第八話『誰も救われないということ』
「姉さんは誰かを好きになったことがありますか……」
齢十一にしてなかなか背伸びした質問をぶつけてくる弟だな、とぼくは素直に感心した。流石は西都原家の長男、そしてこの西苛の弟、西都原 西希だ。
その時、ぼく達は縁側にいた。ぼくは西希の膝に頭を乗せて寝転び、彼はぼくの額に優しく手を当て、そっと前髪をかき上げる。
「そうだね、ぼくは西希が好きだよ」
「そういう意味で言ったのではありません。恋愛における『好き』という気持ちを抱いたことはあるか、と訊いているのです」
「ぼくは質問の意図を汲んだ上で、西苛が好きって言ったんだけどなあ」
からかわれていると思ったのか、彼は不満露わに頬を膨らませる。頬を両側から指で押してやると、吐く息と共に縮んでいく。
「全く、姉さんは子供です。少しはしっかりして下さい」
「どうせ子供ですようだ」
西希の手がぼくの髪を撫でる。何度も、何度も――その度にぼくの体は日差しを受ける縁側のように温かさを帯びていく。このまま眠ってしまおうかなと思う一方で、いつまでも西希の顔を見ていたいという衝動も湧いてくる。
ぼくは西希のことが好きだった。恋愛の『好き』という感情を彼に抱いていた。
姉と弟、血の繋がり、倫理観。誰が悪と定めたかも分からない禁忌は、ぼくの幸福を阻害する障壁にはならなかった。もっとも、彼から求められない限りは恋仲になったり性行為に及ぶつもりはなかった。ぼくの幸せとは、西希が幸せであること。ぼく自身の幸福など何の価値もない。
ずっと西希の傍にいたい。それはぼくがまだ有能力者でなかった頃の、能力を持たない人間であった頃の、ささやかな祈り。
「『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求める者は与えられ、尋ねる者は見いだし、門を叩く者は開かれる』」
マタイ福音書から言葉を引用してみるが、ぼくは神様を信じていない。無神論者さえ救済する寛容な精神を持つ神様は、どうやら宗教がお嫌いであらせられるようだ。
ぼくは壁掛け時計を見やる。放心状態の有十ちゃんを非行敷に送り届け、夜道をぶらぶらと散歩している内に午後十時を回っていた。
「宮島 有十ちゃん、ね」
それにしても、有十ちゃんの正体にはぼくも心底驚いた。殺人狂の噂は以前から耳にしていたし、事件現場では不死身の少年が何度も目撃されているとは聞き及んでいた。だから彼が、夢路 道開くんが殺人を犯していたのだと、つい数日前までのぼくも含めて誰もが勘違いしていた。
事実は違う、彼は何もしていない。道開くんを隠れ蓑に暗躍していたのは、名を持たない一人の少女だったのだ。
「道開くんは今頃どうしているのかな」
ぼくは客間の座布団を集め、縦一列に並べる。その上に寝転がり、睡眠に最適な姿勢を探して体を動かす。本当に眠るつもりはない。これから使う能力は、発動している間、体が動かせなくなるためだ。
他人の思考、精神、見聞きしている光景をさも自分のことのようにリアルタイムで体感できる能力、《心の芽》。能力名は久佐加 三藤くんのネーミングから発想を得て考えたものだ。《黒箱買い》といい、ぼくも自分の能力に名前をつけていた三藤くんを馬鹿にできない。
この能力、元々はぼくのものではない。他の有能力者から奪い取ったものだ。ぼくの能力、《黒箱買い》は他人の能力を奪った上で使用、もしくは他人に譲渡できるという自分でもびっくりするくらい驚異的な能力だ。能力が発現した経緯を語ることに意味はない。ぼくが両親を八つ裂きにした理由と同じくらい無価値である。
「発動」
ぼくは今、《心の芽》を通じて道開くんと繋がった。これで彼の思考、彼の行動、彼の感じる全てを、自分もその場に居合わせているかのように感じ取れる。もちろん、道開くんがぼくの能力に侵されていると気づくようなへまはしない。
道開くんは非行敷のある一室にいた。いや、部屋と呼ぶには少々大きめの空間で、一人の女性とテーブルを挟んで向かい合っている。
非行敷日本第一支部支部長、鳥小屋 空巣さん。彼女とはそれなりに付き合いがある。西都原が非行敷運営のために助成金を出しているという、ちょっと大人な付き合いだ。非行敷からしてみれば、ぼくはパトロンという立場にある。
空巣さんは時折見せる柔らかな笑顔がとても印象的な女性で、めったに怒ることがないらしい。それ故に非行敷の子供達や他の職員、スタッフからも厚い信頼を寄せられているそうだが、今の彼女はその顔に明らかな憤怒をたたえている。
道開、と彼女に名前を呼ばれ、道開くんは体を震わせる。彼の内にある不安、恐怖といった感情がぼく自身のものであるように、ダイレクトに伝わってくる。
「私は珍しく苛立っている。誠に恥ずべきことだと承知してはいるが、最悪君に当たり散らすかも分からない。だから私の質問に対し、絶対に嘘を吐くな。君の過去をあれやこれやと詮索するのは時期尚早だと思っていた。だが悠長なことを言っていられる状況でもなくなった」
