第九話『過去に立ち向かうということ』
屍者の帝国。
僕の半身、あるいは全てを形成した『彼女』が愛してやまなかった冒頭三十枚の但し書き。円城塔が書き継いだ本編も、本編の設定を改変することで新たなストーリーを紡いだ映画も、彼女は決して閲覧しようとしなかった。彼女は伊藤計劃の著書を愛していたが、彼の墓の上で不躾に踊る者達の戯言を、死者を理解したと嘯く者共の自分語りを嫌っていたのだ。
評価という調和、彼を称えよ、金の生る死者は止められない。彼女の『読書』に対するこだわりは、殺人と同じ狂気を孕んでいた。いつぞや『彼女』を読書狂いと評したのはそういうことだ。あるいは彼女の選ぶ作品こそが、死と狂気の源泉であったのかもしれない。
話を戻そう。仮に死んだ人間の蘇る世界が実現したとして、蘇りの秘儀がなされたとして、果たして『彼女』は蘇生するのだろうか。肉体だけをこの現世に留め、記憶、または魂、あるいは〇・七五オンスの霊素とも言うべきものだけが消え去ったあの殺人狂は、死者に分類されて蘇るのか、それとも――。
「私があなたの前に現れるのも、多分これが最期になるわ。『さよなら、わたし。さよなら、たましい。もう二度と会うことはないでしょう』」
幻覚のくせに出没し過ぎだ、と僕は独り言つ。最後の言葉が『ハーモニー』の引用文であると瞬時に分かるくらいに、今の僕は平静であった。慣れというものは本当に恐ろしい。
「これからあなたは過ちを清算しに行くのでしょう。それはつまり私という過去の残骸に、あなたの中の『私』が形骸化した幻覚に見切りをつけるということ。一歩、前に進むということ」
ごめん。そう言って頭を下げるが、幻聴はぼくの謝罪を豪快に笑い飛ばす。
「どうして謝るの……。例え『私』が消えてしまっても、あなたの頭の中にある『私と過ごした記憶』は消えてなくなったりしないわ。思い出はあなたの脳に蓄積されて、いつだってあなたを支えてくれる。それって実はとても幸せなことなのよ……」
「でもお前は、僕を忘れてしまった」
「だからこそ、よ。あなたは私を忘れないで。あなたが私をずっと覚えていてくれるように、私はこれからもあなたを見守り続ける。だって私はあなたを――愛しているんだもの」
頑張ってね、と言い残し、幻聴は止んだ。幻覚は現実に融和し、視界から姿を消した。彼女の言う通り、二度と話しかけてこないのだろう。
本当は分かっていたのかもしれない。あれは僕の創り出した妄想の産物。僕が弱いから、僕が抱く彼女のイメージを勝手に具現化していたに過ぎない。そうすることで、彼女の偶像に見守られているという安心感を得ようとしたのだ。
『彼女』はもういない。僕を助けに現れないし、声をかけてもくれない。僕はこれから自分の力で立ち向かわなくてはならない。
「有十」
宮島 有十の部屋の前に立ち、彼女の名を呼ぶ。彼女を引きずり出そうとあの手この手を使って奮闘していたスタッフには一旦退いてもらい、僕は一人、有十と一対一の対話に挑む。
呼びかけてから三分程経過しただろうか。がちゃん、と鍵の開く音がした。入室を許可する合図だと判断し、ドアノブを捻って足を踏み入れる。
有十は勉強机に腰掛け(すぐ目の前に椅子があるにも関わらず)、隣に積み重ねた書物を読み漁っている。彼女には珍しく、紫色のフレームが魅惑的な眼鏡をかけている。真剣な眼差しで本に向かい合う彼女の姿に、かつての『少女』の面影が垣間見える。
能力を使えば座ったまま扉を開ける、なんて芸当も容易いだろう。しかし彼女は僕が部屋に入ってきてもなお、腰を上げようとはしない。それどころか顔も向けてくれない。
沈黙だけがこの場を独占し、重苦しい雰囲気が僕の呼吸を乱す。対して有十は落ち着いた様子で本に視線を滑らせながら、
「用がないなら出て行って。もし何か用事があったとしても、目障りだから消えてもらえるかしら。見ての通り、私は忙しいの」
「謝りに来た。有十の過去について――黙っていて、ごめん」
「道開は『人類史上最低の実名なき殺人狂』ではなく、この私こそが幾千という人間で死者の大山を築いた狂い人だった。あなたは私のことが好きで、私はあなたが好きだった。そうね、驚くに値する過去だったわ。あなたが必死になって隠したがるのも無理はない」
「本当は隠すべきじゃなかった。全部きちんと説明して、お前の隣にいるべきだったんだ」
「いいえ、あなたは正しかった。全てを知った今、死にたくて死にたくて仕方がないもの。知りたくなかった。ええ、知りたくなかったわ、こんな狂った過去。私はこれからどんな顔をして生きていけばいいのよ。私に殺された人達は、遺された家族や友人はどうなるの。殺人狂である私が、非行敷で毎日ぬくぬくと幸せに暮らしていると知ったら、ねえ、どうかしら……」
トーン声調が次第に高くなる。有十は決して目を合わせてくれないが、ぽたり、ぽたりと液体の粒が本に当たって弾ける音が聞こえる。
「何が『幸せになってもいい』よ、空巣さんの嘘吐き。幸せになる資格なんて、最初から無かったじゃない――まだ、間に合うはず。死ねば、皆許してくれる」
彼女の姿を直視していられず、僕は彼女が手に取っている本に視線を逃れた。次いで机に積み重ねられた本にも目を向け、それらの題目を確認する。
自殺。自死。安楽死。スーサイド。ファイナルイグジット。どの本にもこの手のワードが含まれている。いつの間にこれだけの本を買ってきたのかは分からないが、題目といい装丁といい、いずれの書籍も『自殺なんてするべきではない』、『生きる希望を見つけよう』といった自殺予防を謳う類の作品にはとても見えない。窮地にある人間を更に追い詰めてしまうような本が平然と書店で販売されていることを思うと、胸糞が悪くなる。
「馬鹿な真似はよせ」
「あは、はは。怖くない。怖くない。だってこれは償い、私が悪いのよ。でもどうして……。本を読んでも冷静になれない、体の震えが止まらないの。何でかしら。駄目よ、私は死にたいんだから震えちゃ駄目。止まってよ。止まれって言ってるのに!」
有十は頭を抱え、泣き叫ぶ。机に何度も踵を打ちつけ、湧き上がる恐怖をどう吐き出せばいいのか分からず、暴力として周囲にぶつける。発狂してもおかしくない真実を突きつけられ、混乱するなという方がどうかしている。落ち着け、落ち着けと繰り返し彼女を宥めようとするものの、こんな気休めの言葉で彼女が平常心を取り戻せるとは到底思えない。
「道開、あなたが今こうして私を心配してくれるのは、私があなたの愛していた『彼女』だから……。だったら私のお願いを聞いてくれる……」
机から飛び降りた有十は床を思い切り蹴飛ばし、僕に接近する。その衝撃で本が床に散乱し、顔から落ちた眼鏡が本の山に埋もれる。彼女は泣き疲れて目元が赤く腫れた顔をぐいと近づけ、充血した瞳をかっと見開いた。
「私を殺して。今すぐ楽にして」
今まで、殺人狂としての『彼女』に出会ってから一度として聞いたことのない嘆きを、有十はぶつけてくる。それと同時に、彼女は僕の右腕の裾に手を伸ばす。そこにナイフが隠されていることを彼女は知っている。そのナイフで自分を殺してくれ、とでも言いたいのだろうか。
「止めろ!」
僕は有十を乱暴に突き飛ばした。両肩を手の平で強く押しやり、僅かに滑り出ていたナイフを慌てて裾の奥に収納する。
押し飛ばされて尻餅をつく有十。床を這いずり、涙の跡を描きながら、彼女は僕の足にすり寄ってきた。殺してくれ、私の首を切り裂いてくれと叫びながら。
そんな彼女の姿を目の当たりにしていると、僕もつられて泣きそうになる。己の過去に完膚なきまでに叩きのめされ、自ら死を懇願する有十。それを見てまた逃げ出してしまいたいと考えている自分に、絶望せずにはいられなかった。
手が、足が震える。もう一月も経てば夏だというのに、寒気が絶え間なく全身を襲う。
責任だとか愛だとか、そんなものを放り出してさっさと逃げてしまえばいいのに、僕は何故そうしないのか。彼女の頭を蹴たぐり、前と同じように彼女を見限ってどこか遠くに行けばいい。非行敷という都合の良い捨て場所に彼女を投棄し、束の間の解放感に一人で酔い痴れていたあの時のように。
甘言を弄するのは、あの聞き慣れた幻聴ではない。僕自身の声だ。追い詰められて浮き彫りになった僕の弱さが、楽な道に僕を誘導しようとする。行先はひとりぼっちの地獄、『彼女』に出会う前の僕がいた場所だ。
僕の『弱さ』に、幻聴の纏う正しさは微塵も感じられない。度々現れた幻聴は煩わしいことこの上なかったが、僕が僕であるための、僕が前に進むための方法を示してくれた。それに比べ、この声は弱者が体の良いよう取り繕うための戯言でしかない。
空巣さんに教えられ、幻覚に励まされ、そして決めたのだ。
「宮島 有十。お前は『彼女』じゃない」
空巣さんがそうしたように、僕は有十を抱き締める。遠慮がちにではなく、強く、これまで培ってきた思いの分だけ力を込めて抱擁する。
「罪のない人々を虐殺したのは有十じゃない。犯人は『彼女』で、『人類史上最低の実名なき殺人狂』だ。殺人に対する責任を負うべき人物は、記憶喪失という形でこの世界から消滅した。僕の愛する人はもう――死んだんだ」
『彼女』の死を認める。言葉の持つ力で『彼女』を殺す。有十が背負おうとしている十字架を取り上げるには、これ以外に方法がなかった。過去を殺して今を生かす。殺人狂の偽者として『人類史上最低の実名なき殺人狂』を自称しながら、誰一人として殺す覚悟のなかった僕が初めて手にかけた相手が『彼女』とは、神様も粋な罰を与えたものだ。
「何それ」
僕に体重を預けるように体をもたれ、有十は声を荒げる。
「そんな屁理屈、許容できるはずがないじゃない!道開はそれで納得できる……。ねえ、許されると思う……」
宮島 有十。
彼女は本当に良い子だ。人を殺したのは『彼女』であって有十ではない、とは僕の主張だが、有十が先に言いだしてもおかしくはなかったはずだ。例え批難されようとも人を殺し続けたのは過去の自分であって今の自分ではない、そう突っぱねることだってできたのに、有十は『彼女』が犯した大罪に責任を感じている。身に覚えのない罪を受け入れようとしている。
だからこそ僕は彼女に死んで欲しくない。僕は、有十のそういうところが大好きだから。
「有十。もしお前が誰からも許されないなら、自分で自分を許せないなら、許されるように、許せるようにこれから努力すればいい。生きていればその償いができるんだよ。だからお前は生きていい。生きて――幸せになっていいんだ」
「あ、ああああ――」
彼女の叫びに胸が締めつけられる。それがあの凛然たる態度で常にどっしりと構えていた殺人狂から発せられた声だと思うと、ますます『彼女』と有十が全くの別人であると認識させられる。
「怖い、怖いよ、道開。私は生きるのが怖い。もう何も知りたくない」
知りたくない。あれ程己の過去を知ることに固執していた有十が、全貌を知ってしまったために抱いた新たな願望。だがそれは目を背けているだけだ。いつかは振り向いて、そして直視しなければならない。
「大丈夫だ、有十。これからは僕がそばにいる。お前の罪が許されるその時まで、お前が罪を許せるその日まで、僕がずっとお前を守り続ける」
