第七話『過去に殺されるということ』
彼の過去に一体何があったのか。どうして彼は記憶を失ってしまったのか。
彼は誰がために戦い、傷つくのか。
『正義の弾丸、マスクシューター!本編では語られることのなかった彼の物語が今、紡がれる!』
テレビの音量が大きいのだろうか、それともナレーションのテンションが無駄に高いだけか。ともかくやかましいのでリモコンのボタンを連打し、音量を調節する。あまり小さくしすぎると、道開が私の隣でもしゃもしゃとレタスをかじる音に負けて音声が聞こえなくなってしまう。彼は千切ったレタスで満たされた巨大な皿を片手に、何を見ているんだと尋ねた。
「『弾丸マスクシューター』よ、二年前に放送していた特撮。本編はレンタルDVDで見終わったのだけれど、友達にスピンオフ作品を借りたから見ようと思って」
お喋りはこのくらいにして、私は黙って画面を見つめる。
青と銀の二色をベースに、銃士をモチーフとしたそのヒーローは襲い掛かる怪人を次々となぎ倒していく。その正体は記憶喪失の男性で、彼は戦いの中で成長し、時には挫け、それでも守りたいもののために何度でも立ち上がる。最後まで記憶を取り戻すことはなく、最終回では満足げに微笑むマスクシューターを映し出してフェードアウト。全四十七話をもって物語の幕を閉じた。
続編や映画化の音沙汰もなくあっさりと終わった作品であったが、私としては最良の終わり方だったと満足している。だから学校の友人からスピンオフ作品を貸してあげると言われた時、その申し出を受け入れるのに少し躊躇した。
一度完結した作品、それも自分が心から満足した最終回を迎えた作品というのは、いわば綺麗な球体のようなもの。スピンオフや続編が加わると、どうしてもその滑らかな曲線を崩してしまう。つまりは蛇足に感じられるのだ。
それでも見ようと決心したのは、私もマスクシューターと同じように自分の記憶を取り戻したいと考えているから。彼の境遇に己を重ね、シンパシーを感じているからだと思う。もちろん、ただ単に興味が湧いたというのもある。
『はっはっはあ!私は悪の秘密結社の一員。強靭凶悪な怪人を生み出し、世界を滅ぼしてみせるぞ!』
普段はダンディな主人公を演じている俳優が白衣を纏い、狂気に歪んだ笑みをカメラに向けている。こてこての演出と衣装であるが、王道故に悪役というイメージがはっきりと伝わってくる。
「そのマスクシューターとかいうやつ、元はマッドサイエンティストだったみたいだな」
道開は至極どうでもよさそうに呟く。
悪の組織に所属する研究員として暗躍する主人公の姿をコミカルに映しているが、物語が進むにつれ、おどろおどろしい雰囲気がテレビ画面から伝わってくる。
『ああ、神よ!私はなんという過ちを犯してしまったのだろうか。生き別れた息子を怪人にする親が、この世界のどこにいるというのか……』
物語もいよいよ終盤、主人公は灯りのない洞窟であらん限りの叫び声を上げる。自分の子供と知らずに幼い少年を改造手術の実験体に選んでしまったことに対する悲痛の嘆きが、ただ空しく木霊する。彼の傍らで巨大な幼虫が懸命に地を這い、自分の親を慰めるように寄り添っていた。
『死んでしまいたい、忘れてしまいたい!誰か私を罰してくれ!誰でもいい、私を殺してくれ、許してくれ!』
声が枯れてもなお叫び、遂に彼は記憶を全て消去する薬を自分に投与してしまった。
画面が暗転し、時間の経過を物語る。どれくらいの時が経ったのだろうか、主人公が薄暗い洞窟で目を覚ますと、そこには蝶を模した怪人が佇んでいた。突如として襲いくる怪人に応戦するべく、彼は悪の組織の秘密兵器『変身ベルト』を手に取る。第一話で見た戦闘シーンを映し出し、ちょうど怪人を倒したところでエンドロールが流れた。
「まさしく『変身』だな」
気がつくと、私は道開に張り手をお見舞いしていた。平手に押された彼の柔らかな頬が波打ち、弾ける。いきなり何をする、と手に持っていたレタスを振り回しながら道開が声を荒げる。
「え、あ――ごめんなさい」
どうして手が出たのか、自分でもよく分からない。道開は真っ赤に腫れた頬を手で擦り(打撃による腫れや痣は能力による治りが遅いのだと彼は言う)、目に溜まる涙を何とか堪えている。私は何度も頭を下げながら、ある疑問を抱いていた。
何故私は今、こんなにも苛ついているのだろう。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
道開とそんなやり取りをしたのが四日前。どうして今になってマスクシューターのことを思い出したのかというと、廊下を歩く私の前に『彼』が立っていたからだ。悪の秘密結社に忠誠を誓い、怪人を生産し世界を滅ぼそうとするマッドサイエンティストから一転、世界を救うヒーローとなったあのマスクシューターが立ち塞がっていた。
「まさか学校で正義の弾丸ことマスクシューターに出会えるとは思わなかったわ。サイン、いただけるかしら……」
私の言葉を意にも介さず、マスクシューターはバイザーの奥に覆い隠された複眼をぎらりと発光させ、一歩、また一歩と歩み寄る。
「貴様は『彼女』の計画を阻む邪魔者だ。ここで排除する」
本物のマスクシューター役の声――いかつい見た目の割に爽やかな主人公の声とは似ても似つかない濁声に、私は少し落ち込む。
「まさかとは思ったけれど、やっぱりコスプレなのね。スーツがよく作り込んであるだけに残念だわ」
「違う、私はまごうことなきマスクシューターだ。『彼女』は、何の取り柄もない学生という偽りの私を本来あるべき姿に戻してくれたのだ」
『彼女』が誰を指しているのかは分からない。ただ間違いなく言えるのは、このコスプレさんが自分こそ本物のマスクシューターだと主張する、青い鳥を手に入れたと信じて疑わない我が校の学生だということ。
私は段々と腹が立ってきた。コスプレさんの姿を見ている内に、マスクシューターの過去なんて知るべきではなかったと今更になって蒸し返し、苛立つ。そういえばこのコスプレさんはスピンオフを視聴済みなのだろうかと疑問に思ったが、尋ねる間もなくコスプレさんは一気に距離を詰めてきた。私は安全な間合いを確保するために逃走し、校舎の屋上を目指す。狭苦しい校内では反撃どころか教室や廊下を滅茶苦茶に壊してしまいかねない。屋上のような広い空間であればそんな心配は要らないし、他の人間を巻き込むこともない。
屋上に向かう途中、私はいくつもの教室の前を通り過ぎた。しかしそこに生徒の姿はなく、廊下を全力疾走で駆け抜けても私の行為を咎める教師の姿はなかった。誰ともすれ違わず、誰とも顔を合わせない。放課後にしてはあまりに閑散としていた。
教室で屯している生徒は、渡り廊下で走り込みをしている部活動生は、居残った生徒の面倒を見ている教師はどこにいったのか。全員が何者かの手によって消されたのか、あるいは私が世界から消えたのか。
こういう異常事態にあっても落ち着いて問題を解決するのがマスクシューターの役割だというのに、肝心のマスクシューターは異常事態そっちのけで私を追跡し、屋上に着くや否や回し蹴りを繰り出した。
頭部を蹴り破らんと襲いくる上段蹴りをスウェーバックで避ける。コスプレさんは空振りした足を地面に下ろすことなく膝から折り畳み、足刀に切り替える。胴を狙ったその一撃を斥力で受け、同時に引力で私の体を後方に思い切り引っ張る。距離を取るためにそうしたのだが、引力の制御が上手くいかず、私はコンクリートの地面を転がる。