空巣さんから視線を逸らす道開くん。そこでぼくは、彼の視界に映るもう一人の少女を捉えた。ぼんやりと歪んだ輪郭にモザイクがかった姿形は、目を凝らしてようやく女性であると判別がつく。
有十ちゃんと瓜二つの外見を有しながら、獲物を見定める眼光と肌を突き刺すような殺気は決して有十ちゃんには真似できないものだ。ぼくの知る彼女からは微塵も感じられなかった人殺しの狂気を発し、少女はぼくを見つめ返す。
断言しよう、『あれ』は人ではない。道開くんの瞳の中で生きる幻覚だ。
「覗き見とは悪趣味ね」
幻覚、そして次は幻聴。道開くんが反応しないところを見るに、今の言葉は彼にも聞こえていない、能力によって彼の五感を傍受しているぼくに向けたものだ。
ぼくが見えているとでもいうのか、この少女は。
「まあ、いいわ。あなたにも知る義務があると思うの――この子の過去を」
少女は道開くんの頬をそっと撫でる。幻覚とは思えない確かな感触が、彼を通してぼくにも伝わる。
冷や汗ものだ、道開くんは常日頃からこんな幻覚につきまとわれていたのか。
「私の愛しい人。私のために全てを捧げると誓ってくれた、愚かで惨めな私の一番の宝物。そんな彼との馴れ初めを、最初で最後のラブストーリーをあなたに教えてあげるわ」
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少年がこの世界に生まれると同時に親から授けられた名は、当の本人さえ忘れてしまっていた。だから彼の名前を知ることは不可能であり、今更『夢路 道開』という新たな名前が与えられた彼の本名を知る必要はない。
幼少期の少年が家族と呼べる人間は母だけであった。父は少年の誕生とほぼ同時に交通事故で亡くなり、骨となって壺の中にいた。父の他数名が犠牲になったその事故は、犯人が酒を飲んでいたにも関わらずハンドルを握ったために起きたもの。当然、被害者の遺族は当然憤った――少年の母を除いて。
母は良き人間とは言い難かった。悪人と呼ぶにはいささか大げさであるが、家事、育児の一切を放棄して毎日のように夜遊びに出ていた。どうして父と身を固めようと思ったのか疑問を抱かずにはいられない、父の死を悲しむどころか「あの男は真面目で面白味がなかった。自分にはもっと良い男がいる」と少年に愚痴るような人間であった。
少年は覚えている。母が店の商品を袖口に隠し、万引きする瞬間を。一体どうやって袖の中に物を隠しているのだろうと、子供心に思った。
少年は覚えている。夜、一人で冷え切った惣菜を摘まんでいると、隣の家から一家団欒の幸せそうな笑い声が聞こえてくることを。深夜に帰宅する母は決まって酒と香水臭かった。
少年は覚えていない。中学生になってから母と会話をした回数を。精神的疲労で今にも押し潰されてしまいそうな少年が学校から帰宅すると、いつだってその日の夕食代と次の日の朝食代を含めた一枚の五百円玉が彼を出迎えた。
少年は覚えていない。人肌の温もりを、その熱がもたらす安心感を。子連れの夫婦が子供と手を繋いでいるのは何故なのか、愛おしそうに我が子を抱きしめるのは何故なのか、彼には見当もつかなかった。
そんな生活に不満を持っていなかったといえば嘘になるが、登校拒否や引きこもってみせる程、少年は追いつめられていなかった。学校に行かなければ給食というまともな食事にありつけなかった、という事情もある。あるいは我慢の限界を超え、己の感情に対して愚鈍になってしまったのかもしれない。
彼はただ一つのものを欲していた。それさえあれば食費の五百円も帰る家も、付き合う男によって髪の色を変えるような母も要らない。しかし少年は『それ』を得られないまま、中学校の卒業式まで生きた。
漠然と、やりたいことも見つからず、死んでいるみたいに生きていた。生きているふりをして死に続けていた。
『彼女』と出会う、その日まで。
「プチプチ、って知ってる……」
卒業式。卒業生が名前を呼ばれては壇上に上がり、卒業証書を受け取ってまた椅子に腰を下ろす、この眠気を誘う退屈な時間がいつまで続くのかとうんざりしていた少年の隣に、見覚えのない少女が座っていた。
制服を着ているが、本校のものではない。そもそもこんな生徒、自分のクラスにいただろうか。少年が疑問に思っている間も、少女は話を続ける。
「ほら、割れやすい物を梱包するのに使う透明のやつ。あれを楽しむ一番の方法、知っているかしら……」
「一つ一つ潰す」
少年の解答に、彼女はやれやれと言わんばかりに首を横に振る。
「正解は雑巾みたいに絞って一気に潰す、でした。滅茶苦茶爽快なのよ。こう、ぶちぶちぶちぶちぶちぶちって感じ」
少女はほがらかに話をしながら、前の席に座っていた卒業生の首をぶちぶちぶちぶちぶちぶちともいだ。
――血飛沫というものはそこまで激しくないんだな、と少年は悠長なことを考えていた。血が噴水の如く吹き出すのはほんの一瞬だけで、後は噴水というよりは蛇口のように首から血液がとぷとぷと零れる。目の前で起きた出来事に対し、彼の思考は完全に止まってしまっていた。