今度は絶対に離れたりしない。それは彼女を励ます言葉であると同時に、真実から目を背け、現実を直視しようとしなかった僕自身の戒めでもある。
僕はもう、逃げない。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
有十の持つ集音機能を内蔵したボールペンには、彼女と西苛のやり取りが記録されている。有十が傷つきながらも持ち帰った情報は、彼女自身の手で空巣さんに渡された。
涙を拭い、ボールペンを手渡す有十と、彼女を優しく抱き寄せる空巣さんを見ている内に、目が潤んできた。上を向いて必死に涙をこらえ、僕はその場を離れた。
録音された内容の確認は後に回すとして、今は六花の容態が気になる。彼女が具体的に何をされたのかは分からないが、まず全快しているとは思えない。駆け足で彼女の部屋に向かうと、扉の前にマイク・スターリーが控えていた。僕の姿を見止めると、扉を少し開け、部屋の中で六花の看病をしているスタッフに少し席を外すよう声をかける。僕と六花が二人きりで話せるように取り計らってくれたのだ。
「大人は子供の成長を邪魔する生き物だからな。それで、清算は済ませたか……」
「おかげさまで。平穏無事に、とはいきませんでしたが」
はっ、と彼は笑う。
「それでいい。子供は自力で立ち上がろうと転んで躓いて、そうして成長するもんだ」
マイクは満足そうに頷き、スタッフを連れて立ち去った。
空巣さんと意見の食い違いはあれども、マイクはマイクなりに僕達のことを気にかけている。子供の成長を邪魔するなんてとんでもない、彼のような手法で子供の成長を手助けする人もまた立派な大人だと僕は思う。
部屋に入ると、六花はどこか眠そうな表情で僕を見つめる。お兄ちゃん、と呟く声には生気と呼べるものがほとんど感じられない。僕はベッドの空いたスペースに腰を下ろし、
「ほら、六花の大好きなお兄ちゃんが来たぞ。具合はどうだ」
力なく微笑む六花。血行が悪いわけではないのだろうが、まるで死人を見ているような、不気味の谷を越えられない3Dモデルの纏う不安定さが見て取れる。
「お兄ちゃんは人を殺した時、どんな気持ちになりましたか……」
「六花」
「私、人を嫌いになったことはあります。たくさんあります。殺したいとまで考えたことはありませんでした。でも私は今、あの子を殺してしまいたいと思っているんです」
六花は俯く。
「分かっています。悪い子ですよね、私って。憎くて憎くて仕方がなくて――私が何をしたんだろうって考えてしまうんです。私は西苛ちゃんと友達になりたかったのに。今はそんなにたくさんお話できなくても、いつか一緒に遊びに出かけたり、ご飯を食べたり、空巣さんや有十ちゃん、それにお兄ちゃん、皆で笑いあえたらいいな、って。私が望んだものはそれだけなのに、どうして、何でいつもこんな目に」
今の六花に伝えるべきなのだろうか。僕が殺人狂ではないこと、有十こそが本当の『人類史上最低の実名なき殺人狂』であったこと。
僕には、誰かを殺した時の気持ちなんて分からないことを。
「大丈夫だよ、六花。お兄ちゃんがついている」
僕はそう言って、彼女の髪に触れた。普段は艶やかな美しさを醸し出すその髪も、今はぼさぼさに乱れて見る影もない。シャワーを浴びて髪を整える余裕も、気力もないのだろう。改めて、彼女をここまで追い詰めた犯人に対して沸々と怒りが湧いてきた。
「僕が全部終わらせる」
西苛の企みを阻止し、六花の前で謝らせてやる。最悪、刺し違えてでも――。
「殺しちゃ駄目です!」
六花が発した声の大きさに驚き、ぼくは飛び上がった。一体何事かと思い彼女の顔を見ると、潤んだ瞳でぼくを凝視していた。
「絶対駄目です」
「西苛を殺したいって自分で言ったばかりじゃないか」
「殺したいから殺すなんて、まるで殺人狂です。確かに私は彼女が憎いです。でもきっとやり直せると思うんです。今度こそ、友達になれると信じています」
「いや、一応僕は殺人狂なんだけど」
つい嘘を嘘のままつき通してしまった。訂正する暇もなく、六花はぶんぶん首を横に振る。
「お兄ちゃんは『元』殺人狂です。今は私の、その、大切なお兄ちゃんです。だからお兄ちゃんは死なないで下さい。殺しも駄目!」
六花が取り乱す様に呆気に取られていると、どういうわけか笑いがこみ上げてきた。「どうして笑っているんですか!」と怒られても、僕は顔を綻ばせずにはいられなかった。
彼女はまだ精根尽き果ててなどいない。他人を、ましてや自分に危害を加えた相手を思いやるだけの気力が残っている。良かった、本当に良かった。先程から自分の意思でも止められないこの笑顔は、六花が無事だったという安堵から来るものだったのだ。
有十に全てを話した。六花の無事も確かめた。
後は、彼女だけだ。
六花の看護は引き続きスタッフに任せ、僕は空巣さんの許へと向かった。有十が入手した情報に西苛を打倒するためのヒントが隠されているかもしれない、という可能性を考慮し、僕にも録音した会話を聞かせて下さいと頼んだところ、
「駄目だ」
開口一番、空巣さんは僕の要望を退けた。
「これから先は君達が気軽に立ち入っていい話ではない。大人が解決すべき問題だ」
それ以上の会話は望めず、空巣さんは呼び止めにも応じることなく屋敷を出て行ってしまった。各階層を走り回る多忙なスタッフらを無理に引き止めて尋ねてみても、答えは同じだった。頼みの綱であったマイクも知らぬ存ぜぬを決め込み、空巣さんの後を追う。
いきなり万事休すだ、何ともはや情けない。
ここは恥を忍んで西苛にもう一度電話をして訊いてみるか。すみません、今からあなたをぶっ飛ばしに伺いたいのですが、あなたに関する情報を洗いざらい吐いてはいただけないでしょうか――馬鹿馬鹿しい。仮にお情けで情報を手に入れたとして、そんなものに何の価値があるというのか。万が一訊き出せたとして、それが真実である保証はどこにもない。
西苛は恐ろしく抜け目ない。その軽快な口調とは裏腹に『段取り』が堅実過ぎるのだ。一人は殺人狂(を気取ってナイフを振り回す危ない男)、一人は引力と斥力を操る有能力者(そして本物の殺人狂)、この二人を抑え、守りが外れた隙に六花を狙う。再度行うであろう六花襲撃に備え、僕と有十の仲を分断し情報の共有を防いだ。このままでは西苛の思惑通りに事が運び、僕達は破滅に追い込まれる。それだけは何としても避けなければならない。
それに、六花との約束も守らなければ。
西都原 西苛を、僕達をここまで陥れた黒幕を殺さない。そして僕も死なない。後者を順守するのは容易い。僕は死ぬに死ねない体なのだから、かえって死ねと言われる方が難題だ。
しかし前者は、無事に守りきれるだろうか。
「月が綺麗だね」
有十から直接話を聞いた方が早いか、と思い立った矢先、何の前触れもなく、最初から一緒にいたと言わんばかりの態度で、西苛は僕の隣を歩いていた。窓の外に広がる夜の景色に感嘆の溜息を漏らし、
「君もそう思うだろう、夢路 道開くん」
「西都原 西苛!」
言いたいことは数あれども、まずは捕縛しなければ何をしでかすか分かったものではない。瞬時にそう判断した僕は、見慣れた薄ら笑いを歪めるつもりで上段蹴りを繰り出す。
「駄目駄目、まるで形になってない」
そっと差し出された彼女の両手に僕の足が収まる。そのまま蹴り抜こうと力を籠めるが、びくともしない。
「蹴りっていうのは如何に腰と軸足を捻るか、蹴り出すぎりぎりまで膝を畳んでおけるかどうかでその威力が決まる。蹴りが当たった時、足がぴんと伸びきっているようでは話にならない。君の蹴りは全てにおいて素人同然、上体は反り過ぎているし、顔も相手を見ていない。言ってしまえば『ただ足を上げた』だけだ」
西苛はお返しとばかりに力強い蹴りを放った。そのまま行けば僕の脇腹を抉ったであろうその蹴りは急遽軌道を変え、脇腹ではなく太腿を叩いた。鉄の塊で撃ち抜かれたような衝撃に僕は思わずよろめく。その隙を突いてすぐ横を通り抜けた西苛。彼女の行先は先程まで僕がいた場所、六花の部屋だった。
だが異常を察知した非行敷のスタッフ達が瞬く間に駆けつけ、西苛を包囲した。流石は有能力者の更生を生業とするスペシャリストというべきか、彼女の足を止めることに成功する。合計五名のスタッフによる包囲網の輪がじりじりと小さくなっていくが、西苛に不安の色は見られない。
「金を集る奴隷の分際で、パトロン様に逆らおうっていうのかい」
スタッフの間に動揺が走る。多額の資金でもって非行敷を扶助する富豪、西都原の息女と敵対してしまってもよいのか。そんな懸念を西苛は見逃さなかった。彼女は一番体格の良いスタッフに飛びつき、恐怖に歪んだその顔を右手で鷲掴みにする。
「『手にした物体に加速をもたらす能力』、《魔弾遊び》」
西苛の手という銃身から撃ち出されたスタッフの体はまさに弾丸の如く、屋敷の壁をぶち抜いた。勢いが衰えることなく、屋外に広がる木々を圧し折る筋肉質の体は砲弾のようでもあり、折れた木が大地を揺らす頃には、スタッフの姿は闇夜に紛れて見えなくなっていた。
一斉に身構えるスタッフの中に、後退して西苛から距離を取った女性が一人。小枝のように細い手にはなんと拳銃が握られている。ところがトリガーに指をかける時間は与えられず、懐に飛び込んできた西苛がその銃を取り上げてしまう。
「ブローニングM1910か、良い趣味してるね。『対象を金銭に取り替える能力』」
拳銃が黄色い閃光を発し、万札の束となって西苛の手に収まっていた。西苛はぐしゃりと握り潰した万札を持ち主の口に無理矢理ねじ込み、喘ぐ女性の頭を壁に叩きつけて気絶させた。
「ここは日本だよ、気軽に撃っていいのは自由の国に生まれた人だけだ」
残るスタッフは三人。その内の一人が突然奇声を上げて倒れ、全身を爪で掻き毟りながら床を転がり始めた。他二名のスタッフに異常はなく、同僚の奇行に目を奪われている。
「『何百匹もの芋虫に体を食いちぎられる幻影を見せる能力』、そして」
西苛が指を鳴らした途端、屋敷全体が激しく揺れる。それに合わせて床が液体のように波打ち、柔らかくなった床材の一部が二人のスタッフを閉じ込める牢獄へと形を変えた。
「『周囲の物質から牢屋を作り出す能力』で、最後はこれ」
牢獄の中でスタッフは互いに歩み寄り、体を密着させる。こんな時に何をいちゃついているんだ、と叱りつけるが、二人は離れようとしない。苦しそうに呻き、骨が軋み、腕や足がおかしな方向に曲がっても近づこうとするスタッフ達を西苛は指差し、爆笑している。
「『対象を磁石にする能力』。その磁力は対象の大きさに比例するから、人間大となればぺしゃんこだね」
悲鳴、そして叫声。有能力者にとって安心安全な場所であるはずの非行敷は、西苛の独擅場と化してしまった。
「お前、複数の能力を扱えるのか」
「そういえば道開くんには説明していなかったね。僕は他人の能力を奪ったり与えたり、更には自分で使ったりもできるんだ。今見せた能力は僕が有する能力のほんの一部だよ」
「ちなみに訊いておくが、何個くらい持っている……」
「二百はあったと思うんだけど、普段使わない能力もあるから分かんないや」