そもそも斥力、引力と銘打ってはいるが、私の能力は『見えない力』をある方向に向けて発生させているといった方が分かりやすい。威力を指定し、ある地点からある地点に向かう力を生み出す。もしもその『地点指定』が私の視界にない場合、今のように『私』から『後方のどこか』に向けて力を発生させた時、制御が効かないのだ。
背中の皮を引きちぎられたような激痛に襲われるが、歯を食いしばって耐え、目はしっかりとコスプレさんを捕捉する。
後退を先読みしていたコスプレさんは遥か上空目掛けて飛翔し、弾丸の如き速さをもって足を突き出し、そのまま突っ込んできた。
「シューターキック!」
マスクシューターの必殺技、シューターキック。自らをピストルの弾に見立て、高速で敵を貫く百発百中の怪人殺しキック。
「お生憎様、私は怪人じゃないの」
有能力者ではあるが、私はれっきとした人間だ。道開は自虐たっぷりに自分のことを怪物呼ばわりするかもしれないけれど、私はそうは思わない。
私は人で、人間で、有能力者で――。
「宮島 有十よ!」
コスプレさんの蹴りが届く前にどうにか対応できないか考える。コスプレさんを引力で地面に引っ張り叩きつけるか、私から全方位に向かって斥力を生み出し防ぐか。しかし風を切り裂き猛スピードで接近するシューターキックに対抗できるほどの力が生み出せるか、正直言って自信がない。少なからず動揺している現状で、能力を存分に振るえるかも分からない。一旦コスプレさんの動きを止めてから反撃に転じなければ、容赦なく牙を剥く正義の弾丸に勝利することは不可能だ。
私は覚悟を決め、コスプレさんの蹴りを真っ向から受け止めた。両手で掴んだ足は強引に拘束を解き、勢いをそのままに腹部へとめり込んでいく。胃や腸を『混ぜ込みご飯』よろしく杓文字でかき回される感覚に意識が飛ばされそうになるが、ぐっと気合いを入れて持ちこたえる。
コスプレさんの足を再度両腕で掴み、地面から引力を、空から斥力を発生させ、その巨体をコンクリートの大地に叩きつけた。コスプレさんが起き上がってこないようにのしかかり、バイザーごと頭部を鷲掴みにする。
「私の質問に答えなさい。さもなければマスクシューター第二十四話を思い出させることになるわよ」
私がそう囁くと、コスプレさんは小刻みに頷いてみせる。第二十四話、というキーワードだけで私に何をされるか分かったあたり、見かけだけのマスクシューター好きではないようだ。
マスクシューター第二十四話において、秘密結社の幹部アタマ・ドグマと死闘を演じた際、マスクシューターは頭部を奪われたことがある。変身ベルトの力で何とか生命を保っているマスクシューターは、頭部を取り戻すべく仲間の指示を頼りに戦う、という話なのだが、コスプレさんの周囲には頼れる仲間が見当たらず、そもそも頭をもがれて生きていられるとは思えない。
「あなたが本物のマスクシューターであるなら、頭くらい引きちぎられてもベルトの力でどうとでもなるわよね。どうしてそんなに怯えているの……」
「ごめんなさい、ただのコスプレなんです!私は『彼女』から能力を借りているだけの、しがない特撮マニアなんです」
先ほどの威勢はどこへいったのか、白状した後のコスプレさんは気の抜けるような声で助けてくれ、ごめんなさいと赦しを請う。よく見るとコスプレさんが腰に装着している変身ベルトは、最近再販された玩具そのものであった。実は私もこの間同じものを買ったの、遊んでいて飽きないわよね、今度ごっこ遊びしましょう、なんて言える状況ではないのが非常に悔やまれる。
「安心して。あなたが私と同じマスクシューターマニアであると判明した以上、手荒な真似はしないわ。あなたは何も考えず、ただ私の質問に答えてくれるだけでいいの。あなたが何度も口にしている『彼女』とは何者なのか、教えてくれるわよね……」
「それは、その」
顔を背けるという露骨な躊躇いをみせるコスプレさん。大方その『彼女』とやらに口止めされているのだろう。それもただ口外しないようにと指示されただけでなく、約束を破れば何らかのペナルティがあると見た。
それならば話は簡単だ。そのペナルティを帳消しにしてしまうようなものを、罰を受けてでも欲しいと思える何かを与えてやればいい。
「あなた、マスクシューターのスピンオフ見たことある……」
突然話が変わったことに戸惑う様子もなく、それどころかコスプレさんは声を上擦らせて興奮気味に答える。
「幻の第零話のことか。それは第零話を収録したスピンオフDVDが数十万単位で取引されていることを知った上で訊いているのか……」
「まだ見ていないのね、話が早いわ。私の質問に答えてくれたなら特別に見せてあげてもいいわよ。幻の第零話、マスクシューターの恐るべき過去を」
生唾を飲む音が、コスプレさんの厚みのあるヘルメット越しからでも私の耳に伝わる。私がそうであったように、マスクシューター好きならば迷わずにはいられないだろう。
何気なく視聴し、その内容に苛立ちさえ覚えたスピンオフ作品であるが、その希少価値は半端なものではない。本来は見ることができただけでもありがたい代物で、文句をつけるなんておこがましいにも程がある。
コスプレさんが言ったように、『弾丸マスクシューター』のスピンオフにあたる第零話を収録したDVDは高値で取引されている。というのも、このDVDは完全受注制で販売されていたもので、その受注期間は半月となかったために多くは出回らなかった。風の噂に過ぎないが、実際に出荷されたのは五十枚程ではないかと言われている。
世界でたったの五十枚しかない、幻の一作。DVDには強力なコピープロテクトが施されているため、複製も不可能だ。私が視聴したそれもたまたま受注期間に購入していた友人から借り受けたもので、このコスプレさんにDVDを貸すと又貸しになってしまうのだが、状況が状況なだけに致し方ない。友人には後で断りを入れ、何か美味しいものでも奢って許してもらうとしよう。
「本当にそれは第零話か、年末に放送された特別編では」
「違うわ、正真正銘マスクシューターのスピンオフ作品よ。そうね、実はマスクシューターが記憶を失う前――」
「止めろ!分かった、分かったから。全部話すから」
コスプレさんは観念したのか、はあ、とため息を漏らす。
「私が『彼女』から能力をもらったのはつい昨日のことだ。マスクシューターの変身ベルトで遊んでいた私の目の前に、彼女は突然現れた」
「突然現れた、って」
「それこそいきなりだ。初めは幽霊かと思って驚いたよ、まさか自分の部屋に見知らぬ女の子が――いや、見知ってはいた。この学校の生徒なら一度は顔を見たことがあるはずだからな。ともかく彼女は言った。自分に協力すれば、彼女が三枝 六花に接触するまで宮島 有十という生徒の足止めをすれば、本物のマスクシューターにしてやると。一時的ではあるが、身体能力をマスクシューター並みに向上させてやるとも約束してくれた。そうして手に入れた力がこれだ」
コスプレさんは仰向けのまま両腕を広げる。『彼女』に与えられた力により、驚異的な身体能力を身につけた己の体を晒すように。瞬時に相手との距離を詰める爆発的な脚力、足技を連続で繰り出す器用さ、シューターキックを可能とする化け物じみた跳躍力。そのどれもが人間離れした、有能力者と形容すべき力だ。
『彼女』とは何者なのか、誰が六花を狙っているのか、黒幕の正体とは――矢継ぎ早に問い質すが、コスプレさんは答えない。肩を掴んで揺すってみても反応はない。ただただ胴体が前後に揺れ、頭が遅れてついてくる。バイザーから溢れる奇妙な液体に触れた途端、私はそれが血液であることを理解した。
「もう少し時間を稼いでくれると思ったのに、残念無念また来世」