少年はそこでようやく、少女が腰掛けている『もの』の正体に気づいた。それは卒業式の前日に在校生がせっせと準備したパイプ椅子などではなく、本来隣にいるべきクラスメイトの死体であった。両腕は肘を置くためのアームに、背中は背骨や筋肉が全て平らに均され、そこに少女が臀部をついて座っている。
誰かが悲鳴を上げた。悲鳴は更なる悲鳴を呼び、叫声合唱が会場にいた人々の恐怖を駆り立てる。だが、それもすぐに止んだ。席を立った人間や少しでも動いた人間から順に、地面から伸びる見えない手に引っ張られ、足が砕け、骨や筋肉が内臓を押し潰し、最後に頭が爆裂した。幾ばくかの肉の塊と血の池が次々と量産され、卒業生も在校生も教師も保護者も大人も子供も男も女もおしなべて、見えない力に押し潰された。
生き残ったのは、あまりの惨状に動けなかった少年だけ。
「あなたは度胸があるわね」
数にしておよそ千人前後の人間を一分と経たずに殺害しておきながら、少女の視線は最初から最後まで少年だけに注がれていた。彼女の体には血が一滴も付着していない。その一方で、少年の制服は血の滝を浴びたせいでぐっしょりと濡れていて、肉片や毛、臓物が頬や手足にへばりついていた。
「逃げないということは、私と闘いたいっていう意思表示かしら」
とんでもない、と少年は心の中で思う。突然の大虐殺に驚きこそすれ、少女に歯向かうつもりはさらさらなかった。実を言うと、さっさと殺してくれとさえ願っていた。死ぬ理由が見つからなかったから今まで死を選ばなかっただけで、生きる理由も持たない彼にとって死は恐れるものではなく、むしろこれ以上生きる意味を詮索せずに済む絶好の機会だと彼は判断した。
「よく見ればあなた、死んだ魚みたいな酷い目をしているわ。大丈夫……」
「早く殺せ」
「――はいはい」
ふん、と鼻を鳴らし、少女は彼の頭だけを破壊した。なるたけ汚くならないように脳を引力で掻き回し、頭蓋骨を細かく砕く。これで血は飛び散らず、脳漿などの様々な液体と混ぜ合わされながら頭の中に留まるという寸法だ。
「少しは張り合いのある相手かと思ったけれど、ただの死にたがりだったみたいね」
少女は人間椅子から立ち上がり、うんと背伸びをする。椅子は不可視の支えを失い、血を撒き散らして床に伏す。当然ながら生きているはずのないその生徒を一瞥すると、己の能力で血肉の大海を割り、ゆったりとした足取りで殺人狂は出口に向かう。
「有能力者でも混じっていれば素敵な殺し合いに発展したんでしょうけれど、この中にいなかった――いいえ、いたみたい」
少女は宙を舞う。床から足裏に向かって斥力を放ち、それを足場に彼女は式場の天井に届く程の跳躍を見せた。
「不死身の有能力者、ね」
空中に浮かぶ少女が見たものは、先程頭の中身をシェイクしたはずの少年の姿。彼は二本の足でしかと床を踏みしめ、パイプ椅子を今し方彼女のいた場所に投げ飛ばしたのだ。
少女の体は重力に引っ張られて落ちていく。引力と斥力を絶妙なバランスで発生させることで足に負担をかけず着地できたが、その隙に少年の接近を許してしまった。少年は拳を振りかざし、少女の顔目掛けて拳を突き出す。
「あら、やっぱり殺る気じゃない!」
少女はたまらず歓声を上げる。一方的に蹂躙するのもそれはそれで最高に心地よいものではあるが、自分も殺されかねない『殺し合い』はもっと素晴らしい。きっとこの少年は自分を殺しにくる、命を賭して命を奪おうと試みるに違いない。彼女がそう思ったのも束の間、「あっ」と拍子抜けする声を漏らし、少年は立ち止まった。彼女の顔にめり込む寸でのところで拳を引き、ぱちぱちと目を瞬いている。
「僕、何で生きているんだ……」
状況を呑み込めずに狼狽えている少年と違い、少女は瞬時に全てを理解した。
たった今、今まさに彼女は目撃したのだ。人間が有能力者に変化する、不死の力に目覚める貴重な一瞬を。
「なかなか面白い瞬間に立ち会えたわ。有能力者はこうして誕生していくのね」
「お前、そうだ。僕はお前に殺されたはずなのに、どうして」
「あなたは今、常人には得られない摩訶不思議な超能力を獲得したのよ。多分あなたの能力は『不死身』、あなたの体はありとあらゆる怪我を修復して死を拒絶する」
少年は己の手の平を見つめる。特に変わった様子は見受けられないが、彼は確かに死の国から生還してみせた。その事実を誰よりも実感しているのは彼自身だった。
「死にたくない、って思ったんだ」
少年は言う。
「いつも生きているか死んでいるか分からないような毎日を過ごして、心から欲しいと願ったものも得られなくて、いつ死んだって構いやしない、そう思っていたのに――殺される直前、生きたいって思った」
「典型的な能力の目覚め方ね。あなたの願望に最も適した能力が発現したの。ちなみにあなたが欲しいものって一体何かしら……、それが欲しくてわざわざ天国から逆走してきたのよね」