――ふざけろ、と僕は心の中で悪態をついた。
桁外れの力を所持し、なおかつそれを扱いきってみせるという離れ業を可能にする少女、西都原 西苛。彼女こそ、再生能力しか持ち合わせていない僕よりもずっと『有能力者』と呼ぶに相応しい存在なのかもしれない。
「学校で怪物同士が戦っている、なんて相談をしてきた時のお前は随分と可愛く見えたんだけどな。結局あの話は嘘だったが、今のお前はまさに怪物そのものだ」
「否定はしないよ。一般人から見れば有能力者はみんな化け物だ。それに今更お世辞を言ってぼくが気を許すと思っているのかい……」
まさか、と僕は笑う。良い笑顔も悪い笑顔も含めて他人の笑うところばかり見てきたせいか、そういえば僕も笑えるんだと気づく。
「お前が気を許す以前に、僕がお前を許さないよ」
僕は走り出す。空巣さんのように己の肉体だけで相手を圧倒する格闘術を体得しておらず、徒手空拳に自信のない僕にはやはり『これ』を使う他、西苛に対抗する術がない。
「またナイフかい。芸がないねえ、道開くん」
不意打ちを食らわせるべく、僕は袖から飛び出すナイフを手に持たず、そのまま腕ごと前方に突き出した。掌底と共に放たれた白刃は限りなく直線に近い曲線を描き、西苛の頬を掠める。掠り傷にも含まれない僕の一撃はしかし、西苛のささやかな焦慮を引き出すことに成功する。
彼女から遠ざかっていたナイフは一度止まって進路を反転し、僕の額に、頭蓋骨に、脳に深々と突き刺さる。西苛の能力によるものだろうが、彼女がどれだけ便利な力を有していたとしても、ナイフ如きでは僕を殺すに至らない。
僕はナイフの柄を両手で握り、真っ直ぐ引き抜いた。空を切って血を掃い、今度は西苛の肩目掛けて刃を振り下ろす。彼女はひょいと後ろに避けると、僕の手をナイフもろとも掴んで引き寄せた。そして僕の腕を腋に挟み、肘を軸に折り曲げる――手筈だったのだろう。しかし一連の所作を既に体験し、次に何をされるのか瞬時に悟った僕は、彼女の拘束を振り解いて反撃に転じる。
「お前の攻撃はお見通しだ!」
お見通し、と息巻いたはいいが、以前空巣さんに同じことをされたから対処できただけで、実力でも何でもない。それに『対処』というのも、背中を向けた西苛に体当たりを食らわせるというお粗末なものであった。
《魔弾遊び》で吹き飛ばされたスタッフが、文字通り体を張って開けた穴を通り、僕達二人は野天に投げ出された。
二階から飛び降りた、といえばさほど大事ないように思える。ところが非行敷はそこらのアパートとはスケールが違う。現に僕の目には、雑草生い茂る地面が遥か遠くに見えている。
運が良ければ打ち身、悪ければ骨折。最悪、首の骨を折って死ぬかも分からない。そんな恐怖を武器に、僕は地面に降り立つ時の対処を度外視して、同じく落下する西苛に掴みかかった。
「このまま頭から落ちたくなければ降伏しろ!そして六花に謝れ!」
西苛に受け身を取らせないために、がっしりと羽交い締めにして頭を地面に向ける。このまま落ちて行けば二人仲良く頭の中身をぶちまける羽目になるだろう。
しかし、それでもやはり西苛は笑っていた。
クソクダラナイ。そう言い残し、西苛は爆散した。顔に亀裂が走り、裂け目は彼女の体を真っ二つに引き裂き、爆風と共にその姿を消したのだ。
風に煽られ、僕は地面を転がりながら着地する。それがかえって落下の衝撃を分散し、首を折るどころか無傷で立ち上がるという幸運に繋がった。
闇に輝く非行敷の光は、先程通り抜けた穴から零れ出ている。注意深く目を凝らすと、そこには目を閉じたまま動かない六花と、彼女を愛おしそうに抱きかかえる西苛が見えた。お姫様抱っことはロマンティックなことこの上ないが、今の西苛は花嫁を抱く新郎というより、サビニの女性を誘拐しようとするローマ人だ。
「残念だったね、道開くん。二百個も能力があるんだから『分身を作り出す能力』があってもおかしくはないよね」
西苛の明瞭な声が野外に響く。僕が追いかけるより先に彼女は空に向かって跳躍し、六花を連れたまま黒一色の世界に呑まれて消えた。夜がこんなにも暗く、そして憎たらしいと感じたのは生まれて初めてだ。
やられた、と口に出すと同時にまたもや爆風が襲った。僕は目の前で起きた爆発に警戒し、ナイフの柄を握り直す。巻き上げられた濃緑色の木の葉は、爆撃とも見紛う勢いで屋敷から飛び降りた一人の少女をダークグリーンで彩る。
「いいえ、まだ大丈夫」
妙ちきりんな仮面を被った有十は微風に髪をなびかせ、僕の眼前に立っていた。腰には、確かマスクシューターとかいう特撮ヒーローの変身ベルトが巻かれている。よく見てみれば、被っている仮面もマスクシューターのそれである。
「有十、何か手があるのか」
名前を呼んだ瞬間、有十は激しく咳き込んだ。
「私、有十、違う。私マスクシューター、正義の弾丸」
「何を言っているんだ、有十。大体そのマスクは何だ、まさか泣いたばかりの顔を見られたくないからそれで隠しているとか――」
「シューターキック!」
内腿を思い切り蹴られて悶絶する僕に構わず、
「西苛はおそらく、私の時みたいに六花を自宅まで連れ込むつもりよ。だから私が彼女の家まで案内してあげる」
「大丈夫なのか……」
「記憶力には自信があるわ」
「いや、そうじゃなくてその、さっきの」
己の過去に正面から立ち向かった直後だというのに、有十は自分の心配など二の次とばかりに六花を助けようとしている。思い切りが良い、立ち直りが早いといえばそれまでだが、僕個人の意見としては、彼女にはまだ安静にしていて欲しい。無理に己を奮い立たせたところで、心身共に万全でなければ能力も発揮できない。ただただ無意味に傷つくだけだ。
そんな僕の不安を、有十は豪快に笑い飛ばす。
「道開、心配には及ばないわ。だってあなたがいるんだもの」
マスクのバイザーは可動式で、くいと親指で持ち上げられたバイザーの奥には有十の生気に満ちた笑顔があった。目元はまだ少し赤みを帯びているが、もう涙を流してはしない。
有十はバイザーを勢いよく戻す。彼女の記憶を手掛かりに、僕達は西苛の家を目指す。非行敷をぐるりと囲む森林地帯、その出口が見えてきた。一刻も早く六花を救出しようと急ぐ僕らの行く先に、二人の大人が立ちはだかる。
一人は非行敷日本第一支部の長であり、僕らの保護者であり母親のような存在でもある女性、空巣さん。もう一人は暗闇の中で一際目を引く金色のスーツを纏った白髪の男性、マイク。
「非行敷日本第一支部支部長、鳥小屋 空巣。我が愛しき子らのため、ここから先に行かせるわけにはいかない」
それは一見すると同じ屋根の下で暮らしている相手に対して自己紹介をするというおかしな光景に映るかもしれない。しかし彼女が名乗りを上げたのは遅い自己紹介のためではなく、自分勝手な行動に走る子供達に向けた宣戦であった。
力尽くでも僕らを止めようとする空巣さんの心境が理解できない程、僕も馬鹿ではない。西苛の強さは骨身に沁みているし、余計な手出しはせずに空巣さんのような大人に任せた方が賢明だ。
だがしかし、それが一番合理的な選択であったとしても、僕は正しさに準ずるつもりはない。自らの手で六花を救い、西苛の鼻を明かしてやれと、僕の内なる本能ががなり立てる。
「空巣さん、どいて下さい」
一度は彼女に大敗を喫しているが、あれは真っ向勝負を前提とした上での敗北だ。今回は正面からやり合うつもりはない、隙を突いて空巣さんの静止を振り切ることさえできればそれでいい――。
「断る」
およそ一般的な女声とはかけ離れた、いわゆる『ドス』の利いた声からほとばしる威圧感。それは空巣さんの優しさと厳しさが綯い交ぜになった複雑な感情の体現だ。
無意識の内に僕達は後退する。が、歯を食いしばって後ろに下がった分だけ前進する。
「私が何とかする」
有十は耳をそばだててようやく聞き取れる声量で囁く。あなたは六花を助けに行って、と。
彼女はおもむろに変身ベルトを操作し、部品の中から小さな用紙を取り出した。そこには西苛の自宅までのルート行き方が分かりやすく記されていた。僕はその紙を受け取り、
「準備が良いじゃないか」
「本当は空巣さんに渡すつもりだったの、でも今は道開に渡した方が良いみたい。ここは私に任せて、あなたは西苛の所へ。私の分までボコボコにしてきなさい」
「そうは言っても相手はあの空巣さんだ、もしかすると西苛より手強いんじゃないか」
「ええ、私一人なら無理でしょうね」
有十は右手を突き出し、空巣さんのシルエットを手で包むように握り拳を作る。かつて僕にそうしたように、空巣さんの四肢を引力と斥力によって拘束する。
以前の僕は腕を切り離して見えない拘束衣を無力化したが、空巣さんはあろうことか自分自身の力だけで強引に振り払ってしまった。有十の能力を自前の筋力で跳ね除け、自由を取り戻した体で前傾した姿勢を取る。地面に両手をつき、そのまま倒れてしまうように見えたがしかし、空巣さんは一瞬で僕達の目の前まで迫っていた。重力に引っ張られるような彼女の足運びは、古武道における『雀足』を彷彿させる。
有十は物怖じすることなく、次の手に打って出た。空巣さんを襲ったのはまたもや斥力だ。しかしその力は空巣さんの動きを封じるどころか、彼女を遥か上空に射出してしまった。
「今よ!」
有十もまた同様の手段で空に昇った。落下するまでの時間を稼ぐつもりなのだろうが、二人共怪我はしないだろうかと不安になる。
「いざという時は任せておきな」
マイクはやはりというか案の定というか、僕達の味方のようだ。もしくは空巣さんの敵、というべきなのかもしれない。
「有十が『一人なら無理』と言っていたのはそういうことですか」
「お前ら悪ガキの世話係として、空巣さんの気持ちは分からんでもない。しかしまあ、あの人は少しばかり過保護なところがある。最善が常に正しいと限らないのは、そこに人間の幼稚で偉大な意志が絡んでくるからだ。支部長に逆らうなんて減給ものだが、今回だけはお前らの『意志』に手を貸してやる。道開、無茶はしてくれるなよ」
マイクに背中を押され、有十から渡された用紙を頼りに西苛の自宅を目指すが、その前に僕はマイクのいる方向を振り返り、
「マイクって、何だかお父さんみたいですね」
よせやい、と照れ隠しに帽子を深く被り直すマイクに見送られ、今度こそ西苛を追う。背後から人間のものとは思えないうなり声や有十の悲鳴、マイクの雄叫びが聞こえる。三人の無事を、特に有十とマイクの身の安全を願い、僕は走り続ける。
三十分は経っただろうか。全力疾走も長くは続かず、だいぶ息も上がってきたところで目的地と思しき建物を視界に捉えた。西苛の自宅は非常に広大で、そして寂しかった。その構造や縁側の景観には日本家屋特有の『わびさび』が感じられるが、そこに人気のなさも加わって美意識を通り越し、廃墟に似た不気味さを漂わせていた。
西苛より先に着いてしまったのか、それとも彼女はここにいないのか。しかし鍵がかかっていなかったことを考えるに、この家のどこかに身を潜めている可能性は高い。
不法侵入で警察に通報するのが狙いなのでは、と思い至ったところで、西苛の自室と思しき部屋に辿り着く。
