今我が藩が表立った動きをすると薩摩を刺激し、(いくさ)になるおそれもある。無役とは言え、お主の文武の才は皆が認めるところ。頼まれてくれぬか?」

 平馬は心を静め、目をつむった。脳裏に浮かぶ父母の姿。そして――。

柚羽(ゆう)――)

 わずかな平馬の機微を見逃す男ではなかった。神谷は穏やかに続けた。

「決してお主と柚羽の中を割こうというわけではない。このような大役、お主だからこそ任せられるのだ」

 顏を伏せる平馬。

「危険な役目ではあるが、無事に戻れば祝言を挙げることも許そう」

 神谷の言葉に端に控える清四郎の視線が、その口元とともにわずかに動いた。顔を上げる平馬は、神谷に視線を向けた。その先で微笑む神谷。

「もちろん、お主の母堂の心配もいらぬ」

 ようやく平馬が口を開いた。

「……少し、考える時間を」

「そうは待てんぞ。世は風雲急を告げているでな」

 平馬は深々と頭を上げると、神谷に背中を向けた。背中越しに神谷の言葉が届く。

「会津武士としての正しい判断を願う」

 その言葉の奥には無言の圧があった。言葉を合図に控えていた清四郎も立ち上がり、平馬を屋敷の外へ誘っていった。

「平馬様!」

 平馬が屋敷を出ると人影が声を上げた。聞きなれた女の声。その声だけで平馬の胸は痛んだ。

「柚羽……殿」

「この時分に平馬様のお声が聞こえましたので、もしやと思い……」

「急遽お父上が平馬をお召しになりましたので」

 平馬に代わり清四郎が口を開いた。

「何かご都合の悪いことでも?」

「新しいお役目の話です」

 平馬は努めて穏やかに言葉を紡いだ。そして、柚羽に一礼すると屋敷の外へと歩き出していった。

 そんな平馬の姿が夜の闇に消えてもなお、柚羽は不安げな眼差しでみつめていた。

 雪は静かに降り続けていた。


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