少年が欲しかったもの。与えられたかったもの。
それは誰もが当たり前に抱いていて、自分でも気がつかない内に受け取って、そして誰かに与えている。親から子へ、子から孫へ託されるもの。あるいは友人、恋人同士でおすそ分けしているもの。
「愛」
彼は愛されたかった。間違いなく自分のことが好きで、心の底から愛していると言われたかった。
自分の目を見て欲しかった。話しかけて欲しかった。話を聞いて欲しかった。遊んで欲しかった。一緒にご飯を食べて欲しかった。手を繋いで欲しかった。抱きしめて欲しかった。
愛して欲しかった。
「愛ね。よし、分かったわ」
ぽろぽろと溢れ出る涙を止められずにした少年を、少女は優しく抱き寄せる。肩に頭を乗せ、彼の側頭部に頬を擦りつける。そして目を点にして驚く少年の鼻に自分の鼻をくっつけ、悪魔のように囁く。
「私があなたを愛してあげる」
そして必ず、あなたを殺してあげる。
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少女との出会いは偶然だった。
彼女がたまたま中学校の前を通りかからなければ、人がたくさん集まっているかもしれないと興味を示さなければ、会場の人間を残さず皆殺しにしてやろうと考えなければ、二人の出会いはなかっただろう。
『人類史上最低の実名なき殺人狂』の通り名があるように、少女には名前がなかった。戸籍がなければ出生届も存在しない、今までどうやって生きてきたのか誰にも分からない謎めいた狂い人は少年を連れ、全国各地で大量殺人をやってのけた。その危険極まりない能力で人肉の華を咲かせ、血が乾いてしまわない内に新たな死体を製造する。人々に恐怖と哀しみと恨みを一方的に与え、彼女は喜びに満ちていた。
少年は殺戮の始終をただただ見ていた。手伝うことはせず、彼女が満足するまで人間を屠る様を見守る。時たま、少年こそが殺人狂に違いないと先手を打つ者もいたが、彼は抵抗しなかった。手足をもがれ、首を斬り飛ばされても突っ立っていた。そして少年に危害を加えた人間は背後に忍び寄る本物の殺人鬼に気づかず、他の犠牲者よりも残酷に、ありったけの苦痛を味わった後に殺される。
「ごめんね、待たせちゃって」
生者を余さず死者に帰すると、少女はそう言って少年に飛びつく。これでもかと頭を撫でられながら、彼は実感する。僕は今、世界で一番愛されている、と。
触れ合うこと。それは少年にとって自分が愛されているという証明であった。くだらない雑談を全力で楽しみ、少女と共に味わう食事に快感を見出す。本来は親が子に与えるべき愛情を一切享受できなかった少年は、過剰ともいえる愛を彼女に求めた。何でもいいから構って欲しい、愛されている証拠が欲しいと必死に彼女を求めるその哀れな姿は、尻尾を振って餌を強請る犬に酷似していた。そんな醜態を晒す少年を、少女は決して見捨てようとはしなかった。時には母として彼を叱り、姉として彼を甘やかし、妹として彼を頼り、恋人として彼を愛する。多種多様な愛の形を、たっぷりと少年に与えた。
少年は完全に彼女の虜であった。少女のやることなすこと全てを受け入れて肯定し、誉めそやし、人殺しさえ許容した。しかし、少年には疑問があった。肯定はするが不思議に思うことだってある。
「どうして人を殺すのか」
とある寂れたラーメン屋で、少年は試しにその疑問をぶつけてみた。やけに固いチャーシューを噛み切るのに苦戦していた少女は、チャーシューを丸ごと口に含んで言った。
「ひまはらほうひたの」
「いや、答えるのはちゃんと噛み終わった後でいいから――ふと気になったんだ。お前はどこで生まれ、どんな人生を歩んできたのか全然教えてくれないけれど、人を殺す理由くらいは話してくれるんじゃないかと思って」
「ほうへえ」
少女は口一杯に詰め込んだ肉厚のチャーシューを咀嚼しつつ、テーブル上のラーメンを見つめる。先程替え玉を追加したばかりのラーメンにレンゲをつけ、油の浮いたスープをくるくると掻き回す。
「理由の一つに、生活費の調達というのがあるわね。一人や二人殺したとして、殺した人間の財布を盗めばすぐに金品狙いの殺人だって分かるけれど、百人殺してその中の数人から万札をくすねたところで誰も金目当てだなんて思わない。ましてかの有名な殺人狂が明日の『おまんま』にさえありつけない程困窮しているなんて、誰が想像できるかしら」
「それだけ……」
「まさか。お金はついでよ、ついで。あなたに美味しいラーメンをご馳走してあげるためのお小遣い。それにしてもここのラーメン美味しいわね。流石は豚骨ラーメンの本場、洗練されてるわ」
『本場』という言葉がそこかしこで使われているこの時代に、素直に店の謳い文句を信じる少女。果たしてちょっと間の抜けたこの女の子が世間を震撼させる殺人狂だなんて、誰が信じるだろうか。
店の厨房で茹で上がった麺の湯切りをしている店員も、眠そうに店内の掃除に勤しむアルバイトも、奥の席でスポーツ新聞を読みながら焼飯をかきこむサラリーマンも、誰も信じるはずがない。