そこにはおおよそ目立つものが何もなかった。
クローゼットだとか机だとか、膝の位置より高い家具がそこには存在しない。あるのはいくつかの段ボール箱と、その中に敷き詰められた衣類および日用品のみ。
「これだけ広い家に住んでいれば、自分の部屋が二つや三つあるのかもな」
やたら殺風景なのはそれが理由に違いないと一人納得していると、段ボール箱の中に一冊の本を見つける。化粧品に埋もれたその文庫本を手に取って初めて、それが単なる本ではないと悟った。
『ダイアリー』という題目のそれは、いわゆる日記帳のようなものだった。本屋で一度だけ見かけたことがある――何も書かれていない白紙のページで構成された本が売られており、値段が他の本に比べて格段に安かったため記憶に残っていたのだ。まさかこれをもう一度目にするとは思わなかった。
僕は本の一ページ目を開き、鉛筆で書き殴られた物語を読み始めた――。
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もし、ぼく以外の人間がこの本を手に取り、そして読解する機会があるのなら、先に言っておかなければならない。
そもそも、これは小説ではない。思春期のうら若き男子女子が好む日記というやつだ。そういえば昔、日記をつける習慣のなかった女性が試しに日記を綴る、みたいな話を書いた男がいるそうだが、結局書いているのは男じゃないかとツッコミを入れたくなる。
それはさておき、この本は西都原 西苛という人間の心情を余すところなく書き連ねる予定の一冊だ。ここで残念なお知らせがある、これには残念ながら日付が書かれていない。何故なら面倒だからだ。ぼくはこの本を、日記を、あくまで自分の感情や意見をぶつけるために記している。
今だってそう、あの憎むべき両親にいない者扱いされた腹いせで筆を取っているに過ぎない。単なるストレス発散なのだ、いちいち冷静に日付なんて書いていられるか。
そういうわけで、この本はいつ書かれたものなのか、はっきりとは分からない。とりあえず一行空いたら日付が変わったと解釈して欲しい。それが次の日なのか、はたまた一年後かどうかはぼくにしか分からない。
人様の日記を勝手に盗み見るような輩に対する、ささやかな抵抗というわけだ。
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とりあえず記しておこう。今回は前回の『次の日』だ。
昨日から何も食べていない。何だって冷蔵庫は居間に置いてあるのだと文句を言いたくなる。居間には常に母がいて、彼女はぼくを毛嫌いしている。食べ物を持ち出そうとしたその日には、ぼくの命はないだろう。
困ったものだ。あいつは本当に親か。
火の通った温かいものが食べたいなと思いつつ筆を取っているのだが、嬉しいことにちょうど今、ぼくの愛すべき実弟、西都原 西希がコンビニ弁当を差し入れてくれた。しかもレンジでチンして温めてある。容器の熱が手の平に沁みて心地良い。
このまま部屋にいるのはまずい。匂いを嗅ぎつけて母が弁当を取り上げないとも限らないし、そうなれば西希が咎められる。それだけは死んでも嫌だ。
彼はぼく以上に辛い目に遭っている。
ぼくは彼に辛い目に遭って欲しくない。
――追記。弁当は近くの公園で食べた。西希には本当に感謝している。
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そういえば『西都原』という姓について触れておいた方が良いかもしれない。久方振りにお腹が膨れて余裕のある内に、我が最悪の一族をご紹介したいと思う。
もしかすると、今この本を読み進めている誰かさんは、既にある程度の事情を把握しているのかな。というより、土足でぼくの部屋に侵入している時点で西都原 西苛という人間のことを知り、何かしらの狙いがあって読んでいると考えるべきか。
君は敵かな、それとも味方かな。
どっちでもいいや。最初からぐだぐだ説明するのも何だけど、さっそく解説するね。
西都原は代々経営コンサルタントを営む家系だ。西都原が手をつけた職種は多岐にわたり、地位や金もそれなりにある。時間があれば後で家の中を見て回るといい、金銀財宝を惜しみなく消費したクソクダラナイ展示物がたくさん見られるよ。
要するにぼくの家は富豪なのだ。大富豪とまでは言わないけれど、札束のプールを泳げるくらいには金持ちだ。そしてぼくもその恩恵に与るはずだったが、残念なことにそうはならなかった。
西都原は男尊女卑を地で行く家系である。男は女よりも優れていると、父の西翁にクソジジイの西裔、西都原の礎を築いた西行さえ信じて疑わなかったらしい。
以前、男尊女卑というものは『男の方が生物的に優れているからこそ一家の大黒柱として、あるいは次期家長としてか弱き女諸君を命懸けで養い守っていく』という一昔前の家族形態を言い表したものだと、国語の教師から教えられた。まかり間違っても男が女を虐げても許されるという意味ではなく、それは尊卑云々ではなく単なる差別だとも言っていた。
その教師の主張が正しいか間違っているかはさておき、教師の言い分に基づくならば我が家のそれは差別に分類される。ちなみに母が毎日飽きもせずぼくに当たり散らすのは、父に虐げられているからだ。
西都原の人間をその立場で順位付けするならば、一番は父、二番はコンサルタント業を引退して今は介護施設で隠居生活を送っているクソジジイ、三番に西希、四番は母で最後がぼくだ。果たしてこれを家族と呼んでもいいのか甚だ疑問ではあるけれど、一応こんな感じだ。
だから父の跡を継いで西都原の家長となる西希の地位はぼくを上回り、彼はとりわけ父の寵愛を受けている。先日は自転車とパソコンを買ってもらえたらしい。
ぼくも何か買い与えられたんじゃないかって……。今まで生きてこられたからには必ず何かしてもらっているはずだって……。
この本を読んでいる君の常識で、そのちんけな物差しで西都原を計ってくれるなよ。
父は出産にも立ち会わなかった。母は物心ついた時からぼくを虐めた。ぼくが何とか命を繋いでこられたのは、偏にジジイの『慈悲』という名の下心があったからだ。
ジジイが頭をやられて介護施設にぶち込まれるまで、彼はぼくに身の回りの世話を強要してきた。全く下世話な話だが、下の処理だってやらざるを得なかったのだ。ちなみにジジイがボケたのは、ぼくが階段から突き落としたのが原因だ。死ななかったのは残念だが、頭を激しく打ちつけた後遺症でぼくという存在そのものを忘れてくれたのは、不幸中の幸いと言えなくもない。今のボケたジジイにとって『西都原 西苛』は年甲斐もなく性欲をぶちまけられる人形ではなく、見知らぬ他人になっていたのだ。
――無駄話が過ぎた。つまりは男性が絶対権を保持する西都原において、ぼくはただの穀潰しであるということだ。満足に食べさせてもらっていないから穀潰し以下だ。両親はジジイの世話という役割を失ったぼくがどうなろうと構いやしなかった。
そんな中、西希だけがぼくに構ってくれた(構う、構わないって、ぼくはペットか)。
歳が一つしか違わない姉弟でありながら、ぼくより遥かにしっかり者で着実に父の機嫌を取りつつ、その一方で『やんちゃ』していた。二人でカラオケに行ったり、父曰く「愚民の餌」であるファーストフードを食べ歩いたり。山に入ってカブト虫やクワガタ虫を捕まえたのも良い思い出だ。
目に入れても痛くない、可愛いぼくの弟。彼が望むなら、ぼくは奴隷に成り下がろう。例え体を売れと命令されても、それが西希の願いであればぼくは拒まない。
西希がこの世界にいる、それだけがぼくの生きる希望だ。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
クソジジイが死んだ。
寿命はまだ残っていたのかもしれない。しかし、ビルの屋上から飛び降りたのでは流石に助かりようがない。
人知れず介護施設から抜け出し、ジジイ一人ではどう考えたって到達できない高層ビルの屋上から飛び降りたのだ。現場付近で偶然にも母が買い物をしていたようだが、警察が自殺と断言するのだから自殺に違いない。ジジイが飛び降りたビルの中で母の姿を見かけたという証言も浮上したけれど、それでも自殺なのだから仕方ない。
だが警察は騙せても父には全てお見通しだった。今朝からやけに父の機嫌が悪いなと思った矢先、父は起床したばかりの母にのしかかって彼女の鼻を殴り潰してしまった。
普段は寡黙に振る舞う我がお父様は、気にくわないことがあれば感情を露わにその障害を叩きのめす。徹底的に、自分の思い通りになるまで。例えばぼくの一人称も元は『うち』だったが、「西都原の姓を謳う以上は少しでも男を真似ろ」と言われて『ぼく』に変えたのだ。ついでに顔面を殴られ、前歯が折れてしまった時は焦ったものだ。永久歯に生え変わる前で本当に良かったと思う。
母はすぐさま病院に担ぎ込まれたが、果たして元通りに治るかどうか――。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
珍しく西希が泣いていた。
一体どうしたのかと尋ねると、彼はえずきながらその涙の理由を話してくれた。
今日も今日とて父にくっついて仕事のいろはを学んでいた西希は、父がコンサルタント業以外の仕事――麻薬の密売に人身売買、銃器の取引などにも着手していた事実を知った。我らが父は俗に言うところの『裏家業』として悪事に手を染めており、いずれは西希にもその手伝いをさせようと目論んでいる、というのが彼から訊き出した情報だ。
ぼくは別段驚きもしなかった。ジジイからそれとなく話は聞いていたし、コンサルタント業だけでこれだけの富は得られないだろうと薄々勘づいていた。しかし西希は何も知らず、ただ少しでも父の仕事の負担を減らし、一家団欒の時間を増やそうと画策していたらしく、今回彼を襲った精神的なショックは半端なものではなかった。
本当に、どうしてこんなに純粋無垢で頑張り屋の西希に西都原の血が流れているのだろうかと不思議に思う。この家にいる限り、西都原の名を捨てない限り、彼は幸せになれないのでは――そんな不安がよぎる。
彼を幸せにしたい。それがぼくの願いだ。
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西希が日に日に窶れていく。体は痩せこけ、目の下には黒ずんだ隈がくっきりと見える。
今すぐ西希を病院に連れていけと父に進言したが、女は黙っていろ、と一蹴されてしまった。西希は今、西都原の男なら誰もが苦悩する時期を迎えている。自分も親父から話を聞いた時は体重が十キロ落ちた、それを乗り越えて初めて『本物』になれる――正気の沙汰とは思えない話を、まるで自慢話のように語る父にぼくは怒りを覚えた。
こいつは絶対にぼくが殺す。そう決めた。
西希に元気を取り戻してもらおうと積極的に話しかけたが、最早まともな会話も成り立たなかった。彼はぼくの言葉に頷き、相槌を打つばかりで自分から何かを語ろうとはしない。