ずるり、ずるりと重そうな物体を引き摺る音に、笑いを堪えているかのような震えた声が、下の階に続く階段から這い上がってくる。私はコスプレさんから離れ、屋上へ迫る何者かに備えて階段の前で警戒する。
気がつけば、夕方を過ぎて夜になっていた。漆黒の空には星がまばらに見える。月の光が屋上をほんのりと明るく照らし出すが、遂に姿を現した『彼女』の周囲だけは不自然に黒一色で縁取られていた。
「せっかく用意した四天王だったのに、ぼく以外全滅じゃないか。やっぱり急造の養殖有能力者じゃ天然ものには歯が立たないか」
数時間前に見た顔と、その時は感じなかった異様な雰囲気。名前は確か、西苛だったか。彼女は目尻を吊り上げた笑顔を浮かべつつ、屋上まで引き摺ってきたモノをこちらに投げて寄越した。
白目を剥き、ぶるぶると痙攣するその夢路 道開という物体はとりあえず放置しておくとして(重症のようだが彼の能力でその内回復するだろう)、私は西苛の方へ向き直る。
「あなたが黒幕……」
うん、と明るく返事をする西苛。
「推理小説みたく焦らしに焦らして登場しようと思ったんだけど、我慢できなかったよ。敵は四人いますよ、誰が黒幕か分かるかな、みたいな展開にしたかったんだけどなあ。ぼくはどうにも節制ってやつが苦手だ」
「早漏さんなのね」
「一人称が『ぼく』だからって、えっちなこと言わないでよ」
「『ぼく』繋がりで一つ訊かせてもらえるかしら。見ての通り、道開を死にかけのダンゴ虫みたいな有り様にしたのはあなた……」
西苛はちらりと道開を一瞥する。確かにダンゴ虫っぽいね、と鼻で笑い、
「そうさ。彼、不死身なんだって……。不死身には不死身なりの、弱点を突いた戦い方があるんだよ。例えばそう、麻酔薬を死なない程度に打ち込むとか。体を傷つけても即時回復されてしまうからね、痺れさせたり寝かせたりして体の自由を奪えばいいという寸法だ」
道開と空巣さんが相対した時もあっさりと打ち負かされていた不死身の力。あれは単に空巣さんが強すぎるだけだと思ったのだが、考えを改める必要がありそうだ。私が戦った時は心底恐ろしいと感じただけに、今回もこの有り様では、不死の力はさほど驚異的な能力ではないのではないかと思えてくる。戦闘に向いていないというか、戦闘そのものは彼の技量によるから納得できなくもないのだが。
しかし、今考えるべきは目の前で不気味に微笑む西苛のことであって、道開の能力なんてどうでもいい。
西苛は全てを知っている。有能力者のことも、道開の能力も、そしておそらくは私の能力も知られている。しかし私は彼女の能力を知らないし、彼女の目的が何なのかさえ把握できていない。
「あなたの狙いは何、どうして六花を狙うの……」
「ぼくが訊かれたことに対して素直に答える良い子ちゃんに見える……」
「答えなさい、でなければその腕を折るわよ」
私は西苛の右腕に照準を定め、ぐるりと取り囲むように斥力を発生させた。血圧測定に用いるマンシェットで締めつけられているみたいに、制服ごと西苛の腕が歪む。血圧測定と違うところは、このまま彼女の腕があらぬ方向に曲がるまで不可視のマンシェットが締め続けるということだ。
自分の腕が今にも圧し折れようとしているのに、西苛の表情はとても穏やかだった。
「良い能力だ。流石は――おっと、危ない危ない。口が滑っちゃうところだった。このタイミングで真実を君に告げてしまうことは、メロンパンの皮だけ食べて中身を捨てるくらい愚かでもったいない行為だからね。ちなみにぼくはメロンパンの中身が好きなんだ、ふんわりと柔らかくてさ――」
西苛の言葉が途切れる。小さな悲鳴が歯並びの良い口の隙間から漏れるのを、私は聞き逃さなかった。
斥力で固定していた彼女の右手はだらりと垂れ下がり、関節がもう一つ増えていた。そうしたのは私だが、どうにも実感が湧かない。引力と斥力がどうやって発生しているのか知らない私には、その力がもたらす感覚を知ることができない。拳銃で人の頭を撃ち抜いた人間に、人間の頭は硬かったかどうか尋ねても答えようがないのと同じだ。
今の私が抱いている感情は一つ、苛立ちだけだ。体がむず痒くなるようなストレス。会話の噛み合わない相手からどうやって情報を引き出そうか、そればかり考えている。
「はは、容赦ないね」
「答えなさい、あなたの目的は何……」
「三枝 六花ちゃんの能力を手に入れる」
終始薄気味悪い笑みを浮かべていた西苛の表情が一変する。彼女は宣誓するように真顔でそう言ってのけたが、私はいまいちぴんとこなかった。
どうやら彼女は六花の能力をも把握しているようだが、どうやってそれを奪うつもりでいるのだろう。第一、六花の能力は何だ。わざわざ他者を利用し、傷つけてまで欲する力とは一体――。
「君は何も知らないんだよ、宮島 有十ちゃん」
目前の少女は声高らかに笑う。
「君は自分が何者なのか知らない。六花ちゃんは自分の能力の恐ろしさを理解していない。そして道開くん、彼は己が仕出かした愚行の重みに気づいていないんだ」
「爆死する直前の怪人が言いそうな言葉ね、負け惜しみってやつかしら」
「怪人、怪人ねえ。ぼくが悪者だって、化け物だって言いたいのかい。おいおい、なあに自分は違うみたいな言い方しちゃってるのさ、有十ちゃん。ぼく達みんな有能力者というクソクダラナイ社会の檻から漏れ出た犯罪者集団じゃないか。もうちょっと自分の犯した罪に敏感になってみてもいいんじゃないの」
――もう一本腕を折らなければ、この減らず口を止めることはできないのだろうか。
残ったもう一方の腕を粉微塵になるまで砕いてやろうと、私は能力を発動させる。西苛がなおも口を開こうとするので、先に唇を引力で無理矢理閉じさせ、そのまま一切の躊躇なく彼女の左手を粉砕した。先程のようにじわじわと締めつけるのではなく一気に、爆発させる。
西苛の叫び。痛みに悶え苦しむ悲鳴、声にならない喚声。本当に恐ろしいことであるが、その時私は笑っていた。とっさに口を手で覆い隠したが、心情に相反する笑顔は張りついたまま元に戻らない。
「やっと効いてきたねえ」
顔を上げると、無傷で私に歩み寄る西苛の姿があった。肉が裂け、砕けた骨が飛び出る程の重傷を負っていたはずの両腕を前方に突き出し、元通りになった腕の様子をまざまざと見せつける。彼女の能力は道開と同じで、つまりは再生能力を持った有能力者ということか。
「先に言っておくけれど、これはちんけな再生能力なんかじゃあないよ。『ぼくと相手の状態を平均化し、徐々に正常化する』能力さ」
手を握っては開き、握っては開きを繰り返し、腕の調子を確認しながら西苛は続ける。
「使い勝手が悪いようで慣れるとこの上なく便利な能力だ。ぼくの怪我は君の状態と平均を取ることで半分に分配され、更に正常化させることでほぼ無傷の状態に戻ったんだ。それでも修復しきれなかった傷はぼくの腕にも、君の腕にもあるはずだ。心配しなくてもいいよ、その傷も時間が経てば消えるだろうから」
私は自分の腕を見る。西苛の腕についた傷と同じところに、うっすらとした傷跡が見て取れる。それも片腕だけでなく両腕に、平等に。
「『状態』とは体の健康だけでなく感情も含める。つまりぼくと君の心は一度リンクしたわけだけれど、どうかな、ぼくの楽しい気持ちは有十ちゃんにちゃんと伝わっていたかな。ぼくを嬲るのは楽しかったよね。ぼくは君に両腕を潰されて楽しかったよ」
顔を綻ばせる西苛。
私はようやく悟る――手に負えない。六花を守るために立ち向かったが、この少女は私よりも格段に強く、そして恐ろしい。彼女が放つプレッシャーは、道開にナイフを向けられた時の恐怖を軽く凌駕する。