「それで、私が人を殺す理由だけれど」
「うん」
「人付き合いが苦手だから」
予想だにしない回答に少年は思わず咳き込んだ。しかも水を飲んでいる最中だったのだから始末が悪い。口から零れた水が服やテーブルを濡らしてしまった。
彼としては『単純に殺したいから』とか『楽しいから』とか、または『殺人に理由なんて要らない』といった如何にも殺人狂らしい答えを期待していたのだが、彼女のそれは予想の斜め上を行った。
「私ね、人とある程度仲良くなるとその関係が煩わしくなっちゃうの。嫌いになったわけではないのだけれど、付き合いの中で消費する時間、お金、愛想、そういうものを加味していくとどうしても無駄に思えるのよ」
少年は零れた水を布巾で拭い、
「気持ちは分からなくもないが、殺す理由としてはどこか不十分な気がする」
「そこからが『私らしさ』なのだけれど、私としてはせっかく築いた関係をいきなり自分の都合だけで踏みにじりたくはないの。昨日まで友達だと信じていた相手に『お前とは口も利きたくない』なんて言われたらとても悲しいでしょう……。だから私は考えたの、お互いの関係が崩れることなく相手から離れる方法はないか、って」
「それが殺人か」
「大正解。最初は身の回りの友人、知人を殺したけれど、如何せん社会で生きていくためには色々な人間と関わりを持たなくてはいけない。でもそれは嫌、だって面倒臭いもの。だから私は人間を殺す。私に関わる可能性が一割一分でもあれば殺害するの」
「その理論でいけば、僕はとっくに殺されているはずだけど」
少女はにやりと笑い、汁を吸って伸びきった麺を口に運ぶ。
「仕方ないじゃない。あなた、死なないんだもの」
それもそうか、と頷く少年。
「貴重な話が聞けたところで、この後どうする……、まだ何か注文するか」
「餃子が食べたい」
「何人前……」
「五、いや十人前」
少年は傍を通りがかった店員を呼び止め、彼女の注文を伝えた。皿を小分けにするかどうか訊かれたので、まとめて一つの皿で下さいと頼む。
満足げに微笑む少女へ、彼は再度疑問を投げかける。
「そういえばお前って本好きだけど、食事中は読まないんだな」
「食事は食事、読書は読書。二つの楽しみを一度に味わうなんてもったいない真似、私にはできないわ」
そう言い切ったところで、店員がこれでもかと餃子を盛った大皿を運んできた。少女はタレとラー油を注いだ小皿を構え、満面の笑みを浮かべたまま餃子を口の中にぽいぽいと放り込んでいく。
「楽しみ、ね。確かに楽しそうだ」
少女が満腹になるのを待つ間、少年は読書に耽る。彼女が先日読み終えたもので、面白いから読んでみなさいと言われて借りた一冊だ。
題目は『グラスホッパー』。復讐を誓う男と殺し屋達が織り成すストーリーをじっくりと目で追いかけながら、現実の人殺しと理想の人殺しはだいぶ違うな、と思った。
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少年は少女の名前すら知らなかった。
どうして彼女がこんなにも自分のことを甲斐甲斐しく愛してくれるのか、皆目見当もつかなかった。少女に関する大抵の疑問は既に質問済みで、その質問のほとんどがまともな回答を得られないままはぐらかされた。ラーメン屋で訊いた『人を殺す理由』にしても、後に彼女がとっさに吐いた嘘であったと判明し「あなたは素直ねえ」とからかわれた。
しかし、少女が自分に惜しみない愛情を注いでくれる理由だけは、訊くに訊けなかった。彼女の心意を知ってしまえば、全てが終わってしまうような気がしたのだ。
不思議に思ったことをあえて知ろうとはせずに目を背け、その恩恵に与る。まるでテレビの中身が黒い外装に覆い隠されているように、テレビを見る人間がその構造を気にも留めないように。
結局、正しい答えを得られないまま、二人は道を違えることになった。
「――あら、ずぶ濡れ」
その日、少年と少女はバス停にいた。
二人はいつだって気の向くままに移動しては殺人を繰り返していたため、明確な行先などは決まっていなかった。バス停に寄ったのは急な雨に見舞われたからで、あわよくばバスが来て雨風を凌げはしないかと期待してのことだった。
バス停には雨避けの屋根が一応取りつけられていたが、雨は弾いても肌を刺す冷たい風の脅威には役立たない。そこで少年は、近くの自動販売機まで温かいペットボトルの緑茶を買いに行った。
バス停と自販機の間にさほど距離はない。歩いて二十秒とかからない位置にある。
だが、その僅かな時間の内に少年の幸福な人生は終わりを告げた。
「タオルがあるのだけれど、もしよければどうぞ」
少年は他人行儀に自分を気遣う少女に違和感を抱きながら、ペットボトルを差し出した。
「優しい人。お名前を聞かせてもらってもいいかしら……」