憔悴し、焦点の定まらない彼の瞳は何を見ているのだろう。彼は今、何を考えているのだろう。
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今日は家族全員で食卓を囲んだ。
終始黙り込んだままの父に、ニンニクのように潰れてしまった鼻をぼくに向けて嫌味を吐き続ける母。箸が進まない西希に、久々の白飯に心躍るぼく。
ようやっと理解できた。ぼくらは家族ではなかったのだ。
こんな殺伐としたものは断じて家族ではない。ぼくが家族と呼べる人間は西希ただ一人、彼以外の二人は要らない。さっさとくたばれ。
そういえば、久方ぶりに口にした母の料理(今日は肉じゃがだった)は、あまり美味しくなかった。ぼくに配膳された分はそうでもなかったが、食べきれないからと西希が分けてくれた分は、味付けが異様に濃く感じられたのだ。
母め、鼻を折られて味覚が狂ったか。ざまあみろ。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
西希が死んだ。どうしてくたば――う、ぼくが死――ゃない、のか。分からない、ひと顔――いたこれを、しっかりしな――だよね、西希。ああ、遺――聞こえたよ。でも、お姉ちゃんはもうこれ以上、自――や。ごめん、ごめんね西希。何――見――、これは血かな――っか、ぼくは鉛筆――て、屑――字を綴っているんだ。せっか――やだ、ごめんだから早く帰――えう。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
前回の日記からだいぶ間が空いた。いや、冷静になって見直してみたけれど、前回のそれはもう日記とは呼べない気がする。
ぼくは今、縁側でポテトチップスをかじりながら筆を走らせている。もしこの本のページにポテチの欠片や油がこびりついていたら申し訳ない。
さて、まず何から語ろうか。
綴りたい物語は、吐き出したい想いは山ほどある。それに費やす時間もたくさん。もうぼくを虐げる人間は一人もいない。だからのんびりと、全てを語り終えるまで起きていようと思う。
先に述べた通り、執筆を再開するに当たってこの本を最初からざっくりと読み返してみたのだが、どうやら家族全員で囲んだ最後の食卓に関するところでまともな記述が終わっていたようなので、その続きを書こうと思う。
まず肉じゃがの味付けについてだが、あれは母の味覚が狂ったのではなく、薬の風味を誤魔化すためにわざと西希の料理だけ味付けを濃くしていたのだ。
薬。どのような薬なのか、今となっては調べようがない。母は西希を殺すために、薬とは名ばかりの毒を盛った。西希はおろか、彼がほんのちょっぴり残した分を口に入れたぼくでさえ入院する羽目になったのだから、ぞっとしない。
男が憎かった。母が西希を殺めた動機はそれだけだ。しかし父に逆らう度胸はなかったため、一番弱くて一番腹立たしい西希を狙った。姑息ぶりもここまでくると病気なのではないか、と疑いたくなる。
食事を終えて程なく、その日の日記をつけた直後にぼくは意識を失った。ほぼ同時に西希も泡を吹いて倒れたらしい。その後の対応にもやはり男尊女卑が適用され、二人はそれぞれ別の病院に運ばれた。ぼくは一般の病院に付き添いもなく搬送され、西希は殊に手当ての厚い病院へと運ばれた。単に症状の重い軽いで分けられただけかもしれないが。
ぼくは意識こそ飛んでいたがすぐに回復し、三日と経たず退院した。その日の内に西希の入院する病院へ向かい、彼の病室に駆け込んだ。父はぼくの姿を見止めるや否や、ぼくの肩にそっと手を置き、言った。
最期のお別れをしなさい、と。
――西希はベッドに横たわっていた。体から飛び出た血管のように伸びる大量のチューブが、かろうじて彼の命をこの世界に繋ぎ止めていた。心電図は過去にテレビで見た医療ドラマと同じく、一本の真っ直ぐな線に限りなく近い波形が小さく、小さく揺らめいていた。
ぼくは泣いた。ああ、泣いたとも。邪魔者扱いされても食事が与えられなくても前歯を折られても泣かなかったぼくが、脱水症状で死ぬんじゃないかと心配になるくらい泣いた。
西希に縋った。またあの無邪気な笑顔を見せてくれるだろうと思って手を握ったけれど、冷たくてつい離してしまった。死に近づきすぎた彼は人間のものとは思えない冷気を纏い、ぼくを拒絶した。
西希は一人になりたかったのではないか、と今になって思う。父の期待、母の不満、そしてぼくの依存。彼のために生きると言いながら、その実、ぼくは西希の負担になっていたのではないか。西希は不甲斐ない姉を嫌っていたのではないだろうか。彼が発するこの冷たさは、この期に及んでまだ弟に執着するぼくに対する、失望の思いそのものではないのか。
ぼくは病室を出ようとした。西希が息を引き取る瞬間に立ち会う勇気はなかったし、彼がぼくを拒む以上、彼の意思に従うだけだ。ところが西希は、ほんの一瞬だけ、意識を取り戻した。ぼくはすぐさま踵を返し、彼の言葉を待った。西希は重く垂れ下がる瞼を懸命にこじ開け、掠れる声で呟く。その言葉は、唇に触れるか触れないかという距離まで耳を近づけてようやく拾い上げることができた。
姉さん、少しはしっかりして下さい――それが彼の最期の言葉、すなわち遺言だった。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
少し泣いてきた、こればかりはどうしようもない。
日付は変わっていないけれど、一応区切りということで行を空けた。読みやすくて良いだろう……。
それでは話の続きだ。西希の葬儀はあっという間に終わった。通夜、告別式、出棺、火葬。まるで世界がぼくだけを除いて倍速で動くと決めたみたいに、迅速かつ手際良く執り行われた。
父は泣いた。普段は冷静なこともあって少し意外ではあったものの、まさか手塩にかけて育てた後継者が死ぬとは思いもしなかったのだろう。それが親の情か、仕事人間としての悲嘆であるかは判断のしようがない。
母は葬儀への参列を許されなかった。仮にのこのこ顔を出したとしても、父とぼくで殴り殺していただろう。西都原の姓に傷をつけてはならない、という父の計らいによって息子を毒殺したという事実は揉み消されたが、彼女の罪が許されたわけではない。
母は絶対にぼくが殺す、そう決めた。
遺体を焼き、骨を壺に納め、墓まで運んで手を合わせる。
西希は死んだ、もういない。そう割り切って今後の人生を謳歌できる程、ぼくは強くない。これが西希なら、例えぼくが死んでも逞しく生きていけただろうに。
ぼくが代わりに死ねば良かったのだ。肉じゃがの味付けがおかしいと気づいた時点で西希の箸を止めていれば、こうはならなかったのに。父はぼくの心中を察したのか、声をかけてきた。これはお前の落ち度ではない、女には関係のないことだ、と。
そして最後に「気に病むな」とも言った。憎き父に気遣われたのだ。
あまり良い心地はしなかったけれど、少しだけ救われた。これは本心だ。思い返せば十数年生きてきた中で親子らしいやり取りをしたのはこれが生まれて初めてで、ぼくだって人の子である以上、舞い上がりもする。
でもやっぱり、屑は子供が死んでも屑のままだった。
その日の夜、ぼくは寝室で父と母が交わる姿を目撃した。襖の隙間を覗いた先には、淫らに愛を叫ぶ屑と人殺しがいた。
あの時、ぼくはどんな顔をしていたのかな。視線に気づいた二人が甲高い悲鳴を上げて腰を抜かしたくらいだから、まあ、とてつもない表情をしていたのだろう。
父は言った。後継者の西希が死に、女のぼくに家業を継がせるわけにはいかないので、代わりに子を産んでその子に継がせるつもりであったと。
母は言った。普段は暴力を振るわれたりもするけれど、やはり父を愛している。西希の件は謝るが、これからは家族で助け合って生きていこうと。
本当に、本当に身勝手なやつらだとぼくは呆れ果てた。こいつらは人間じゃない、ちょっと頭の回転が速いだけの猿なのだ。どうしてもっと早くその事実に気がつかなかったのだろう。
父は『代わり』と言った。短いながらも人生を懸命に生きた人間に代わりなどいるものか。
母は『家族』と言った。父が女を殴り、母が娘を殴り、遂には息子を殺す家庭。こんなものが家族であってたまるか。
報復心でぼくの腸は煮えくり返っていた。今まで蓄えた殺意を今こそ解き放ち、ぼくからありとあらゆるものを――たった一人の弟さえも――奪ったこのクソクダラナイ生き物の息の根を止めてやる。そう決意した時、今まで体験したことのない奇妙な感覚に包まれた。
力を得た感覚。それがどのような力であるか、誰かに説明されずともぼくは完璧に把握していた。
どうやらぼくはその時、有能力者になったらしい。
有能力者というのは常識や概念、理論を根底からひっくり返してぶち壊すような能力を獲得した人間を指す。ぼくも初めはおとぎ話か何かだと考えていたが、有能力者を保護する『非行敷』なる組織、そこに住まう超能力者達を目の当たりにして以来、彼らの存在を信じるようになった。
父はこの『非行敷』をひどく恐れていた。下手に関わろうとせず金だけ出資し、手綱を握ろうとしていたのは、彼が有能力者に恐怖心を抱いていたことに起因する。どれだけ莫大な権力や資産を手にしようとも、単純かつ圧倒的な『力』には敵わない。父はそれを理解していた。
その事実はぼくにとって好都合であった。忌々しい父が恐れをなす化け物になれたのだから、このギフトを授けてくれた神様には感謝の言葉しかない。
ぼくの能力は他の有能力者の力を奪い、使用し、時には譲渡できるという優れもの。更にはお試し品とばかりに、能力を既にいくつか所有していたのだ。その内の一つ、とびきり凶悪な能力を発動し、ぼくは両親に襲いかかった。耳障りな命乞いを無視して『体が捲れる』能力を使った。
この本を読んでいる誰かさんは、こんな光景を想像できるだろうか。まるで靴下をくるくると丸めながら裏返すように、人間という袋の中にある中身が口から飛び出し、露出している皮膚や手足が内へ、内へと入り込んでいく様を思い浮かべることが出来るかな……。
それはもう死体とは呼べなかった。だって人間の形を成していないのに、まだ心臓が蠢き、血管が脈打っていたのだから。
そのまま絶命するのを待っても良かった。しかし匂いがひどく、このまま放置していれば近隣の住民に親殺しを知られてしまう可能性があった。それはいけない、ぼくにはまだやるべきことがあるのだから。
ぼくはもう一つ能力を使った。『対象を本の栞に変える』というものだ。この本の巻末に、悪趣味な絵柄の栞が二枚挟まっているはずだ。それがぼくの両親だったものだ。決して元には戻らないから安心して触っていいよ。ぼくが死んでも能力は絶対に解けない。そいつらを西希と同じ墓に入れるわけにはいかない。
――これが事の顛末、ぼくが犯した罪の全てだ。
終わりは非常に呆気ない。ぼくを虐げる者はいなくなったが、代償としてぼくは存在理由を失った。西希という生きる希望を亡くしてしまった。今は冷静に筆を取っているけれど、今日の日記をつけた後、ぼくは暴れるだろう。昂る感情の照準が定まらないままに。