「ぼくが怖いの……」
己の全力を出し切っても、手傷を負わせることさえ難しい相手。そういう者を前にすると、私は足が震えて動けなくなってしまう。ついこの間、空巣さんに如何なる時でも平常心を保つよう言われたばかりなのに。
「いいよ、怖がっても大丈夫。それが自然な反応だ。だって君はぼくより弱いんだから」
私は何も言い返せなかった。がくんと全身の力が抜け、尻餅をついて頭を垂れる。ただ委縮して怯えることしかできない自分を奮い立たせようと呻いてみても、体は意思に反して微動だにしない。
「君は良い子だね。自分より強い相手にはさっさと降参して屈服した方が賢明だ。強者は弱者に何をしても許されるし、弱者は強者に一言だって言い返せないし逆らえない。それが正しい『人間』の在り方だ。だから見逃してあげる。尻尾を巻いてぼくの前から逃げ出すことを、敗走を許可してあげるね。これも君がきちんと『分』をわきまえていたから得られた特権なんだよ、有十ちゃん」
「私は、屈したわけでは」
「無理しないで、ね……。もう君を怖がらせたりしない。そもそもぼくの狙いは六花ちゃんだ。君も道開くんも、今日は大人しく帰ってぐっすり休んでよ」
まるで長い時間を共に過ごしてきた親友を気遣うように、彼女は馴れ馴れしくそう言った。腰が抜けて立てない私の体をしゃがみ込んで抱き寄せ、耳に吐息を吹きかける。
「そうだ、六花ちゃんも忘れずに連れ帰ってあげてね。今頃大変なことになっているだろうから」
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
私は無力だ。
私には何もない。自分の記憶も、誰かを守る力も。
引力と斥力が操れるから何だ。そんな大道芸をやってみせたところで、この弱くて脆いメンタルではまともに使いこなせない。前々から思っていた――この能力は私の身の丈に合っていない。他人の力を借りているみたいにしっくりこないのだ、と。
でもそれはきっと、都合の良い言い訳だ。
いい加減に認めてしまえばいい。己が非力な存在であることを。
「六花、しっかりしろ!六花!」
一年二組の教室が、道開の絶叫で満たされる。
彼はつい先程まで気を失っていたとは思えない機敏な挙動で、床に伏していた六花を介抱している。
――六花は、六花は。
彼女は何の反応も示さない。どこを見ているか分からない虚ろな瞳は、瞬きをする力さえ残されていない。力任せに引きちぎられたと思われる制服の残骸が彼女の周囲に散らばり、その中には下着も混じっていた。最早裸同然の体には蚯蚓腫れや擦過傷、火傷の痕も確認できる。
「あの野郎、ぶち殺してやる」
道開は憤怒で顔を歪め、西苛に対する憎悪の言葉を口にする。今すぐにでも西苛に襲いかかりたい気持ちは十分に理解できるが、彼女は既に姿を消していた。私達を置いて闇夜の中に紛れた西苛を追うより先に、私達は一刻も早く六花のいる教室へ急いだのだ。
六花にはひとまず私のジャージを着せ、道開と共に彼女を担いで移動する。道開が校門前にタクシーを呼んだというので、そこまで彼女を運ぶことにした。
相変わらず人の気配が感じられない空っぽの校舎を歩く。時折六花の様態を心配しつつ、道開が得た情報と六花の惨状、更に私が見聞きした全てを一度整理し、脳内で現状の把握を試みる。
まず、西都原 西苛(学校では西 西苛という偽名を使用している)は三枝 六花の能力を狙っている。彼女自身も有能力者で、その力は『自分と相手の状態を平均化し、徐々に正常化する』というややこしいもの。
次にどういう手段を用いたのかは知らないが、西苛は久佐加 三藤から一旦能力を押収し、そして貸し与えた。非行敷に属さない有能力者が意外と身近にいた事実に驚くが、西苛が他人の能力を自由自在に与えたり取り上げたりできるという情報は更に驚愕すべきものだ。おそらくは同様の方法で六花の能力も奪うつもりなのだろう。
そして西苛は三藤の他に二人、この学校の生徒に能力を貸し与えた。一人は私の前に立ちはだかったコスプレさん、もう一人は三藤と共に道開を襲ったというトランプ使いの女子生徒、溝辺 結城。今朝、屋上から私達を見下ろしていた人影は四名。これで一応数は合う。だがこうして情報を整理したことにより、新たな疑問が浮上する。
何故西苛は西都原ではなく西という名字を名乗っていたのか。彼女はどうして六花の能力を欲しているのか。どのようにして他人の能力を奪い、そして与えるのか。
もう何が何だか分からなくなってきた。情報を獲得したことがかえって仇となり、私の思考能力が追いつかなくなってしまった。
それに私はもう、事態を収拾しようとする気力も湧かなかった。己の無力さを思い知らされ、今更何をどうしろというのか。こんな私に何か役割があるというのなら、是非とも教えてほしいものだ。
これ以上何もしたくない。後は全部、空巣さんにでも任せよう。きっと何とかしてくれる、何もかも解決して退屈で平和な日々が戻ってくる――そう、思っていた。
無事タクシーに乗り込み、何かあったのかと心配してくれる運転手を適当にあしらい、非行敷に到着する。「遅かったじゃないか」と言って玄関で私達を出迎えた空巣さんは案の定、私達の姿を見て卒倒しそうになった。戦闘で制服が乱れた私や道開もそうだが、とりわけ六花は目も当てられない有り様で、未だに言葉を発する様子はない。魂を持たない人形のように力なく項垂れ、緩んだ口元から唾液が糸を引く。
どうにか平常心を取り戻した空巣さんはすぐさま六花の手当てを始め、それと並行してあちらこちらに電話をかけまくった。警察、学校、それに非行敷本部と手を休める暇はない。
空巣さんが受話器を下ろして程なく、十数人の男女が一斉に屋敷を訪れた。皆一様にスーツを身に纏い、夜だというのに黒いサングラスをかけている。
彼らこそ非行敷本部から派遣され、全世界に点在する各支部のサポートを務めるスタッフだ。スタッフの内の一人とは面識があり、その人物とコンタクトを取ることに成功した。
「六花の容態はどう……」
白髪に金色のスーツと帽子がやたら目立ち、一人だけサングラスではなく銀縁眼鏡をかけているためにスタッフの中で浮いているその男、マイク・スターリー(もちろん偽名であるし外国人でもない、れっきとした日本人だ)は困ったように人差し指でこめかみを引っ掻く。
「正直、芳しくない。傷自体は命に関わるようなものではないし、ヴァージンも奪われていないそうだ。しかしボディは無事でもメンタルは最悪だ。今は本部で一番有能な医者が診ているが、良い顔はしてないな」
「精神的に弱っている、ってこと……」
マイクは頷く。
「曰く、相当手慣れた手口でズタボロにされているらしい。人間の嫌がること傷つくことを全部やらせて、それでも決して正気を失わせない、簡単にいえば自我そのものを攻撃する方法があるんだとよ」
「そんなことが可能なの……」
「原理としては『いじめ』に近い。ありゃよくできた拷問でな、言葉と僅かな痛みをもって人間の精神ってやつを大根おろしみたく擂っちまうんだ。一気にやるんじゃなくて、ちょっとずつちょっとずつ。要するに時間をかけて苛め抜かれたわけだが、お前、あの子がそんなになるまで助けに行かなかったのか」
さっと血の気が引き、心臓を抉り取られるような、紛い物の痛みに襲われる。
私は、私は――。
「あ、あ」
私は喉を抑える。おかしい、声が出ないのだ。
マイクに今までの経緯を語ろうとした途端、喉に何かが閊えているみたいに言葉が出てこない。どうした、と訝しげに見つめるマイクに、この異常を伝えようと必死に手をばたつかせる。事件の首謀者、西都原 西苛について話したいのに、何か得体の知れないものに発声を邪魔されて声が出せないのだ、と。