今度は一体何の作品に登場したキャラクターの演技だと、少年は呆れ果てた。少女は冗談で彼をからかうことはあっても、不安にさせるような嘘だけは絶対に吐かない人間であったはずだが、と少年の疑念はますます濃さを増していく。
そして、少女はこう言い放った。
「私、あなたに会ったことがあるのかしら……。あれ……、私は誰……、何で思い出せないの……」
その時、約一年間に及ぶ少年の『人生』は幕を閉じた。
何の前触れもなく少女を襲った記憶喪失。理由は分からない。何か異変が起きた様子はなく、誰かが彼女に危害を及ぼした形跡も見当たらない。だが疑いようもなく少女の記憶は全て綺麗さっぱり消滅した。かの『人類史上最低の実名なき殺人狂』は誰にも素性を明かさないまま、記憶喪失という形で死んだ。
そして少年もまた、自分が生きているという証を失った。彼も『彼女』の後を追って殉死したのだ。誰も少年を愛してはくれない。誰も彼が生きた人間であることを証明してくれない。人間として死亡し、死んでいるように生きているかつての日々に逆戻り――。
記憶をなくした少女はその後、非行敷日本第三支部に身を寄せた。そう取り計らったのは他ならぬ少年その人であり、彼は少女と親しくなる前に距離を置いた。
非行敷日本第三支部。それは日本列島から少しはみ出た小さな島にある。非行敷は一般的に身寄りのない子供を引き取る施設として知られているため、同情を買うことはあっても忌避されることはない。しかしながらこの第三支部だけは別だ。一般人どころか同じ有能力者も好んで近寄ろうとしない、そんな場所。
日本にそびえる非行敷の拠点は三つ。空巣さんが支部長を務める第一支部、有能力者に関する研究機関としても機能している第二支部、そして孤島に設立された第三支部。第三支部は社会復帰の余地が見られないと判断された有能力者を収容する巨大な牢獄であり、別名『有能力者の墓場』とも呼ばれている。
少年はそこにかつての思い人を預け、人知れず姿を眩ました。
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道開くんは全てを語り終えた。話の合間に『彼女』の幻覚が解説を加えてくれたおかげで、ぼくはその内容をより深く、自分が過去に体験した出来事であるかのように理解できた。実際のところ、彼自身の話は全貌の表面をざっくりとなぞっただけに過ぎず、幻覚の言葉が聞こえない空巣さんとしてはまだ把握しきれていない部分もあるはずだ。
「分からないな」
傾聴に徹していた空巣さんは、閉じていた瞼をおもむろに開く。
「宮島 有十は元々非行敷第三支部に所属していた、それは真実だ。そして記憶喪失に陥っただけの有能力者に第三支部は場違いであるという意見が上がったため、第一支部に移った。しかし彼女が真に殺人狂であるならば、その情報が私の許に届かなくてはおかしい」
道開くんが黙りこくっているにも関わらず、空巣さんは事情を察したように、なるほど、とため息を漏らした。
「第三支部支部長、あのお人好しが口裏を合わせていたか。彼の甘やかし癖にはほとほと愛想を尽かされる」
「彼だけじゃないぜ」
そう名乗り出た声の主はいつの間にか部屋に侵入し、壁に体重を預けたままこちらに視線を向けていた。金色の奇抜な服装を着こなすその男は眉を吊り上げ、
「真実を欺く歳幼きユダには共犯者がいた、ってわけだ」
「マイク。そういえば有十を第三支部から第一支部に移そうとした時、それに道開を非行敷に招き入れるべきだという提案がなされた時、貴様はそのどちらにも反対していたな」
「この少年のわがままに付き合ってあげただけさ。いつか彼女を見捨てた過去に苛まれ、その罪を清算する羽目になると彼に忠告した上で協力していたに過ぎない」
「まるで実験のように子供の愚行を見過ごすだけでなく、道を正す責務を放棄し、あまつさえ手を貸す。本部が貴様をスタッフから一切昇格させずに留めている理由がようやく理解できた」
「手厳しいね。でもこちらにだって思惑があった。有能力者である彼女はもちろん、少年だって立派な保護対象だった。少女の身柄を引き受けた時、第三支部支部長は少年のことも保護しようとした。でも、彼はそれを望んではいなかった。彼には他になすべきことがあったから」
そうだな、とマイクは『少年』を――もとい道開くんを見やる。
道開くんは泣いていた。両目から大粒の雫をぽたぽたと流し、涙は床に滴るか、彼の頬を伝って衣服に滲みこんでいく。そのせいでぼくの視界も幾分ぼやけてしまっているが、声はしっかり聞こえているので問題ない。
「少年が言い辛そうなんで代わりに言ってやる。この子は、記憶をなくした宮島 有十を救おうとしたんだ!」
力のこもったマイクの言葉に、空巣さんは眉をひそめて続きを待つ。
「空巣さんを筆頭とする非行敷の連中は、例え殺人狂だろうと化け物だろうとお構いなしに助けちまう。だが一般的な見解はどうだ……、人殺しなんて誰も助けたくないし近寄りたくない。ましてや自分の恋い焦がれた相手が殺人狂だなんて、不満を持たないわけがない」
不満。