この本だけは傷つけないよう、気をつけておかなければ。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
またしばらく期間が空いてしまった。
一人暮らしにも慣れてきた。表向きには父の都合という体裁でコンサルタント業を停止している状況だが、どうしてもと企業に頼み込まれた時はぼくが対応している。悲しきかな、ぼくはまごうことなき西都原の人間だったようで、どのようにこなせばいいのか自然と分かってしまう。しかし何分知識が足りないので、その辺は父の遺した書物を読み漁って勉強している最中だ。
それに炊事、洗濯にも相当手こずらされている。初めは米すら炊けず、炊飯器を操作できたのは良いが、お粥みたいな粘り気のあるご飯が完成してしまった。今は大丈夫だ。洗濯にしても、洗剤と柔軟剤を間違えて入れることがたまにあるけれど、一応は進歩している。
何かと文句を言いながらも、ぼくは甘えていたのだと思い知らされた。よくよく思い返してみれば、食事はまともに作ってもらえずとも、衣類の洗濯はしてもらっていた。一家を養うのは父の役目、家事は母の仕事だと決めつけて頼り切っていたのだ。
ぼくはまだまだ青臭い子供なのだ。それでも、あの両親に感謝する日は永遠にやって来ないだろう。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
以前、ぼくにはまだやるべきことが残っていると言った。今回はその『やるべきこと』について語ろうと思う。
西希が死んで、ぼくは生きる意味が見出せずにいた。生きていてもつまらない。家事がこなせて、勉強ができて、それがどう生存に直結する。全く関係がない。生きたいという欲望が湧いてこない。自分が何故生きているのかを説明できないのだ。
報復は終えた。ぼくは西希を死に追い込んだ元凶を殺害した。復讐は終わったはずだ。
そう自分に言い聞かせても、内なるぼくはせせら笑うばかりだ。復讐はまだ終わっていない。報復心はちっとも解消されてはいない。元を辿れ、原因は誰だ。父にへこへこ頭を下げていた連中は何をしていたのか。父の間違いを正せる人間は一人もいなかったのか。母方の祖父母や兄弟姉妹は何だって母のような出来損ないを育てたのか。どうして西都原に嫁がせるような真似をしてくれたのか。
誰が西希を殺した。誰が、誰が――気の遠くなるような自問の末、ぼくは理解した。
西希を手にかけたのは母だ。だが、母をそういう人間に仕立て上げたのは父と彼女の家族だ。そして彼らをのさばらせたのは周囲の人間で、そうさせたのは更にそのまた周囲の人間で、そうして糸を手繰る内に、ぼくにも原因の糸が繋がっていると分かった。ぼくも西希殺しに加担していたのだ。
ぼくは、ぼくを西都原 西苛として生み出したこの世界は、西希という一人の罪なき少年に詫びなければならない。死をもって許しを乞わなければならない。
だからぼくは決めた。両親を殺したあの晩に決めたのだ。世界中の人間を残らず抹殺し、この理不尽な世界を滅ぼしてみせる。そのために必要な能力も手に入れる。
西希のいない世界なんて、要らない。
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前回はぼくらしくもなくロマンティックに締めたが、以前のぼくに言いたい。その『世界を滅ぼす能力』が見つからなかった場合は一体全体どうするつもりだったのか。
ぼくが有能力者に目覚め、随分と時間が経った。有能力者に関する細かな情報もそれなりに集まってきた。なるほど、一度は体験してみなければ分からないことも多いな、と実感させられる。
まず、ぼくは今この時までに七人の有能力者と交戦した。ぼくの方から有能力者達の居場所に出向き、わざと喧嘩をふっかけたのだ。その内二人はぼくの方が引き下がる形となってしまったが、残る五人の能力は全て奪わせてもらった。
ところがこの『能力』というやつが非常に厄介な代物で、当たり外れの激しいことと言ったら――正直に言わせてもらえば、大金を積まれたって要らない能力もいくつか存在した。
例えば『一酸化炭素を発生させる能力』。言葉にしてみれば如何にも強そうな力に思えるが、この能力、使用者の周囲にだけ一酸化炭素を撒き散らす。放っておけばたちまち自分が一酸化炭素中毒に陥るというふざけた代物だったのだ。案の定、この能力を持っていた青年は突然の襲撃者に接近戦で挑もうとした。能力の範囲内に引きずり込めば一酸化炭素の猛威は自分だけのものではなくなり、相打ちを狙えると踏んだのだろう。残念ながら彼の企みは《心の芽》で筒抜けになっており、十分に距離を取って闘っていたら勝手に自滅した。能力を奪った際にも「肩の荷が下りたようで助かった」と笑い出す始末だ。
これも発見の一つなのだが、有能力者の中にはぼくみたいに開けっ広げに能力を使いまくる者もいれば、有能力者であること自体に引け目を感じている者もいる。後者は己の能力に怯え、頑なに力を使おうとしない。この力が周りの人間を不幸にしてしまうかもしれない、そんな不安にとりつかれているのだ。
その点、ぼくには傷ついて欲しくない人間がいない。ぼくが守りたいと思った人間は、幸福であって欲しいと願った弟はもう、生者の手が届かない場所へ行ってしまった。
それはつまり、ぼくが有能力者として最強ということではないだろうか――冗談はこのくらいにして、本題に入ろう。
ぼくは『世界を滅ぼす能力』を持つ少女の探索に成功した。捜索の網を世界中に広げて探し回ったが灯台下暗しとはまさにこのこと、西都原が資金援助を行っている非行敷に『彼女』はいた。
三枝 六花。平凡な家庭に生まれた一匹の化け物。彼女もまた有能力者の一員である、とは断言できない。まず間違いなく能力は有している、だが彼女の『それ』は既に有能力者というはぐれ者の定義からも逸脱しているのではないか、とぼくは睨んでいる。一般人がいて、有能力者がいて、そのまた別の存在がいても不思議ではない。
彼女の能力には未知なる部分が多い。判明している情報として、ぼくの能力ととても似通っている。六花ちゃんの能力もまた、他者の力を奪い、自らのものと出来る。譲渡が可能かどうかは今のところ定かではない。では彼女の能力はぼくの能力に劣るのかといえばそうではなく、むしろぼくの能力など軽く凌駕している。
彼女の『それ』が力を奪う対象は、有能力者に限らないのだ。
君はきちんと理解できているかな、これがどんなに悍ましい事実であるか。
先程『一般人』という呼称を用いたけれど、普通の人間にだって何らかの資質や才能が眠っている。一番身近なものでいれば学力だ。人間は努力によって才能を能力に開花させ、それを自らの得意分野として高めていく。頭だけではない、体力や筋力だって立派な力の一つだと言える。
六花ちゃんはそれも奪える。
他人の知恵を奪い、運動能力を奪い、類い稀なる才能を奪い、体や記憶を奪う。もう略奪三昧だ。それにこの『力』を奪う方法にしたって相当えげつない。睡魔が襲ってきたので筆を置くが、もしこの本を読んでいる君が六花ちゃんの関係者であるならば、これだけは肝に銘じて欲しい。
六花ちゃんの背中に翼が見えたらすぐに逃げろ。
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六花ちゃんから能力を奪取するためには準備が必要だ。『力を奪う』能力を奪うというのはおかしな話だけれど、ぼくの能力は彼女のものと違って段取りが必要になる。それに六花ちゃんは非行敷の人間だ。パトロネージュは支援であって対等な取引ではなく、金と引き換えに六花ちゃんの能力を寄越せ、なんてわがままは通らない。あくまで計画的に、手順を踏んで行うべきだ。そういうわけで、ぼくは計画の妨げとなるもの全てに対応するための能力を(他の有能力者との衝突も視野に入れ)、暴力的な力から非暴力的な力まで満遍なく欲していた。
そこでぼくは父の遺産に目をつけた。といってもそれは金銭や宝石のような目に見えるものではない。我が愛すべき西希に多大なる心労を与えた、西都原のもう一つの家業ともいえる麻薬、銃器の密売、そして人身売買。これら負の遺産を有効に活用しようと考えたのだ。
薬物や拳銃に用はない。ぼくが欲しいのは人間、それも有能力者でありながら非行敷の保護下になく、世界各地で怪物と蔑まれ、親兄弟に見放された者達だ。
有能力者を金の生る木にしようと目論む連中は一定数存在する。戦争の道具に商売の道具、人としてではなく道具として見ればこれ程革新的なものはない。道具と違ってそう簡単には壊れないし、飼い慣らせば有力な武器になる。もし壊れたらまた『市場』に流せばいい。有能力者には子供が多く、世界には小児性愛者が多い。
もっとも、ぼくは奴隷が欲しいわけじゃない。能力が手に入ればそれで良い。まずは言葉も通じない有能力者を安く買い叩き、能力を奪う。ぼくの能力は『相手を屈服させる』という条件を満たさなければならないが、そもそも金で取引されるような人間に抵抗する気力は残されていない。手早く能力の収奪を済ませたら、次は必要最低限の知識を与え、父がせっせと蓄えた財産を手土産に祖国へ送り返す。これを何度も繰り返した。
彼らのような弱者を食い物にして得た金が、弱者に還元される。仕事人間の父にとってこれ程の屈辱はないだろう。能力を失う代わりに金を得た彼らが、今後どういう人生を歩むのかは分からない。非行敷に押しつけても良かったが、ぼくの企みを非行敷に知られるかもしれない。六花ちゃんを狙っていると分かれば計画の遂行も困難になる。それを防ぐためにも彼らが故郷に帰るまでの手筈を整え、後は彼らの意思に任せた。ぼくが世界を滅ぼすその日まで、ささやかな幸せを糧に生きて欲しいと思う。
そんなこんなで二百近い能力が集まり(奪う度に消費しているはずの父の財産は一向に減る気配がないというのだから驚きだ)、次は三百個を目指してこつこつと蒐集に勤しんでいる今日この頃、ターゲットである六花ちゃんと言葉を交わす機会があったので簡単に彼女の印象を語ろうと思う。
ぶっちゃけると地味。根暗とまでは言わないが、例えば修学旅行の班決めでどのグループに属せばいいのか決められずに慌てるタイプだ。
六花ちゃんと接触する機会を得るべく、副生徒会長という役職に就きながら図書委員も兼任するという暴挙をやってのけた。学校では委員会の仕事に励み、家に帰ればコンサルタント業、合間を縫って世界を滅ぼす計画の準備を進める、といった具合に、多忙の日々を過ごす羽目になってしまった。その甲斐あって六花ちゃんと一言二言交えるようになったけれど、彼女から得られた情報は『本が好き』という、見れば一目で分かることだけ。
本当にこんな子が世界を滅ぼす程の能力を持っているのかと疑問に思うのも無理はないが、彼女の実力は既に証明されている。
六花ちゃんの家族は皆死んでいる。彼女の愛する父母と兄を殺害した犯人は依然として不明。表向きにはそうなっているが、犯人はとっくに判明している。
もしかして六花ちゃんを疑ったかな、それは正解のようで少し外れ。事実はもう少し複雑で、悲劇的だ。