「このうっかりさんめ、能力をくらったことに気づかないで戻ってきたのか」
ちっ、と小さく舌打ちをすると、マイクは私の頭をぽん、ぽんと叩いて「とりあえず落ち着け」と言う。
「今言わんとしていることはまだ口にしなくていい。それ以外の、例えば好きなお菓子について話してみろ」
言われるがまま、私は口を開く。
「私は知育菓子が好き、それも水を入れてかき混ぜるタイプ」
喉の奥で声が塞き止められる感覚はどこへやら、当たり前のように言葉が紡がれる。次こそはと西苛について話そうとするが、またもや喉まで出かかって消えてしまう。
「駄目ね。伝えなくてはならない大事なことなのに、言葉が出てこない」
「口封じの能力か。自分に関する事項を特定の人間に口外させない、みたいな能力だろう。こいつはひょっとすると、手を出しちゃいけない相手を敵に回しているんじゃないか……」
西苛の邪悪なものとはまた違った恐怖を覚える不気味な笑みを浮かべ、マイクは一人空巣さんの許へと向かった。残された私は何をするわけでもなく、三階を歩き回る。二階は六花の部屋に絶え間なくスタッフが出入りしていたため、少しばかり居づらかった。
自然と食堂を目指し、空巣さんの姿を探す。もちろん彼女は六花の看病に忙しく、作り置きのおにぎりとウィンナー、それに卵焼きの並ぶ大皿だけが私を出迎える。かけてあったラップを外してウィンナーを指で摘まみ、口に運ぶ。
「しょっぱい」
味付けは普段と大差ないのに、口の中がぴりぴりと痺れ、上手く飲み込めない。それ以上摘まむのを止め、私は食堂を出た。
うろうろと徘徊を続け、ふと書庫の扉が目に留まる。めったに利用することのない書庫を訪れ、中を覗こうと思ったのは、本当にただの思いつきでしかなかった。
まさか先客がいるなんて考えもせずに書庫を散策していた私は、男性の怒鳴り声を聞いてとっさにしゃがんで身を隠した。本棚の隙間からそっと顔を覗かせ、怒声の聞こえた方向を見やる。
「こんな時に出てくるんじゃない、僕は苛ついているんだ」
道開だ。彼は一人でぶつぶつと呟き、誰もいない空間に向かって声を張り上げている。
「僕にできるか、だって……。当たり前だ、僕はお前でお前は僕だ。確かに『人類史上最低の実名なき殺人狂』と呼ばれていたのは僕じゃない。だが僕にだって人は殺せる。お前みたいに埒外の人数を皆殺しにすることは不可能だけどな――あの卒業式のように」
道開の視線の先に、人の姿はない。
では、今の話は何だ。道開は殺人狂ではない。虐殺の限りを尽くし、『人類史上最低の実名なき殺人狂』と恐れられた殺人鬼ではなかった。それは本当なのか。
この少年は何者で、本物の殺人狂はどこにいる。全ては道開の狂言か、それとも妄想か。六花が襲われたショックで頭を『やられて』しまったか。
私には分からない。一度に大量の情報を流し込まれ、更に濃密で理解の追いつかない真実が私の脳という柔らかな受け皿から零れ落ちては掬い上げる。自分が何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、それを考える余裕はない。
「知りたくなかった」
何も知らない方が良かった。
マスクシューターの過去も、西苛という存在も、道開や六花のことも。いっそ彼らに出会わなければ良かったとさえ思う。もうこれ以上、何も知りたくない。
そういえばいつだったか、道開が言っていた。過去に辛いことがあったなら、それを忘れて生きていく方が幸せだ、と。私は彼の言葉に否定的であったが、案外彼が正しかったのかもしれない。この調子では、私の過去はきっとろくでもないものに違いない。
「もう、嫌」
私は膝を抱え、その場に座り込む。両膝の間に顔を埋め、視界を塞いだ。道開の怒声がただの雑音となって耳に届き、本に囲まれた世界で私は目を閉じる。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
翌日、私は学校にいた。
六花と道開は登校していない。六花は非行敷本部から派遣されたスタッフに警備され、道開はその中でもとりわけ屈強なメンバーに取り押さえられている。というのも、放っておけばそのまま誰彼構わず殺しかねない状態だったからだ。
私もしばらく学校を休むよう空巣さんに言われたが、マイクはそれに反対した。
「有十には今回の襲撃犯の正体を突き止める義務と責任がある。例え危険な目に遭ったとしても、そうしなければならないんだ」
「子供の苦しみや痛みを肩代わりするのはいつだって大人の役割だ。有十には何の義務も責任もない、勝手なことを言うな」
「そうやって子供扱いしているから、いつまで経ってもこの子達は殻を破って外に出られない。空巣さんが一番よく分かっているだろう」
「子供同士の喧嘩であれば、私の介入する余地はない。だが今回の件には、非行敷下にない複数の有能力者が関与している。非行敷日本第一支部支部長の任を預かる者として、見逃すわけにはいかない」
空巣さんとマイクの口論を見かねた私は仲裁に入り、マイクの意見に従うと言った。彼は普段飄々としていて掴みどころのない、信頼を寄せるには心許ない人物だ。しかし非行敷の一員として、空巣さんとは違った形で私達の身を案じている。そんな彼の言葉は、いつも決まって正しい。
私はどんなに無力でも、どれだけ役立たずでも、道開や六花のために動かなくてはならない。私が嫌かどうかなんて関係ない、そうしなければならないのだ。
だって私達は家族だから――血の繋がりはなくても、私達は互いに助け合う。
私の制服の胸ポケットには、マイクから渡された小型カメラ内蔵のボールペンが潜ませてある。私の前方に映る景色を記録し、集音機能で他者との会話もばっちり収めることが可能だ。
西苛は必ずやもう一度私に接触してくる。しかし『口封じ』の能力によってその詳細を語ることが許されていない。となれば、人間ではなく機械に頼る他ない。そう考えてのこのボールペンだ。
ところがいくら待てども、西都原 西苛が私の前に現れることはなかった。私の方から教室や生徒会室に出向いても、その姿は見当たらない。職員室や事務室、他の教室も覘いてみたがやはりいない。まさかここにはいないだろう、という思いで保健室を訪れると、同じクラスの久佐加 三藤に出くわした。
「あら、ごきげんよう」
何気ない挨拶に、三藤は悲鳴を上げる。私と顔を合わせた途端に青ざめ、体をぶるりと震わせる。
「み、宮島」
「どうしたの、そんなに怯えて。私の顔に蝉の抜け殻でもくっついてる……」
「違う、違うんだ。俺はあいつに操られていただけで」
三藤は私から一歩でも多く離れたいとばかりに、辺りの丸椅子や消毒液を床にぶちまけながら必死に後ずさる。どうして逃げるの、と疑問を口にするが、彼はただただ逃げ惑うばかりで答えてくれない。
そういえば三藤は道開と二度にわたって戦い、手酷くやられたらしい。体中にテーピングやガーゼが巻かれ、眼帯までつけている有り様だ。もっとも、道開の報告によればその傷の大半は彼との戦いで負ったものではなく、最初の戦闘で顔を合わせた時には既に満身創痍であったという。おそらくは『彼女』こと西都原 西苛の仕業だろう。
「別に私は怒ってないわよ。その様子を見るに、あなたも私達と同じ被害者でしょう。六花をあんな姿になるまで痛めつけたのがあなただというのなら、話は別だけれど」