道開くんが殺人狂に対して『どうして殺人を犯すのか』と尋ねた理由、その質問に隠された彼の心境に、ぼくは今更になって気がつく。
殺人を許容した……、それは嘘だ。少年は、在りし日の道開くんは、本当は殺人なんて今すぐ止めて欲しいと思っていたのだ。
「だからこの子は演じた。記憶なき殺人狂の代役として、一時期ではあるが『人類史上最低の実名なき殺人狂』の役割を全うし、有十が殺人狂であるという事実を隠蔽した。自分こそが殺人狂であると世間に信じ込ませた。たかが一年連れ添った相手のために、一生を棒に振る覚悟で悪に堕ちたんだ。幸いにも以前から報告されていた彼の目撃情報が下地となり、真実の上書きに成功する。まあ、少し調べてみれば十分考慮しうる可能性ではあった。『彼』が『彼女』にすり替わってから数ヶ月、殺人狂のものと思われる事件こそ起きたがどれも殺人未遂に終わっている。代わりに怪我人が急増し、『殺人狂の失踪』という事実を隠すために必要なインパクトを世間に与えた。大方、殺人に対する葛藤から不用意に人を傷つけたってところだろうが、これは別人と考えた方がつじつま合うだろ」
全ては『彼女』のため、『人類史上最低の実名無き殺人狂』のため、宮島 有十のため。
短期間とはいえ、彼は『少年』を辞めて『少女』の幻影になった。
「――僕は」
道開くんは顔を真っ赤に泣き腫らしながら、言葉の一つ一つを懸命に絞り出す。その度に酸っぱい唾液が喉を流れ、胃液と混ざって逆流してしまいそうな感覚が止まない。声は掠れ、目は潤み、鼻水を啜り、それでも彼は打ち明ける。
「彼女には殺人狂の過去も、僕のことも、何もかも忘れて幸せに生きて欲しかった。だから僕は彼女に再会したあの時、喫茶店から逃げ出したんです。失った記憶を取り戻そうとして苦しんでいると知った時は、何も知らない内に僕が殺してしまおうと、覚悟しました。でも出来なかった――彼女が全てを忘れても、僕は覚えている。彼女と一緒に過ごした時間を、彼女と一緒に食べたご飯を、彼女と一緒に読んだ本を、彼女としたこと全てが僕にとってかけがえのない思い出で、それで、僕は、僕は――」
言葉となって吐き出される悲しみは、道開くん自身にも止められない。人目も憚らず絶叫する彼に対し、ぼくは二つの感情を抱いていた。
まず一つは同情。何もかもが常識を外れ、狂っているとしか言いようがない道開くんと有十ちゃんの付き合いであるが、愛する人間がいきなり自分のことを忘れるという体験はショックが大きいだろう。その点を踏まえれば十分同情に値する。
しかしもう一つの感情は、そんな哀れみを帳消しにしてしまうようなむかつきであった。
彼だって本当は自分の選択が根本から間違っていたと自覚しているくせに、何ともまあ白々しい男だ。彼が本当になすべきことは、有十ちゃんの代わりに殺人狂を名乗り、彼女の罪を被ることなどでは決してなかった。ろくでなしで人でなしのぼくにも、それくらいは分かる。
「この子には『それ』が選べなかった」
幻覚は儚げにそう言い残すと、それきりぼくに話しかけてこなかった。ぼんやりと浮かんでいた少女の姿も消え、道開くんの嗚咽だけがこの空間を満たしている。
居心地の悪い沈黙を破ったのは空巣さんだった。椅子が倒れる勢いで立ち上がり、道開くんに歩み寄ると、その体を強く、強く抱擁する。
「何故、君はあの子の隣にいてあげなかったんだ。記憶喪失で戸惑う彼女を早々に捨て置き、君は逃げ出した。それは断じて彼女のためではない。君が弱いから、彼女の傍にいるのが怖かったから。違うか……」
「空巣さんに分かりますか、大好きな人に他人として扱われる恐怖が、気が狂いそうになる程のすれ違いが、だから僕は――」
「馬鹿」
空巣さんの声に憤怒や諦観は見られない。純粋に道開くんを思いやる温かな声色が、吐息が、能力を通じて直に感じられる。
「忘れられたならば、また一から覚えてもらえばいい。思い出が消えたならばまた作ればいい。愛してもらえなくなったならば、君が愛してやればいい。それだけのことじゃないか」
それはあくまで理想論に過ぎない、とぼくは思った。
何のアドバイスにもなっていない。一から思い出を作るということは、否が応でも記憶をなくした彼女と触れ合うことに他ならない。それが嫌で道開くんは逃げ出したというのに、何という無難題をふっかけるのだ。
「空巣さん、僕には無理です」
道開くんは泣きじゃくりながら、どうにか声を絞り出す。そんな彼を更に強く抱き締め、
「大丈夫、君は既に一歩を踏み出している。道開が非行敷に来ると決めたあの日から――否、非行敷の誘いを受けてあの喫茶店に足を踏み入れた時から、君と有十の新しい思い出は始まっていたのだ。例え有十の傍にはいられなくても、彼女のことを気にかけていたのだろう……。そうでなければ、そもそも君は私の前に現れなかったはずだ。彼女が第一支部に移動したという情報を聞きつけ、私を介して有十の安否を探ろうとしたのだろう。それが偶然にも二人の再会の場となった。そういえばあの時も、私がこうして君を抱きしめていたな。道開、君は一人で頑張ってきた。辛かったな、苦しかったな。もういい、もう偽らなくていい。君は、『少年』に戻っていいんだ」