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最近、六花ちゃんに落ち着きがない。何かあったのかと興味本位で調べてみたところ、今月になって二人の有能力者が非行敷日本第一支部に住まうことになったらしい。自分のリラックスできる環境に新たな住人が増えるという変化が生じ、どこか居心地が悪いのだろう。彼女の気持ちはよく分かる。
保護された有能力者の内、一人は過去の記憶を失って第三支部から第一支部に移ってきた少女。もう一人はあの有名な『人類史上最低の実名なき殺人狂』を名乗る少年。
神出鬼没の大量殺人犯として阿鼻叫喚の地獄を生み出し、流血によって世界を股にかけるシリアルキラー。その悪趣味な肩書が全世界に知れ渡る頃には国内外合わせて千人規模の死者を製造している。自国民を守ろうと様々な策を講じた各国の苦労も空しく(軍隊を総動員して殺人狂を捕らえようとした国もあった)、順調に人が死んでいた。ところが少し前、殺人狂のものと思しき殺人がぴたりと止んだ。ちょっとしたニュースにもなっていたのだが、どうやら非行敷に引き取られていたようだ。
非行敷が今更になって殺人狂の確保に動いた理由についてだが、噂によると彼は不死身の有能力者で、殺すに殺せないらしい。それならば非行敷でしっかりと更生してもらい、改めて自分の罪を償わせた方が良い、とは非行敷の言い分だが、正直言って対処が遅すぎる気がしないでもない。それに殺人狂が有能力者でなければ非行敷は動かず、今までのように人々が死にゆく様を黙って見過ごしていたことになる。有能力者の保護を最優先に行動している組織とはつまり、有能力者以外の人間がどうなろうと構わないスタンスであることを意味する。悪とは決して呼べないが、善であるとも言い難い。
それと一つ、気になっている点がある。殺人狂が非行敷に保護されたのはつい最近、(多少の傷害事件こそあれ)鳴りを潜めたのはもう少し前。これでは非行敷によって殺人を禁止されたのではなく、殺人狂が自主的に殺人行為から足を洗ったことになる。何の先触れもなく、まるで別人に入れ替わったかのように大人しくなった殺人狂。これは一体どういうことだろう。
少し、調べてみるか。
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さて、いよいよ大詰めという雰囲気になってきた。
ひょっとすると、この本に想いを綴るのはこれが最後になるかもしれない。
六花ちゃんが存外にしぶとく、能力を奪いきれないという落ち度を除けば、今のところ計画は順調に進んでいる。いや、想定外の事態といえば道開くんが持ち直したことも含めなければならない。彼が立ち向かってきたところで痛くも痒くもないわけだが、ぼくの予想を超えたことについては素直に称賛しなければならない。有十ちゃんはまだしばらく立ち直れないだろうから、ぼくの敵は道開くんただ一人となる。となれば、この日記を読むであろう『誰かさん』は道開くんに絞られる。
違っていたらごめんね。
夢路 道開くん、君はぼくの人生を『読み』、何を感じてくれたかな。もしかして同情してくれた……。それで結構。是非ともぼくに同情してくれ、ぼくに共感してくれ。そして君が良ければ、手を貸して欲しい。
君とてぼくと同じ、生きる意味を失った人間だ。いや、怪物か。
君は愛してやまなかった殺人狂を記憶喪失という形で亡くし、ぼくは病む程に愛していた弟を親に殺された。思想や境遇は違えども、最終的にぼくと君は同じ場所に立っている。さしずめ悲劇のヒロイン、バッドエンドを迎えた主人公だ。
だから、ね。こんな世界、消し去ってしまおう。君は何も悪くない。君の愛した人は殺人狂であったけれど、殺人という罪に対する罰として記憶を失うなんて馬鹿げている。彼女は殺人狂であって悪ではない。真の悪とは、この理不尽な世界そのものだ。
六花ちゃんの力を手に入れるには、彼女の心を折らなければならない。そのためには君の協力が不可欠だ。まず君は颯爽とぼくの前に現れ、如何にも六花ちゃんを助けに来ましたとばかりに挑みかかる。六花ちゃんは「これで助かる」と君に期待するだろう。そこで種明かし、道開くんとぼくが結託したことを暴露し、仲良く肩を組む。
六花ちゃんは絶望するだろうね。君のことをすごく慕っていたみたいだから、大好きなお兄ちゃんに裏切られたとなれば『壊れて』しまうかもしれない。そうなれば後は簡単に能力を奪える。
君は傍観しているだけでいい。かつての君がそうしていたように、相棒の悪行を横目に、突っ立っているだけでいいんだ。
もし事が思い通りに運んでいれば、ぼくは六花ちゃんを連れてこの家の地下にいるはずだ。ぼくの考えに賛同するにせよ、ぼくを殺して六花ちゃんを取り戻すにしろ、話をしなければ何も始まらない。だから降りてきてくれ、そこでぼくと君の闘いに決着をつけようじゃないか――。
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「待っていたよ、道開くん」
地下に広がる無機質で冷え切ったコンクリートの空間は囚人部屋を思い起こさせる。白とも黒とも言い難い曖昧な彩色は、そこに佇む少女の心意を表しているように見えた。
西都原 西苛は空間の隅に取りつけられた鉄製の扉を指差し、
「六花ちゃんはそこにいるよ」
西苛は大きく手を広げ、迷わず扉に向かおうと歩き出した僕を遮る。その顔に浮かべるとびきり邪悪な笑みは、悪魔の微笑と呼ぶに相応しい。巧みな言い回しで人間を破滅に導こうとする様など、まさしくメフォストフィレスだ。
「答えを聞こうじゃないか。ぼくに手を貸すか、ぼろ布みたいになるまで叩きのめされ、六花ちゃんを余計に苦しませるか」
「今のお前の姿を、弟さんが見たらどう思うだろうな」
死人を持ち出し、情に訴える戦略。あまりにテンプレートな説得に自分でも辟易してしまう。西苛に聞き入れてもらえるとは思っていないが、ものは試しだ。
「そうだなあ、西希が今のぼくを見たら悲しむだろうね。お姉ちゃんが世界を滅ぼそうとしているって知ったら、泣いちゃうかもしれない」
「だったら止めればいい。弟さんのためにも」
「西希のため……、馬鹿言うなよ」
西苛は笑わなかった。良くも悪くも狂気的な笑顔ばかりが印象に残る彼女は、ここに来て初めて、憤怒の表情を見せた。西苛の根幹にある感情――身震いするような憎悪が鬼となり、彼女の顔を借りて姿を現す。
僕は鬼と向き合う。西都原 西苛はこのような顔をしていたのかと、今になって思う。おかしな話ではあるけれど、僕はようやく西苛という人間に出会えたような気がした。
「これはぼくの、そして西希が死ぬことを許した社会の贖罪だ。故人のために何かをする、なんて感動的な理由でぼくは動いちゃいない。西希に頭を下げて許しを懇願し、死を捧げて弔いとする。ぼくだけじゃない、全世界の人間が彼に謝るんだ」
「弟さんの死を自分のせいにするのはまだいい。だが無関係な人間も巻き込むのは感心しないな」
「無関係なものか。被害者は西希だけじゃない。人が人を傷つけ、他の人間がそれを素知らぬ顔で見過ごす。被害者は苦しみに耐えきれず自ら死を選ぶのに、加害者は他人事のように無関心で、時には心にもない涙を見せる。この世界は殺人狂より狂っているんだ、君はそれに気がつかないのかい」
「自分が狂っているだけ、とは考えないのか」
「それでもいい。ぼくが狂っていて世界が正しくても、やることは何も変わらない。ぼくがこの世界を滅ぼすんだ」
僕は視線を落とした。
このまま問答を続けていても、それは糠に釘というやつだ。西苛と話をするために地下へ降りてきたが、分かり合えるとは最初から思っていなかった。ただ、ぼくは彼女の全てを否定するつもりはない。それどころか、少し事情が異なれば彼女の計画に賛同していたかもしれない。先程から僕が激昂したり、西苛こそが真の悪だと決めつけて批判したりしないのはそれが理由だ。
西苛は僕に似ている。彼女の言う通りだ。今この瞬間に至るまでの道程こそ違えども、その本質はちっとも変わらない。彼女が望んだ通り、同情も寄せている。愛する弟を失った悲しみから世界を滅ぼす、という破茶滅茶な思考も、僕だから理解できる。
『僕』と『ぼく』は似ている。でも少しだけ違うのは、僕の大切な人はまだ生きているということだ。記憶をなくしても、別人のように変わってしまっても、僕は有十を守る。六花や空巣さん、マイクだって失うわけにはいかない、大事な家族だ。
「西苛、僕はお前に協力しない。しかし六花を見捨てる気はさらさらない、だからといってお前を殺すつもりもない」
「それで」
「六花を今すぐ解放しろ。そして――非行敷に来い」
僕の提案に、西苛は呆けたように目をぱちぱちと瞬く。全く予想もしていなかった言葉に戸惑っているのだろう。
「有能力者は原則として非行敷の管理下に置かれる。特にお前のような身寄りがない有能力者を非行敷は最優先で保護し、新たな第一歩を踏み出すための手助けをしてくれる」
西苛、僕達の家族にならないか。
そう言って差し出した手を、彼女はわけが分からないとばかりに睨みつける。目の周りの筋肉がぴくぴくと痙攣し、西苛の心の動揺が如実に表れている。
「この期に及んで家族になろう、だって……。まさか和解できると本気で思ってはいないだろうね」
本気で思っている、と答えると、いよいよ西苛は表情だけでなく身振り手振りを加えて己の憤懣をぶつけてくる。
「君はそれで納得できるって言うのかい。散々ぶっ殺すだの許さないだのとのたまっておきながら、出た結論がこれか!あまり失望させないでくれよ道開くん!六花ちゃんはどう思うよ……、きっとぼくを殺したくて殺したくてたまらないはずだ」
「その六花に、お前を殺さないでくれと頼まれたんだ」
続けざまに度肝を抜かれたせいか、西苛は冗談だろうと言わんばかりに笑った。見慣れた嘲笑とは打って変わった引きつり笑いを僕に、そして扉の奥にいる六花へ向ける。
「分からないね、全く分からない」
「分からないか、六花の真意が」
「ええと、あれかな、慈愛に満ちた寛容な精神を見せつけてぼくを懐柔しようと――そうだ、ぼくが油断したところでタコ殴りにするとか。ああ、君達全員でぼくに襲いかかるつもりなんだね。いや、でも」
西苛の口をついて出る答えはどれもこれも捻くれていて、自分のことしか頭にない。ぼくを騙そうとしている、これは罠だと疑ってばかりだ。ありもしない裏をかこうとして、単純な事柄を複雑に捉えようとしている。
答えはもっとシンプルで、ありきたりな願望。
「六花はお前と友達になりたいんだ」
西苛は笑うことさえ止め、唖然と立ち竦む。それは彼女にとって毛程も思い浮かばなかった解答だったのだろうか。そういえば彼女は以前、こんなことを言っていた。六花は友人だと、お互い内気なせいで会話の回数もそう多くはないが、それでも仲は良い方だ、と。あの時の言葉が口から出た出任せであったかどうかは分からない。ただ、ひょっとすると西苛は気づいていたのではないだろうか。まさかとは思っていたがそれを信じられず、彼女はこうして驚愕している。