「俺は操られていたんだ。あの道開とかいうやつの足止めを命じられて、自分の意思で体が制御できなかった。他の二人だってそう、俺達はまるで操り人形みたいに無理矢理戦わされたんだよ。副生徒会長、西 西苛の命令で三枝 六花を襲ったのは、あ、あ」
彼は口を噤む。慌てふためきながら口元を手で抑え、緊急事態に陥っていることを目で訴えかけてくる。全く同じ現象に見舞われたばかりの私はため息をつき、言葉が話せなくなる理由を説明する。
「なるほど、口封じね。色んな能力があるんだな」
特定のキーワードを口にしなければ、三藤の場合『六花に危害を加えた犯人』について触れなければ普段通りに話せると分かった彼は、ほっと胸をなで下ろす。
「確か、あなたは有能力者なのよね」
「『元』有能力者だ。今の俺は西苛に力を奪われた、ただのしがない一般人でしかない」
三藤は震える握り拳を見つめ、ゆっくりとその手を開いた。
「くそったれ。あいつの鼻を明かしてやれたらいいんだが、肝心の能力が使えないときた。宮島も有能力者だったな、お前の能力であいつに対抗できないか……」
「言われるまでもなく試したわ。両腕を圧し折ってやったけど、それでも彼女には何のダメージも与えられなかった」
「じゃあ道開ってやつの能力で――」
「昨日返り討ちにあったわ」
打つ手なしかよ、と三藤は頭を抱える。私はふとボールペンのことを思い出し、彼女について何か知っていることはないかと問う。
「役に立つ情報かどうかは知らん。ただ、西 西苛という名前は偽名だと本人から聞いた」
西苛の名字は西ではない。私も知っている情報であるが、今の私はそれを誰かに伝えることが叶わない状態にある。そんな私に代わり、集音機能を備えたボールペンが三藤の音声をしっかり拾ってくれる。
「正しくは西都原 西苛というらしい。それにあいつは、この私立都原高等学校の学校法人とも密接な関わりがあるとか。そこで俺は『西都原』という姓について少し調査してみた」
「西都原」
「珍しい名字だろ。九州は宮崎県西都市の洪積台地も西都原というらしく、一応調べてはみたがそれらしい繋がりは見つからなかった。代わりに俺は『西都原財閥』という言葉に行き着いた」
財閥。一般的に富豪を意味する造語で、かの太平洋戦争以前に大手を揮った企業集団のことだが、財閥は日本敗戦時に残らず解体され、現代の日本には存在しないはずだ。
「あくまで比喩としてそう呼ばれているだけだ。正しくは先祖代々経営コンサルタントを営んでいる西都原のコンサルティングを受けた企業を、まとめて西都原財閥と呼んでいる」
「コンサルティングって、確か会社や公共機関に『こうしたら経営が上手くいきますよ』ってアドバイスすることよね」
「簡単に言えばそうだな。西苛の父、西都原 西翁も例に漏れず、今や彼のコンサルタントを受けない企業は三年で潰れる、なんて言われる程の実力を持っている。コンサルティングで得た莫大な資産は投資に回され、そうして成長した国内外の未上場企業から元手を大きく上回る資金を回収する」
「ベンチャーキャピタルね。つまりはぼんぼんの金持ち、ってこと」
三藤はわざとらしく指を鳴らす。
「だから誰も大きな声で文句を言えない。どいつもこいつもぺこぺこ頭を下げて従っちまう。西という姓を名乗ることで己の出自を隠し、表面上は人当たりの良い副生徒会長を演じているんだろうが――大体、一年が副生徒会長なんて役職に就いている時点で気づくべきだった。この学校も、生徒も教師もみんな西苛の奴隷だ」
あなたがそれを言うの、と意地悪く訊いてみたところ、彼はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
「言っただろう、操られていたんだ。奪われた能力を盾に好き放題殴られ蹴られ、挙げ句の果てには傀儡扱い。能力もこの手に返らずと、まさしく踏んだり蹴ったりだ」
「その、能力を奪われたっていうのはどういうことなの……」
六花の能力を奪う、それが一連の襲撃における目的だと西苛は宣言していた。つまり彼女は能力を奪うための手段(それが能力によるものかは分からない)を持っている。現に三藤の能力が奪われているわけだが、被害にあった当人であれば何か知っているかもしれない。そう踏んでの質問であったのだが、三藤の反応は芳しくなかった。
「俺にもよく分からない。俺に言えることは、西苛は他人の能力を奪い、更にそれを配布できるということだけだ。実際に俺の能力は奪われ、あいつは触れた物体に加速をもたらす《魔弾遊び》をあたかも自分の能力であるかのように扱い、俺を痛めつけた。この体の傷は、俺自身の能力によるものだと言い換えてもいい」
「《魔弾遊び》って何……」
「能力の名前だ、恥ずかしいから説明させないでくれ」
自分の能力にわざわざ名前をつけているようだ。なんだか格好良いので、私も後で考えておくとしよう。
「でも待ってちょうだい。彼女の使った能力は、あ、か――あなたの能力ではなかったわ。私の能力だって奪われていない」
能力の子細な説明は『口封じ』によって阻まれる。この口封じにしたって西苛の能力ではないはずだ。彼女には他に複数の協力者がいるのだろうか、という疑問に対し、三藤は首を横に振る。その際に傷口が痛んだようで、彼は苦痛に顔を歪めた。
「西苛には俺みたいな傀儡はいても、志を共にする協力者や有能力者はいない。俺が一番長い時間あいつに従って、もとい従わされていたが、それらしい人間の姿は見当たらなかった。そんでもってこの学校にいる有能力者は俺を除いて宮島、それに六花と道開、そして副生徒会長のあいつだけ。むしろこれ以上有能力者が都合よくぽんぽん出てきたらたまったもんじゃない」
「でもそれじゃあ説明がつかない。あなたを操った能力、能力を奪う能力、コスプレさんに貸し与えられた能力、私達に口封じを施した能力は一体誰のものだというの……」
「ここからは俺の推測に過ぎないが、西苛が本来持っている力は『他人の能力を奪って使って与える』能力だ。おそらく奪える能力の数に制限はない。だから俺を操った上で能力を奪い、戦いの時だけ貸し与え、コスプレした変なやつに能力を授け、俺達の会話を制限できている。その全てを一人でこなすことが可能だ。他にも色々と悪事を働いているんだろうが、全部西苛一人でやっているとみて間違いないだろう」
能力を奪う能力。前例がないわけではない。以前空巣さんから聞いた話によると、他人の力に依存する有能力者はそう珍しい存在ではないらしい。能力を模倣する能力、一時的に能力を借りる能力、完全に己の力として略奪する能力。そうした類の有能力者は数こそ多いが、発狂する確率、もしくは自ら死を選ぶ確率が飛び抜けて高いという。
能力を有してこその有能力者。能力は力であると同時に呪いでもある。自分の分でも手一杯だというのに、その上他人の能力まで背負い込むとなれば『神の意思』が放ってはおかない。家族を失い、親友を失い、知人を、関係のない他人を失う。事故や病で体を蝕まれ、精神は徐々に摩滅していく。擦り切れた自我の後に控えているのは心の死か、体の死。常人では複数の能力を使役することなど不可能だ。
西都原 西苛。もし本当に彼女が他人の能力を奪い、時には使用し、時には与え、思いのままに操ることができるというのならば、彼女は既に人間という枠から、有能力者という枠から外れてしまっている。それでいて私達と意思疎通をこなし、当たり前のように生活している。他人を慈しむ善意を抱き、他人を支配する悪意に満ちている。狂いもしなければ感情的にもならない、そして機械的でもない。精神崩壊を拒絶し『神の意思』をも跳ね除ける存在とはつまり、神に仇なす悪魔ではないのか。