胸を打つ、という非常に歯がゆい感覚。体が仄かに温もりを帯び、幸福感が全身の隅々までじわじわと拡散していく。ぼくは変わらず納得していないが、道開くんの方はどうやら重荷が外れたらしい。
過去という重荷。記憶という重荷。
思い出というやつは得ても失くしても人間を振り回すのだから、至極厄介な代物だ。では、どうすればその重い荷物に翻弄されずに済むのか。
一つは道開くんのように『受け入れる』こと。下手に投げ出すような真似はせず、過去に立ち向かえばいい。
そしてもう一つは、このぼくのように『抗う』ことだ。
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状況は最悪だ、と誰かがぼやいた。
宮島 有十ちゃんは自室に閉じこもったまま出てこようとしない。スタッフが交代で呼びかけているが反応はなく、彼女の安否は誰にも知れない。
三枝 六花ちゃんは意識を取り戻したものの、とても満足に動ける状態にはない。空巣さんを含むスタッフの面々が付きっきりで看護している有り様だ。
その他、部屋に引きこもって姿を現さない有能力者の世話も普段通り行わなければならず、大人達は仕事に追われて忙しない。この慌ただしい現状において自由に動ける人間は、夢路 道開くんただ一人。彼はぼくの能力によって全ての行動、思惑が筒抜けになっている。もしぼくにとって好ましからざる計画を練っていたとしても、その全貌をぼくは知ることが可能――なはずだった。
ところがどっこい、そう上手くは事が運ばない。道開くんと空巣さんの見るに堪えないお粗末な茶番劇を見せつけられ、ぼくは退屈していた。
有能力者の能力は、当人の精神が屈強かつ不動のものであればある程、その真価を発揮する。それは逆に言えば、情緒不安定な状態ではろくに機能しないことを意味する。恐怖や焦燥による能力の弱体化は有能力者の間でも既知の事実であるが、実は天に昇るような幸福感に満たされていた時、能力を思うように扱えなくなった、という話がある。つまりは悲しくても駄目、嬉しくても駄目、怒っても駄目で今のぼくのように退屈過ぎて白けるのも駄目。そうした心の動き全てが能力の衰微に繋がってしまう。
道開くんと一つになっていたぼくの意識は一気に剥がされ、元の体に帰ってきた。解除されてしまったものは仕方ない、さてこれからどうしようか、と背伸びをしながら考えていると、電話の着信音が鳴り響いた。足元の座布団と畳の間に挟まっていた子機を手に取り、通話ボタンを押す。
「はい、こちら西です」
「西都原の間違いだろ」
道開くんの声だ。散々泣き喚いた弊害だろうか、声がしわがれている。
「ああ、道開くんなら別に偽名を名乗る必要はないね。改めまして、こちら西都原です。ご用件をどうぞ」
「宣戦布告だ。ぼくはお前を許さない」
先程までめそめそと泣きべそをかいていた男が、随分と格好良く啖呵を切ったものだと感心してしまう。
「六花ちゃんの件で怒っているのかい。彼女のことを気にかけている余裕が君にはあるのかな。有十ちゃんは今頃どうしているんだろうねえ。ひょっとすると首を括って自殺しているかも……」
「有十は追い詰められて死を選ぶような人間じゃない」
「どうだろうね、女の子って案外脆いものだよ」
ぼくも女の子だけど、と付け加えてみたが、特に意味はない。それにぼくは脆くない。
「君は立ち直りが早いなあ。予想するに、非行敷に運営資金を援助している団体の名簿を辿ってぼくに電話をかけてきた、ってところかな。空巣さんやスタッフに探りを入れてみればぼくの家の住所もすぐに分かるだろうね。宣戦布告とかクソクダラナイ御託はいいからさ、さっさと殺しに来るといい。あ、でも君は殺人狂じゃないから無理か!ねえ、嘘吐きで泣き虫の道開くん……」
「すぐ行く」
受話器を叩きつける音と共に通信は切れた。ぼくは「荒っぽい切り方だな」と文句を言い、握っていた子機を部屋の隅に設置した充電器に差し込む。
どうやら道開くんは大層ご立腹な様子だ。すぐ行く、という台詞もおそらくはったりではない。今頃ぼくを始末するための凶器でも準備しているのではないだろうか。
しかしぼくの狙いは彼ではない。用があるのはあくまで三枝 六花ちゃんの方、より詳しいことを言えば彼女の能力の奪取こそがぼくの目的である。こちらから煽っておいて申し訳ないが、道開くんが訪れるのを待つつもりは毛頭ない。先んずれば則ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為る。昔の人は良い教訓を遺したものだ。
道開くんが動く前に、先手を打たせてもらうとしよう。
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