「道開くん、信じられるかい。他人を平気で傷つけるようなろくでもない相手と友達になりたい女の子がいるんだってさ」
「僕も最初は驚いたが、六花らしくて良いと思うよ」
「本当に狂っているのはぼくでもなく、君でもなく、世界でもなく、ましてあの殺人狂でもなく、六花ちゃんなのかもしれないね」
「皆狂って皆良い、ってところか」
僕と西苛は揃って笑い声を上げた。何かしらの感情が顔に出たものではなく、純粋に、腹の底から、ただただおかしくて笑ったのだ。他愛のない話で盛り上がる家族のように、一方の笑い声がもう一方の笑いを誘う、終わりのない笑顔がそこにはあった。
「おかしいったらありゃしない」
西苛はひとしきり腹を抱えて笑った後、吐息を漏らした。嘆息とは異なる、何かが自分の中で吹っ切れた時につい零れてしまうような、そんな吐息を。
「西希が蘇るような奇跡でも起きれば、そういう提案に耳を貸すのもやぶさかじゃあないんだけどね。ぼくだって幸せになれるものならなりたいさ。そもそも西希が生きていてくれたら、ぼくはこんなところにいなかった」
「死んだ人間は生き返らない。それに、いつまでも死者に囚われて生きるのは間違っている。そうだろう、西苛」
「言われなくても分かってるよ。でも今のぼくには、他にやりたいこともないんだ。昔は西希こそがぼくの全てで、今は世界を滅ぼすことがぼくの生き甲斐」
いいや、と西苛は己の悲願を否定する。こんなクソクダラナイ世界、本当はどうでもいいんだ、と。滅びようが滅びまいがどうでもいい、でもそれ以外にすることもないんだ、と。
西苛は胸に手を当てる。五指が衣服を巻き込んで彼女の胸部に食い込む。そうしていなければ痛みを誤魔化せないというように――自分だけが感じる、自分だけを苦しめる、実体のない激痛に悶えながら、西苛は僕に訴える。
「これ以上、ぼくから生きる理由を奪わないでくれ」
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その昔、まだ僕が『人類史上最低の実名なき殺人狂』と共に世界中を練り歩き、殺人を犯していた頃の話だ。
『彼女』の標的に決まった特徴や法則性はなく、分け隔てなく平等に殺して回っていた。一般人とはとても呼べない狂人を相手取ることも多かった。精神を病んだ軍人や絶賛指名手配中の犯罪者、同じ有能力者など。中でもとりわけ印象に残っているのは、彼女と同じ穴の狢、つまりは殺人狂だ。
『肉猫』と呼ばれたその殺人鬼は齢六十と高齢ながら、見事に鮮やかな手口で人間を肉の塊に変えていった。彼は能力を持たない代わりに、手入れの行き届いた肉切り包丁とナイフを使い、一度は彼女を退けたのだ。それから半日に及ぶ死闘を繰り広げ、最終的に彼女の勝利と『肉猫』の死によって闘争の幕は閉じられたが、彼は闘いの中でこう語った。
元々、自分には殺人に対する明確な目的、動機があったわけではない。気がつけば『人を殺す』という行為そのものに自分自身の生きる価値を見出していた。毎日毎日残業に追われ、疲労でへとへとになったサラリーマンがコンビニのスイーツを楽しみに生きているように、私は殺人というささやかな贅沢に舌鼓を打っているに過ぎなかった。私には他に生きる理由が、生によって得られる益がなかった、と。
生きる理由、意味。人間はとかく理由づけしなければ足を動かすことすらままならない生き物のようで、自分の人生に意味を見出せなければ道を踏み外してしまう。
人生に意味なんてない、という人間は、生きる意味を見つけられなかった哀れな人間。しかし無理に探そうとすれば、殺人や世界崩壊を自身のレゾンデートルに据えようとする。これもまた哀れな人間の姿だ。
『彼女』を失った僕は、彼女に成り代わることを生きる理由にした。
弟を失った西苛は、世を滅ぼすことを生きる意味にした。
愚かな人間がここに二人、臨戦態勢で向かい合ったまま動かない。
「言って駄目なら何とやら、だ。六花の頼みだから殺しはしないけど、無傷で済むとは考えないでくれよ」
「人間は歴史の大部分を費やして言語というコミュニケーションスキルを獲得したっていうのに、いざ本気でぶつかり合うと暴力に依るしかないんだよね。悲しいことだ」
啖呵を切り合い、さてどうしてくれようかと作戦を練りながら相手の出方を見る。悔しいことに西苛は強敵だ、数多くの能力を所有しているのもそうだが、彼女自身のポテンシャルも非常に高い。まともにやり合って勝てる見込みはない。
接近戦で挑むか。下手な蹴りだとまた馬鹿にされるのがオチだ。遠隔戦ではどうか。あいにく手持ちはナイフ一本のみ、これを投擲してしまえば本当に打つ手がなくなってしまう。
今までの闘いを振り返る。西苛に打ち勝つための活路が今まで繰り広げた死闘の中にあると信じ、走馬灯のように過去の経験を顧みる。有十を追いつめた時の状況はどうだった、空巣さんのような技を見様見真似で使えないか、主将さんと闘った時はどうだ、トランプ使いの溝辺 結城は――。
「あ」
西苛を倒すための良策、もとい良からぬ策を思いついてしまった。我ながらとんだ没義道なアイデアだ。あまりの非道さに表情が強張るのを止められず、西苛に勘繰られないようとっさに顔を伏せ、果たしてこの作戦は上手くいくだろうかと吟味する。
溝辺 結城との戦闘から思いついたその一手は後で有十に、いや六花に、はたまた空巣さんに一発ずつぶん殴られても仕方がない、そんな所業だ。
逆ならばまだ分かる。『これ』は僕が西苛に試すよりは、西苛が僕に試した方がより有効に作用するからだ。
能力に頼らず、一撃で人間を沈める方法。
「行くぞ、西苛!」
躊躇している余裕はない。西苛がその顔にたっぷり余裕を浮かべている今こそ好機、良心など投げ捨ててしまえ。
まずは駆け出すと同時にナイフを投げつける。西苛の腹部に狙いを定めた刃先が皮膚を抉るより先に、彼女は素手でナイフを弾き飛ばした。刃を手の甲で殴りつけても無傷でいられるのは、何かしらの能力を使ったからだろう、腕に金属特有の光沢が見られるあたり、手を金属に変える能力、といったところか。
今の一撃は油断を誘うのが目的だ、防がれても何ら問題はない。肉弾戦に持ち込める距離まで肉薄した僕は、渾身の力を込めて足を真上に振り上げた。
「君の蹴りは素人のそれだって指摘したばかりじゃないか、一体何を聞いて――」
西苛の言葉が途切れる。彼女の顔からじわじわと生気が消え失せていく。冷や汗が一筋、ゆっくりと頬を伝う。呼吸が段々と荒くなるのを止められない。彼女の視線は恐る恐る僕の足を辿り、その先端、つまりは足の甲が己の股間に深々と食い込んでいることを確認する。
「ああああああ――」
西苛は膝をつき、糸の切れた操り人形のように力の抜けた肢体を固い床に打ちつけた。
鍛え抜いた筋肉という鎧を搭載した大男さえも一撃で沈める、金的蹴り。溝辺 結城と相対した時に散々受けたこの技を、まさか西苛に対して使うことになるとは思わなかった。
「男性に股間蹴りが有効なのは今更言うまでもないが、実は女性も例外じゃない。女性の場合は蹴りの衝撃で恥骨が歪んだり、骨折したり、痛みの質こそ違えども、とんでもない激痛を伴う。男にとっても女にとっても、股間は大事なところというわけだ」
陰部を手で覆い、聞いているこちらにまで痛みが伝染するような奇声を上げながらのたうち回る西苛。当然のことながら、僕の話を取り合っていられるような状態ではなかった。
ごめんなさい、と頭を下げ、僕は六花の待つ部屋へと向かう。鈍色に光る扉は重く、ドアノブを握ったままありったけの力を込めて押し、ようやく開いた。扉は開け放ったまま暗闇の中で目を凝らすが、部屋の大きさも何も分からない。視界の全てが薄暗さに呑み込まれる中、微かに布の擦れあう音が響いた。
六花か、と問いかけたところ、
「お兄ちゃん!助けに来てくれたんですね」
意外にもはつらつとした声が返ってきた。その声は間違いなく六花のものであるのだが、肝心の姿が見えない。
「六花、どこにいるんだ」
「すみません、手足を縛られて身動きが取れないんです。私の指示に従って進んで下さい、私にはちゃあんとお兄ちゃんの姿が見えていますから、ね」
言われるがまま、六花の声に導かれて部屋の奥へ、奥へと踏み込んでいく。
「そう、そうですよ。もっと近づいて。ええ、もう少し。もう少しだ」
六花の声がより鮮明に聞こえるようになるにつれ、彼女の言葉遣いに違和感が生じる。更には不可解な音が――いや、人の声が空間を反響し、僕の耳に届く。か細い、半ばあきらめきったように助けを求める声が、前後上下左右から降りかかる。
助けて、助けて、助けて。
食べないで、噛まないで、殺さないで。
「道開くん!」
西苛に襟首を掴まれ、気がつけば部屋から引きずり出されていた。ジェット機にでも牽引されたみたいに部屋を飛び出した僕らは、勢い余ってコンクリートの床を転がる。僕は壁に頭を、西苛は肩を打ちつけてようやく停止した。その際、僕達に続いて先程の部屋を出ようとする『何か』を、僕も西苛もはっきりと視認していた。
『それ』には目があり、口があり、鼻があり、耳があり、顔を形成するための要素が全て含まれていた。にもかかわらず、それはとても人間の顔とは呼べなかった。パーツの並びはしっちゃかめっちゃかで、口からだらしなく垂れ下がる舌に目がくっついていたり、鼻が三つ並んでいたりと、まるで出来の悪い百面相だ。それに何より、僕の体より一回り大きい。色はこの世界に存在する色を全て混ぜ込んだかのようにくすみ、澱んでいて、形はそう――翼を模していた。
『それ』は途中で僕達の追跡を止め、大人しく六花のいる部屋へ戻っていく。助かった、と呟く西苛はまだ片手で股間を押さえているものの、動ける程度には回復したらしい。流石は女の子というべきか、男ならば小一時間悶絶していてもおかしくない威力で蹴り飛ばしたというのに。
「不用心だね、道開くん。死にたいのかい……」
痛みの方は引いていないのか、西苛は話の端々で苦しそうに呻いた。
「ぼくはね、六花ちゃんの能力が手に入らなかった時のこともきちんと視野に入れて行動していたんだ。もし世界を滅ぼすその力がぼくのものにならないなら、当の持ち主に力を振るってもらおう、ってね」
「あれが六花の能力だっていうのか」
「そう、あれこそが『世界を滅ぼす力』。万物を喰らいて己の糧とする翼、有能力者の枠を逸脱した、正真正銘の化け物だよ」
西苛が『化け物』という言葉を口にした瞬間、鉄製の扉が留め具ごと吹き飛んだ。唸り声を発する異形の存在を従え、僕らのよく知る少女が姿を現した。
可愛らしい水玉模様の寝間着は本来の水色から鮮やかな紫色に染め上げられ、背中の皮膚を引き裂いて一対の翼が露出していた。人間を丸呑みにできそうな程大きなその羽は、確かに六花の意思で動いている。
お兄ちゃん、と六花はにこやかに微笑む。しかしその笑顔は彼女がよく見せていたものとは異なり、西苛の嘲笑に酷似していた。
彼女はおもむろに手を合わせると、礼儀正しく、深々と頭を下げた。
「いただきます」
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