「厄介ね」
全くだ、と三藤はため息混じりに呟き、先程倒した丸椅子を起こして腰を下ろすと、もう一度ため息をついた。今度は深く、心底参ったというように。
「他人の能力を奪って、傷つけて、こき使って、あいつは一体全体何がしたいのかまるで分からない。三枝 六花の能力を手に入れる、なんて言われたところで話はますます拗れるばかりだ。そういえば宮島と三枝は二人共非行敷に住んでいるって聞いたが、彼女の能力がどんなものか知っているんだろう……。その能力が西苛に一泡吹かせるのに役立つかも」
「知らないわよ、昨日初めて喋ったんだから」
「昨日――殺伐としてるんだな、非行敷って」
話は進展する気配がなく、結局何の算段もつかないまま三藤は部活動の練習があると言って保健室を後にした。一人になった私は西苛の探索を続けるが状況は変わらず、彼女は見つからない。
三藤の予想が正しければ、西都原 西苛は敵に回してはいけない相手だ。マイクの予見は的中していたといえよう。
能力の収奪。私の能力が奪われなかったところを見るに、何かしらの条件をクリアする必要があるのかもしれない。あるいは単に見逃しただけか。しかしそれが西苛に一矢報いるのに役立つ情報であるかといえばそうではなく、まともにやりあうべきでない相手だという事実は揺るがない。
ここは非行敷に戻り、空巣さん達の判断に任せるべきだ。ボールペンの記録した情報は事態を進展させるのに十分な役割を果たしてくれる。後はボールペンを無事に届けるだけでいい。私の役目はそこで終わる。
もう私にできることはない。私にできることなどたかが知れている。だって私は――。
「無力だから」
私の思考を代弁したのは、どこを探しても見つからなかった西都原 西苛その人であった。玄関口を出てすぐ手前の柱にもたれ、私を待ち伏せていたのだ。
「あまり自分を卑下しない方がいいよ、有十ちゃん。君はやればできる子さ」
「わざわざ嫌味を言うために待っていたのかしら。ご苦労なことね」
違う違う、と彼女は指を振る。
「ぼくは君を案内するために待っていたんだ。異性を誘い込んで組み伏そうと目論む強姦魔のような気持ちで、君をぼくの家にご招待しようと思っているんだよ」
まさかの申し出に私は困惑する。何を企んでいるの、と訊くより先に西苛はにこりと屈託のない笑みを浮かべ、私の手を取る。
夏も近づいているというのに、彼女の手はとても冷たかった。氷のように、とまではいわないが、冬の空気に晒され続けた水溜まりの如く冷え切り、じんじんと痺れる感覚の波が手の平を伝播する。
「安心していいよ。別に君の能力を奪おうなんて考えていないから、気にせず手を繋いでいてね」
「優しいのね。でもこの手は放して、気色悪い」
西苛の手を強引に振り払う。彼女は一瞬だけ落ち込んでいるような表情を見せたが、すぐにいつもの不気味な笑顔に戻る。
「ちょっとだけショックだった。本当、ちょっとだけだよ」
「そうなの。どうでもいいからさっさと案内してもらえる……、早く非行敷に帰ってあなたを牢獄にぶち込む準備をしないといけないのだから」
私の脅迫を意に介す素振りも見せず、それもそうだねと相槌を打って歩き始める西苛。そして彼女の背中をねめつけ、後を追う私。決して警戒だけは怠らない。十中八九、いや絶対に何か思惑があっての誘いだ、油断は命取りになる。
「ぴりぴりしてるね」
私は答えない。彼女の顔を覗き込んで確認するまでもなく、その顔に人を嘲る類の笑みが張りついていると容易に想像がつく。揶揄われると分かった上でわざわざ会話に乗るいわれはない。
「一つだけ誤解を解いておこう。ぼくは何も君や道開くん、ましてや六花ちゃんに危害を加えようというつもりはまるでないんだよ。全くもって皆無だ」
「だったらあの惨状は何……。六花を傷めつけて、他人を利用して、それで傷つけるつもりはないなんてよく言えるわね」
西苛のふざけた言い草にかちんときてしまい、つい反論してしまった。どうせまた人を馬鹿にしたような態度でわけの分からない屁理屈をのたまうつもりなのだろう、という私の予想は外れ、西苛は気取った話し方もしなければ笑いもせず、そっけなくこう言った。
「六花ちゃんの能力を手に入れるためには、仕方のない犠牲だったんだ。君達を彼女から引き離し、その隙に能力を奪取する予定が上手くいかなかった。力を奪うための条件がなかなかクリアできなくてね、暴力という強硬手段に出たのもそれが理由だよ」
「能力の収奪に必要な条件、せっかくだから教えてもらえる……、そうすれば少しは会話に乗ってあげてもいいわよ。もう無視したりしない」
「本当かい、じゃあ教えてあげる。ぼくが他の有能力者から能力を奪う条件はね」
ぐるりと体を半回転させ、お得意の嘲笑と共に彼女は告白した。
「ぼくには絶対に敵わないと心の底から思わせ、服従させることだよ」
西苛が身を翻した瞬間、私の中の何かが消えた。体の部位が消滅したと言う意味ではなく、実体を持たず存在も定かではない、けれども確かに私の思いに反応して作用するはずの力が――能力が消えてしまった。奪われたのだ。
「ごめんね、ぼくの家に着くまで没収」
私は手の平を西苛に向け、彼女を思い切り跳ね飛ばす勢いで斥力を発生させようとする。しかし何の反応も手ごたえもなく、西苛は吹き飛ばないどころか鼻歌交じりで歩を進める。
「あなた、私の能力を」
「ちょっとの間取り上げるだけだって。家に着いたら絶対返すよ。保証になるかは分からないけど、ほら」
西苛は右手の人差し指をぴんと突き立て、宙に小さな円を描く。すると喉にあったしこりのような違和感が綺麗さっぱり消えた。それは私が西苛に関する情報を他人に洩らそうとする度に現れた『口封じ』だ。
「特定のキーワードとそれに関連する言葉の発音を禁止する能力、その名も《口外防止》。良い能力でしょ」
「それも他人から奪ったものなのね」
「ご明察、誰から盗ったのか忘れちゃったけれど」
私は腕を下ろし、再び西苛についていく。一度は能力を使用した上で西苛に敗北を喫しているのだ、彼女は私の能力でどうこうなる相手ではない。あってもなくても状況は変わらないし、彼女も後で返すと宣言しているのだから今は預けておいてもいいだろう。
「でも有十ちゃん、これってチャンスだよね」
「何よ、いきなり」
「能力なんて持ってない、普通の人間になれるんだよ」
――言われてみれば、確かにそうかもしれない。このまま西苛に能力を奪われたまま、取り返さずに押しつけてしまえば私は普通の人間になれる。現に三藤がそうであるように、有能力者というカテゴリから抜け出すチャンスだ。
「君達の拠り所である非行敷曰く、有能力者は能力という常識外れの異能に目覚めてしまうがために、不幸な人生を歩む羽目になる。だったら能力を奪われても問題ないよね。これを機にアンハッピーな生活から脱却してさ、普通に、極めて平々凡々とした生き方を選んでみたいと思わない……」
「それは、その」
「何だかんだ言って、他人が持っていない能力を有していることに優越感を抱いていたんじゃないかな。ぼくがまさにそうだ、ぼくは自分が不幸だなんて思っちゃいない。むしろ有能力者に目覚めて幸せだよ。でもね、間違いなく弊害はある」
弊害、と西苛は繰り返す。
「ぼくが幸福だと思っていても、周りの人は傷ついちゃう。知らない間に周囲に不運をばら撒いてしまう。そういう、有能力者を必ず蝕む『呪い』まではぼくも否定できない。非行敷ではこの現象を『神の意思』と呼んでいるんだよね」
神の意思。有能力者は生まれながらにして様々な障害に見舞われることが決定づけられている。能力に目覚めるタイミングは関係ない。その素質を持つ人間は初めから決まっていて、苦労と苦痛を背負う未来にある。それは最早『神』とでも名状すべき何者かが、わざと有能力者を貶めようとしている――空巣さんはそう言っていた。
「でもでも、今の有十ちゃんは至って普通の一般人で、誰かを傷つける術を持たない。どうかな、君が望むならこの能力をぼくが貰ってあげてもいいよ。今更能力が一つ増えたくらいでぼくの負担は変わらないし、今一番欲しいのは六花ちゃんの能力だけれど、君のそれだって充分に魅力的だ」
いいえ、止めておくわ、と間入れず答えると、西苛は理解できないとばかりに大きくかぶりを振る。
「そこまで被害者面して生きたいのかい。そうだよね、有能力者という肩書があればこその非行敷暮らしだもの。弱者を気取ってその恩恵に与りたいと考えるのは至極人間らしい発想といえる」
「違うわ、だって能力がないと――」
あなたを殺せないでしょう。
半ば無意識で囁いた言葉は、自分の発した声とは思えないほどに冷たく、機械の読み上げる合成音声のように無感情であった。西苛ははっとこちらを振り向き、
「やっぱり君、本物だよ」
嫌悪の情を露わにそう言い捨てる彼女に、私は何ともいえない優越感を抱いていた。
彼女が憤る本当の理由に気づかず、私は愚かにもガッツポーズを取った。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
西苛の家を一目見た印象は、非行敷とは異なる意味で『屋敷』だった。
非行敷が洋風ならば彼女の自宅は和風、一昔前の日本へタイムスリップしてしまったかのような錯覚に陥る、どこか旅館を彷彿とさせる家屋である。
年季の入った門扉を抜け、石の踏み場を渡り玄関扉を開ける。玄関はまさに老舗旅館といった造りで、下駄箱が左手に、上がってすぐのところにスリッパが二つ用意されている。
出迎える準備はとうに済ませているということか。そう思った途端、体に違和感を覚える。重くなったようであり鈍くなったようでもあり、なくなったものが無事手元に戻ってきたような感覚。
「約束通り、能力は返したよ」
西苛は屋敷の奥へ奥へと進んでいく。客間と思しき部屋や数多くの襖を見向きもせずに横切り、私達は一直線に突き進む。
「さ、着いたよ」
そこは部屋でも何でもない、ただの縁側であった。縁側の下には砂利が敷かれ、腰を下ろせばそこから哀愁漂う庭園と満月を楽しむことができる。
「少し待っていて。お茶を入れてくるよ」
西苛はその場を離れ、屋敷の奥に引っ込んだ。広がる波紋のような円の重なりを描く砂利の海をしばらく眺めていると、湯飲みと羊羹を載せたトレイを手に彼女は戻ってきた。
「本当は手作りの羊羹を食べてほしいんだけど、君は警戒して食べてくれなさそうだから市販のものを用意させてもらったよ。ごめんね」
「別にいいわよ、どうせ食べないから」
「こうも警戒心剥き出しだと、言葉の一つ一つが心にぐさっと突き刺さるね。でも気にしないもん」
西苛も隣に座り、羊羹に手をつける。ご丁寧に菓子楊枝まで用意しておきながら、彼女は手掴みで羊羹を頬張った。
「安っぽい甘さだ。やっぱり自分で作った方が良かったかも」
「そういえばこの屋敷、やけに静かね。他に誰かいないの……」
屋敷に足を踏み入れてから、私は誰ともすれ違っていない。三藤の情報によれば西翁という父親がいるはずで、父親がいれば母親も、兄弟姉妹だっているかもしれない。
しかし、ここには人の気配がまるで感じられなかった――非行敷のように。
「誰もいないよ、ぼく一人だけ」
「家族はいないの……」
「死んだよ」
西苛は残った羊羹を口に放り込み、指を舐める。
「皆殺されたんだ」
誰に、と尋ねる前に彼女は首を横に振る。
「殺された、って表現は正しくないね。だって父と母はぼくが殺したんだから」
「あなた、そんな」
「どうでもいいよ、あんなクソクダラナイ連中なんて。それよりぼくは、有十ちゃん、君の話をしたいんだ」
西苛はそっと身を寄せ、私の手に自分の手を添える。振り払ってしまいたいのに、何故か体が動かない。西苛の能力か。違う、私の本能が動くことを拒否しているのだ。
「ぼくは君の過去を知っている」
西苛の顔が更に近づく。互いに真正面から向き合ったと思えば通り過ぎ、彼女は私の肩に顎を乗せ、耳に吐息を吹きかける。くすぐったくてつい喘ぎ声が漏れた。不快なのに、突き飛ばせない。体に力が入らない。
「六花ちゃんから確実に能力を奪うためには、邪魔な存在をきっちりかっちり抑える必要がある。そのためにぼくは非行敷のこと、そして君や道開くんのことを徹底的に調べ上げた。非行敷が把握する以上に、西都原のコネクションをフルに活用して君達二人の関係を暴き出したんだ」
そこで西苛は話すのを止め、私の耳にかぶりついた。後頭部に針を突き刺したような衝撃が襲い、次いで得も言われぬ快感が走る。
滑る舌が、唾液が、私の耳を凌辱し尽くす。水中に潜った時とは異なる粘ついた水の音色が、私の聴覚を惑わせる。遅れて抵抗を試みるも、西苛の体を押しのけているつもりが引き寄せていたり、私の方から近づいていたりと、自分でも何をしているのか分かっていなかった。
西苛が離れた時には、私の意識は雲の上にでも飛んで行ってしまったかのように希薄で、彼女に体を抱きかかえてもらわなければ今頃頭を床にぶつけていただろう。
「こういうのが好きなんだ。やらしいね」
「止めて――それより、教えて。私は誰なの……」
「本当に知りたいのかな。有十ちゃんは『知る』ことをあんなにも恐れていたじゃないか」
マスクシューター、夢路 道開、三枝 六花。私は彼らを知り、己が無力であると知った。でも私が本当に怖かったのは、『知る』という行為そのものではなく自分の非力さを突きつけられることではなかったか。
知りたい。知りたくない。矛盾する思いがいつだって私を駆り立て、ここまで突き動かした。西苛との対立によってようやく私は私の正体を暴く。ここまできて引き返すわけにはいかない。
「いいよ、教えてあげる。一度しか言わないから、ちゃんと聞いていてね」
月明かりを背に、逆光でその姿が薄い黒色に滲んだ西苛は、私の過去を語った。
その意味を理解した瞬間、耳を舐められ溶けかかっていた意識は正常に戻り、真実をはっきりと理解する。それと同時に涙が止めどなく溢れ、再び私の意識は、自我は、『私』は蝋燭の炎のように揺らめき、朦朧としていく。
――知りたくなかった。
私は何度同じことを繰り返せば気が済むのだろう。
道開が頑なに私の過去を教えようとしない理由を、今になって悟った。そうだ、私は記憶を失う前に彼と出会っていた。道開は殺人狂などではない、私のたった一人の味方だったのだ。
道開、ごめんなさい。あなたは私を気遣ってくれたのかもしれないけれど、私はあなたを恨む。どうしてすぐに打ち明けてくれなかったのか。そうすれば今頃――私は首を括っていたのに。私が屠った人々に謝罪し、自らの命を絶つことでその手向けとしていたのに。
西苛が笑っている。ぎゅうと力強く私を抱き、腹の底から私を嘲っている。
「道開くんは本当の殺人狂じゃない。それどころか人間を一人も殺したことのない、本物の殺人狂に愛玩人形として飼われていた被害者だ。罪なき人々の命をその暴虐な能力によって殺害し、突然記憶を失ったために非行敷で秘密裏に引き取られた『人類史上最低の実名なき殺人狂』――宮島 有十ちゃん、君こそが真の殺人狂なんだよ」
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